聖なる町・神の都

聖母は新しいエルサレム

神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない(マタイ7・6)

 

 

 

 

1.聖書

2.凡ての者の中で最低の者を、または教会の中で価値の乏しい者を意味

 

 

 

 

 

1.聖書

 

 

詩篇59・7

 

夕べになると彼らは戻って来て

のようにほえ、町を巡ります。

 

 

 

詩篇59・15−16

 

夕べになると彼らは戻って来て

のようにほえ、町を巡ります。

彼らは餌食を求めてさまよい

食べ飽きるまでは眠ろうとしません。

 

 

 

マタイ7・6

 

神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。

 

 

 

2.凡ての者の中で最低の者を、または教会の中で価値の乏しい者を意味

 

 

天界の秘義7784

 

「犬」は凡ての者の中で最低の者を、または教会の中で価値の乏しい者を意味しており、同様に、教会の外側にいる者を、また教会の事柄について大いにまくしたてて話しはするが、ほとんどその事柄を理解はしていない者を意味し、その対立した意義では全く教会の外側にいて信仰の事柄を軽蔑している者らを意味している。

 

イエスはスロフェニキア人の、そのギリシャの女に言われた、子供のパンをとって、犬に投げてやることは良くない。しかし彼女は言った、もっともせす、主よ、でも子犬でさえその主人の食卓から落ちるパンくずを食べます。するとイエスは答えて、彼女に言われた、ああ、女よ、あなたの信仰は、偉大である、あなたの願っているように、あなたになりなさい。彼女の娘は癒された(マタイ15・26−28、マルコ7・27−28)。

 

ここでは『子供』により教会の中にいる者たちが意味され、『犬』によりその外にいる者たちが意味されているのである。『ラザロの腫れ物をなめた犬』によっても同じことが意味されているのである(ルカ16・21)。なぜならそこの『富んだ人間』により、その内意では、教会の中におり、従って真理と善との知識である霊的な富に満ち溢れている者が意味されているからである。『犬』は以下の記事では、教会の事柄については大いにまくしたてて話しはするが、殆ど(何事も)理解していないところの、教会の内で最低の位置にいる者らを意味し、その対立した意義では、信仰の事柄を軽蔑している者らを意味しているのである―

 

その物見は凡て盲目であり、知りはしない、彼らは凡て唖の犬であって、吠えることは出来ない、眺め、臥し、眠ることを愛している(イザヤ56・10).

彼らは犬のように騒がしく、都の中を歩きまわっている、彼らはその口から吐き出し、その唇には剣がある(詩篇59・6、7、14)。

あなたの足で血を踏み、犬の舌が・・・(詩篇68・23)。

聖いものを犬に与えてはならない、真珠を豚の前に投げてはならない、恐らく彼らはそれを足で踏みにじって、向きかえり、あなたらを引き裂きもするであろう(マタイ7・6)。

 

 こうした理由から、凡ゆる物の中でも最も卑しいものであって、投げ棄てられねばならなかったものは、『死んだ犬』により意味されているのである(サムエル前24・14、サムエル後9・8、16・9)。

 

教会の外側の者たち

 

 

マタイ7・6

神聖なものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げてはならない

 

信仰の事柄を軽蔑している者ら

 

 

天界の秘義9231

 

“犬”が信仰の善の誤謬化を通して不潔なものとする者らを意味している理由は、犬は不潔な物を食べ、また人間に吠えつき、人間を噛むということである。ここからまた悪から発した誤謬の中にいる教会外のいくたの国民はユダヤ人により“犬”と呼ばれたことは、スロフェニキア出身のギリシャの女に言われた主の御言葉から明らかである。―――子供のパンを取って、犬に投げ与えることは善くありません。しかし、彼女は言った、主よ、その通りです。しかし犬でさえもその主人のテーブルから落ちるパンくずは食べるのです(マタイ15・26、27、マルコ7・27,28)。ここの“犬”は教会の外にいた者たちを意味し、“子供”は教会の中にいた者たちを意味していることは明らかである」

 

 

真の基督教683

 

 現実性の無い名前は反響、夢見る者の声、または風、海あるいは機械の騒音の如く空しい音響である。称号はそれに結び附けられている職能を伴わないならば虚栄に過ぎない。野蛮人のように生活し、基督の律法を破る基督教徒は洗礼の際、金糸を以てキリストの御名が織り込まれたその御旗の下に、自らを置かないで、悪魔の旗の下に置くものである。基督の印を受けた後、その礼拝を嘲り、その名を愚弄し、彼を神の子として認めず、ヨセフの子と認める者達は、反逆者であり、弑逆者であり、その言葉はこの世でも、また次の世でも赦されることの出来ない聖霊に対する冒瀆である。彼らは聖言に噛みつき、これを千々に引裂く犬のような者である。これらの者はイザヤ書(28・8)およびエレミア記(48・26)に従えば、その凡ての食卓は嘔吐と汚穢に満たされている者である。しかし主イエス・キリストは至高なる神の子にて在し(ルカ1・32、35)、独子にて在し(ヨハネ1・18、3・16)、真の神にして永遠の生命にて在し(ヨハネ第一書5・20)、その中には神性の完全性は尽く身体を成して宿り(コロサイ2・9)、ヨセフの子ではないのである(またい1・25)。