聖母は新しいエルサレム

 

 

それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19・27)

聖なる町・神の都

 

 

 

1.聖書

2.デボラ

3.マリア・ワルトルタ

4.グリニョン・ド・モンフォール

5.スウェーデンボルグ

6.愛の炎

7.トマス・ア・ケンピス

8.マルタ・ロバン

9.聖母から司祭へ

10.アグレダのマリア

11.ヴァッスーラ

12.もし彼らがそれを望んで、主に祈るなら、その教会の性質に従った美しさを持ち、またそれに従った衣装をまとうた処女として見る

 

 

 

 

1.聖書

 

 

詩篇59・7

 

夕べになると彼らは戻って来て

のようにほえ、町を巡ります。

 

 

 

詩篇59・15−16

 

夕べになると彼らは戻って来て

のようにほえ、町を巡ります。

彼らは餌食を求めてさまよい

食べ飽きるまでは眠ろうとしません。

 

 

 

詩篇87・1−7

 

聖なる山に基を置き

主がヤコブのすべての住まいにまさって愛される

シオンの城門よ。

 

神の都よ

あなたの栄光について人々は語る。

「わたしはラハブとバビロンの名を

わたしを知る者の名と共に挙げよう。

見よ、ペリシテ、ティルス、クシュをも

この都で生まれた、と書こう。

シオンについて、人々は言うであろう

この人もかの人もこの都で生まれた、と。」

 

いと高き神御自身がこれを固く定められる。

主は諸国の民を数え、書き記される

この都で生まれた者、と。

 

歌う者も踊る者も共に言う

「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。

 

 

 

イザヤ54・1

 

喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。

歓声をあげ、喜び歌え

産みの苦しみをしたことのない女よ。

夫に捨てられた女の子供らは

夫ある女の子供らよりも数多くなると

主は言われる。

 

 

 

イザヤ62・1

 

「シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で 彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。 」

 

 

 

イザヤ66・10,13

 

エルサレムと共に喜び祝い

彼女のゆえに喜び躍れ

彼女を愛するすべての人よ

彼女と共に喜び楽しめ

彼女のために喪に服していたすべての人よ。

エルサレムであなたたちは慰めを受ける。

 

 

 

雅歌6・4

 

恋人よ、あなたはティルツァのように美しく

エルサレムのように麗しく

旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。

 

 

 

ルカ1・28−33

 

天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 

 

 

ルカ1・41−45

 

マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 

 

 

ルカ1・46−55

 

そこで、マリアは言った。

「わたしの魂は主をあがめ、

わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

身分の低い、この主のはしためにも

目を留めてくださったからです。

今から後、いつの世の人も

わたしを幸いな者と言うでしょう、

力ある方が、

わたしに偉大なことをなさいましたから。

その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、

主を畏れる者に及びます。

主はその腕で力を振るい、

思い上がる者を打ち散らし、

権力ある者をその座から引き降ろし、

身分の低い者を高く上げ、

飢えた人を良い物で満たし、

富める者を空腹のまま追い返されます。

その僕イスラエルを受け入れて、

憐れみをお忘れになりません、

わたしたちの先祖におっしゃったとおり、

アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

 

 

 

ルカ2・34−35

 

シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

 

 

 

ガラテヤ4・26−27

 

 他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。

「喜べ、子を産まない不妊の女よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫のある女よりも、多くの子を産むから。」

 

 

 

黙示録21・1−2

 

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

 

 

 

黙示録21・9−14

 

さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。

 

 

 

 

2.デボラ

 

 

世のひかり社/デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻上P155

 

私のヨハネが最初の観覧者であった天上の事柄を明白にする前に、私はあなた方の真中に私の王国を築くために来よう。まもなくあなた方の真中に新しいエルサレムがくだって来る。私の計画とは、あなたや他の道具となる霊魂たちを通して、私の間もない再臨にそなえて世界を準備することである。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻上P36

 

子どもたちよ、あなたがたは新しいエルサレムです。けれども我が子の忠実な僕たちにとって、今はまだ栄光のときではありません。あなたがたのために、苦しみを通してなされる浄化の時があるでしょう。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻下P73

 

マリアは私の門である。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻下P73

 

我が子ら、我が教会よ、あなたがたは私の遺産、間もなく刷新されようとしている私の聖なる町である。

 

 

 

世のひかり社/石澤芙美子訳/デボラ/生ける神よりあかされた英知/4巻上P148

1998年7月16日

 

イエズス:

「私の聖なる母とは、『・・・聖なるエルサレムが天から下ってきて、人々の住まいの間に居を定めるのを見た・・・』と記されているあの文章を形成する方である。:,,,調和と均衡を失った家々に住まう神の聖なる町とは、彼女のことである。

 あなたがたの家庭のいろり端に喜びを取り戻してくださるのは、彼女である。

人間が神と和解することができるように、私たち聖三位の愛が選んだのも彼女である。全ての天使はこの出来事を知っており、あなたがた、私の憐れみの愛の小さな子らも、聖なるマリアの共贖のわざの使命について知ることを、私は望んでいる。」

 

デボラ:

「私たちは聖母を愛しており、本当に大好きです。」

 

イエズス:

「彼女を誉め崇めることが必要である! 余りにも多くの人が彼女を侮辱し、卑しめている!」

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

天使館/マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/17・13/1卷P141

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

「サタンを知る以前の、女たちの中の最初の女のようにわたしを清らかにした処女性を愛したわたしに、はご自分の花嫁になるように求められました。わたしは従いました。わたしは、最初の二人を創造されたとき、の思惟の中にあった純潔のあの段階にまで結婚を戻し、従いました。この結婚における孤独とわたしの聖なる不妊に対して隣人から受ける侮蔑を覚悟したわたしに、は今やご自分の母になってくれと要求なさいました。わたしは従いました。

 

わたしはそれは可能であり、その言葉はが語っておられるのだ、と信じました。その言葉を耳にしたとき、わたしのうちに平安が波紋のように広がったからです。『わたしはそれに値する者だ』とは思いませんでした。『今、世はわたしに感嘆するだろう。の肉を創造するわたしは、に似ているのだから』と、自分に言い聞かせたりはしませんでした。いいえ、わたしは謙遜に、自分を無にしたのです。」

 

 

 

天使館/マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/30・11/1卷P257

 

イエズスは言われる。

きょうはわたしが語る。あなたはとても疲れているが、もう少しの辛抱です。

聖体の祝日の前日です。あなたに、聖心(みこころ)の使徒であった聖人たちについて語ったように、この度はあなたに聖体について、またこの信心の使徒となった聖人たちについて語ることもできよう。しかし、もう一つのこと、わたしのに対する崇拝の先駆者たちである、わたしのの礼拝者たち一群についてあなたに語りたい。それはあの羊飼いたちです。となったロゴスを、最初に礼拝した人たちです。

 

一度、わたしはあなたに言ったことがあり、わたしの教会も言っていることだが、あの聖なる無辜の幼子たちは、キリストの最初の殉教者たちです。今、わたしはあなたに言う。あの羊飼いたちは、神の体の最初の礼拝者たちである、と。彼らには、わたしのの礼拝者として要求されるすべての資格、聖体を礼拝するにふさわしい魂があります。

 

確実な信仰。彼らはあの天使を即時に、盲目的に信じます。

懐の深さ。彼らは自分たちのすべての富を主に捧げます。

謙遜。人間的にいえば、彼らは自分たちよりも貧しい人びとに近づき、相手に恥をかかせない慎みをもって、自分たちは彼らのしもべである、と言い切ります。

熱望。自分たちが与えられないものを、使徒職と労働によって得ようと全力を尽くします。

機敏な従順。マリアがザカリアにイエズスの誕生を知らせたいと望んでいることを知るや、エリヤは逸早くヘブロンへと出発します。先送りすることなく。

愛。最後に彼らは洞窟を立ち去り難く思う。あなたは彼らの思いを『後ろ髪を引かれる思い』と表現したがその通りです。

 

それはともかく、わたしのこの秘跡に対しても、そうあるべきではないだろうか?

それからもう一つ、これはあなただけに言います。あの天使は、誰にまず自分を現わし、マリアの愛情の吐露を聞くに値したのは誰であったか、よく観察しなさい。それは牧童レビです。

 

子供のような純真さをもつ者に、はご自分を現わし、その神秘を明かし、自分とマリアの言葉をお聞かせになる。子供のような純真さをもつ者は、『イエズスの産衣に接吻させてください』と言うレビの聖なる大胆さを持つ。彼はそれをマリアに言う。それもそのはず、あなたたちにイエズスを与えるのは、常にマリアだからです。聖体を運ぶ人は常に彼女なのです。生きた聖体容器(チボリウム)は常に彼女なのです。

 

マリアのもとへ行く者は、そこにわたしを見つけます。わたし彼女に求め願う者は、彼女からわたしを受けます。わたしの微笑は、『もっと愛するためにイエズスをわたしにください』と誰かが言うとき、諸天を喜びの、同じく幸せの強烈な輝きで青ざめさせるのです。

 

だから『イエズスの産衣に接吻させてください。その御傷に接吻させてください』とわたしに言いなさい。さらに大胆に言いなさい。『あなたのイエズスの聖心の上にわたしの頭を凭れさせてください。至福を味わうために』と。

おいで。そして憩いなさい。イエズスとマリアの間に置かれた揺り籠で。イエズスのように」。

 

 

 

聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/下巻/天使館/P75

 

[また、イエズスは話させる]『個々人にとってと同様、人類全体にとっても、新しい命がマリアと共に始まります。彼女の徳と生き方から学びなさい。彼女は悲しみのあらゆる側面を経験しました。わが子を殺した殺人者でさえ赦さねばならなかったのです。あなた方の救いは彼女の悲しみのうちにあります』

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P161

 

 「上から一つの声が下り、私の中で叫ぶ。『神の古の民は、新しい歌を歌うことはできない。彼らは、救い主を愛していないからである。新しい歌を歌う人々は、すべての国の救われた人々、主キリストの新しい民であって、私のことばを憎む人たちではない』恐ろしいことだ」

ここで彼女は絶句する。

 

 

 

聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P9

 

 地上で彼女の子であったわたしの三十三年間に、わたしがに言った言葉の数々は、わたし聖体彼女聖体容器と交わした語り合いに比較すれば無きにひとしい。それでもあの言葉の数々は人間の知性がそれを知り、人間の唇が繰り返すには、あまりにも神的で、あまりにも清らかである。エルサレムの神殿契約の箱があった至聖所には祭司だけが入れた。しかし天のエルサレムの神殿には、わたしのみが入り、そしてわたしだけがわたしの至聖なるマリアの秘密を知っている。

 

 

 

マリア・ワルトルタ24・4/天使館1巻P194

 

ザカリアが入って来て扉を閉める。目を潤ませてマリアを見つめる。話しかけようとする。そして止めてしまう。前に進む。マリアの前に跪く。

「主の哀れなしもべを祝福してください」とマリアに言う。

 

「そのしもべを祝福してください。主を胎内に宿しているあなたこそそれができるのですから。神の言葉は、わたしが自分の誤りを認め、言われたことをすべて信じたとき、わたしに臨みました。わたしはあなたとあなたの幸運を見ています。わたしはあなたの内におられるヤコブの神を礼拝します。あなたは、永遠なる御者に再帰した祭司が新たに祈ることが出来る最初の神殿です。世のために恩寵を得、世に救い主をもたらすあなたは祝福された方だ。初めにあなたの尊厳を見通せなかったわたしを赦してください。あなたがこの訪問によってわたしたちに運んできてくださったすべての恩寵によって、おお恩寵満ち満てるお方よ。あなたの行くところで、神は不思議を行い、あなたの入る四壁は聖別され、あなたの声を聞き分ける耳、あなたが触れる体は聖別されます。いと高き御者の母、神の民に救い主を与えるために預言され、待望された処女、あなたは恩寵を与えるがゆえに、人びとの心を聖とするのです。」

 

 

 

天使館/マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第1巻P492/54・7

 

「カナの奇跡を、わたしを喜ばせるために行いました。いわばわたしがにした借りの前払いです。彼女は恩寵早める女人なのです。ここでわたしはこの聖なるに、メシアというわたしの権力の発起者として、公に敬意を表します。しかし、あのカナで、わたしは聖女すべてが聖なる女人に尊敬を表しました。世界は彼女によって、わたしを有するのです。世界におけるわたしの最初の奇跡が、彼女のためになされたのは当然です」。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P29

 

しかし、その間、一人の母を有する喜びのために、イスラエルの希望を含んでいた神殿の薄暗さの中で、ふしぎなことばがささやかれたが、その神殿は、もはや存亡の極限に立っていた。なぜなら、一つだけの民のための希望を含むのではなく、この世が存在するかぎり、世々に“全地”の民のための希望をもってくる新しい神殿が生まれるところであった。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P123

 

「そうです。だが人を罪から救っても、悪魔という永遠の敵はまた攻撃に出て来るに違いありません。楽園から神の声が聞こえたとあります。『私はおまえと女との間に敵対をおく・・・女はおまえの頭を踏み砕き、おまえは女の踵を襲うだろう』それは“女”にとって軽い責めに過ぎない。なぜなら“女”は敵に打ち勝つ力を内に持ち、そして存在の初めから贖う者です。目には見えなくとも、その贖いの力はすでに働いています。近いうちにこの世にも見えるように、その力は現れ、女たちが“彼女”において強められます」

「あなたが世を贖われることは、それはよいとしても、女にそれができるとはどうも考えられません」

 

「トビアを覚えていますか、その詩を」

「覚えています。エルサレムについて話していますが(*)」

 

「エルサレムは、神の聖櫃をまだ持っているといえますか。栄光の神が、そこから神殿の中で行われる罪を見ておられないと思うのですか。もう一つの聖櫃、迷う人々をいと高き御者に立ち戻らせる星が必要です。それは救いに協力する“女”にあります。この女は代々に贖われた人々の母であることを喜ぶでしょう。それは贖いの協力者に対する真の讃歌です。天使たちも、もう天からこのことを歌っている・・・新しい天のエルサレムは彼女をもって始まります。これが真実です。世間はこれを知らず、目がくらんだラビたちも知らない・・・」イエズスは思いをこらすように黙る。

 

「だれについて話しておられるのだろう」と、ケリオットのユダが、そばにいるフィリッポに聞く。フィリッポが答える前に、テーブルにチーズと黒いオリーブの実を持って来たエリーザが厳しい口調で言う。

「ご自分の母上のことを話していらっしゃるのが分からないのですか?」

 

 

*旧約聖書続編トビト記13章

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P403

                                      

 

「私が、広いローマ帝国で出会った唯一の“義人”でした。先に仲間たちのことばだけで、イエズスを知ったつもりでいたのが残念でした。いまとなっては、あまりにも遅い・・・」

「いいえ、子よ。イエズスは伝道を終えましたが、その福音は残っています、教会の中で」

「教会とはどこにあるのですか」こうロンジーノは軽く皮肉る。

「ここに。いまは虐げられて散らばっていますが、嵐の後、またこずえをもとどおりにする木のように集まってきます。だれもいなくても私がいます。神の子で私の子イエズス・キリストの福音は、全部私の心に書かれています。それを皆に繰り返すには、私の心を見ただけで十分でしょう」

「また来ます。このような英雄を長にする宗教は神のものに違いない。アヴェ・ドミナ!

 そしてロンジーノは行ってしまう。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P77

 

そしてそこにはもう地球はなく肉の人はいないだろう。そこには、あらゆる苦痛から解き放たれた『の子供たち』しかおらず、最早罪はなく、闇はもうなく、恐れはもうないだろう。ただ、よろこび、よろこび、果てしない、永遠の人間の考えもしないようなよろこびしかないだろう。それはを見るよろこびであり、を所有し、神の思惟と愛を理解するよろこびである。

 

 人々よ、生命のに来なさい。わたしはその水源をあなたたちに開く。そこから汲み、試練において大胆不敵となるために、その中であなたたちを強め、またその中に、至福の水源であるわたしの中に、わたしのがあなたたちのために創造し、そこには唯一なるの三重の愛と、『わたしたちの』純潔があなたたちを待ち、彼らと共に、信仰者であったがゆえにすでに命を得ている者たちが待つすばらしい天国の中に、完全に全身を浸すに至るために」。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6巻中P111/397.3

 

 これからが、の答えです。よく心に留めて、あなたたちを嘲笑って苦しめる人たちに伝えなさい、「の胎内にあって死んでいる者が、へと生まれたためしはありません。なぜなら、彼らは母体から孤立し、胎内に隠された悪い物のように、不活性なまま干上がり、胎児として発達することができないからです。の胎から死んだ種を取り出して、子らを産むために、そして、の名がで絶えることがないように、は新しい子らをたくさんお産みになりました。タオの印をつけたその子らが、ルチフェルに仕えるサタンやその支持者から害を受けないよう、そっと静かになされました。燃えるような愛によって、は、御子を時が来る前にお産みになりました。同時に、自らの新しい民を産まれます。『は何でもおできになるからです』」。 おお! は、これらの言葉を、預言者イザヤの口を通じて伝えられました、『人に出産させる私が、自分で産めないはずがあるだろうか? 人の胎を開く私が、閉じたままのわけがあるだろうか?』。

 のエルサレムと共に喜びなさい、を愛するすべての皆さん、エルサレムと共に喜びなさい! 待ち、希望し、苦しみに耐えている皆さん、エルサレムと共に喜びなさい! 

(中略) あなたたちは、神の慰めの乳房を含んで満たされるでしょう。そして、神の多種多様な栄光を喜び味わうでしょう。

 

 

 

 

4.グリニョン・ド・モンフォール

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心7

 

神の聖なる都であるマリア

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心48

 

“マリア”という名の「ソロモンの神殿」「神の都」

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心48

 

世界終末の夕べ、全世界の人が、父なる神のふところに帰っていくため、また神の義への飢えかわきをいやすため、犬のようにほえ、食をもとめて、うろつきまわる“町”とはマリアという名の町です。マリアは聖霊から“神の町”“神の都”(詩篇87・3)と呼ばれているからです。

 

 

 

 

5.スウェーデンボルグ

 

 

真のキリスト教108

 

主は現今、救い主なる神なる主を信ずる者のみによって成り立つ、新しい天使的天界を形成し給いつつあり、その他の者は凡て斥けられている。

 

 

 

真の基督教137

 

我々に於けるこの信仰はエルサレムの城壁の宝石(黙示録21・17〜20)のように数多い宝石で飾られた王妃に似ております。

 

 

 

真のキリスト教188

 

しかし真のキリスト教は明け初めている。而して黙示録の新エルサレムによって象徴され、父なる神、子、聖霊はそれが一人格の中に在るが故に一つとして認められている新しい教会を、いまや主は設立し給いつつあるのである。

 

 

 

真の基督教307

 

「天的意義では」父は我らの主イエス・キリストを意味し、母は諸聖徒の交わり、すなわち全世界に亘る主の教会を意味している。主は父で在し給うことは、以下の記事によって明白である。「ひとりの嬰児われらのために生まれたり、我らは一人の子をあたえられたり、その名は大能の神、永遠の父、平和の君ととなえられん」(イザヤ9・6)。「アブラハムわれらを知らず、イスラエルわれらを認めず、されど汝はわれらの父なり。汝は我らの父、我らの贖い主なり。汝のみ名は永遠より在るなり」(イザヤ63・16)。「ピリポ言う、主よ、我らに父を示したまえ、さらば足れり。イエス言い給う、我を見し者は父を見しなり、如何なれば我らに父を示せと言うか。我の父に居り、父の我に居給うことを信ぜよ」(ヨハネ14・8−11、12・45)。

 

この意義では、母によって主の教会が意味されていることは、以下の記事によって明白である。「我また聖なる都、新しきエルサレムの夫のために飾りたる新婦の如く準備せるを見たり」(黙示録21・2)。「御使いヨハネに語りけるは、来たれ、我子羊の妻なる新婦を見せんと。而して我に大いなる都、聖なるエルサレムを示せり」(21・9,10)。「子羊の婚姻の期いたり、その新婦みずから準備したればなり、子羊の婚姻の宴席に招かれたる者は幸福なり」(19・7およびマタイ9・15、マルコ2・19、20、ルカ5・34、35、ヨハネ3・29、19・25−27を見られよ)。

 

新しいエルサレムは、現今主によって建設されつつある新しい教会を意味することは「黙示録の啓示」(880、881番)の中に見ることが出来よう。前の教会ではなく、この新しい教会がこの意義の妻と母である。この婚姻の結実なる霊的な子孫は、仁慈の諸善であり、信仰の諸真理であり、そしてこれらを主によって持つ者たちはその婚姻の子、神の子、神から生まれたものと呼ばれる。

 

 

 

真の基督教648

 

 前の教会の信仰は黙示録(12章)に竜によって表わされ、新しい教会の信仰は陽に囲まれ、頭に十二の星の冠を戴いた婦人によって表わされている。

 

 

 

真の基督教700

 

 然し真の基督教は明け初めている。而して黙示録の新エルサレムによって象徴され、父なる神、子、聖霊はそれが一人格の中に在るが故に一つとして認められている新しい教会を、いまや主は設立し給いつつあるのである。それ故、この教会は洗礼と聖餐なる二つの秘蹟の真の用と益とを受けるために、主は聖言の霊的な意義を示すことをよしとし給うた。この用と益とは人が理解を以てまたは霊の眼を以てその中に含まれている聖さを認め、これを主がその聖言に於て教え給うたように受ける時、受けられるであろう。

 

 

 

真の基督教700

 

しかし真のキリスト教は明け初めている。而して黙示録の新エルサレムによって象徴され、父なる神、子、聖霊はそれが一人格の中に在るが故に一つとして認められている新しい教会を、いまや主は設立し給いつつあるのである。

この天界に新しいエルサレムなる地上の主の教会は結合されるであろう。(真の基督教188)

 

 

 

真の基督教790

 

黙示録は詳細に前の教会の終わりと新しい教会の始めを記している。この新しい教会は栄光の新エルサレム、小羊の花嫁、妻によって表されている。私は天界から降って来る新しいエルサレムを記している記事から以下の抜粋のみを引用しよう「観よ、神の幕屋人と偕に在り、神人と偕に住み、人神の民となり神自ら人の神として人と偕に在し給わん。而して救われし諸国の民は都の光の中を歩み、ここに夜あることなし。われイエス我が使いを遣わして諸教会のためにこれらの事を汝らに証せり。我はダビデの萌蘖(ひこばえ)、またその裔(すえ)なり、輝ける曙(あけ)の明星なり。御霊(みたま)も新婦も言う、来たり給えと。聞く者も言え、来たり給えと。渇く者は来たれ。望む者は価なくして生命の水を受けよ。主、イエスよ、来たり給え。アーメン」(黙示録21・3、24、25。22・16、17、20)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

霊界日記6070

 

ハーグに一人の説教家がいた。彼は信仰のみの教義を奉じていた。彼は他の者たちには全く竜のように現れ、いわば、子供を生み出そうとしている一人の女の前に立って、その子供が生まれる時、それを食い尽くそうとしているように見えた。新しいエルサレムである主の教会は表象的にはその女により示され、その教義はその子供により示されたのである。

 

 

 

天界の秘義40

 

しかしそれはエゼキエル書(47・8〜10)からは更に明らかであって、そこに主は新しい神殿を、または全般的に新しい教会を述べられ、また教会の人間を、または再生した人物を述べられている、なぜなら再生した人間は各々主の神殿であるからである―

 

 

 

天界の秘義253

 

教会が『女』また『妻』『花嫁』『処女』『娘』と呼ばれているのは天界的な天使的な自分自身のものによっている。それは黙示録には『女』と呼ばれているのである―

 

陽を着た女がいて、その足の下に月が在り、その頭に十二の星の冠があった。竜は男の子を生んだ女を迫害した(黙示録12・1また4−10)。

 

この記事では『女』により教会が、『陽』により愛が、『月』により信仰が、『星』により前のように信仰の諸真理が意味され、その凡てを悪霊は憎み、極限までも迫害するのである。教会はイザヤ書により前のように信仰の諸真理が意味され、その凡てを悪霊は憎み、極限までも迫害するのである。教会はイザヤ書に『女』『妻』と呼ばれている―

 

あなたを作られた方はあなたの夫である、その名は万軍のエホバ。かれはイスラエルの聖者、あなたの贖い主、全地の神と呼ばれたもう、エホバはあなたを棄てられて心悩む女として、若い折の妻として招かれた(イザヤ54・5、6)。

ここでは『作られた方』は自分自身のものに結合されるため、また『夫』と呼ばれたまい、『心悩む女』と『若い折の妻』は特に古代教会と最古代教会とを意味している。同様にマラキ書にも―

エホバはあなたとあなたの若い折の妻の間に証を立てられた(マラキ2・14)。

それは黙示録には『妻』『花嫁』と呼ばれている―

わたしは聖い都、新しいエルサレムが、夫のために身を飾った花嫁のように備えをして、神のもとを出て天から降ってくるのを見た。来なさい。わたしは小羊の妻である花嫁をあなたに見せましょう(黙示録21・2、9)。

教会は予言者の書全体に『処女』『娘』と呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義3216

 

天使たちが仁慈と信仰との教義的な事柄について語っていると、その時それに相応している霊たちの社会が存在している低いスフィア[領域]の中に時折、一つの都または幾多の都の形またはパターンが現れてくるが、その中には色々な相をした家は言わずもがな、宮殿があって、それは建築の点で技術そのものがそこにその生まれた家の中にいると言われるほどにも驚嘆すべき技能を示しているのであり、言うも驚嘆すべきことではあるが、すべてこれらのものの中には全般的にも個別的にも、最小の点でも、または目に見える粒子でも、何か天使の観念と言葉を表象していないものはないのであり、それでこれらのものの中にはいか程無数のものが含まれているかが明白であり、また聖言の予言者により見られた都により何が意味されているか、同様に聖い都または新しいエルサレムにより何が意味されているか、予言的な聖言における都によって何が意味されているかが明白であり、すなわち、仁慈と信仰との教義的な事柄が意味されていることが明白なのである。

 

 

 

アタナシウス信条についてP58

 

 新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである、なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである、なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれる時、細々したことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことに懸かっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。

 

 

 

主イエス・キリスト65

 

黙示録には新しい天と新しい地という語が記され、後に見よ、わたしは凡ての物を新しくするという語が記されているが、それは今や主により新しく設立されようとする教会の中では教義は新しくなるであろうということ以外の何ごとも意味していない。この教義は前の教会には存在しなかったものであり、その理由はもしそれが存在したとしても、それは受け入れられはしなかったであろうということである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/新しいエルサレムの教義297

 

主の中に三一性の在ること、即ち、神的なものそれ自身と神的な人間的なものと発出している神的なものが在ることは天界から来ているアルカナ[秘義]であり、(それは)将来聖いエルサレムの中に留まる者たちのために存在している。

 

 

 

啓示による黙示録解説17

 

ヨハネは生命の善を表象し、ペテロは信仰の真理を表象するため、それで―

 

ヨハネは主の胸によりかかり、イエスに従ったが、しかしペテロは従わなかった(ヨハネ21・18−21)。

 

主はまたヨハネについて「彼は主の来られるまで止まらなくてはならない」と言われ(22,23節)、かくて主が来られることである今日までも止まらなくてはならないと言われた。それで生命[生活]の善は新しいエルサレムである主の教会に属する者たちのために今教えられるのである。

 

 

 

啓示による黙示録解説53

 

またその女については以下のように言われている―

 

 彼女は陽を着ているのが見られた(黙示録12・1)。

 

これらの記事の『陽』もまた主から発している愛と知恵とを意味し、『女』は新しいエルサレムと呼ばれる教会である。

 

 

 

啓示による黙示録解説434

 

『陽を着て、竜に追われた女』(黙示録12章)により、新しいエルサレムである新しい教会が意味されている。

 

 

 

黙示録講解9(5)

 

第五のアルカナはヨハネは愛の善を表象していることが知られるとき、即ち、主が十字架から母マリアとヨハネに、以下のように言われた言葉により意味されていることが知られるとき明らかになるのである、即ち―

 

 それでイエスは、その母を、またその愛された弟子が側に立っているのを見られ、その母に言われる、女よ、あなたの息子を見なさい、と。それからその弟子に言われる、見なさい、あなたの母を、と。その時間からその弟子は彼女を彼自身の家へと引き取った(ヨハネ19・26、27)。

 

『母』により、また『女』によりここでは教会が意味され、『ヨハネ』により仁慈の善が意味され、ここに言われている事柄により、教会は仁慈の善が存在するところに存在することが意味されているのである。(聖言では、『女』により教会が意味されていることは「天界の秘義」252、253、749、770、3160、6014、7337、8994番に見ることが出来、同じようなことが『母』によっても意味されている、289、2691、2717、3703、4257、5581、8897、10490番。『彼女を彼自身の家へ引き取る』ことは、これらのものは共に住まなくてはならないということであることは明白である)。

 

このことから今やいかに大いなるアルカナが聖言に隠れているかが認められることが出来るのであり、そのアルカナは聖言の内なる、または霊的な意義を知っている者たちにのみ明らかにされるのである。

 

 

 

黙示録講解821ロ[]

 

ヨハネは善い業の方面の教会を表象し、善い業は主に対する愛の凡ゆるものを、隣人に対する仁慈の凡ゆるものを含んでいるため、ヨハネは主により他の者たちよりも更に深く愛されたのであり、そのことは以下から明白である―

 

彼は主と話した時、主のふところにもたれかかり、主の胸に顔をすべらせた(ヨハネ13・23、25)。

 

『ふところ』と『胸』とは聖言においては行為における愛である霊的愛を意味しており、『主のふところと胸』は神的愛そのものを意味しており、それ故霊的愛の中にいる天界の者たちは胸の領域内にいるのである。

 

 

 

黙示録講解821ロ[]

 

それでまたヨハネは主の母を彼自身の家へ連れて行き、彼女と共に住まったのであり、そのことはヨハネ伝に以下のように記されている―

 

イエスは十字架からその母とその愛された弟子がそばに立っているのを見られた、イエスはその母に言われた、女よ、あなたの息子を見なさい、と、それからイエスはその弟子に言われる、あなたの母を見なさい、と。それでその時間からその弟子は彼女を彼自身の家へ連れて行った(19・20,27)。

 

 このことは教会は行為における仁慈が在る所に、または善い業が在る所に在ることを意味したのである、なぜなら主の『母』と『女』とは教会を意味し、『ヨハネ』は善い業である行為における仁慈を意味するからである。

 

(『母』は教会を意味することは「天界の秘義」289、2691、2717、3703、4257、5581、8897番に見ることが出来よう。『女』も同じような意味を持つことは、前の555、707、721イ、730番イ、ロを参照されたい。)

 

 

 

新しい教会の教典P80

 

八、しかし主の母マリアは後に教会を表象したため、その点で彼女は主の母と呼ばれなくてはならない

 

 

 

結婚愛119

 

 教会は母と呼ばれていることは以下の記事に現れている―

 

 エホバは言われた、あなたらの母と論じよ、彼女はわたしの妻ではない、わたしもその夫ではない(ホセア2・2)。

 あなたはその夫を嫌っているあなたの母の娘である(エゼキエル16・45)。

 わたしが出したあなたの母の離縁状はどこに在るか(イザヤ50・1)。

 あなたの母は水の傍に植えられて、果を結ぶぶどうのようである(エゼキエル書19・10)。

 

 これらの事はユダヤ教会について言われたのである。

 

 イエスはその手を弟子たちに伸ばして言われた、わたしの母、わたしの兄弟は神の言を聞いて、これを行う者である(ルカ8・21、マタイ12・48、49、50、マルコ3・33−35)。

 

 主の弟子たちによって教会が意味されている。

 

 イエスの十字架の傍に、かれの母が立っていたが、イエスはその母とその愛された弟子が傍に立っているのを見て、その母に言われた。女よ、あなたの子を見なさい。また弟子に言われた。あなたの母を見なさい。それでこの時からその弟子は彼女を自分の家へ迎えた(ヨハネ19・25−27)。

 

 このことによって主はマリアを母としては認められないで、教会として認められたことが意味されている。その理由から主は彼女を女、また弟子の母と呼ばれたのである。主が彼女をこの弟子の、またはヨハネの母と呼ばれたのは、ヨハネが教会の仁慈の諸々の善を表象したためである。仁慈の善は教会の実体そのものである。それで彼は彼女を彼のもとへ迎えたと言われているのである。ぺテロは真理と信仰とを、ヤコブは仁慈を、ヨハネは仁慈の諸々の善を表象したことは「啓示された黙示録」の5、6、790、798、879に見ることが出来よう。十二弟子は合して教会の凡ゆる物を表象したことは、233、790、903、915に見ることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義7293〔5〕

 

 これらの記憶では『蛇』は理論を生み出す誤謬を意味している。そのことはまた『竜』によっても意味されているが、しかし『竜』は自己と世への愛から、かくて悪の欲念から発した理論を意味し、これは真理のみでなく、善をも歪めるものである。こうした理論は、信仰の諸真理と諸善とを心では否定しているが、口では支配欲と利得欲からそれらを告白している者らから発生しており、かくてまた諸真理と諸善とを冒涜している者らから発生しているのである。両方のものが『全世界をたぶらかすところの、悪魔と悪鬼と呼ばれている竜、古い蛇』により意味され(黙示録12・9)、また男の子を生んだ女を迫害し―その子は神とその王座のもとへ取り上げられたのであるが(黙示録12・5)―口から水を川のように吐き出して、その女を飲み込もうとしたその同じ竜によっても意味されているのである(15節)。

 

 

 

天界の秘義7293〔6〕

 

その女が生んだ『男の子〔息子〕』は現今明らかにされた神的真理〔神の真理〕であり、その『女』は教会であり、『竜、蛇』は迫害する者らであり、『その竜が吐き出そうとした川のような水』は、悪から発した誤謬とそこから生まれてくる理論を意味し、これにより彼らはその女を、即ち、教会を破壊しようと企てるのであるが、しかし彼らは何事も遂行しないことは、『地はその女を助けた、地はその口を開き、その竜が吐き出した洪水を飲み込んでしまった』により記されているのである(16節)。

 

 

 

 

6.愛の炎

 

 

愛の炎P84

 

<新しい聖霊降臨>

「この洪水は、聖霊の力を全世界に注いだ最初の聖霊降臨のものと比べることができます。全人類は、この大きな奇跡に気づかなければなりません。それは、聖母マリアの愛の炎の輝きです。信仰が薄くなっているこの世は、今、闇に落ちようとしていますが、信仰に立ち返る前に大きな混乱状態があるでしょう。このことが信仰の力で新しい世界を築くことになります。信仰の中にある信頼は、その心の中に根を下ろし、地の表は新しくされるでしょう。みことばが人となったとき以来、そのような恵みの洪水はありませんでした。今、苦しみで満ちているこの世界の刷新は、聖母マリアの力づよい取りつぎによっておこなわれることでしょう。」

 

 

 

 

7.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/マリアにならう/P197

 

ああ、もっとも聖なるおとめよ、ああ、栄光のマリアよ、ああ、おん母よ。あなたこそは、天国の門、いのちの源、主の聖殿、聖霊のもっとも愛される聖所です。

 

 

 

 

8.マルタ・ロバン

 

 

マルト・ロバンの面影P74

 

フィネ神父は語っている。

 

「最初の一時間のあいだ、マルトは聖母マリアについてしか話さなかった。かの女は、神秘に満たされた人のように、神秘と親密にまじわっている人のように、聖母マリアについて話した。

 

 第二時間目は印象深かった。マルトは、権威ある語調で、本を読んでいるかのように、歴史のなかに展開するに違いない『諸事件』について話してくれた。これらの事件のうち、あるものはきわめて重大で、きわめて辛いものであった。他の事件は希望と美とに満ちたものであった。大変よく記憶しているのは、『教会のなかに愛のペンテコステ(聖霊降臨)がおこなわれるでしょう』と言ったことである。かの女はまた、教会は『信徒によって若返るでしょう』とも言った。

 

 マルトは、このかなり新しい『信徒』という語に力を入れた。そして、『信徒』は未来の教会のなかで主要な役割りを果すにちがいないと、繰り返し話してくれた。そう話しながら、喜びに満たされていた。かの女はまた、教会は刷新されるとも言った。そのうえ、信徒について話したとき、この信徒を養成する手段を見出すことが焦眉の急であることを強調した」。

 

 

 

 

9.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1980.10.27

 

私は、あなたがたにとって、一致の道です。わたしは、全教会に受け入れられたとき、はじめて母として、私のすべての子らを同じ家族の団欒に集めることができるでしょう。

 それで、私の汚れなき心が世界に勝利をうるその同じときに、すべてのキリスト者はカトリックの教会にふたたび一致するでしょう。こうして、再一致した教会は、新たな聖霊降臨の輝きを受けて全世界のすべての民族を新しくする力を帯びるのです。

 

 

 

聖母から司祭へ1976.2.11

 

 私の汚れなき心に奉献された子らよ、私が天から降ったわけは、地上であなたがたの心を、私の天国とするためです。私の光をあなたがたの中に反映しています。こうして多くの人の心があなたがたを通して、私の純潔にひかれ、私のこの徳の香りをまき散らすでしょう。

 教皇は、この道徳的復興の指示を与えました。

 彼にきいて彼を擁し、彼を慰めてください。

 最近、教皇の人格に対する侮辱やますます増大する不義は、母なる私の心を悲しませます。この泥沼は彼の足元まで押し寄せて来ました。しかしあなたがたは、この天使的牧者、地上における甘美なキリストの足下に防波堤を築かねばなりません。

 私の特別な干渉とあなたがたを通して、悪魔が教皇に対して起したこの反乱と泥沼の波は、教皇の足元にとどまるでしょう。

 こうして教皇の偉大さと汚されぬ純潔が、すべての人に現わされるでしょう。

 

 

 

聖母から司祭へ1976.4.16

 

 ヨハネだけがのこりました。そして母と共に。

 私の運動の司祭たちよ、せめて、あなたがたは教会と共に留まってください。

 あなたがたの母である私と共に残ってください。

 

 

 

聖母から司祭へ1976.8.15

 

 それで特に愛されている私の子らよ、あなたがたが待ち望んでいる天国をさがしながら、愛しながら、見つめながら、生きてください。

 そして地上に作られた天国である私の汚れなき母の心の中に生きてください。

 そうすればあなたがたは平静で内的に幸福なものになるでしょう。そしてますます小さいもの、まかせきったものに、更に貧しいもの純潔なものになるでしょう。

 そしてあなたがたが小さく貧しく純潔であればあるほど、汚れなき私の心の天国に入ることが出来ましょう。そこにおいて時はすでに、止むことなき心の鼓動によってはかられているのです。

 

 

 

聖母から司祭へ1996.2.22

 

イエズスは、ペトロに、教会の土台となり、その真理のすべてを保護する役割りを与えられました。

 

 

 

聖母から司祭へ1991.6.26

 

 あなたたちは、新しい教会の新しい心となるように召されています。

 イエズスは、この新しい教会を完全に不思議な方法をもって、わたしの汚れなき心の天的花園の中に形づくろうとしておられます。

 

 

 

 

10.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P40

 

「人類にとり、修繕者、教師、兄、友である御方が死すべき者の命になり、病人の薬になり、悲しむべき者の慰めになり、負傷者の軟膏となり、困難にあえぐ者の案内役と道連れとなるように。救世主が神から派遣され、人類を救うという預言が成就されるであろう。どのように成就されえるかは天地創造以来、神秘に隠されていたが、マリアを通して成就されることを宣言する。被造物の世界は今後も自然な成り行きを辿るが、これからはもっと大きな恩寵を神から頂くことになる。」

 

 

 

 

11.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P138

‘88・2・10

 

主:ヴァッスーラ 私の声を聞き 書きなさい。

 

ヴァッスーラ:はい 主よ。

 

主:私はみことば アルファでありオメガ、私は不死の霊薬、愛の源 すべては私が在らしめた。あなた方を贖うため 肉となり地上に降った。娘よ 十字架からヨハネと母に与えたみことばに対して 私の教会には非常に多くの混乱が見られる、主である私が、御母を天の元后として戴冠させたことを、何にもましてあなた方に思い出させたい

 

ヴァッスーラ:主よ?

 

主:何か ヴァッスーラ?

 

ヴァッスーラ:主はご自分を神として紹介なさいました、それから御母を二度口にされました。いましがたは聖マリアがあなたのお母さまであると宣言なさいました、「神の母」という呼び名を確認し。ご自分でそう仰ったのです! プロテスタントが拒む呼び名ですのに。

 

主:私は喜びでいっぱいだ 娘よ、教えていたのが無駄ではなかった、私のわざを理解してくれたことを喜んでいる、学び続けるよう努力しなさい、その達成のために祈りなさい、願うなら必要な洞察力を与える、ヴァッスーラ、再び繰り返す、みことばが知られることを望む。神である私は母の胎内で育った、あなた方の神をこの方は育まれた 被造物よ! 私はこの方に養っていただいた。みことばである私はこの方を愛し 尊んでいる。ヴァッスーラ 初めの頃に私の十字架刑を詳しく述べた、「私の視線が母の上に留まった、そのお方を見た時私どもの心が呼応した(*) <我が愛する子どもたちを与えよう あなたの子たちとなるように、この子たちの母となってほしい>」

 

(*イエスと聖マリアの間に交わされた無言の相互理解と直観的な一致のこと)

 

ヴァッスーラ:はい 主よ、けれど私たちのプロテスタントの兄弟は 主の十字架上のみことばは文字通り ヨハネに向けられたものだと言っています、お母さまが「未亡人」となり 主がおられなくなってもヨハネが世話するようにと。聖マリアは「神の母」でないとも言っています。

 

主:しかし 私のヴァッスーラ 聖書に偽りはない、聖書には書かれてある、「私の主の母」と。聖霊に促され エリザベトはこの言葉を口にした、書くように:「すべての女の中であなたは最も祝福された方、そしてご胎内の子も祝されています。私の主の御母に訪ねていただく名誉をいただくとは? 」十字架上で述べた言葉はあなた方の多くが理解するよりはるかに深い(*)。あなた方の聖なる母でもあるこの方を 尊びなさい。もう私の心の中で休むように、私の現存を覚え 喜ばせてほしい、私を尊びなさい 我がヴァッスーラ、

 

 *イエスは「我が神、どうして私を見捨てられたか。」といった、他の言葉のことも意味しておられます。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P160

(96.3.20−26におよぶメッセージ)

96.3.25

 

ああ 被造物よ! 私の魂は これほど多くのあなた方が聖母のみ心を拒むがゆえ 深い悲嘆にくれている! そして私があこの人びとを、有罪と定める日を思って 我が天使たちは打ち震える! だが聖母を尊び愛した者たちには、天国に踏み込めるよう み心の門が開かれている。そして彼女を愛し尊ぶ者たちにはこのように言う:「来なさい! 地上で大きな愛を母に捧げたがゆえ 今日は自分たちの部屋に入ってきなさい そして我が聖なる神殿に 挨拶するのを許そう。」被造物よ、天に現されたこの大きな印、悪魔たちを恐れで無力にする太陽をまとった女性、天を光で満たし 暗やみを恐怖させている この大いなる印とは ほかでもなく私の母。暗やみと対比するよう 私はこの至聖なる乙女を立ち上げた あなた方皆の燃えさかる火の柱となって 夜闇の足取りを導き、昼は皆の太陽としてその恐ろしい暗がりの心を 照らしていただくように。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち8巻P163

96.4.3

 

我がヴァッスーラ、この時の終わりの 小さな教え子よ、御母のみ心について 天より一つの教えを授けて筆記させる・・・以前も述べたように、御母のみ心と私の心は深く一致し 一つとなっている。乙女のうちなる乙女、最も聖なる者、今や永久に天国におられる、私の御母は、天国でも:私の母と呼ばれ続けている。

 

神なる、私が聖霊によって身ごもり 乙女マリアから生まれるために下り来たとき、私は 我が天国に入った! 一方の天国からもう一つの天国に入り、片方の王座からは もう片方の王座に移った。母のみ心は、うちにも外にも輝き放つ、神聖な燭台に光る 明かりのようだった ♡ 私はこの楽園に迎え入れられ 誉れを受けた。エワによって失われ汚されたものが 乙女マリアの全き従順と謙遜を通して取り戻され聖化された。 そしてこの女性を通して、私が地上を治めるときがふたたび来よう。地上の我が支配は 一人ひとりの心のうちに築かれる。我が霊はふたたび、あふれるほど豊かに注がれ、今の不毛は肥沃な地に変容する。

 

 

 

12.もし彼らがそれを望んで、主に祈るなら、その教会の性質に従った美しさを持ち、またそれに従った衣装をまとうた処女として見る

 

 

啓示による黙示録解説881

 

「夫のために飾った花嫁のように備えして」は、聖言を通して主と連結したかの教会を意味している。ヨハネは『聖い都、新しいエルサレムが神から天界を経て降ってくるのを見た』と言われ、ここでは彼はその都が『夫のために(身を)飾った花嫁のように備えしている』のを見たと言われており、そこからも『エルサレム』により教会が意味されていることが明白であり、また彼はそれを最初は都として、後には花嫁の処女として、(即ち)表象的には都として、霊的には花嫁の処女として見、かくて一方の観念[考え]が他の一方の観念[考え]の中にある、またはその上方に在るところの、二重の観念[考え]の中に見たことが明白である―彼がこの二重の観念[考え]の中にそれを見たことは天使たちの場合と全く同じであり、彼らは聖言の中で『都』について見たり、または聞いたりするときは、低い思考の観念の中では都を認めるが、高い思考の観念の中では教義の方面の教会を認め、しかもこの後のものを、もし彼らがそれを望んで、主に祈るなら、その教会の性質に従った美しさを持ち、またそれに従った衣装をまとうた処女として見るのである。私もまた教会をそのように見ることを許されたのである。『備えをする』によりその婚約のために衣装をつけることが意味されるが、教会はその婚約のためには、後には連結または結婚のためには、聖言以外の衣装をつけることは出来ない、なぜなら聖言は主から発し、主にかかわり、かくて主であるため、聖言が連結または結婚の唯一の手段であるからであり、そうした理由からそれは『契約』と呼ばれ、『契約』は霊的連結を意味し、聖言はまたその目的のために与えられたのである。『夫』により主が意味されていることは本章の9節と10節から明らかであり、そこにはエルサレムは『花嫁、子羊の妻』と呼ばれている。主は『花婿』『夫』と呼ばれ、教会は『花嫁』、『妻』と呼ばれ、この結婚は善と真理との結婚に似ており、聖言を通して行われることは、前に見ることが出来よう(797番)。これらの事柄から『夫のために飾った花嫁のように備えをしたエルサレム』により聖言を通して主と連結したかの教会が意味されていることが明らかとなるであろう。