豚
イザヤ65・3−5
この民は常にわたしを怒らせ、わたしに逆らう。
園でいけにえをささげ、屋根の上で香をたき
墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし
豚の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れながら
「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな
わたしはお前にとってあまりに清い」と言う。
これらの者は、わたしに怒りの煙を吐かせ
絶えることなく火を燃え上がらせる。
マタイ7・6
神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。
マタイ8・29−31(マルコ5・11)
突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。
ルカ15・15−16
それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P21
キリストの徳の貴重な真珠を見せるに価しなかったからだ。せっかくの見事な真珠を見せても、その値打ちは分からず、ただの石としか見なかっただろう。(中略)聞く人の理解力と霊的な純潔さと正義に応じて、言葉を用いるのが賢明である。いかがわしい人々に真理を告げても、相手には分からず、ただ、あざ笑うばかりだろう。
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P135
勝利を得る者に、わたしは隠れたマンナを与えよう(黙示録2・17)
’43年8月19日
イエズスは言われる。
「いつものようにわたしの眼で最愛の弟子の言葉を見つめれば、『隠れたマンナ』もわたしの言葉であることが理解される。なぜなら、マンナは霊魂の父、兄、花婿であり、最も崇高な三つの愛である、あなたたちを愛するわたしたち三位一体の愛のすべての甘美さを集めているからだ。
さてわたしは、あなたたち皆にこのマンナを降らせそれで皆を養いたい。しかし『豚に真珠を、聖なるものを犬に投げてはならない』と言われている。ところがわたしの洗礼によって洗われ、わたしの血によって贖われた人々の多くは、豚よりも卑しく犬よりも劣る。
貴女は、それを得るに値しない古代ユダヤ人たちに、砂漠でマンナが腐ったいきさつを読んだ。彼らがそれに値しなかったのは、信仰に欠け、人間的な気遣いに明け暮れていたからだ。胃袋を満たすために与えられたマンナには配慮しても霊を養うために与えられるわたしの言葉には配慮しないということが、わたしに出来るだろうか?
だからわたしは、不信仰や、官能や、けちで自分本位の配慮への傾向と共に自分のより劣勢な部分に対して勝つ者たちにマンナを与えるのだ。わたしはあなたたちの霊魂を優しさと光で満たすわたしの言葉のマンナを与える。わたしは『その上には新しい名が刻まれている白い小石』、すなわちふさわしくない人々には黙して語られない一つの真理が啓示された白い小石を与える。それはあなたたちに永遠の生命の門を開き、鍵をあなたたちに与え、わたしの天の都の門に至る道へとあなたたちを伴う真理である。
わたしは道、真理、生命である。わたしを措いてその他には道も、真理も、生命もない。わたしに従うために、すべての障害に勝つ人はわたしの神殿の柱になるだろうし、人間を滅びに導く誘惑の恐ろしい時から救われたのちに、守護し実行した言葉によって、わたし自身の玉座に、父と子と聖霊と共に席を得るだろう」。
天界の秘義1742[2]
悪霊が持っており、また悪霊が極度に愛している生命は自己への愛と世への愛と幾多の欲念の生命であり、引いては復讐と残酷との生命であり、悪霊はそれ以外の生命にはいかような歓びもありえないと考えている。彼らはこうした欲念の歓喜に生命の凡てを置いて、こうした生命が唯一の生命であって、それを失う時は自分は全く死滅してしまうとのみしか考えない人間のようなものである―なぜなら彼らは人間であったのであり、人間であった時、その生命からこうした信念を得ているからである。しかし彼らの愛している生命はいかような性質を持っているかは他生におけるこのような性質の者らから明白であり、そこではそれは悪臭を発する排泄物のような生命に変化するのであって、しかも驚嘆すべきことには、彼らはその悪臭を極めて楽しいものとして認めているのである、このことは820、954番に経験から述べられたことから認めることができよう。
天界の秘義1742[3]
かの魔鬼どもの場合もそれと同じであったのであり、彼らは主が彼れらを狂人から追い出された時、自分の生命を恐れて、自分らが豚の中へ遣わされるように求めたのである(マルコ5・7−13)。これらの魔鬼は身体の生命にいた頃は汚れた貪欲に溺れた者であったことは以下の事実から認めることが出来よう、即ち、こうした者は他生では豚の間に己が時を過ごしているようにこうした者自身に思われているのであり、それは豚の生活が貪欲に相応していて、それでそれが彼らには快いものとなっているという理由によっているが、そのことは939番に経験から述べられていることから明白である。
天界の秘義4751[2]
「私たちが私たちの兄弟を殺して、その血を隠したとしても何の利益があろう」(創世記37・26)。
ここの『利得』は利得になるもののみでなく、栄誉も意味していることは、または、『それは何の利益になろう』は何一つ利得にも、または栄誉にもならないであろうということを意味していることは、このことが欲念と貪欲から言われたためである、なぜなら利得の欲念と貪欲とは、全世界を所有するのみでなく、利得のためには凡ゆる者をも殺そうとする欲望をその中に持っており、実にこのような欲念に駆られた者は、法律に妨げられないなら、ほんの些少な利得のためにでも殺人罪を犯すからである。更にこのような人間は、金銀を得ると、その外面ではいかほど自分を卑下してみせようとも、自分自身を権力では最大なものとして認めるのであり、そのことは貪欲の中には世への愛のみでなく、自己愛が在り、実に最も汚らわしい自己愛が在ることを示しているのである。なぜならさもしいほどにも貪欲な者の中には心の高揚または誇りは時としては見栄えのためには富には無頓着であるため、それは外面的にはそれほど目立ってはいないし、またそれは通常快楽と連結しているところのあの種類の自己愛でもないからである、なぜならこのような者は身体とその食物と衣服には殆ど関心を持たないからである。しかしそれは全く地的な愛であって、金以外には何ものも目的とはしていないのであり、それを得ると、自分自身が事実としてではないが、潜在的には、他の凡ての者にまさっていると信じるのである。このことから貪欲には最も低くて、また最も卑しい自己愛が在ることが明白であり、そうした理由から他生では貪欲な者は豚の間にいるようにその者自身に思われており(939番)、彼は他の凡ての者にもまさって何であれ凡ての善に反抗するのである。従って彼らは善いものや真のものを全く認めることが出来ないほどにも暗闇にいて、人間には死後も生きる何か内なるものが属していることを些かも悟らないのであり、そのようなことを言う者たちを心で嘲笑しているのである。
天界の秘義4751[3]
ユダヤ民族は最初からこのような性質を持っていたのであり、それで旧約聖書の聖言から明白なように、何か内なるものが彼らに明らかに開かされることは不可能であったのであり、彼らはこうした最悪の種類の自己愛の中に根を張っていたため、もし貪欲により内なるものから遥かに遠くに遠ざけられて、そのことにより暗闇の中に留めおかれない限り、内的な諸真理と諸善を汚し、かくして他の凡ての者にもまさってそれらを冒涜するのである、なぜなら彼らは承認しない限り、冒涜することは出来ないからである(1008、1010、1059、2051、3398、3402、3489、3898、4289、4601番)。主がヨハネ伝で彼らについて『あなたらはあなたらの父、悪魔から出ており、あなたらの父の欲望を為そうと欲している。彼は始めから人殺しであった』(8・44)と言われ、ユダヤ教会を表象したユダ・イスカリオテについては、『わたしはあなたら十二人を選ばなかったか、だのにあなたらの一人は悪魔である』(ヨハネ6・70)と言われたのはこうした理由によっているのである。ユダが主を売ったことにおいてユダによってもまた、『さあ、我々はヨセフを売ろうではないか』と言ったユダによりここに表象されていることに似たことが表象されているのである。
啓示による黙示録解説727
またあなたらの真珠を豚の前に投げるな、豚はその真珠をその足下にふみにじって、あなたらを引き裂くであろう(マタイ7・6)。
『豚』によりただ世の財宝を愛するのみで、聖言から発している善と真理とにかかわる知識であるところの霊的な財宝を愛さない者らが意味されている。『バビロン』により聖言から由来している善と真理との知識をことごとく斥けてしまったところのかの宗教的な信念が意味されているため、これについて以下のように言われている―
地の商人らはバビロンのために嘆き、悲しむであろう、たれ一人彼らの商品を、金銀の、宝石と真珠の商品を買わないからである(黙示録18・11、12)。
霊界日記1604
しかし濫用〔誤用〕は以下の事実から生れるのである、即ち、哲学者たちは言葉〔用語〕の中にとどまって、それについて論争して協定に達しはしないことから、事物そのものの観念の一切が死滅してしまい、その人間の理解が極めて限定されてしまい、遂にはその人間は用語を除いては何ごとも知らなくなってしまうのである。従ってこうした人物が何かの主題をその用語により把握しようとするときはその用語を積み重ねるのみで、事柄の全体を曖昧なものにしてしまい、かくてそれについては何一つ絶対的に理解することが出来なくなり、彼らの自然的な光さえも消滅してしまうのである。かくて無学の人間がその哲学者よりも遥かに広汎な観念〔考え〕を持ち、真理をさらに良く認めるのである、なぜならこうした者は豚のようにぬかるみの中につかって、そのため彼はそうした種類の動物の形を、野獣の形をとるように表象されたからである、なぜなら彼は真理においては森の中のいのししとなり、そうした獣のようにぶらつきまわり、真理の手足を切り取って、殺してしまうからである。
霊界日記4566小
彼は、自分はそのようにして人間を導くことができる、と言ったが、しかしあなたは、人間ではなく、豚を導くのである、と答えられた。彼はまた、豚を導くようにと、豚の中へ送り込まれたのである、即ち、自分自身を姦淫の猥褻な幾多の振る舞いで汚してしまった者が豚に変えられてしまったが、その豚の中へ送りこまれ、彼も同じものになったのであるが、このことは、内的な魔法は内的な姦淫以外の何ものでもない、という理由のためである、なぜならそれはそうしたものを生み出すからである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・14・1
かつてその所行(したこと)が称賛にあたいするように思われた人々も、ドン底まで落ちてしまいました。またかつて天使のパンを食した人々が、豚の飼料(かいば)を喜んで喰うのを私は見たのであります。