主(神)を知る

 

 

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る(マタイ5・8)

生まれ出る前に父親を見た人は誰もいない

求めなさい。そうすれば与えられる。(マタイ7・7)

知識地上の天平和

 

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.サンダー・シング

4.ヴァッスーラ

5.聖母から司祭へ

6.マリア・ワルトルタ

7.アグレダのマリア

8.マーリン・キャロザース

 

 

 

1.聖書

 

 

ヨブ記28・27−28

 

神は知恵を見、それを計り

それを確かめ、吟味し

そして、人間に言われた。

「主を畏れ敬うこと、それが知恵

悪を遠ざけること、それが分別。」

 

 

 

詩篇53・3

 

神は天から人の子らを見渡し、探される

目覚めた人、神を求める人はいないか、と。

 

 

 

詩篇53

 

神を知らぬ者は心に言う

「神などない」と。

人々は腐敗している。

忌むべき行いをする。

善を行う者はいない。

 

神は天から人の子らを見渡し、探される

目覚めた人、神を求める人はいないか、と。

だれもかれも背き去った。

皆ともに、汚れている。

善を行う者はいない。ひとりもいない。

 

悪を行う者は知っているはずではないか

パンを食らうかのようにわたしの民を食らい

神を呼び求めることをしない者よ。

それゆえにこそ、大いに恐れるがよい。

かつて、恐れたこともなかった者よ。

                                     

 

 

詩篇69・33

 

貧しい人よ、これを見て喜び祝え。

神を求める人々には

健やかな命が与えられますように。

 

 

 

詩篇110・10

 

主を畏れることは知恵の初め。

これを行う人はすぐれた思慮を得る。

 

 

 

箴言1・7

 

主を畏れることは知恵の初め。

無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

 

 

 

 

箴言2・1−6

 

わが子よ

わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして

智恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら

分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら

銀を求めるようにそれを尋ね

宝物を求めるようにそれを捜すなら

あなたは主を畏れることを悟り

神を知ることに到達するであろう。

智恵を授けるのは主。

主の口は知識と英知を与える。

 

 

 

箴言2・5

 

あなたは主を畏れることを悟り

神を知ることに到達するであろう。

 

 

 

箴言9・10

 

主を畏れることは知恵の初め。

聖なる方を知ることは分別の初め。

 

 

 

イザヤ11・9

 

水が海を覆っているように

大地は主を知る知識で満たされる。

 

 

 

イザヤ65・1−2

 

わたしに尋ねようとしない者にも わたしは、尋ね出される者となり

わたしを求めようとしない者にも 見いだされる者となった。

わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。

反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に絶えることなく手を差し伸べてきた。

 

 

 

エレミヤ9・1−2

 

荒れ野に旅人の宿を見いだせるものなら

わたしはこの民を捨て

彼らを離れ去るであろう。

すべて、姦淫する者であり、裏切る者の集まりだ。
彼らは舌を弓のように引き絞り

真実ではなく偽りをもってこの地にはびこる。

彼らは悪から悪へと進み

わたしを知ろうとしない、と主は言われる。

 

 

 

エレミヤ9・4−5

 

人はその隣人を惑わし、まことを語らない。

舌に偽りを語ることを教え

疲れるまで悪事を働く。
欺きに欺きを重ね

わたしを知ることを拒む、と主は言われる。

 

 

 

 

エレミヤ9・22−23

 

主はこう言われる。

知恵ある者は、その知恵を誇るな。

力ある者は、その力を誇るな。

富ある者は、その富を誇るな。

むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい

目覚めてわたしを知ることを。

わたしこそ主。

この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事

その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。

 

 

 

エレミヤ10・21

 

群れを養う者は愚かになり

主を尋ね求めることをしない。

 

 

 

エレミヤ15・16

 

あなたの御言葉が見いだされたとき

わたしはそれをむさぼり食べました。

あなたの御言葉は、わたしのものとなり

わたしの心は喜び躍りました。

万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって

呼ばれている者です。

 

 

 

エレミヤ23・35−37

 

お前たちは、ただ隣人や兄弟の間で互に、「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」とだけ言うがよい。「主の託宣だ」という言い方を二度としてはならない。なぜなら、お前たちは勝手に自分の言葉を託宣とし、生ける神である我らの神、万軍の主の言葉を曲げたからだ。預言者にはただ、「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」と言うがよい。

 

 

 

エレミヤ24・7

 

そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。

 

 

 

 

エレミヤ29・13

 

わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。

 

 

 

エレミヤ31・34

 

彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。

 

 

 

ホセア6・3

 

我々は主を知ろう。

主を知ることを追い求めよう。

主は曙の光のように必ず現れ

降り注ぐ雨のように

大地を潤す春雨のように

我々を訪れてくださる。

 

 

 

ホセア6・6

 

わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく

神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。

 

 

 

知恵の書2・13−16

 

神に従う人は、神を知っていると公言し、自らを主の僕と呼んでいる。彼らの存在は我々の考えをとがめだてる。だから、見るだけで気が重くなる。その生き方が他の者とは異なり、その行動も変わっているからだ。我々を偽り者と見なし、汚れを避けるかのように我々の道を遠ざかる。神に従う人の最期は幸せだと言い、神が自分の父であると豪語する。

 

 

 

マタイ7・7−12

 

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

 

 

 

ヨハネ14・21

 

わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。

 

 

 

ヨハネ17・2−3

 

あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

 

 

 

使徒言行録17・23

 

道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。

 

 

 

使徒言行録17・27

 

これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見出すことができるようにということなのです。

 

 

 

ローマ1・18−23

 

 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神の子がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

 

 

 

コリント1・1・21

 

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義922[3]

 

サムエル書にはサムエルはサウロに言った―

 

  

エホバはエホバの御声に聞くことを喜ばれるように燔祭と生け贄とを大いに喜ばれるであろうか。見よ、従うことは生けにえにまさり、聞くことは雄羊の脂にまさっている(サムエル記前15・22)。

 

 『声に聞くこと』により意味されていることはミカ書に認めることができよう―

 

  わたしは燔祭をもって、一万の子牛をもってエホバの前に出ようか。エホバは数千の雄羊を、万流の油を喜ばれるであろうか。ああ人よ、かれはあなたに善いことを示されている、エホバがあなたらに求められることは、ただ審判[公正]を行い、慈悲を愛し、自分自身を卑しうしてあなたの神と共に歩むことのみではないか(6・6−8)。

 

このことが『清い獣と鳥との燔祭と生贄』により意味されていることである。同じくアモス書にも―

 

  あなたらがわたしに燔祭と捧げ物とを捧げても、わたしはそれらを受け入れはしない。わたしはまたあなたらの肥えたものの感謝の捧げ物をも顧みはしない。審判[公正]を水のように、義を大いなる川のように流れさせよ(5・22、24)。

 

『審判[公正]』は真理であり、『義』は善であり、その何れも仁慈から発しており、これらが内なる人の『燔祭と生けにえ』である。ホゼヤの書には―

 

わたしは慈悲を望んで生贄を望まない。燔祭よりも神を知ることを望んでいる(ホゼヤ6・6)。

 

これらの記事から仁慈と信仰とが存在しないところでは生贄と燔祭とは何であるかが明白であり、清い獣と清い鳥とは仁慈と信仰の諸善を意味したためそれらを表象したこともまた明白である。

 

 

 

 

天界の秘義3863[9]

 

 さらに―

 

 あなたの目は王の美しさを見、遥か遠くの地を見るであろう(イザヤ33・17)。

 

 『王の美しさを見ること』は、主から発して、善から『美しい』と呼ばれているところの信仰の諸真理を意味し、『遥か遠くの地を見ること』は愛の善を意味している。(『王』は信仰の諸真理であることは前の1672、2015、2069、3009、3670番に見ることができ、『美しい』は善から述べられ、553、3080、3821番、『地』は愛の善である、620、636、3368、3379番)。マタイ伝には―

 

「心の清い者は祝福されている、彼らは神を見るからである」(マタイ5・8)。

 

ここでは「神を見ること」は神を信じることであり、かくて神を信仰によって見ることである。なぜなら神は信仰の中におられ、信仰の中にあって真の信仰を構成しているものであられるため、信仰の中にいる者たちは、信仰から神を見るからである。

 

 

 

聖書57

 

これらの者は聖言を読んでいる時明るくされる。

 

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義9818(5)

 

清い心[心情]は不潔な悪を嫌悪する意志を意味。

 

 

 

天界と地獄353

 

 誤った理知と知恵とは神的なものを承認しない凡てのものである、なぜなら神的なものを承認しないで、神的なものの代わりに自然を承認する者は凡て、世では如何ほど教育があり、学問があると信じられていても、形体的な感覚的な面から考えていて、単に感覚的な者に過ぎず、彼らの学問は、世で目から見られる物を超えて昇らず、その目で見る物を記憶にしまい込んで、殆ど物質的に眺めているが、しかしその同じ科学は真に理知的な者には理解を形作るのに役立っているのである。科学により、物理学、天文学、化学、機械学、幾何学、解剖学、心理学、哲学、歴史、文学、言語学のような色々な種類の実験的な知識が意味されている。神的なものを否定して思考を外なる人の感覚的な物の上に高揚しない聖職者らは聖言の事柄を他の者らが科学を扱うようにしか扱わず、それを高揚された合理的な心により思考の問題または直覚の問題ともしていない、なぜなら彼らの内部は閉じられていると同時に、その内部の真近にある外部も閉じられているからである。これが閉じられているのは、彼らは天界に自分自身を背けて、前に言ったように、人間の心の内部であるところの、天界の方を眺めることが出来る能力を転倒させてしまったからである。そうした理由から彼らは真で善いものを見ることは出来ないか、それは真で善いものは彼らには暗闇の中にあるが、誤った悪いものは光の中にあるためである。しかしそれでも感覚的な人間は論じることが出来、その中には他の者以上に狡猾に、また鋭く論じることが出来る者もいるが、しかしそれは彼らの科学により確認された感覚の妄想から行われているのであり、彼らはこのように論じることが出来るため、自分自身をまた他の者以上に賢明なものであると信じている。その理論を情愛をもって燃やしている火は自己と世への愛である。これらが誤った理知と知恵にいる者であり、またマタイ伝で主の以下の語に意味されている者である、「彼らは見るが見ない、聞くが聞かない、理解もしない」(マタイ13・13−15)。また他の所には、「これらの事は理知ある者と賢明な者からは隠れており、幼児に示されている」(マタイ11・25、26)。

 

 

 

 

3.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P269

 

詩篇記者はいみじくもこういった。「愚か者は、心の中で“神はいない”と言っている」。愚者はこういうことによって、神の不在を証明するより自分自身の霊的不在、神を知ることのできない無能を露呈する。彼が自分に納得のゆく理由を持ち出すなら、太陽の存在しないことを議論だけで証明しようとする虫けらにも等しい。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P350

 

 キリストの神性を知ることができる以前に、われわれは新しい生き物に変えられる必要がある。罪に染まり堕落した古い性質では、キリストを知ることはできない。みえざる神の形であられ、その形に似せてわれわれが造られたキリストを知ることができる以前に、新しい生命と新しい性質とが、われわれのものとなっていなくてはならないのである。そのときこそ、われわれはキリストを「まことの神」として知るようになる。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P321

 

 多くのクリスチャンは、互いに憎み合い、争い合い、互いへの愛も、キリストへの愛も持ってはいません。主は愛であられるのに、その愛が彼らの心にはありません。神がわたしたちの生命の中に生きていれば、わたしたちは人々に愛を示します。豊かな生命を受けていれば、神がわたしたちの中に生き、わたしたちはすすんで他を愛することでしょう。わたしたちは、祈りを通して主を知り、主の中に生きなければなりません。そうすれば、主がわたしたちの中にいます。さもなければ、終わりの日に主はこういわれることでしょう。「わたしはあなた方を個人的に知りません。あなた方はわたしについて知識はあった。聖書も読んでいた。しかし、わたし自身を知らなかった。わたしはあなた方の心の中にいなかったのです」。主を知るときに、わたしたちは天で永遠に主とともに生きるのです。主は近くに、ともにおられます。わたしたちは、ともにあり、内にある主の臨在を実感することができます。主があなた方の心の中にいなければ、「神さま、わが胸の中にお入りになってください」と祈るのです。ものを求めず、主ご自身を求めて祈るのです。主は、わたしたちの内に住んでくださいます。主はわたしたちとともにおられます。しかし、わたしたちが主を知らなければ、それも十分ではありません。わたしたちが主を知れば、二度と挫かれることはありません。苦しみ、悲しみがあっても、主の臨在を感じることでしょう。生命を与えてくださる主の現存が、わたしたちの生を地上天国に変えてくださるのです。

 

 少し前にチベットで、わたしは神の人と会いました。彼は自分の経験を話してくれました。苦しみのときにも主を知っていれば、たとえ全世界が敵に回ろうとも、挫かれることはありません。わたしたちは、それほどの素晴らしい歓喜を憶えます。その歓びは、言葉にはとても尽くせないものです。この人は服を脱ぎ、沢山の傷跡と生傷を見せてくれました。ほんの三日前に、石打ちの刑にあったのです。初めの二、三分は恐怖に駆られたが、それから祈り出して素晴らしい歓びを得た、石を投げてくる人々のために祈れるほどの歓びを感じた、と彼は語りました。「わたしは、素晴らしい平和を感じて驚かされた。世界でもっとも偉大な奇蹟のように思えた」。わたしたちは、この世には見つからない歓びと平和を、キリストの中に見るのです。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P329

 

 主がご自身を現わしてくださるときに、わたしたちは地上天と、わたしたちを自由にしてくれる真理を見出すのであります。あれやこれやの宗教を信じることが、平和を与えてくれるのではありません。わたしたちはキリストを知り、主の中に生命を見出さなくてはなりません。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P338

 

今日、こんなにも多くの新宗教があるのは、人々が彼らを満たしてくれるイエス・キリストを知らないからであります。人々は、これを信じ、あれを信じ、それでも足りなければ、また別のものを受け入れる。それでも満ち足りてはいません。みなさん、わたしたちを満たせるのは教えでも、倫理でもありません。生けるキリストなのです。わたしは、様々な国々で、キリストを嫌悪する人々を多く見てきました。ところが、主を知るや、彼らは変えられたのであります。彼らは、主の中に強さと力を見たのであります。

われわれの生活が祈りの生活となり、われわれがこの世界において主を知り、主を愛するように、主がわれわれを助けてくださいますように。

 

 

 

 

4.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P104

‘87.3.8

 

来て 私を知るようになりなさい、手が届かない者ではないのです、私たちは肩を並べて歩いている、あなた方は私の中に生きていて 私はあなた方の中に生きている、私たちは決して離れることがない、  ♡ 決して。来て私の無限の善良さの中から汲み取りなさい、そしてあなた方の心の狭さを私の清さの中に溶解させてしまいなさい。 ああ 我が子よ、私の愛する子どもたちの多くは 洗礼によって神のものとなったが 私を在りのままの姿で知っている者は大変少ない。 私を愛する父として頼ることを忘れ、届かないところにいる者だと思って離れて行く。 多くは自分流にしか私のことの見なさず、飽くことのない見下げた卑しい心の傾きの感情を私に押しつけている  ♡ 、ある者たちは私のことを怖いとしか思わず、ほかの者たちは私の無限の愛を疑う。*

 

(このメッセ―ジは3・18日のメッセ―ジに続く)

 

ここで注文してあったトリノの聖骸布の写真が届いたことで、ちょっと中断しました。それを見て黙想し、そしてそれを見ながら、また、書き始めました。

 

覚えておきなさい、私は今でも苦しんでいる。 ヴァッスーラ なんと辛く苦々しいか、どうして、どうして私の羊たちがこんなに多く散ってしまったのか。 彼らを見なさい、私の十字架は無駄だったか。娘よ、私は、なんとがっかりしていることか、私の霊魂はなんと徹底的に打ちのめされてしまったであろう、私は苦しむ。 私の羊たちを養いなさい。 書くことに疲れてしまわないように。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P23

 

私を探しなさい そうするなら見いだす、叩きなさい 戸は開かれる。たとえあなたが:「主の御心に踏み込むなど とうてい私にはできない」と言おうと、私は言う:「あなたは私の子ども、私のものであって私が蒔いた種子。私に属するのであって誰のものでもない。あなたは私に由来し 誰から来たのでもない。それゆえ 我が心の中にいてほしい。」―そう、まだ私を探していなかったかも知れない だが私はあなたを見いだした。これが、我が子 日本よ、あなたへのメッセージ。あなたを祝福し、額に 我が愛の溜息を残す。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P30

 

私のうちで動けるように あなたを準備させてほしい。

あなたも、「私は休息を見いだした・・・」と他の者たちに言えるよう 我が玉座をあなたのうちに据えるのを許しなさい。 御父に見(まみ)えたいとは願わないか? 神に出逢いたいと切に焦がれていよう?

 

そうであるなら、そのときは あなたを産まなければならない、そう、御父を見るには 私から新たに生まれる必要がある。 生まれ出る前に父親を見た人は誰もいない。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P119

‘00・8・5

 

あなた自身を見て、そして教えてほしい、我がヴァッスーラ、人が変容したという印は何か?

 

たくさんの印があると思います。

 

たくさんあるというのは正しい、しかし中でも 一番崇高な印とは?

 

聖パウロによれば、それは その人の中にある 神への愛でしょうか、その愛は その人の中であなたご自身の絶え間ない愛を注がれ、霊魂を変容させて霊的な深遠へと進ませ、愛において霊魂が育つよう導きます。こうして霊魂は神格化され、主に与って神となります。

あなたの愛が 神格化させ 悪にそまった私たちの肖りを 神なるあなたの肖りへと 変容させるのです・・・

 

そう! 聖書では「あなたの視線を ヤハウェに据えなさい そうするなら顔は輝こう」とあるが それは、「ヤハウェの似姿に変容する」という意味であって、自己(*)を神に差し出すなら、この最も明らかな変容の印が現れる。 つづけて ほかの印も現れる。 歓び、平安、いや増す愛徳の印が こうして、霊魂は 愛徳を通して 三位一体の神の知識を得られる。 変容した霊魂は 神への愛と 神を知り理解する知識によって 内も外も輝く明かりのようになろう。

 

この世とその闇から開放されて 幸せな霊魂は 私のもとに飛んで来て、我がふところの中(*1)にとどまっている。 愛に燃え、我が甘美に酔わされ、この霊魂は どうしたら三位一体のうちに いっそう深く分け入れるかを 熱心に探し求めよう。 そしてこの上なく優美な花婿なる 私は 我が心の愛の炎に ますます引き寄せ 私どものうちに憩わせて 共に治められるよう その霊魂を私どものうちに浸す。

 

そこで 私が差し出すものを 拒める霊魂がいようか? かつて言ったが 裁きの日には 地上にいたときの愛の程度によって 誰もが量られる。 何か 言うことがあるか?

 

  こう申し上げます:

 「あなたの御恵みは なんと大きいことでしょう。

  あなたは 畏れ敬う者のために 恵みをたくわえ

  たよる者に 人びとの前で それを授けます。」  詩篇31・20

 

そして この世にいまだ執着する人たちには こう言おう、心から、私を選んで、和解するつもりなら、私を呼び求め 私のもとに来て 祈るときは、その声に耳を傾ける。 私を探し求めるなら、見いだそう。私があなたに自らを見つけさせる、そして、あなたと会話し あなたも私と会話する 永えの愛をもって これまでもあなたを愛し、今もなおあなたへの忠実なる愛を保っているがゆえ。

 

だから来なさい、来て 私からあなたを分け隔てているヴェールを はぎ取りなさい。 永遠のいのちをあなたに与える 聖なる者を観想しなさい。

 

 *意志。  *1親密さをあらわす表現。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P151

‘00・1・20

 

言い換えるなら、私を知ることによって、霊魂と精神は 我が超越的な光と栄光で満たされる。 霊魂は我が神性、私自身に満たされる。 そのとき そのとき初めて、心は規律に従い 耳は教えを聞き、こうして真理を手に入れ それを心から大切にする。 あなた方の性質そのものさえも、まこと愛する者たちよ、変容して 我が神性をおびる。 あなたの霊に我が霊を授け そして我が霊によって私の統治、という大いなる富を与えるために、たゆまずあなたのうちより不純物を取り除いてきた我が聖霊が あなた方の一切の意図を動機づけるようになる。

 

あなた方はこう尋ねよう、「では神を理解するとは どういうことでしょう?」と。 私を理解することは英知の第一原理。 それは私をあなたの神として認め 私を畏れること、私を畏れるとは あらゆる悪を避けること。 地上にいながら 霊的な目で私を見ることが望ましい。地上にいる間に私を味わっておくのは本来あなた方一人ひとりがすべきこと。 どの霊魂にとっても このヴィジョン(*)を探し求めることが肝要であり もし私の高み(*1)に霊魂がまだ達し得ていないなら、観想をもって自らの霊を引き上げるように 忍耐強く努力し続けなさい。ほかにどうやって あなたの神を知り得ようか? 私を見たことがないとすれば、三たび聖なる我が光をまとう私の息子 娘たちの一人に どうしてなれようか?

 

私はあなた方の霊魂と交わるがゆえ 近よりがたいとか 到達しがたいということはない。 私はあなたと私自身を一致させ 私たちは一つとなる。 そしてひとたび一致したなら、あなたが跡継ぎだと思い起こすよう、私自身を あなたにとって知り得るものとする。 荘厳と光輝のうちに 我が深淵へと霊魂を導き入れ 王の気前よさをもって 私自身を顕す。 神の深淵は 霊的なことを理解する霊によってのみ知り得ると読んだことがあろう。 聖書にはこう書かれている:

 

「この世のいのちだけに生きる人は、神の霊に関することを愚かしいとして 受け入れません。それはその人の理解力を超えています。神の霊に関することは、聖霊の働きがあってこそ理解されるからです。」

その一方、神の霊に導かれて生きる人は すべての価値を判断できるが、その人自身の真価は誰も判断できない、聖書に「誰が主の心を知り、主に教えることができようか」と書かれている通り(*2)。

 

私を知り理解するという宝は いつの日も地上を天国にする。 それは地上で 親切、義、誠実をもって治めること。 聖霊による恵みによってこの宝を得たなら あなたのうちに働く私の意思が分かるようになる。 私どもはかつてこう言った、「もし誰かが自慢したいなら こう自慢するがよい、 私を理解し 知っていると・・・」この宝は 真珠の値打ちを上回るもの。 ああ、次の宝は 親密さ、神なる私との親密さ。 燃え立つ愛によって 心から発する炎の火花が、私との親密さの最初の印となる、絶え間なく私を探し求める渇きの長い期間は 私がすべての霊魂に切に望む あの親密な一致へと近づく予兆となろう、こうして彼らは 私の甘美を味わいに訪れ そして、全霊を込めて、天国の悦びに入り あなた方にたいして注いだ私の慈悲を称えて 天国の我が天使たちの調べを歌う。

 

* 神にたいするヴィジョン。

*1 主は、「ご自分」を意味しておられます。

*2 1コリント2・14−16。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P192

 

だが、まことに言っておく、私を進んで受け入れた者は誰であろうと、私が話している今も、祝福されている、あまりに不思議な仕方で、知識と知恵を私より受けているゆえ、それはまるで聖書を全部読んでしまったかのよう! その人自身 恵みを通して得られる聖なる霊感を自らのうちに携え 声高に話す書物となる。 こうして、我が娘よ、その人は聖書を読むとき、その字づらだけではなく、むしろ、ヴァッスーラ、あなたも経験したように、霊的な目で 内容の深い意味が見えてくる ♡

 

そこで、預言的任務を持ち、声高に話す書物のような我が使者たちには 反対しないように、私がこの者たちを遣わした。 聖書に含まれる以上のものは啓示しないが、あなた方にとっては 道案内。 私のうちなる真のいのちを生きるよう 新しい生き方を手引きする ♡ 人生をよりよくし 希望と慰めを与えて。私は誰であっても 悲惨な存在からカテドラルへと変えられる。

 

裁いてはならない そうするなら私が訪れて 我が言葉を実現しよう。 聖書は、あなたの神なる、私の肖り、だから見くびってはならない そして私を知るに遠く及ばないあなたが 聖書を知っているとは言わないように。私のヴィジョンが見えるように掟を守り、そこに述べたことを果しなさい。 我が言葉を行う霊魂は 私を知るようになろう。 そのとき、そしてそのとき初めて、あなたは決まりによってではなく 私に与って神となる。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P221

 

ああ 来なさい! 我が家に仕え、私に仕える者よ、近づいて 私を悦ばせなさい。  来て学ぶように、あなたが罪を犯したとしても、まだ私に属している、私の力を認めているゆえ、しかし、私があなたを真に我がものとして認めているのを あなたが知ったなら、罪を犯さない、と書かれている。 それゆえ、まさに私を認知することは 完璧な美徳。 我が力を知ることが 不滅の根源。 この言葉を すべての人が主題とするのを願う。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P238

‘02.8.7

蜂蜜よりも甘く 蜂の巣より滴り落ちる蜜よりもなお甘い言葉を 我が聖霊は繰り返し述べてきた。 私は被造界をあまねく聖別し 全宇宙を香気で満たした。 私を知りたいと願う誰であろうと、私に近づいて 霊魂を平静に保ち 心を私と我が掟に接ぎ木するのに必要な恵みを 私の口から吸い込めるようにしてきた・・・

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P239

‘02・8・7

 

以前にも言ったが、今の言葉を宣言するには 計り知れない恵みを受ける必要がある。 これらの言葉を宣言できないなら すべてを背後に置き去り 私のもとに今来て 悔い改めなさい! それから 聖霊が降りて来てあなたをその光で侵略し 霊魂をカテドラルに変えるのを許すがよい・・・

 

ああ そうしたなら、どれほど聖霊は、悦びもって、あなたに必要なものを供えて下さるだろう! 私が教えてきた基礎を 聖霊はあなたのうちに据えて下さる、すなわち あなたの神なる私を観想するという 真の神学を。 こうした観想のうちに霊魂は 恍惚として高みへと飛翔しつつ 神なる私を深く観想するだろう。 そのとき我が統治が あなたのうちに始まる。 そのとき、聖霊は 変容もたらすご自分の息を あなたの上に吹きかけ 英知ご自身を通してあなたの霊に 徐々に神の真実を現して下さる。 聖霊は この時代の哲学者や賢者たちが今日に至るまで 愚かしくばかげていると呼ぶすべての事柄を明らかにしよう。あなたは 我が愛の崇高さと、私が霊魂に備えることができる神の豊かさと そこからどんな利益が得られるかを 聖霊の光によって理解し 認識しよう。 私どもがあなたのうちに住まい あなたも私どものうちに住まうなか 私はあなたを聖化する。 聖書でもこう書かれている、「私のうちに住まいを定めなさい、私もあなたのうちに住まいを定める。」あなたは 真のぶどうの木(*)の一部となろう。

 

そう! 私は 霊魂のうちに私自身を 恵みとして授ける。 あなたに、神なる、私は、魅了された。その弱さにもかかわらず あなたのうちに深く住まうほどに、魅了されている。 我が三位一体の聖性を あなたが観想すればするほど、私をいっそう理解しよう。 私をいっそう知れば知るほど さらにいっそう私の似姿をあなたのうちに反映させる。

 

  イエス・キリスト

 

 

 

 

5.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1997.2.2

 

「心の清い人は幸いである。」

心の清さは愛の完成から生まれます。そのために、愛する者だけが心の清さに達することができ、心の清い者だけが神をみることができるのです。

 

 

 

 

6.マリア・ワルトルタ

 

 

聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P13

 

 あなたたちは『わたしたちは神がどのような方であるか知らない』と言うことはもう出来ない。あなたたちの鈍重さをもってしては霊を愛するには不十分なので、わたしは、あなたたちが愛することの出来るを有するように、となった。

 

 

 

 

7.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P38

第六章

原罪の汚れなき受胎

 

 神の御意志が全被造物の不可欠な源です。万物の存在の条件も状況も神の御命令通りになっています。何事も神意から外れません。万物は、神(父)と人となられた御言葉の光栄のために造られました。神が人間のレベルに降下し、人間と共に住むようになることは最初から神の計画されていたことです。その計画は、人間が神の方に引き上げられ、神を知り、畏怖し、求め、仕え、愛し、讃え、神のおそばにいることを永遠に喜ぶべきことを設定しています。その時機が到来したことは三位なる神の次のような御言葉からはっきり判ります、

 「今こそ我らの秘儀を始める時である。純粋な被造物を造り、他のいかなる被造物よりももっと高い位を与えよう。恩寵の偉大なる宝を与えよう。その他のあらゆる人間は、恩を忘れ、反逆し、人祖と同様に我々の計画を邪魔しようとしているから、全く聖にして完全な女を造ろう。原罪の汚れが全くない女である。我々の全能の仕事を完成し、創造の最後に冠を飾ろう。人祖の自由な意志と決定のため、あらゆる人間が罪人となった(ロマ5・12)が、彼女は人間が失ったものを取り戻す。天使や人間に与えられた元々のあらゆる特権と恩寵は彼女のものである。この第一の命令は違反されることなく、我々の選んだただ独りの人間が実行することになる(雅歌6・8)。死ぬ運命にある人間が服すべき普通の法律によって彼女を縛らない。蛇は彼女に手出しすることができない。私が天より降り、彼女の体内に入り、彼女から人性をもらうからである。」

 

 

 

 

8.マーリン・キャロザース

 

 

マーリン・キャロザース/この世に天国を/P104

 

神に従えば従うほど、私たちは神をもっと知るようになり、そうなれば、神をもっと愛したい、神にもっと従いたいと思うようになります。イエスは言われました。「わたしの掟を自分のものとし、それを守る人、その人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に見せる」(ヨハネ14・21)。

 イエスはどこでご自身をお見せになると思いますか。苦難以外何も見えない状況の中でこそ、ご自身をお見せになるのです。