地上の天

神の国はあなたたちの間にある(ルカ17・21)

 

 

1.聖書

2.トマス・ア・ケンピス

3.サンダー・シング

4.デボラ

5.マザー・テレサ

6.ジャン・マリ・ヴィアンネ

7.コンソラータ

8.ヴァッスーラ

9.マリア・ワルトルタ

10.ルイザ・ピッカレータ

11.聖母から司祭へ

12. スウェーデンボルグ

13.メジュゴリエの聖母のメッセージ

 

 

 

 

 

1.聖書

 

詩篇119・143

 

苦難と苦悩がわたしにふりかかっていますが

あなたの戒めはわたしの楽しみです。

 

 

 

ルカ17・20−21/新共同訳聖書

 

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

 

 

 

ルカ17・20−21/文語版聖書

 

 神の国の何時きたるべきかをパリサイ人に問はれし時、イエス答へて言ひたまふ『神の国は見ゆべき状(さま)にて来らず。また「視よ、此処に在り」「彼処に在り」と人々言はざるべし。視よ、神の国は汝らの中(うち)に在るなり』

 

 

 

2.トマス・ア・ケンピス

 

 

キリストに倣いて/2・12・11

 

キリストを愛するゆえに、苦しみが楽しくなり好きになったという境地にまで達したならば、あなたは自分について万事よろしと考えてよい。なんとなればその時あなたは地上に楽園を見出したからである。

 しかし苦しみがつらく思われ、それから逃れようとする間は、あなたは幸福ではない。逃れようとする苦しみはどこへでもあなたを追いかけてゆくだろう。

 

 

 

3.サンダー・シング

 

 

金井為一郎/サンダー・シングの生涯と思想/P85

 

印度の宗教が求めるところの目的は「平和」であるが、その平和を印度の宗教において得ずキリストにおいて、最も完全な意味において得た。その平和は「言うことの出来ない平和」で、「地上に来た天である」と彼は呼ぶ。それは涅槃の様なものでなくキリストの現前にある交わりの継続で、慰め、交通、力としての平和であって、これは彼が凡ての苦痛に直面しつつ喜びを失わないところの根拠である。

 この平和はある場合において極めて深く強く経験せられる。たとえば、彼がチベットの死屍の井戸に入れられた時、または柱に縛り付けられて蛭を全身につけられ血を吸われた時などには、何故か知らぬが心の中より湧き上って来て、讃美が口に湧き、心に平和がある。事なき日においても心は底なき海の如き平和が満ちている。彼の伝記の著者ストリーター博士は『サンダー・シングと共に一時間を過ごせば忘れる事の出来ぬ平静と、喜びの印象を受ける。神の平和はただ彼が共に居るのみでも彼の顔から輝いて、四周を漂う。天は既に彼の地上生活より始まっている。』と書いている。

 

 

 

金井為一郎/サンダー・シングの生涯と思想/P29

 

 彼がコトガルに居る間にその近くに住んだ米国人ストークス氏と相識った。この人はアシジのフランシスコを渇仰してその生涯に倣い、富有の故郷を後にして印度の兄弟等のために尽くそうとしていたのであったが、サンダーの生涯に動かされ、これより二人は1906年の夏から約二ヵ年の間行動を共にするようになった。しかし起居を共にしたのは数ヶ月であると言っている。ストークス氏は祈りと熟考との末サンダーと共に出発する事となり、二人はカングラの谷を越えて出発した。その旅行には困難が多く衣食も不十分であり眠るところも無かったが二人は喜んで道を伝えつつ何百マイルと辿り、不健康地をも通過して進まねばならなかった。その時サンダーは健康を害して肉の非常な苦痛と戦慄とを堪え忍びつつ進んだが遂に倒れるに至った。この時ストークス氏がどうしたのかと尋ねると、彼は細い声で、『私は非常に幸福だ。彼(キリスト)のために悩む事は如何にも幸福だ』と言ったので実に驚かされた。彼の口からは一度も呟きが洩れた事なく、また苦悶の中に言う事の出来ぬ喜びを見出した。「これは彼の生涯の鍵である」とストークス氏が言っている。

 

 

 

徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P27

 

このときより、彼はカミン(不可触民)の扱いを受けることになった。家の者と寝食を共にすることは許されなくなり、まるで物乞いのように食物を投げ与えられた。ついには家から勘当され、まだ十六歳の少年は、聖書と毛布、風呂敷包みだけを手にプララジャ(出家)の道を辿(たど)ることになる。これはマハーヴィラ、ブッダの時代以来、すべての大宗教家が選んだ道である。

「家から追い出された夜を思い出す。最初の夜である。わが救い主を知ったとき、わたしは父と兄、親族にこれを告げた。彼らは、初めは気にも留めなかった。だが、後になり、わたしがクリスチャンになれば家名を汚すと考え、こうしてわたしは追放されたのだ。初めの夜、わたしは木ノ下で寒い一夜を過ごさねばならなかった。初めての体験である。何の覆いもなくこのような所で過ごしたことはない。昨日までは、家の中で贅沢に囲まれて生きていた。それが、今は餓えと渇き、寒さに震えている。だが、わたしは心の中にいい知れぬ喜びと平和、わが救い主の臨在があったことを思い出す。あの夜は、わたしにとって、地上天国の第一夜であった。わたしは、そのいい知れぬ歓喜の中で、今の自分と贅沢に囲まれていたときの自分とを比較した。娯楽と贅沢の最中にあっても、わたしは心の中にたった一つの平和も見なかった。救い主の臨在が、すべての苦しみを平和に変えたのである。あのとき以来、わたしは救い主の臨在をいつも感じている。」

 

 

 

徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P32

 

1905年10月6日、彼はスバツを離れ、カサウリ、ソロン、ダグシャイ、シムラで説き、次に全インドに伝道の矛先は向けられた。パンジャブ、シンドゥー、カルカッタ、マドラス。また、生まれ故郷のランプルにも行ったが、家では不可触民の扱いを受けた。

「その晩は、わが家に行った。初め、父は会うことも、わたしを家に入れることも拒否した。わたしが家名を汚したからである。だが、少しすると出てきていった。『今日は泊めるが、朝には出て行きなさい。二度と顔をみせるな』。わたしは一言もいわなかった。その夜、彼は人や食器が汚れぬよう、わたしを遠くに座らせ、次に食物を運び、水は不可触民に対するように、上からわたしの手に注いだ。この扱いを見たときには、涙をこらえることができなかった。だが、それでも、わたしの心はいい知れぬ平和に満ちていた。このような扱いに対しても感謝し、わたしは別れを告げて家を出た。野で、わたしは感謝して神に祈り、木の下で一夜を明かした」

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P310

 

 

 何年も前、まだクリスチャンになっていなかった頃のわたしは、いつもキリストを憎み、キリストの敵でありました。わたしは、この世のもので願いを満たそうとしましたが、かないませんでした。家にはこの世的なものが沢山ありましたが、霊魂の求めを満たせるものは何一つありませんでした。心(ハート)は、この世のどんなものによっても満たすことはできない。心をお創りになった方によってしか満たすことはできないのです。主ただお一人のみが、それを満たすことができるのです。わたしは家と人とを捨てなければなりませんでした。わたしはすべてを失いました。しかし、わたしはキリストの中に、すべてを見出しました。この世の与えることのできなかった、取り去ることもできない、言い知れぬ平和を、キリストの中に見たのです。ただ信仰の友と一緒にいるときだけではなく、困難の最中にあっても、わたしは平和を見出したのです。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P312

 

主の御恵みによって、わたしたちは豊かな生命を受けるのです。歓びを受けるのです。歓びこそ、わたしたちが豊かな生命を受けている証です。クリスチャンの多くは、生命はあっても、病にかかっています。病人は健康ではないため、生命があっても歓びがありません。「豊かな生命」の中にしか、健康はないのです。死ねば天国に行けると思っている不幸なクリスチャンが多くいます。しかし、天国はこの地上において始まります。霊魂が神にふれ、主の臨在を実感するときに、わたしたちは天国とは霊魂の完全な平和のことであり、そこにこそ地上天国があることを理解するのです。

 イエス・キリストの中にあるこのような平和を得た人は、罪を犯したいとは思わなくなります。新生を得ていない人々は、このような平和を得ることはできません。彼らは、神の聖心に逆らうありとあらゆる罪を犯して、平和を見つけようとします。

 彼らは、ダイヤモンドを持っていながらその価値を知らずにいた人のようです。彼は、それをただの綺麗な石としか思わなかった。それで、見知らぬ人が二、三フランを差し出したときに、それを手放してしまった。しかし、相手が立ち去ったあとで石の価値を知った男は、こう思うのです。「綺麗な石ころと思っていたのに、あれはダイヤモンドだった。何と愚かなことをしたものだ」。彼は買った人を訪ね歩きます。救い主を知らない異教の国の人々は、ダイヤモンドを見つけているのです。彼らはその価値を知り、主の中に救いを見出しているのです。名ばかりのクリスチャンが、キリストを探し求めて救われた異教の国の人々の言葉に耳を傾けるときが、今やきているのです。わたしは、自分が聖書を引き裂いたことを、ときどき後悔しますが、自分が霊的に盲目だったのを幸いに思うこともあります。それによって、生けるキリストの価値を知ることができたからです。わたしは、主のいい知れぬ愛を知りました。主を礼拝する人々は、安らぎを見ます。しかし、主を憎む人々が主に導かれると、生ける愛を経験するのです。主の愛は、弟子にばかりか、敵にも向けられているからです。

 わたしは、幾多の奇蹟を見たときに、ますますもって、生けるキリストを実感しました。キリスト教諸国には、奇蹟は作り話にすぎないという人々が、今も数多くいます。彼らは奇蹟を信じてはいません。彼らが信じなのは、理解していないからです。理解できないのは、体験をしていないからです。

 

 

 

徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P326

 

今のわたしは、天においてキリストとともに生きることを予期していますが、天は、この地上に始まるのです。霊魂が神にふれ、わたしたちが主の臨在を実感するときに、天国とは完全なる霊魂の平和であることが理解されるのです。そのときにこそ、地上の天国が始まるのです。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P336

 

祈りの中でです。わたしたちは、祈るときにイエス・キリストとつながるのです。主は、世にはわからない驚くべき方法でご自身を現わし、霊魂に語りかけてくださるのです。わたしたちは、肉の目によってはキリストの臨在を見ることはできません。胸の中で主の臨在を感じとるのです。わたしは祈り始めたときに主の力を感じ、主の臨在がわが胸を地上の天国に変えてくれました。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P360

 

あなた方の中には、チベットの殉教者、カータル・シングについておききになった方もいると思います。福音伝道に行ったとき、彼は「黙りなさい。キリストの話はききたくない」と人々にいわれました。彼は、貴族階級の息子で、チベットでの伝道のためにすべてを捨て去った人です。救いを与え霊魂を満たせるのは、富ではなくキリストであることを、身をもって経験した人です。わたしが伝道のためにチベットに入ったときに、この人の殉教の顛末(てんまつ)をきかされました。彼は、丘の上に引き立てられて、濡れたヤクの皮で縛り上げられ、三日間、日にさらされました。カータル・シングの殉教を語る男の顔が喜びに光っているのを見て、わたしは驚きました。「悲しい話をしているのに、あなたは嬉しそうに見えます」と声をかけると、相手は次のように答えました。「悲しくはありません。わたしは彼の死についてお話ししているが、わたしが見たのは死ではなく、素晴らしい生だったのですから。彼は、まる三日間皮の中で締めつけられ、飢えと渇きに苦しんでから、『気分はどうか』ときかれ、『キリストのために苦しむこのような特権を与えられたことを、神に感謝する』と答えたのです。しかし、彼は苦しんだのではない、大いなる歓喜に浸っていたのです。わたしは、そのことを人にわからせたい。そうすれば、キリストとともに生きることが地上天国であることに同意するはずです。人々は鉄の爪で彼の腹を引き裂き、そこから血が溢れ出しましたが、それでも彼は歓びに浸っていました。彼らが去ってから、カータルはいいました。『自分は捨てられたが、キリストは自分を見捨てていない。主はわたしとともにいるばかりか、わたしの中にいる。この皮の中は天国だ。このような特権をいただいたことを神に感謝する』」

 いったい、苦しみの中でこれほどの歓びを得られるのであれば、迫害のまったくない天国ではどれほど大きな歓びが待っていることでしょう。問題は、今その歓びを味わうことなしに、死後味わうことは有りえないということです。わたしたちは神の中に生きている。しかし、神はわたしたちの中には生きてはいないのです。神は空気のように遍(あまね)く存在されるので、わたしたちは神の中に生きています。しかし、心の中に主の臨在を実感していなければ、主は私たちの中にはいません。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P362

 

先日、わたしは、チベットのある寒村で伝道していたときの経験をお話ししました。人々はいいました。「この国に入ってはならないと、最三命じたにもかかわらず、あなたは何度も入ってくる。今回は、生かしては帰さない」。ラマはいいました。「殺しても無意味だ。カータル・シングの死は、逆に大きな影響を人々に与えてしまった。森の中に縛っておけ」

そこで、彼らは、わたしを深い森の中に連行し、鉄製の重い鎖で木に縛り付けました唯一の所持品である毛布と聖書も、彼らに奪われました。鎖に錠がかけられたため、わたしは身動き一つできませんでした。その晩は寒さが厳しく、非常に辛い経験となりました。助けてくれる人は誰もいません。しかし、わたしには、キリストがいてくださるだけで十分でした。寒さのため、夜は一睡もできず、朝には体が冷えきって、死を予感しました。しかし、わたしはいい知れぬ歓びと平和を感じました。わたしにとって、それは地上天国でした。キリストが生けるキリストでなければ、主が神でなくただの人であれば、苦しみの最中にこのような平和と歓喜を与えることはできなかったでしょう。その平和と聖霊の火をいただいた瞬間に、わたしは苦しみと寒さを忘れ、二、三分まどろみました。それから物音がして、目を覚ましました。木の上には熟した実がなっていたのですが、その一つが、音を立てて落ちてきたのです。気がつくと、鉄の鎖は落ちて、わたしは自由の身になっていました。辺りには人ひとり見えません。わたしは、目の前に落ちた果実を食べると、ふたたび村に行き伝道を始めました。人々は、大変に驚きました。死んだと思った男が生きていたのです。彼らは錠を調べに行きましたが、鎖は錠がかかったままでした。しかも、それを開ける唯一の鍵は、ラマが持っていたのです。ここには、二つの奇蹟があります。迫害の最中に味わったたとえようのない平和、そしてわたしが自由の身になったという事実です。それは、生けるキリストの力によるものです。主は、常に、信じる者とともにおられるのです。

 

 

 

 

4.デボラ

 

 

生ける神より明かされた英知/5巻下P15

 

 人間的望みと混じり合った愛をもって私を愛する限り、私が示した霊における完全ないのちを獲得することはできない。もしも、どんな値を払っても獲得したいと願う衣服が忍耐、信頼、自己犠牲であるなら、私と共に耐えるいかなる苦悩も、心地よいものとなるだろう

 

 

 

5.マザー・テレサ

 

 

マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P96

 

 キリストの復活の喜びを忘れてしまうほどに、あなたの心が悲しみに奪われるようなことがあってはなりません。

 私たちは皆、神の楽園に憧れています。でも実は私たちは、今、置かれたところで楽園を味わうことができるのです。今日(こんにち)ただ今、キリストと共にいる幸せが見出せたら、その時、それは可能となるのです。

 

 

 

6.ジャン・マリ・ヴィアンネ

 

 

聖ヴィアンネの精神P67

 

 天国では、信徳と望徳とはなくなります。天国では、私共の理性に暗くたれこめている霧は消え去るからです。知恵は、この世で隠されていた事柄を知るでしょう。すべてがあるのですから、もう何も希望しなくなります。宝を持てばそれ以外のものを獲得しようと、望みません・・・だから愛徳は、ああ、私共は愛に酔いしれるでしょう。神様の愛の太陽の中に、溺れ沈み、イエス様のこの広大な愛の中に溶け込んでしまうでしょう・・愛は、この世ながらの天国の味わいです。もし、愛を悟り、感じ、味わうことができるならば、どんなに幸福になることでしょう。それなのに、人々は神様を愛しないのです。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P128

 

おお、人間よ、そなたは何と偉大な者であろう・・・。神様の御体と御血とに養われ、うるおされるとは。この神様との一致の生活は何と甘美なのでしょう。この世ながらの天国です。もう、苦痛も十字架もありません。神様を拝領する光栄を得たとき、暫くの間、心の中に歓喜と芳香とを感じるでしょう。清い霊魂は始終こうなのです。また、この一致はこのような霊魂に力と幸福とを与えます。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P255

 

 私共のこの世での唯一の幸福は、神様を愛することと、神様が私共を愛しておられることを知ることです・・・

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P256

 

 一切を神様の御前で、一切を神様と共に、一切を神様をお喜ばせするために・・・ああ、何と美しいことでしょう・・・さあ、わが魂よ、神様と語り合い、神様と共に働き、共に歩き、共に戦い苦しもう。苦労するであろうが、主はそなたの労苦を祝し給うであろう。歩けば、そなたの歩みを祝し、苦しめば、そなたの涙を祝し給うであろう。一切を神様と共に、神様の御前で行うこと、また神様が一切を見ておられ、一切を聖心にとどめてくださると考えることは、何と偉大で高貴なことだろう。何と慰め多いことだろう・・・では毎朝『神様、一切を御身の聖心に適うために、一切の行いを御身と共に・・・』と言おう。神様の現存を考えることは何と甘美で慰め多いことだろう・・・決して倦むことはない。数時間も数分であったかのように過ぎ去ってしまう・・・ああ、これはこの世ながらの天国の味わいである。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P257

 

 信仰を持っている信者は愛のために死ぬでしょう・・・神と隣人とを愛する善良な信者・・・また神を愛し、隣人を愛しているとき、ごらんなさい、彼等がどんなに幸福であるかを、その霊魂には何と大きな平和があることでしょう。それは地上に於ける天国です。

 

 

 

7.コンソラータ

 

主の母性

 

 

コンソラータP73

 

この母と子の愛を信心生活にあてはめますと、それはイエズスと小さい霊魂の間柄の生き生きとした写しのように思えます。小さい霊魂はイエズスの所有、完全にイエズスのものです。そこでイエズスは母としての優しい心づかいで、その子どもたちに、最も美しい善徳という服を着せたり脱がせたりなさいます。小さい霊魂は乳児のように、少しも反対しないので、イエズスは胸に抱きしめたり、おいたりなさいます。

そのどちらの場合にも、彼らは満足しております。なぜなら彼らはイエズスを愛して、救霊のためいくらかでもイエズスに協力することができるし、イエズスはいつも彼らにほほえみかけておられるからです。

この地上で味わうことができるもっとも大きな喜びは、神のみをもつことです。その時、地上にありながら、天国の喜びを味わいます。そして小さい霊魂は、神とともに、その喜びを味わうのです。

 

 

 

コンソラータP112

 

−イエズス−

 

「私は無邪気な幼児の心、愛を全部与えてくれる霊魂によって愛されたい。」(1935年10月15日)

 

 

 

全世界が愛の火に燃えるように、この小さい霊魂を通してイエズスは愛を求めたもう。

 

 

 

「コンソラータ、全世界のあらゆる霊魂のために、彼らに代って私を愛しなさい。私は愛に飢えかわいている。非常に!」(1935年10月13日)

 

 

 

「コンソラータ、私を愛して! 私はかわく人が新鮮な水のわき出る泉を恋い慕うように、あなたの愛に飢えかわいている。」(1935年11月9日)

 

 

 

「コンソラータ、これを書きとめなさい。あなたが一度でも愛の心を起こしてくれたら、私は天国を創造するだろう。」(1935年11月3日)

 

 

 

「コンソラータ、あなたが絶えず私を愛してくれる時、私はあなたの心の中で天国を楽しむことができる!」(1935年11月9日)

 

 

 

8.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P254

 

悪魔はあなたを憎み ためらわずに焼き殺そうとするであろうが、手を掛けることはない、私は それを許さない ♡

 

この間私たちを港にちょうど引いていったボートの排気管に触った時のことを思い出します。卵焼きが作れるほど熱いあのパイプに、左手で、体重を全部かけてしまったのです。私は痛くて気絶しそうでした。左の掌はすっかり火傷を負い、痛さから逃げるために手を海に突っ込みたいと一瞬思いましたが、焼けた皮膚を冷水につけては傷がひどくなるのではと咄嗟に思い出し、思いとどまりました。手は10分間は熱をだし、赤く腫れ上がっていました。しかし、30分たつと、痛みも、火傷も一切が消えてしまいました。もう片方の手とまったく同じ感覚になり、すっかりもと通りになったのです。

 

♡ 子よ、あなたが傷を負うのを見たくはなかった、愛している そしてあなたにたいする私の清めは愛をもって選ぶ。決してあなたに染みが出来ることを許さない。 言おうとしていることを理解するように(*)♡

 

  神さまはご自分で私の苦しみをお選びになることでしょう。

 

主よ、あなたからのものでしたなら、何でも愛しましょう。喜びであろうと苦しみであろうと。

 

愛する者よ そうです、私のために 心の中に天国を造ってほしい ♡ あなたからこの言葉を聞くのはどんなに私を悦ばせるか 子よ!

 

  どんな苦しみであっても、悪魔からのものは実現しないということです。しかし、神から来るどんな苦しみも実現され、したがって、霊魂の清めとなるでしょう。

 

そうです、そして私を喜ばせると思って自分の意思で選んだどのような苦しみも、私の目にはおぞましいものです、あなたは自分を欺いているに過ぎない。 それは悪魔を喜ばせ、私を喜ばせることにはならない。贖いは私が指示する ♡♡♡

 

あなたを大切に思い、深くより頼みます。

 

♡ 私を大切に思うなら、我が誉れとなろう ♡ そうです ♡

 

(悪魔の声が聞こえました。「こんな瞬間は、俺にとっては拷問だ!」)

悪魔は、神の私にたいする愛、そして私の神にたいする愛を私の心が喜んでいることに耐えられないのです。お互いが愛し合っていることに。

 

それは悪魔の体中を真っ赤な十字架で封印するようなものです。

 

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P187

‘98・8・12

 

そのとき私、イエス・キリストは、応えて言う:「あなたの謙遜に報い 滅びを自ら食い尽くさせる。もはや滅びはあなたにとって 闇の仲間ではない、あなたは今 悪を愛に、闇を光に置きかえたがゆえ。そして肉のうちに生きつづけようが、霊は天国の中を歩み 私に与えたその心は婚礼を迎える。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P117

‘00・8・5

 

宇宙の花婿なる私は、全き荘厳をもって 自分を完全に小さくした者のもとを訪れる そして我が愛の霊が包み込んで まこと聖なる三位一体のふところに引き入れよう。 その時、このような霊魂は 強烈な光を受け 秘められていた天国のあらゆる神秘や富を得て この地上にいながら、天国で生きるかのように生き始める、至福のヴィジョンの中に 足を踏み入れたがゆえ。 言い換えるなら、その霊魂は 至福のヴィジョンがどんなものかを 前もって味わい 彼が天国に入るや直ちに このヴィジョンは完璧になる・・・

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P152

 

私を知り理解するという宝は いつの日も地上を天国にする。 それは地上で 親切、義、誠実をもって治めること。 聖霊による恵みによってこの宝を得たなら あなたのうちに働く私の意思が分かるようになる。 私どもはかつてこう言った、「もし誰かが自慢したいなら こう自慢するがよい、 私を理解し 知っていると・・・」この宝は 真珠の値打ちを上回るもの。 ああ、次の宝は 親密さ、神なる私との親密さ。 燃え立つ愛によって 心から発する炎の火花が、私との親密さの最初の印となる、絶え間なく私を探し求める渇きの長い期間は 私がすべての霊魂に切に望む あの親密な一致へと近づく予兆となろう、こうして彼らは 私の甘美を味わいに訪れ そして、全霊を込めて、天国の悦びに入り あなた方にたいして注いだ私の慈悲を称えて 天国の我が天使たちの調べを歌う。

 

 

 

9.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P367

「そして、もし苦しみがあなたたちを訪れるならば―苦しみは人を聖ならしめ、肉欲の腐敗から人を守る没薬ではあるが―私があなたたちを愛しているという信念をもち、私は“その苦しみの中でも”あなたたちを愛し、そして私の愛から来る平和を味わうことができよう。」

 

 

福音を生きる

天使館/天使のたより/2005.10/第10号/P26/マリア・ヴァルトルタ/「手記」より

 

福音書をどう生きるか

1944年3月28日

 

一人びとりの心に一粒の麦、愛徳の小さな一粒の麦を蒔きなさい。それが侵入していくのを待ちなさい。あなたたちのうちで生長させなさい。あなたたちの剥き出しの強欲を、すべてが愛徳から生まれた聖なる業の豊饒な開花に変えなさい。今は全体に茨と棘のある潅木がはびこる土地は、あなたたちに拷問の苦しみとなっているその面とその棘々しさを、至福なの前金、すなわち閑静な、いい居住地に取り替えるだろう。互に愛し合うことは、もうすでににいることなのだ。は、愛以外の何ものでもないのだから。

 

 

 

聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P133

 

 御子の微笑みはわが家の太陽でした! それは私たちの小さな家のむきだしの壁を黄金と絹で飾る豪華な宝物でした。 御子の微笑みを見る人は誰でも、この世ですでに天国を見ていたのです。 幼年時代の御子の微笑みは平穏そのものでした。 成長し大人になるにつれて、その微笑は憂いの色が濃くなり、ついにはそれは悲しみの色一色となるのです。 しかし御子は誰に対してもいつも微笑んでいました。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P116

 

 意志を行なう者はのうちに生きる。のうちに生きていれば間違わないし、罪を犯すこともできず、における住処(すみか)を失うことはない。なるもの以外のことをあなたたちにさせないし、であることによって、あなたたちを罪を犯すことから救いに導くからである。意志を行う者は己れの意志を破棄することにより、地球にいながらにして、至福者たちの天稟(てんぴん)である平和を知り、味わう。意志を行う者は、邪悪で堕落した己れの意志を殺すことにより、最早一人間ではなく、すでに愛によって行動し、愛のうちに生きている霊である。

 あなたたちは善意をもって、あなたたちの意志を根こそぎにし、その場所に意志を据えねばならない。

 

 

 

10.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P30

 

十字架とは私にとっての地上の天国です。もし幸いな人々が天国で愉悦を味わっているとしましたら、地上の天国では苦悩があります。我が主よ、十字架とはあなたと私を結びつけるもっとも純粋な金の鎖です。それはもっとも親しい一致の状態を作りますので、私の存在はもはや消え失せ、私の愛する目標であるあなたのうちに私を変化させて、私自身はあなたのうちに無くなってしまい、あなたのいのちそのものを生きているかのように感じさせるまでにいたります。

 

 

 

11.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1976.8.15

 

 それで特に愛されている私の子らよ、あなたがたが待ち望んでいる天国をさがしながら、愛しながら、見つめながら、生きてください。

 そして地上に作られた天国である私の汚れなき母の心の中に生きてください。

 そうすればあなたがたは平静で内的に幸福なものになるでしょう。そしてますます小さいもの、まかせきったものに、更に貧しいもの純潔なものになるでしょう。

 そしてあなたがたが小さく貧しく純潔であればあるほど、汚れなき私の心の天国に入ることが出来ましょう。そこにおいて時はすでに、止むことなき心の鼓動によってはかられているのです。

 

 

 

 

12.スウェーデンボルグ

 

 

生命86

 

 人間は自然的な心と霊的な心とを持っている。自然的な心は下に在り、霊的な心は上にある。自然的な心は人間の世の心であり、霊的な心はその天界の心である。自然的な心は動物の心と呼んでもよく、霊的な心は人間の心と呼んでもよい。人間は霊的な心を持つことによって動物から区別されている。この心によって人間は世に止まっている中にも天界にいることが出来るのであり、人間が死後も生きるのはまたこの心によるのである。

 

 

 

霊界日記5790イ

 

こうした者(自己愛により他を支配しようとする者)でない者たちはその者たち自身の家で静かに暮している。彼らは彼ら自身の持っている物で満足し、彼らに課せられた義務を遂行している。これらの者は天界の喜びを享受している。なぜならそれが彼ら自身の中に在って、彼らの外側には存在しないからである。

 

 

 

天界の秘義8462

 

「これは何ですか〔マンホク〕と。彼らはその何であるかを知らなかったからである」。これは知らなかったものに驚いたことを意味していることは、『マナ』という言葉はそれ自身の言語では「何か」を意味し、かくて知らないものを意味しているという事実から明白である。ここから荒野でイスラエルの子孫に与えられたパンは『マナ』と呼ばれたことは、このパンは信仰の真理を通して生まれる仁慈の善を意味するためである。再生以前ではこの善は人間には全く知られておらず、それが存在していることさえも知られていないのである。なぜなら再生以前では人間は、その善と呼んでいる自己と世への愛の歓喜の他には、そうした源泉から発していない、また、そうした性質を持っていない何らかの善が到底有り得ないと信じているからである。もしその時たれかが、内的な善が存在しており、それは、自己と世への歓喜が支配している限りは、私たちには注意もされないし、従って知られもしないが、この善は善良な霊と天使とがその中に宿っているものであると言いもすれば、人々は全く未知の事柄を聞いて、また有り得ない事柄を聞いて驚くようにも驚きはするものの、それでもこの善は自己と世への愛の歓喜には無限に優っているのである。(自己と世への愛の中にいる者らは、仁慈と信仰との何であるかを、報酬も無しに善を為すことの何であるかを知らないし、またそのことが人間における天界であることを知らないし、もし自分らがこれらの愛の歓喜を奪われるなら、喜びと生命とは何一つ残らなくなると信じてはいるものの、事実は、その時にこそ天界の喜びが初まることについては、8037番を参照されたい)。この凡てからそのマナが『これは何ですか』から名づけられた理由が今や明白である。

 

 

 

仁慈の教義

 

天界の秘義8033

 

 人間における仁慈の何であるかを、また信仰の何であるかを今話さなくてはならない。仁慈は隣人に善を為そうとする心からの願いから、しかもそれが生命の歓喜であって、報酬を何ら求めないものから成っている内なる情愛である。

 

 

 

天界の秘義8034

 

 他方、信仰は真のものと善いものとを知ろうとする心からの願いから、しかもそれが教義を目的とするものではなく、生命[生活]を目的とするものから成っている内なる情愛である。この情愛は真理に従って行動しようとする、かくて真理そのものを為そうとする願望を通して仁愛の情愛にそれ自身を連結させているのである。

 

 

 

天界の秘義8035

 

 仁愛と信仰との純粋な情愛の中にいる者たちは、自分たちは自分たち自身からは何ら善を求めはしないし、また真のものを何ら理解しないし、善を意志し[欲し]、真理を理解することは主から発していることを信じている。

 

 

 

天界の秘義8036

 

それでそれが仁慈であり、またそれが信仰である。この仁慈と信仰の中にいる者たちはその中に主の王国と天国とを持ち、またその中に教会があり、これらの者は主により再生して、主から新しい意志と新しい理解とを受けている者たちである。

 

 

 

天界の秘義8037

 

 自己への愛または世への愛を目的としている者たちは到底仁慈と信仰の中にいることは出来ない。これらの愛の中にいる者たちは、仁慈の何であるかを、信仰の何であるかを知りさえもしないし、報酬を何ら求めないで隣人の善を欲することが人間の中の天界であり、この情愛の中には表現を絶した天使たちの幸福ほどにも大きな幸福があることを些かも悟りはしないのである、なぜなら彼らは、もし自分たちが名誉と富との栄光から起きる喜びを奪われるなら、喜びはすべてあり得なくなると信じるからであるが、事実は他の凡ゆる喜びにも無限にまさった天界の喜びがそのとき初めて始まるのである。

 

 

 

天界の秘義8887〔2〕

 

 更に天界の結婚に先行し、またそのために備える争闘により霊的な争闘、または試練が意味されているのである、なぜなら人間は天界の結婚に入る以前に、即ち、再生する以前に、彼は自分自身の中にある悪と誤謬とに反抗して戦うからである、なぜならこれらのものは主から発している真理と善とが受けられることが出来る前に遠ざけられなくてはならないからである。この悪と誤謬とは信仰の真理により遠ざけられるのである、なぜなら信仰の真理によりその人間は善の何であるかを学ぶのみでなく、また善へも導かれるからである。この状態は再生しつつある人間の最初の状態であり、天界の結婚に先行し、またその備えとなる状態と呼ばれている。しかしその人間が善の中にいて、善を通して主から導かれる時。彼はその時は天界の結婚の中におり、かくて天界にいるのである、なぜなら天界の結婚は天界であるからである。前の状態は第七日に先行する『六日』により意味されているものであり、後の状態は『第七日』により意味されているものである(人間におけるこの二つの状態については、7923、8505、8506、8510、8512、8516、8539、8643、8648、8658、8685、8690、8701、8722番を参照されたい)。

 

 

 

 

13.メジュゴリエの聖母のメッセージ

 

 

メジュゴリエの聖母のメッセージ

 

平和のマリアの会

2018年7月25日

 

小さな子どもたち、ここ地上で天国を生きてください、ここがあなたたちにとって良いものとなるように;そして神のおきてがあなたたちの道を照らす光でありますように。わたしはあなたたちと共にいて、母の愛をもってあなたたち皆を愛しています。わたしの呼びかけに応えてくれてありがとう。