福音を生きる
忠実/
1.マリア・ワルトルタ
2.ヴァッスーラ
3.聖母から司祭へ
1.マリア・ワルトルタ
天使館/天使のたより/2005.10/第10号/P26/マリア・ヴァルトルタ/「手記」より
福音書をどう生きるか
1944年3月28日
イエズスは言われる。
「あなたたちのように気を散らして福音書を読むなら、あまりにも多くの真理はあなたたちから漏れてしまうだろう。それら偉大な教えを摑みなさい。現在のあなたたちの物の見方にその教えを適合させるのも悪い。
あなたたちに適合すべきなのは福音書の方ではなく、あなたたちこそ福音書に適合すべきである、と知りなさい。福音書は在って在るものだ。その教えは、生命の最初の世紀に存在したものであり、最後の世紀にもそのようなものであるだろう。たとえその世紀が十億年後であるとしても。あなたたちは、福音書にしたがって生きることを最早知らないだろうが―ましてそれを行うことは最早極めて少ない―しかし、だからといって、福音書は別のものにはならないだろう。福音書は常に、同じ本質的な真理をあなたたちに語るだろう。
あなたたちの生き方に福音書を適合させようとするその願望は、あなたたちに告げるわたしに対する信仰があなたたちにあるなら、初代キリスト信者たちがしていたように、福音書を完全に生きるように努力するだろう。また、『そう言われても、現代の生活はわたしたちがこれらの教えに完全についていけないようなものになっている。わたしたちはその教えに感嘆するけれども、その教えについて行くにはわたしたちはあまりにも異なる者です』と言ってはならない。
最初の諸世紀の異邦人たちは、彼らとて福音書とは縁遠い人たちであったにもかかわらず、それについて来た。淫らな者、貪欲な者、暴飲暴食をする者、残忍な者、懐疑主義者、悪徳者たちは、すべてこれらの吸血鬼を自分自身から剥ぎ取り、霊魂を赤裸々にし、異教的な生活の触手から捥(も)ぎ取るためにそれに血を流させ、思想において、愛情において、習慣においてこんなにも傷つき、わたしのもとに来て、言った、『主よ、もし思し召しなら、あなたはわたしを癒すことがお出来になります』と。そしてわたしは彼らを治した。彼らの英雄的な傷口をつないだ。
完全に受け入れられた一つの掟への愛のために、悪である一切を自分から剥ぎ取ることを知るのは英雄的行為だからだ。わたしについて来るために障害となる一切のものを断ち切るのは英雄的行為だ。わたしが、『あなたたちによく言っておく。わたしについて来るためには、家を、田畑を、富と、愛情を捨てなければならない。しかしわたしの名に対する愛に迫られわたしについて来るために一切を捨てる者は、来るべき世ではその百倍を受けるだろう。あなたたちによく言っておくが、わたしについて来るために生まれ変わる者は、王国を所有し、最後の日には人びとを審判するために、わたしと共に来るだろう』と、指摘したのは英雄的資質である。
おお! わたしの真の信徒たちよ! わたしと共に、あなたたちはわたしと共に、わたしの凱旋の時、わたしのものはすべてあなたたちのもの、わたしの喜びであるわたしの子ら、わたしから愛される愛人たち、わたしの祝福された者たちのものであるからあなたたちの凱旋の時、あなたたちは祝祭の喜びに溢れる輝かしい群集となるだろう。
しかし、おお、人びとよ、わたしのものとなるためには、『生まれ変わる』必要があるのだ。生まれ変わること。マタイがわたしの言葉を引用してそう言っているように、ヨハネもそのことを言っています。すなわち、マタイは金持ちの青年について語っている行(くだり)で、わたしの愛弟子ヨハネは、ニコデモとの対話の行で。再び生まれることが必要です。生まれ変わることが必要なのです。一つの新しい霊魂になること、あるいは二十世紀の新しい異邦人たちになることだ。わたしの理念(イデア)を信じ、それを生きるために、世の妥協と理念を脱ぎ捨て、霊魂を立ち直らせるのだ。本当にそれを生きるのだ。全面的に。
最初の諸世紀の異邦人たちはこのようにしたし、そして天の栄光ある聖人たちになったのだ。また、地球に文明をもたらしたのだ。もし、わたしを愛しているのが真実なら、もし、もう一つの生命を目指しているのが真実なら、もし、地球の文明のために働いているのが真実なら、あなたたちはそのようにしなければならないのだ。その地球は今!処女林に埋められた一部族のそれよりも野蛮である!なぜか?わたしを拒絶したからだ。自分たちをキリスト者だと言うことは、キリスト者であることを意味しない。洗礼を制定する形式に賛成して洗礼を受けたのではない。キリスト者とは、キリストがかくあるべしと言ったようにあることを意味する。福音書があなたたちに繰り返しているように。
だが、あなたたちは福音書をめったに読まないし、まずい読み方をするし、偉大な教えの中に自分の気に障るところがあるとカットする。また繊細で微妙な教えには気付きさえしない。
ちょっと言ってみてほしい。或芸術家が一つの作品に取り掛かる時、彫刻家なら粗彫りをし、画家ならスケッチをし、建築家なら壁画の建立作業をするにとどめておくだろうか?いいや、大まかな仕事を終えると、彼は仕事の細部に立ち向かう。この仕事を遂げるには、最初の大仕事にはない、もっとずっと長い時間がかかる。だがこれこそ傑作を産む仕事なのだ。
素人にはすでに生きているかと思われるほどの大理石に、へらと鉄槌をもって挑む彫刻家は、その作品を完璧に仕上げようと、どれほどの愛を込めて働くことか!その仕事ぶりは彫金師かと思われるほど微に入り細をうがつ。しかし、あの石の顔が、いかに諸道具の愛撫―最早注意深い柔らかな愛撫ではあるが―の下で、生命を獲得していくかを見なさい。目は眼差しを飾るかに思われ、鼻孔は息づき膨らむかに、口は生暖かく唇の曲線を描き柔らかに見え、髪は、おお!最早石の中で硬直してはおらず、風に靡(なび)いているかに見え、愛を込めた一つの手がそれを梳(と)いたかのようにのびやかに、しなやかに見える。
あの画家を見てみなさい。画布はすでに完成している。すばらしい、すばらしく完璧であるかに見える。だが彼は絵筆を置こうとしない。ここには濃紺の影が、そこには洋紅色(カーアイン)の筆触が一つ欲しい。少女が手にする輝くこの花には、その真珠色の無垢を浮き立たせる陽光の一つのきらめきが必要だ。その頬には、おおくの苦しみの中で生き延びてきた忘我の喜びに生彩を添えるために、涙の一滴が欲しい。これらの羊の群が草を食(は)み、通り過ぎて行くこの花咲く野には、花々の絹に鮮明さを加えるために露を置きたい。画家は、作品に『真実だ!』と言わせるほど完璧なものにするまでは筆を置かない。そして建築家も同様、音楽家も同様、傑作を世に出したい真の芸術家たちは皆そうなのだ。
そして、あなたたちはあなたたちの霊的人生の傑作を、こうして物しなければならないのだ。
ところであなたたちは何を考えているのか? わたしは、ただ言葉を語る趣味のために、説教とは無縁の言葉を付け加えたのだと思っているのか? いいや、わたしはあなたたちを完徳へと導くために、純粋に必要なことを言ったまでだ。また、もし偉大な福音的教えの中にあなたたちの霊魂に救いをもたらすものがあるとすれば、その最も微細な筆触のうちに、あなたたちを完徳へ導くものがある。
第一は十の戒律である。それに従わないことは生命に死ぬことを意味する。第二は幾つかの勧告である。これに従うことは、成聖をますます早め、父の完全さにますます近づくことを意味する。
さて、マタイの福音書にはこう言われている。『悪がはびこるので多くの人の愛が冷えるであろう』と。子らよ、めったに黙想されていない偉大な真理こそこれだ。
今、あなたたちは何に苦しんでいるのか? 愛の欠如に苦しんでいる。本質的に戦争とは何か? 憎悪だ。憎悪とは何か? 愛の正反対だ。政治的道理? 生活空間? 不正な国境? 政治的屈辱? 言い訳、言い訳。
あなたたちは互に愛していない。互に兄弟であると感じていない。あなたたちは皆一つの血に由来し、皆同じように生まれ、皆同じように死に、皆同じように飢え、渇き、寒さを覚え、睡眠をとり、同じようにパンを、衣服を、家を、火を必要としているのを思い出さない。あなたたちは、『互に愛し合いなさい。互に愛し合うならばそれによって人びとは皆、あなたたちがわたしの弟子であることを知るだろう。あなたたちの隣人をあなたたち自身のように愛しなさい』とわたしが言ったのを思い出さない。
あなたたちはこの真理を御伽噺の言葉だと思っている。このわたしの教義を、一狂人の教義だと思っている。それを、多くの人間的な貧弱な教義と取り替えている。それらの創作者の都合のいいように貧弱であるか、それとも悪意に満ちている。それらの中の最も完全なものも、わたしのものと違っているなら不完全である。神話的彫像のように、それらの大部分は貴金属で出来ている。しかしその土台は泥土であり、最後には教義全体も転覆するだろう。それらに支えられていた者たちの崩壊のうちに。わたしの教義は崩壊しない。その教義に支えられている者たちは崩壊せず、最高の確立で常に上昇する。すなわち、地上での神との契約に基き、神を所有するために、地上の彼方、天へと上昇する。
しかし、邪悪が生きている所に愛徳は存在することが出来ない。なぜなら愛徳は神であり、神は悪と共生しない。したがって悪を愛する者は神を憎む。神を憎むことによって邪悪は増大し、ますます神―愛徳から離れて行く。見よ。これこそあなたたちを拷問にかけようと追い詰める出口の無い円運動なのだ。
権力者たちよ、あるいはその屈従者たちよ、あなたたちはあなたたちの罪を増大させた。福音書をないがしろにし、十戒を愚弄し、神を忘れ―肉に基いて生きている者、知性の傲慢に基いて生きる者、サタンの勧告に基いて生きる者は、神を思い出すとは言えないから―家族を踏みにじり、盗み、罵詈雑言し、殺し、偽りの証言をし、嘘を吐き、姦淫し、不法行為を勝手気ままに行った。ここでは地位を、人妻を、物を盗むことによって、より高いあちらでは国の権力、あるいは自由を奪うことにより、国民に対しては彼らをあなたたちの偽りの工作により死に赴かせることを正当化するために偽り、あなたたちの盗みを増やすことによって。ささやかな幸せのみを願って平穏に暮らすことしか求めないかわいそうな民!それなのに、あなたたちは国中の血と涙と犠牲という高い代償を払って、合法ではない富裕と繁栄を自分たちに保証するために、毒舌を振るっていがみ合っている。
しかし、有力者たちの大罪にはどれほどの個々人の罪が加担していることだろう!罪に土台を築くのは個々人の小罪の薪(たきぎ)の山なのだ。もし一人びとりが、飽くなき肉欲と金銭欲と権力への欲無しに、聖なる生活を送るならば、どうして罪を引き起こし得よう?犯罪者はずっといるだろう。しかし誰も彼らを使わないだろうから、彼らは無害とされるだろう。充分に隔離された狂人たちのように、彼らはその権利乱用の卑猥な夢の奥で乱心を続けるだろう。サタンが彼らを助けるとしても、その助けは、神に基いて生きることにより聖なるものとなった全人類の反対統一体から無に帰せられるだろう。その上、この人類は神を味方につけている。従順で善良なその子らに対して、神は慈愛に溢れておられる。したがって、愛徳は人びとの心にあるだろう。愛徳は生きており、聖化するものである。だが悪は転倒するだろう。
子らよ、悪人にならないためには愛する必要があり、愛を所有するために悪人にならない必要があるのを理解しただろうか?愛する努力を惜しんではならない。もしあなたたちが愛するなら・・・ほんの少しだけでも!もし愛し始めるとしたら。その出だしで足りる、あとはおのずから進歩するだろう。
刈り入れは麦の穂が稔らなければ出来ない。形づくられなければ穂は成熟できない。またもし株が形成されなければ穂が生じることはない。しかし農夫が土に小さな種子を蒔かなければ、穂の栄光を支える生きた杯として株は畝溝から生じるだろうか?種子はこんなにも小さい!それなのに土塊を破り、地中に入り込み、貪欲にそれを吸い、そして、やがてその希望の色、それとも風に戦(そよ)ぎ、太陽に輝くその黄金色をもって、パンと人間のためのパンを与えてくださる御方に祝福を歌う。もしあの一羽の雀の餌袋を満たすのにさえその何十倍を必要とするであろう、あの小さな小さな一粒の種子がなければ、あなたたちは祭壇上のホスチアも持てないだろう。肉体の飢えと霊的絶食で死ぬだろう。
一人びとりの心に一粒の麦、愛徳の小さな一粒の麦を蒔きなさい。それが侵入していくのを待ちなさい。あなたたちのうちで生長させなさい。あなたたちの剥き出しの強欲を、すべてが愛徳から生まれた聖なる業の豊饒な開花に変えなさい。今は全体に茨と棘のある潅木がはびこる土地は、あなたたちに拷問の苦しみとなっているその面とその棘々しさを、至福な天の前金、すなわち閑静な、いい居住地に取り替えるだろう。互に愛し合うことは、もうすでに天にいることなのだ。天は、愛以外の何ものでもないのだから。
読みなさい、福音書を読み、最も些細な章節も読みなさい。その完全という染料の中で生きなさい。愛から始めなさい。とても難しい掟、勧告に思えるだろう。だが万事を解く鍵だ。善のすべてを。喜びのすべてを。平和のすべてを」。
マリア・ワルトルタ/手記/P37
そしてあなたたち諸々の民よ、真理と正義において強者であることを知りなさい。人間の哲学や人間の学説は、すべて金糞で汚染されている。現代のそれらは毒にあふれている。毒蛇を相手にたわむれてはならない。蛇はやがて魅惑から冷めると激しく噛み付き、致命傷を与える。みすみす毒牙にかかってはならない。
わたしに結ばれていなさい。わたしのうちには正義と平和と愛がある。ほかの教説を探し求めてはならない。福音を生きなさい。そうすればあなたたちは幸せになるだろう。わたしによって生き、わたしのうちに生きなさい。あなたたちは肉体的な大きなよろこびは味わわないだろう。わたしはそんなよろこびは与えない。真のよろこびを与える。それは単なる肉のよろこびであるだけでなく、わたしが授け、承認し、共有するのを拒まなかった霊魂のよろこび、誠実で祝福された、聖なるよろこびである。
家族、子供たち、清廉な裕福、穏やかに栄える祖国と、兄弟たちとの国々との好ましい調和。こういったものをわたしは聖なるものと呼び、祝福する。それらによってあなたたちは健康をも享受する。なぜなら誠実に生きられる家庭生活は肉体に健康を与えるからだ。それらによってあなたたちは心の平静を得る。なぜなら誠実に行われた取引や職業は良心の安らぎを与えるからだ。それらによってあなたたちは祖国と国々の平和と繁栄を得る。なぜなら同胞や隣国の人々と好ましい調和のうちに生きることによって、あなたたちは怨恨と戦争を避けるからだ。
勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう(2・17)/道案内/
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P131
勝利を得る者には、いのちの木の実をたべさせよう(黙示録2・7)
‘43年8月18日
イエズスは言われる。(中略)
わたしの言葉は主なる神にすべてを委ねた霊魂たちを養うために天降る。真の道案内を探し求め、真の道案内も無く、滅びていく衆生を導く多くの優柔不断な道案内人を目の当りにしているあなたたちの、司祭、指導者となるためにわたしの言葉はやって来る。真理を理解したあなたたちは、これだけが必要なのを知っている。すなわち、わたしの言葉によって生き、わたしの言葉を信じ、わたしの言葉によって歩むことだ。
ヴァルトルタ/自叙伝/P545
キリスト教徒が、もしも自分の頭に大小の本を詰め込むのをやめて、福音を日々の糧とするならば、愛の王道を進むことも、神に身を捧げることも難しくないでしょう。もしも彼らが、キリストの言葉、言葉の中の御言葉に、本当に養われるならば、もう利己主義に苦しむことも、荒々しさで干からびることも、邪推で凍えることもなくなるでしょう。人びとは、もっぱら光の中で歩み、慈愛に生き、平安に休むことでしょう。そして、私たちは、犠牲によって高められるでしょう。犠牲は愛によってなされるときには、重荷ではないのです。
私たちの毎日の生活と、存在の例外的な時間は、もしも福音の霊に満たされているなら、どんなにか敬虔で大胆なものになることでしょう! すべてのものは、声、光、様相において、どんなに異なる色に染まることでしょう!
自分のうちでキリストの言葉がいつも響いている人が、どうして不信や絶望に陥ることができるでしょう? 神の子が私たちへの愛のために苦しみに耐えたことを知っている人が、どうして苦しみに嫌悪を感じることができるでしょう? 神があんなにも愛してくださったことを知っている人が、どうして神を恐れることができるでしょう?
2.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P104
‘89・1・17
♡ 今日、我が唇は愛に渇き、あなた方の愛を求めている、私は愛に飢え渇く、愛に飢え渇く・・・我が聖心はどれほど私を愛するのを 学ぶようにと願っているか! いつの日か愛の頂きに達し あなたが「お父さま(アッバ)!」と叫ぶのを 聞きたいと願っている! その時・・・その時初めて、我が傷は癒えはじめるであろう・・・我が司祭たちが、無限の愛から汲み上げ、自らの心を満たすようにどれほど願うか! 彼らに対する我が愛は大きい、どれほど大きいかは 天国に入るまで、十分理解はできないであろう ♡ 熱心を旗印、忠実を松明、清さを礼装、そして愛を紋章としなさい。 子羊たちが彼らのうちに私を認め 我が象りを はっきりと見出だせるように ♡ 羊飼いたちは、清くあってほしい、その清さのうちに 彼らの実が 無傷であるように。 我が聖心を歓喜させ 掟を完全に守りなさい、愛することは、掟に従うこと。 互いに愛し合いなさい ♡ ああ 我が光の子たちよ、みことばを生きるように、みことばを生きるように・・・
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P134
「いつまでも永らえると、誰が言ったか?もう十分長く 鷲のように舞い上がり、星々の間に巣くい 刺となった。さあ、戦いに出てきて 私と顔を合わせなさい。 顔を合わす相手は アベルでない。 おまえの剣を 叩き落す。 おまえは我が家を荒し、最も尊いものを そこから盗んだ。 心ゆくまで盗み取った。 我が民の門を通過し 民の目を見えなくさせた。 その闇の王国を広げ 私の民を誤った道に連れ込めるとまだ信じてはいるが、今や、おまえの時は終わった。 もうやめよ。今にも 義は水のように流れ出し 我が霊は 止めどない流れのように 溢れ出す・・・」
「ああ、今は何とよい時か・・・」と感嘆する時が 近づいている。 来なさい、新しい力を得るよう 休ませてあげよう。 私のメッセージを生きて あなたのために踏み固めた小道を辿りなさい・・・ic
3.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1979.1.28
こうして、ついには、カトリックの信仰の土台となっている真理そのものまでも、くつがえしてしまうことになるのです。
これらの真理をあからさまに否定するのではありませんが、あいまいなしかたで受け取っています。そのために、教義に関して、かつてなかったほどの誤謬と非常におそろしい妥協をしてしまいました。
まだ、いくらか話したり議論したりもしますが、もう信じていません。迷いの暗闇は、広がっていくばかりです。
混乱が教会を支配し、その真理をくつがえそうとしていること自身、教会の清めのときが来たという確かなしるしです。
事実、教会は、あなたがたのあいだに神秘的に生きておられるキリストなのです。
キリストこそ、真理です。だからこそ、教会は、真理そのものであるキリストの光でいつも輝いていなければなりません。それなのに、敵は、その狡猾なだましの手を使って、とうとう教会の中に多くの暗闇をしのびこませるのに成功しました。もう、今日では、教会はサタンの煙でくらくなっています。
サタンがまっ先にやってのけたことは、私の多くの子らに傲慢と、うぬぼれを注いで、かれらの知恵と思想をくらませ、かれらの手で教会をくらませてしまいました。
天の母として、愛する子らよ、私があなたがたを、この汚れなき心の使徒として召し出したのは、今日のためです。すなわち、こうした事情のためだったのです。
あなたがたが召されているのは、すべての人が真理をますます喜んで迎えることができるように、あなたがたの言葉と手本で、悪と戦うためです。こうして、あなたがたの光によって、混乱のこの暗闇も敗北させられるのです。
あなたがたは、私のおん子イエズスの福音を文字通り、生活に実行しなければなりません。
あなたがたは、生きた福音以外の何ものであってもなりません。福音を、力と勇気をふるって、すべての人々に告げるのです。こうすれば、やがて、あなたがたに聖霊がみちあふれ、あなたがたの言葉は、聖霊の力と、あなたがたの天の母から受ける知恵の光によって、輝きわたるでしょう。
聖母から司祭へ1982.3.25
福音については、しばしば人間的な解釈がおこなわれて、超自然からのいかなる干渉も排除しようとしています。その結果、福音書の中の、どれほど多くのエピソードが、伝説か、あるいは、文学的な種類のものであるかのように解釈されていることでしょう。神の偉大な奥義に対して、今日ほど愚かで貧しい解釈がなされたことは、かつてありませんでした。その結果、多くの人々が信仰を失い、重大な謬説がしだいに教会に拡がっていきます。
あなたがたが、もし真の信仰を守ろうと望むなら、イエズスの福音の中で言われたことを完全に承諾するという条件のもとにだけ、それができるでしょう。それで福音を文字通りに述べ伝え、文字通りにこれを生きなさい。
こうしてあなたたち自身が、生きる福音となりなさい。そうすれば、御父のご計画は実現し、聖霊の愛の火がこの世界を清めるでしょう。従順な子どもとしてのあなたがたの承諾を、天の母が永遠に神に向かって繰返す承諾にあわせてください。
こうしてこそ、あなたがたは、賢い人や傲慢な人には隠され、小さな人々に示される神の国の奥義を理解できるのです。
聖母から司祭へ/1987.3.4
この輝かしい歩み
わたしが、これほど愛し、これほど守っているわたしの子らよ、わたしが示した道を歩いて、わたしについてきなさい。それは、悔い改めと、つぐないの道です。
わたしが願う悔い改めは、イエズスが、福音書のなかで願っておられるのと同じものです。
(中略)
こん日、わたしの子らはみな、改心して、福音を再び信じ、福音に従って生き、福音の知恵によってだけ導かれるようにしなければなりません。今ある日々は、あなたたちの悔い改めに適した日々です。
恵みとあわれみ、希望と期待にみちた日々です。
聖母から司祭へ/1989.5.6
わたしが、沈黙とかくれた生活の中、つまり、わたしが住いとしている荒野の中で、わたしに奉献された子らが、今、福音を信じ、福音の知恵の導きにのみ従い、常に生きた福音となるように、わたしは力づよく働きかけます。わたしが、司祭のマリア運動をもって、全世界に養成してきた軍団のために準備された役割はこれです。すなわち、この時代において、神のみことばだけを愛をもって受け入れ、これを実行し、大鷲の二つの翼、つまり信仰と愛の翼に乗って、わたしといっしょに飛ぶことです。
わたしが住いとしている荒野の中で、こん日行う数々の大きな不思議は、わたしの小さな子らの生活を完全に変化させるという不思議です。それは、かれらが勇敢な信仰のあかし人として、聖徳の輝かしい模範となるためです。
こうして、沈黙とかくれた生活のうちに、わたしは、毎日、龍に対するわたしの大勝利を準備します。それは世界におけるわたしの汚れなき心の大勝利です。