主の母性

 

 

主は泣かれた

わたしはあなたを忘れない

 

 

 

 

 

1.マザー・テレサ

2.マリア・ワルトルタ

3.エリザベット・サント/『愛の炎』

4.コンソラータ

5.ヴァッスーラ

6.デボラ

7.御自分の瞳のように守られた 

8.エフライムはわたしのかけがえのない息子 喜びを与えてくれる子ではないか。

 

 

 

 

申命記32・10−11

 

主は荒野で彼を見出し

獣のほえる不毛の地でこれを見つけ

これを囲い、いたわり

御自分のひとみのように守られた。

鷲が巣を揺り動かし

雛の上を飛びかけり

羽を広げて捕らえ

翼に乗せて運ぶように

 

 

 

イザヤ49・14−16

 

シオンは言う。

主はわたしを見捨てられた

わたしの主はわたしを忘れられた、と。

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。

母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。

たとえ、女たちが忘れようとも

わたしがあなたを忘れることは決してない。

見よ、わたしはあなたを

わたしの手のひらに刻みつける。

あなたの城壁は常にわたしの前にある。

 

 

 

マタイ23・37−38、ルカ13・34−35

 

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」

 

 

 

 

1.マザー・テレサ

 

ドン・ボスコ社/マザー・テレサ/わたしはあなたを忘れない/P36

 

 イエスはわたしたち貧しい者のもとに来てくださいました。神はわたしたちを愛している、わたしたちは神にとって特別な者である、神はわたしたちを偉大なことのために創造された、つまり互いに愛し、愛されるために創造された、これらのよい知らせを告げるために貧しい人々のもとに来てくださったのです。

 聖書の中で神はこう言っています。「わたしはあなたたちをあなたたち自身の名前で呼んだ。あなたたちはわたしのものである。」

・・・神はそれを証しするために、こうも言っています。「もし母親が自分の子どもを忘れることがあっても、わたしはあなたを忘れない。わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻んだ。」

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P4

‘87・10・13

 

主イエス、お与え下さったものを拠りどころとし、力のかぎりやってみます。私は無力ですが、あなたは全能です。助けていただけますか、イエス?

 

あなたを助ける、私がどのように働くかを思い出しなさい ♡ ヴァッスーラ、間もなくあなた方に天から印を与える、それが私からだと理解するであろう、皆の上に輝く、あなた方を大切に思っている ♡ どんなに愛していることか、皆の理解をはるかに越えて 愛している ♡ 私は創造主、あなたの像を 手の平に刻み込んだと言わなかったか? 見捨てるようなことがどうしてできようか?

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P131

 

『信頼して近づけば彼は喜ぶでしょう。信頼する人は、彼が自分の母親より優しい人だと分かります』

 

 

3.エリザベット・サント

 

愛の炎/P49

 

親が子供に新しい洋服を買ってあげるとき、少なくともお礼ぐらいは、言ってもらえるのを期待しています。また、それが高かったので、子供に大切に着るように言います。永遠の父もあなたたちに洗礼の聖なる恵みという新しい洋服を与えました。でもあなたたちは、それを大切にしていないのです。この洋服の最初の美しさを、もう一度あなたたちに与えるのに、わたしより苦しんだ親はいるのでしょうか。

わたしは、ゆるしの秘跡も定めたのに、あなたたちは、それを利用してはいません。これをあなたたちに与えるのに、わたしは、血の汗を流し、いばらの冠をかむり、この上ないつらい苦しみの十字架に釘づけられたのです。そして、最後には、みんながこわがらないでわたしに近づけるようにと、わたしは、布にくるんだ赤ちゃんのように、小さなホスティアに身をひそめています。新しい洋服を子どもに買ってあげるために、こんなに犠牲を払った親はいるのでしょうか。

 

 

3.コンソラータ

 

P72

コンソラータ:

聖福音書の中で『幼児らが私に来るのを許せ。止めるな。神の国はこのような者たちのためである。』(マルコ10・14)とあなたは仰せられました。それに続いてあなたの母としての心を示すことばがあります。『そして幼児をいだき、手をおいて祝したもうた』(マルコ10・16)。主は幼児らを祝したもうたことで満足なさらず、急に波のようにわき上がってきた御愛のあふれ出るままに、いだきたもうたのであります!

 ここに私は心の目で、絵のように、大きな人類という一家族を見ました。年上の子どもたちは働いて生活の糧を得ております。彼らが善良であれば両親の誇りとなります。しかし母親の心の大部分を占めているのは、愛するほかに実際何もすることができない最も小さい者たちです。

 イエズスよ、聞かせてください。むすこが学校でよい成績をとって母に栄誉をもたらす時と、そのむすこがまだ小さく、全く母の所有(もの)で、着せてあげたり脱がせたり、思うさまかわいがっている時と、いったいどちらが母を喜ばせるのでしょうか。母が愛する子どものゆりかごのそばで感ずる喜びはことばに表わせぬものです。

愛撫を受ける子どもと、惜しみなく愛撫をそそぐ母と、どちらがいったい大きな喜びを感ずるか、だれがいうことができましょう。母は小さい子どものために、一番美しくかわいい服を欲し、一番喜ぶものを望み、もし万一いつまでも小さいままでいることができるなら、生涯の終わりまで、決して疲れずに、子どもに対してあらゆる心づかいと愛とをささげ続けることでしょう。

この母と子の愛を信心生活にあてはめますと、それはイエズスと小さい霊魂の間柄の生き生きとした写しのように思えます。小さい霊魂はイエズスの所有、完全にイエズスのものです。そこでイエズスは母としての優しい心づかいで、その子どもたちに、最も美しい善徳という服を着せたり脱がせたりなさいます。小さい霊魂は乳児のように、少しも反対しないので、イエズスは胸に抱きしめたり、おいたりなさいます。そのどちらの場合にも、彼らは満足しております。なぜなら彼らはイエズスを愛して、救霊のためいくらかでもイエズスに協力することができるし、イエズスはいつも彼らにほほえみかけておられるからです。

この地上で味わうことができるもっとも大きな喜びは、神のみをもつことです。その時、地上にありながら、天国の喜びを味わいます。そして小さい霊魂は、神とともに、その喜びを味わうのです。

 

 

P87

コンソラータ:

 

「時々、イエズスは聖心を打ち明けて、ある霊魂についての御嘆きをもらされます。私はその時イエズスを慰めて、あの霊魂はそんなにひどくありません、と弁解します。するとイエズスは晴れ晴れなさりご満足なさるのを心に感じます。そのあとで、その霊魂のために祈ります。イエズスの聖心は母の心のようです。

 

ある母がむすこの忘恩的な行いにすっかり悲しんでいるといたします。そのことを親友に打ち明け、親友の口からむすこさんはそれほど悪くないと慰められるとむすこはまだ善良なのだと考えて、どんなに喜ぶでしょう。母は親友のことばが信じたくて、それをささえとして、むすこを信ずるのです。イエズスの聖心の写しである母の心よ! その母にはむすこの心を変える力はありません。けれどもイエズスはもし私たちがお願いしさえすれば、聖心にそむいた不忠実な霊魂を改心させるでしょう。」

 

P87

−イエズス−

「実の母は、どんなにその子どもが醜くとも、醜いとは考えない。母の心にとって、その子は常に美しく感じられるものである。私が霊魂に対して感ずるのも、全くそれと同じで、どんなに醜く、汚れ、不潔であっても、私の愛はいつも美しいと感ずるのである。霊魂の醜さを確証されると私は苦しむが、一方だれかが、私の母のような心と同じく感じて、彼らを弁護し、その霊魂は醜くない、美しいのだと断言してくれると、非常に喜ぶのである。霊魂はみな私のものである。だから私は霊魂のために、私の血のすべてを流し尽くしたのだ!

 

 実際にはそうであっても、あらゆるきびしい非難、罵倒、叱責がどんなに母としての私の心を傷つけるか、一方寛大、同情、あわれみがどんなに私の心を慰めるかを、今あなたは悟っただろうか?

 

あなたは決して、一度もだれをも、批判してはいけないし、まただれに対してもきびしいことばをかけてはいけない。その代わりに、私の心を慰め、私から悲しみを取り去って、熱心な愛によって罪人のよい面だけを私に見せなさい。私はあなたを信じよう。そして罪人のために祈るあなたの祈りを聞き入れよう。

 

正義の罰を与えねばならぬ時、私がどんなにいやがっているかを、あなたが知ったら!私の心は人々の忘恩を信じたくないと熱望しているから、あなたがある霊魂はそんなに悪くない。不忠実でない、忘恩でない、と信仰深く、愛深く私をだましてくれたら、すぐに信じる。そのようにして私の心は慰められたいと期待していることをよく覚えておきなさい。私の心は、罰ではなく、あわれみを与えたいと望んでいる!」

 

P101

−イエズス−

「コンソラータ、見てごらん。悪魔はあなたの盲目的な信頼を揺り動かそうとあらゆる努力をするだろう。でもあなたは、私が限りなく優しく、慈悲深くて、そうでないようにすることが全然できないことを、決して忘れてはいけない。コンソラータ、私の心の中にはいってきて、私の心を、私の愛をわかっておくれ。不信頼によって一瞬でも悪魔が入り込むすきを与えてはいけない。決して!

 

私はほんとにいつもあなたのためにおかあさんなのだよ。指にほんの少しかすり傷を受けるたびに、すぐおかあさんの所へとんで行き、包帯をしてもらう小さな子のまねをしなさい。ちょうどおかあさんがほんとうの傷でも、また想像によって、傷のように思えるのでも、いつも包帯をしてあげるように、私もあなたの欠点をいつも直してあげることをよく覚えなさい。

 

もし子どもがほんとうに腕なり頭なりに大けがをすれば、母はどんなに優しく、愛情深く、心配しながら、ほうたいしてやることだろう!そうです、私は黙っていても、転んだ時には同じことを霊魂にしてあげるのだよ。いいですか。コンソラータ? だから、決して、決し

て決して疑いの影さえもってはいけない! 信頼の足りないことが一番私の心を傷つけ、苦しめる!」

 

P113

−イエズス−

 

「コンソラータ、小さい霊魂にも、すべての人々にも、私の、ことばに言い表せぬ愛のへりくだりについて語りなさい! どんなに私が優しく、母らしく、またどんなに人々からただ愛のほか、何も望まぬか、私の愛にこたえてほしいと渇望しているかを伝えなさい。あなたは、私の限りなく大きいあわれみ、母らしい愛のへりくだりを、世界の人々に伝えるために召されている。」

 

 

5.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P263

 

今に分かろう(*) ♡ 一つ質問がある。 どうして今しがたは 慰めてもらいに来なかったのか?

 

  長い間時間が空きました。主は「一つ・・・」と言われるまで、神の上に手をおかせたまま、しばらく何もおっしゃいませんでした。

 

そう、その通り、そうです(*)♡

 

  たった数秒間でしたが、イエスは一つの霊的直感(ヴィジョン)とその陰にある事情を、すべて一瞬のうちに下さいました。ちょうど、譬話のように。それは一人の子どもとその母親のものでした。母親は長年、その子どもを見失っていました。が、ついに見つけたときは大喜びで子どもの望むものは何であろうと願うように、教えようとしました。その子を愛し、自分の子どもでしたから。子どものほうは、母親だと言って、気にかけてくれてもその人に、また元通り懐(なつ)くのは大変困難でした。その子はそれまで誰にもかまってもらえなかったので、自分のみじめさを自分で呑み込んでしまうことに慣れていたのです。そこで、今度も、その子どもを助け、慰めを与えることができるのは、その母親だということを忘れてしまったのです。与えられたヴィジョンとは、その小さな子どもが再び完全なみじめさの中にいて、お母さんのことを無視して家の中をめそめそと歩き回っている、というものでした。母親はその子どもがみじめさの中にいるのを見て、心を痛めています。わが子がそれほどみじめでありながら、まだ母親のもとに来て、愛情の必要を訴えながら、腕の中に飛び込んできてくれないことに心が痛んだのです。その子どもが母親を信頼さえしてくれるなら、どんなに力となってあげられるか知れないのに、そういった母親も無視して、子どもがみじめでいるのを見て、母親の心はすっかり打ちひしがれています。

その子どもとは、私でした。母親とはイエスだったのです。

そして、こうなってしまったのは、凡て(263ページ)を八方塞りに感じて、メッセージのことが肩に重くのしかかっているのに、殆ど何もなす術がないからでした。私は忘れてしまうために、そのまま寝てしまうことに決めました。そして、これは午後のことでしたが、忘れようとして布団に入りました。イエスを思い浮かべましたが、面と向うことができないほど、みじめな気持ちでした。

 

愛する者よ 私はあなたの慰め主! 頭をもたれかけるように、あなたの頭を撫でて痛みを和らげる許しがほしい、耳もとで私の言葉を囁かせてほしい。 私の心の中には場所がとってある、よそで時を過ごさないで、さあ 与えた場所に来なさい(*) ♡

 

*主は、神さまにしかおできにならない優しさで、こうおっしゃいました。

 

私には力がありません・・・

 

私があなたを引き上げ そこに据える ♡

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P62

 

平安を 我が子よ。 与えた一切は 聖なる英知に由来する。 これが我が預言者たちに働きかける私のいつものやり方。 私が語ると 彼らは信じた。 私の光に絶え間なく浸されている彼らは 我が意思のうちに住まう。 その人間的弱さを知るゆえに、私の眼差しは 赤児を見守る母親のように、この世的な性向へと逸れて行かないよう 選ばれた者たちを見守る。 次に私は 大いなる善意と同時に悦びをもって、特別な好意を授けては その仕事に備えさせる、その仕事とは 通常は彼らの人間的能力をこえたもの。 私は彼らを我が翼のかげに隠して、保護を授ける、そして一つの目的をもって育て 我が聖なる名をその上に刻印したあなた、そのあなたのあらゆる必要を私が満たすと ライオンや龍たちも恐れて 吠えたける、「私は在る(I Am)」が あなたと共にいるのを知るゆえに。

 

我が万能の手は 保護する手立てに事欠かない、そこであなたに刻印された我が聖なる名を守るために、私の腕であなたを囲った、ちょうど人が領地を柵で外敵から護るように、あなたを囲った。 私に歯向かい我が選びの器に挑戦しようと あえて今やって来る強者がいようか? 驚異そのものである者が上より身を屈め この死にかけた時代を生き返らせようと、我が至高の力を現した、そして同時に 言語に絶したやり方であなたのうちになされている 我が神聖なわざを通して 慈悲をも示した。 耳が聞こえるよう、精錬されたミルラのように、私は 我が知恵を一滴一滴 あなたの耳に注ぎ込んだ。

 

ああ、この不思議中の不思議を行っている間 なんという悦びを得てきたか! 私は 回復を間近に予知して、我が情け深い慈悲の行為に なんという神聖な喜びを得たことか! あなたをその悲惨さと悪の拘束から解放し、絶え間なく私と戯れる子どもとなるよう 私のほうへと引き寄せている時、なんという歓びと幸せに心満たされたか。 それから王としての我が威厳にあなたが目を留め 永えに私たちの婚姻を記念するよう、我が名を称えるであろうその唇に 最も甘美な口づけをした、こうして我が至高の甘美に いっそうの注意をひいて、あなたがこのように言うのを聞けるように、「主なる神は私を娶り、私の霊魂をご自身をもって飾られました、ああ 霊魂がしなやかで従順ですと 主はなんとお喜びでしょう、主の計り知れない智恵が その中に分け入って すっかり主へと引き寄せますから。」

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P4

‘87・10・13

 

主イエス、お与え下さったものを拠りどころとし、力のかぎりやってみます。私は無力ですが、あなたは全能です。助けていただけますか、イエス?

 

あなたを助ける、私がどのように働くかを思い出しなさい ♡ ヴァッスーラ、間もなくあなた方に天から印を与える、それが私からだと理解するであろう、皆の上に輝く、あなた方を大切に思っている ♡ どんなに愛していることか、皆の理解をはるかに越えて 愛している ♡ 私は創造主、あなたの像を 手の平に刻み込んだと言わなかったか? 見捨てるようなことがどうしてできようか?

 

 

ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P99

 

たとえばイエスが父なる神のことを、私の大好きな表現でお話しくださったことがあります。

私の父は王でありながら、とても母性の愛をもつ方、父は審判者でありながら、まことに情愛深く、思いやり溢れる方。アルファでありオメガでありながら、すこぶる柔和な方である。

 

 

 

 

 

 

 

6.デボラ

主は渇く

デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻下P78

 

 人々はイエズス様の受難のことを、「すべて」外的な傷そのものとして話しますが、主の内的なおん傷について考える人が少ないことです! もしこの手記を読む人にとって何か有益なことができるとしましたら、私は無理解の傷ということについてあえて書きたいと思います。主は、ご自分の僕たちによっておん身体に、或いは被造界において空中や地上に造り出される外的な表示のすべてを利用して、苦悩全体、すなわちその「道徳的、霊的」そして身体的苦悩を全て含めて理解されることを望んでおられるのです。しかし、ああ悲しいことに、私たちは非常に度々、鞭打ち、茨の冠、そして十字架上での死で終わるイエズス様の身体的苦痛の玄義のみに留まってしまいます。しかし主のもっとも痛むおん傷とは、人々から理解されず、模倣されることもないということからくるものだということを、いったいいつになったら私たちは理解するでしょうか!

 

 私は、神父様、修道女、信徒達などが、血の涙、ご出現、奇跡、などの現象について、それに関するまことの思索や反省をすることなく、それらの意味について議論しているのを聞いたことがあります。全能の神様は、ご自分の子供達が神様について抱いている間違った概念によって毎日心が傷つけられておいでになります。なぜなら多くの人々は神について、それは小さな罪も罰し、『涙の谷』で人が死ぬままに放置し、人類から分離して天上にただ座っておられる神、という観念を抱き、つまり神の本質を偽りの観念の中にはめ込んでいるからです。

 

 聖なるおん父はそこで、その果てしない愛を特別な出来事によって確証を与え、慰め、新たに許すことによって仲介しにきてくださいます。このようなおん父とは、いったいなんと良い父親なのでしょう!このような創造主の愛とは、なんという愛なのでしょう!

 

 神様は常に手を差し延べておられ、そのみ心は常に注意深く、またあれこれと世話をやいてくださるお母さまでもあられ、永遠の存在、とご自分を呼ばせることにふさわしい唯一の方でいらっしゃいます!

 

 

7.御自分の瞳のように守られた

 

申命記32・10−11

 

主は荒野で彼を見出し

獣のほえる不毛の地でこれを見つけ

これを囲い、いたわり

御自分のひとみのように守られた。

鷲が巣を揺り動かし

雛の上を飛びかけり

羽を広げて捕らえ

翼に乗せて運ぶように

 

 

8.エフライムはわたしのかけがえのない息子 喜びを与えてくれる子ではないか。

         エフライム

 

エレミヤ31・15−20

 

主はこう言われる。

ラマで声が聞こえる

苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。

ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む

息子たちはもういないのだから。

主はこう言われる。

泣きやむがよい。

目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。

息子たちは敵の国から帰って来る。

あなたの未来には希望がある、と主は言われる。

息子たちは自分の国に帰って来る。

 

わたしはエフライムが嘆くのを確かに聞いた。

「あなたはわたしを懲らしめ

わたしは馴らされていない子牛のように

懲らしめを受けました。どうかわたしを立ち帰らせてください。

わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です。

わたしは背きましたが、後悔し

思い知らされ、腿を打って悔いました。

わたしは恥を受け、卑しめられ

若いときのそしりを負って来ました。」

エフライムはわたしのかけがえのない息子

喜びを与えてくれる子ではないか。

彼を退けるたびに

わたしは更に、彼を深く心に留める。

彼のゆえに、胸は高鳴り

わたしは彼を憐れまずにはいられないと

主は言われる。