天界の秘義2708[6]

 

 エホバの分はその民であり、ヤコブはその嗣業のなわ[ひも]である。エホバはかれを裁くの地の中に、荒れ果てた吠える荒野の中に見つけられた。かれはかれを導きまわられて、悟らせられ、かれをその目のひとみのように守られた(申命記32・9、10)。

 

 

天界の秘義6269[3]

 

 ここからもし仁慈の善が第一位に立ち、すなわち、本質的なものとなり、信仰の真理が第二位に立ち、すなわち、仁慈の善の形式的なものとなるなら、教会はいかに異なった姿を持つかは明白である。そのときはその教会の姿は古代教会のそれのようになるであろう、(なぜなら)古代教会は教会を仁慈から成立させて、教会の教義的なものは、仁慈の教義的なもの以外には何一つ持たず、そこからかれらは主から知恵を得たからである。その教会の性質はモーセの書に以下の言葉で記されているのである―

 

 エホバはかれを導きまわり、かれに教え、かれをその目のひとみのようにも守られた。わしがその巣をゆり動かし、そのひなの上を飛びまわり、その翼をひろげるように、かれはかれをとり、その翼に負われた。エホバのみがかれを導かれ、かれのもとには異教の神もなかった。かれはかれを地の高い所を駆けさせ、畠の作物で養われ、岩から蜜を吸わせ、油を岩のすい石から吸わせられた。家畜のバター、羊の乳、小羊の脂、バシャンの子の雄羊の脂、小麦の腎の脂(で養われた)。あなたはぶどうの血から純粋なぶどう酒をのむ(申命記32・10−14)。

 

それでその教会にぞくした者たちは天界にいて、そこに幸福と栄誉そのものの中にいるのである。