主は渇く

求めるのは愛、忠実と 清さだけ

 

 

1.主は人の愛に渇いておられる

2.この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた(ヨハネ19・28)。

3.主の老い・疲れ

4.主の死

5.主の内的なおん傷・・・無理解の傷

 

 

 

 

1.主は人の愛に渇いておられる

 

パラマハンサ・ヨガナンダ講話集/人間の永遠の探求/P442

 

 われわれは、神のくださる命や、日光や、食物や、そのほかあらゆる贈り物には手を差し出してそれを受け取りますが、それらを与えてくださる神に対してはほとんど無関心です。もしあなたが、だれかに好意をもって贈り物を贈ったとき、相手があなたのことを無視したら、あなたはどんなに傷つけられるでしょう。神も同じ思いです。われわれは毎日、この世界を見るために神から送られた視力を使っています。また、いろいろな考えや判断力も神から受けています。しかし、われわれは神のことをとかく忘れがちです。

 もし、神が乞食のように求めておられるものがあるとすれば、それはあなたがたの愛です。神はいつもあなたがたを追いかけて、それを求めておられるのです。神は聖者たちの言葉を通してあなたがたを口説いておられます。神を無視してはなりません。

 

 

マリア・ヴァルトルタ70・8/天使館第1巻P627

 

彼(使徒ヨハネのこと)の単純さと情愛の深さを見て、あなたは大いなる安らぎを感じませんでしたか? おお! わたしのヨハネ! それからわたしの小さなヨハネよ。あなたがわたしの愛弟子にますます似てほしいと思います。この使徒のように、いつも『先生あなたのなさることはすべてよく、うまくいきます』と言って、すべてを受け入れてほしい。『あなたはわたしの愛のやすらぎだ』と、いつもわたしに言われる人になるために。マリアよ、わたしだって慰みを必要とするのです。それをわたしにください。あなたの休息のためにはわたしのを」。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P42

‘87・1・30

あなたに平和。 弱く感じる時は いつでも私のもとに来なさい 力を与える。 ヴァッスーラ どうしてあなたを選んだか分かるか?

 

いいえ、存じません、イエス。

 

では 教えよう。 あなたを選んだのは 無力だからです それに私が知っている誰よりもはるかに 最もみじめな者だがらです。 みじめさは私をひきつける あなたを慰められるからです。 あなたは無力で足りないところばかりです、どの言葉も完全には身についていない。

 

主よ、私がそんなにひどいのなら、どうして導きのために私を選ばれたのですか?

 

前にも言わなかったか? 子どもたちは私の弱点です、なぜなら 形造るのを許してくれるからです。

あなたは 自分一人の力では成長することのできない儚い花です、そのあなたを通して 私の愛を現すために選んだ。 私はあなたを荒野の真ん中に見つけ 目を楽しませてくれる我が花園に植え替え、私の光のもとで育つようにした。 あなたに求めるのは 愛だけ、私を愛し 忠実でありなさい、あなたには真心を求める、私の心を満たすために あなたの心で尽くせるだけの愛をすべてほしい。 私は愛に飢えている、愛の主だからです、ですから あなたに求めるのは 愛だけです。 誰かを愛したなら いのちあるどの瞬間もその人と過ごしたいという望みで燃えないだろうか?

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P222

 

では、何か主にお捧げする善いものがあるでしょうか?

 

ある。 しかしすべての善いものは私から出ている。 私がそれをあなたに与えたのです。 善いものは何であっても私からのものです。

 

(ちょっとがっかりしました。それでは主を喜ばすことができません。)では、私は自分自身からのもので、何も善いものが差し上げられないのですね。

 

あなたが持っている善いものは すべて私が与えた。

 

もしかして、あなたによい絵を描いてお捧げできるかもしれません!*

 

*私の手作りの絵を。

 

あなたの絵か ヴァッスーラ? この美術にたいする才能も 私が与えたものではないか? これも私からであろう?

 

では、何をお捧げできるでしょう?

 

愛を。 私を崇めなさい。 私に身を明け渡し あなたの意志を捧げなさい、これが私に捧げられる最も美しいものです

 

主よ、お愛ししていることも、もう自分を明け渡していることもご存知です!

 

私はそれを聞くのが楽しい 小さな者よ!

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P259

‘88・7・29

 

いとしい者よ! 愛に溢れなさい、あなた方の間にある私の現存を感じなさい、あなた方すべてに抱くこの深い愛を感じるように、この愛を信じなさい。 私は愛の源、我が霊があなた方の上にある、来なさい・・・あなたが清く、聖となり、謙虚で憐れみ深い者であってほしい ♡ 私に抱く愛を 果てしない愛へと引き伸ばすのを許してもらいたい、主なる私が溢れるほどの愛を注いで あなた方の心を満たすのを許してほしい こうして神聖で崇高な愛があなた方に充満し、その愛が溢れ出て、この世を満たし 我が教会の栄誉となるであろう、この無限の愛から汲み上げ 心を満たすのを自分たちに許しなさい ♡ 求めるのは愛する兄弟たちよ 愛、 忠実と 清さだけ ♡ 試練が押し寄せても 小さな者たちよ 落胆しないように、決して見捨てることはない、私は羊飼い あなた方をマントの下に隠しておく、私と一緒なら空腹を知らない、私と一緒なら決して渇きを覚えない ♡ 私があなた方を扱うように互いを大切に扱い、私があなた方を愛するように愛し合いなさい、私が祈りに応えているよう 互いも応じ合いなさい、私の実を食べ サタンの果実 不誠実、嫉妬、不一致と不潔は受け取らないように、一つのようでありなさい! 完全でありなさい! 私の家が清く キラキラと輝くように ♡ 私の正義の露があなた方に降り この厚い雷雲を溶かし 遠くへ散らし、私の光が貫いてすべての暗やみと悪は消えるように ♡ 太陽を向く花のようでありなさい そして私の温かな光があなた方の神聖さ、清らかさ、完全さと愛を甦らせるように ♡ 私主があなたを愛するように 互いに愛し合いなさいという我が掟にいつも従いなさい ♡ 限りなく 私、主イエス・キリストは、あなた方を愛している、私の訪れは間もない、皆を祝福する ♡♡

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P166

 

♡ ああ 愛する者たちよ、この暗やみのただ中で これほど無残にも身に負った、あなた方の苦痛、傷と弱さを癒しに来た、そうではない、愛する者たちよ。 その苦痛は癒せないほどでない、その負傷は癒し得る、私は―あなたと―ともに―いて こんなそばにいる、そこで愛をこめて来なさい、愛をもって求めるなら 得るであろう、愛を込めて呼びかけるなら 聞いている、あなたを懐に抱き上げ あやして、慰めよう、平和と愛を叫ぶ我が声を聞くように。 愛があなた方を愛している、愛はいのちの木の根源、そこで心より発するものは愛であるように。 悪のあるところに愛が姿を顕すなら、すべての邪悪さは愛に消し去られ、太陽の最初の温かな光明で霧が消え去るように

消えてなくなる ♡

 

 

愛の炎P49

 

<イエズスの嘆き>

親が子供に新しい洋服を買ってあげるとき、少なくともお礼ぐらいは、言ってもらえるのを期待しています。また、それが高かったので、子供に大切に着るように言います。永遠の父もあなたたちに洗礼の聖なる恵みという新しい洋服を与えました。でもあなたたちは、それを大切にしていないのです。この洋服の最初の美しさを、もう一度あなたたちに与えるのに、わたしより苦しんだ親はいるのでしょうか。

わたしは、ゆるしの秘跡も定めたのに、あなたたちは、それを利用してはいません。これをあなたたちに与えるのに、わたしは、血の汗を流し、いばらの冠をかむり、この上ないつらい苦しみの十字架に釘づけられたのです。そして、最後には、みんながこわがらないでわたしに近づけるようにと、わたしは、布にくるんだ赤ちゃんのように、小さなホスティアに身をひそめています。新しい洋服を子どもに買ってあげるために、こんなに犠牲を払った親はいるのでしょうか。

 

 

聖ヴィアンネの精神P282

 

 人はあるものを、それを手に入れた時の代価に応じて愛するものです。このことから、わが主が霊魂をどれほど愛しているかを考えてごらんなさい。主は霊魂を贖うために、その御血を一滴も余さず出しつくされたのです。主は霊魂と交わり、親しくなり、一致することに飢えておられます。主は一時も早く霊魂を見、話し合いたいと焦がれておられます。

 

 

コンソラータP54

 

イエズス:なぜ私が霊魂を指導してあげたいかというと、私だけが霊魂について、根本的に、完全に知っているから。私はあらゆる霊魂のうちに生きているので、どんなことにも気がつく。私は自分が聖なる者であるから、あらゆる霊魂が、私と一致して聖となってくれることを、飢えかわくように望んでいる。

 

 

コンソラータP111

 

解説より:

神との一致を熱望しながら、困難な道にさまよい、休息もせず飢えかわいている者がどんなに多いだろう。彼らのすぐ目前に、まっすぐでやさしく安全な道があるのに。―それは愛の道である!コンソラータは最も規則のきびしい観想修道会にはいっていたが、イエズスはコンソラータに、ただ愛のほか何も求めなかった。

 

イエズスのお示しがいっぱいしるしてあるコンソラータの日記には、「私のみを愛しなさい。」「常に私を愛しなさい。」「私を深く愛しなさい。」「私はあなたから愛のみを求めています。」などのことばが数百回繰り返されているのが見られる。それは創造主が被造物の愛を渇望したもう、絶え間なき、熱烈で、感動的なお招きである。

 

その愛を、神は大部分の人々、神に全く身をささげた多くの人々からさえ、完全にはお受けになれず、聖心の渇望をよく理解し、それにこたえる小さな霊魂の間を請い歩いて、その愛を求めていられるのである。

 

 

コンソラータP112

 

−イエズス−

 

「私は無邪気な幼児の心、愛を全部与えてくれる霊魂によって愛されたい。」(1935年10月15日)

 

全世界が愛の火に燃えるように、この小さい霊魂を通してイエズスは愛を求めたもう。

 

「コンソラータ、全世界のあらゆる霊魂のために、彼らに代って私を愛しなさい。私は愛に飢えかわいている。非常に!」(1935年10月13日)

 

「コンソラータ、私を愛して!私はかわく人が新鮮な水のわき出る泉を恋い慕うように、あなたの愛に飢えかわいている。」(1935年11月9日)

 

「コンソラータ、これを書きとめなさい。あなたが一度でも愛の心を起こしてくれたら、私は天国を創造するだろう。」(1935年11月3日)

 

「コンソラータ、あなたが絶えず私を愛してくれる時、私はあなたの心の中で天国を楽しむことができる!」(1935年11月9日)

 

 

マリア・ヴァルトルタ/自叙伝より/天使館/霊のパン2009年10月第5号/P58

 

 魂とイエズスとの間で交わされた対話の中でイエズスは尋ねます。「あなたは私の杯を飲めますか?」そして魂は答えます。「はい、飲めます。私は主のようになりたいのですから。麦の粒は死ななければ、実を結ぶことがないことを理解しましたから。十字架に架けられときのみ、魂は神に引き付けられることを理解しましたから。そしてとりわけ、あなたの渇きは愛のほかどんな飲み物も潤すことのできない渇きであることを理解しましたから」。

 

 

2.この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた(ヨハネ19・28)。

 

黙示録講解83

 

主がそのとき『わたしは渇いている』と言われたのは、主は主を承認する新しい教会を渇望されたためであった。(『渇くこと』は、霊的な意義では、渇望することを意味しており、そのことは教会の諸真理について述べられていることについては、「秘義」、4958,4976,8568番を参照されたい。)

 

 

黙示録講解519イ

 

 かれはわたしに苦いものを満たされた、かれはにがよもぎでわたしを酔わされた。それでわたしは言った、わたしの勝利はついえた(死に絶えた)エホバからのわたしの望みはついえた[死に絶えた]。わたしの悲惨とわたしの嘆きとを、にがよもぎと毒人参とを憶えたまえ(哀歌3・15,18,19)。

 

 これもまた主について言われている。主は当時ユダヤ人の間に存在した教会の中に誤謬と誤謬化された真理以外には何一つ見出されはしなかったことが『かれはわたしに苦いものを満たされ、にがよもぎで酔わされた』により意味され、『にがよもぎ』は真理と混じり合った悪の誤謬を意味し、かくて誤謬化されたものを意味し、主が地獄と戦われ、主がユダヤ国民を連れもどして真理を受け入れ、承認することに望みを失われたことは、『わたしの勝利は死に絶え、エホバからのわたしの望みは死に絶えた、わたしの悲惨とわたしの嘆きとを、にがよもぎと毒人参とを憶えたまえ』により意味されている、なぜなら悪の誤謬の中におりつつも、聖言の文字の意味から真理の中にいる霊らは、征服され、地獄に投げ込まれる以前には長い抵抗をつづけるからであり、かれらは真理を通して天界と交流しており、この交流とその結果(天界と)連結することは、かれらが投げ落とされる前に破壊されて、とり除かれなくてはならないからである、このことが勝利については絶望されたことを、主が『わたしは渇く』と言われ、かれらが主に酢を与えたさい、主が十字架上で経験されたような絶望を含んでいるのである。

 

 

天界の秘義2702

 

「渇く」

真理の愛と情愛の中にいる者は[真理を愛し、真理を求める情愛の中にいる者は]「渇く」と言われており、それ以外の者は「渇く」はずはないのである。

 

 

3.主の老い、疲れ

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P35

 

 神の子羊には時というものがなく、ただ存在するものです。この世の初めの日にそこにいたように、終わりの日も変わらない。父のようであるものは、自分の神的な本性においては老いを知らない。その人格においては、一つだけの老齢、一つだけの疲れを知っています。それは、多くの人々のために来たのは無駄だったという幻滅です。

 

 

4.主の死

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P36

 

主が弟子たちに:

私が殺されたと知ったとき―自分たちの主が、傷まみれのらい病者に変わったと見るであろう目は、いま私のそばで涙ぐみ、そのためにこの美しい丘さえもかすんでしまっているが―こう言いなさい。“この傷のために死んだのではなく、最も愛している多くの人々に無視され、あまりにも多くの人々から拒まれたからです”

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P20

 

主がラザロに:

もはや私は拷問の前に、愛の喪失によって殺されてしまったのです

 

 

5.主の内的なおん傷・・・無理解の傷

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻下P78

 

 人々はイエズス様の受難のことを、「すべて」外的な傷そのものとして話しますが、主の内的なおん傷について考える人が少ないことです!もしこの手記を読む人にとって何か有益なことができるとしましたら、私は無理解の傷ということについてあえて書きたいと思います。主は、ご自分の僕たちによっておん身体に、或いは被造界において空中や地上に造り出される外的な表示のすべてを利用して、苦悩全体、すなわちその「道徳的、霊的」そして身体的苦悩を全て含めて理解されることを望んでおられるのです。しかし、ああ悲しいことに、私たちは非常に度々、鞭打ち、茨の冠、そして十字架上での死で終わるイエズス様の身体的苦痛の玄義のみに留まってしまいます。しかし主のもっとも痛むおん傷とは、人々から理解されず、模倣されることもないということからくるものだということを、いったいいつになったら私たちは理解するでしょうか!

 

 私は、神父様、修道女、信徒達などが、血の涙、ご出現、奇跡、などの現象について、それに関するまことの思索や反省をすることなく、それらの意味について議論しているのを聞いたことがあります。全能の神様は、ご自分の子供達が神様について抱いている間違った概念によって毎日心が傷つけられておいでになります。なぜなら多くの人々は神について、それは小さな罪も罰し、『涙の谷』で人が死ぬままに放置し、人類から分離して天上にただ座っておられる神、という観念を抱き、つまり神の本質を偽りの観念の中にはめ込んでいるからです。

 

 聖なるおん父はそこで、その果てしない愛を特別な出来事によって確証を与え、慰め、新たに許すことによって仲介しにきてくださいます。このようなおん父とは、いったいなんと良い父親なのでしょう!このような創造主の愛とは、なんという愛なのでしょう!

 

 神様は常に手を差し延べておられ、そのみ心は常に注意深く、またあれこれと世話をやいてくださるお母さまでもあられ、永遠の存在、とご自分を呼ばせることにふさわしい唯一の方でいらっしゃいます!