求めなさい。そうすれば与えられる。

マタイ7.7

 

 

主を求めよ主(神)を知る願う

わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう(ヨハネ14・14)

 

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

4.ルイザ・ピッカレータ

5.ヴァッスーラ

6.サンダー・シング

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ6・6

 

だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 

 

マタイ6・8

 

彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

 

 

 

 

マタイ7・7−12

 

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

 

 

 

マタイ21・22

 

信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。

 

 

 

詩篇53・3

 

神は天から人の子らを見渡し、探される

目覚めた人、神を求める人はいないか、と。

 

 

 

詩篇69・33

 

貧しい人よ、これを見て喜び祝え。

神を求める人々には

健やかな命が与えられますように。

 

 

 

イザヤ65・1−2

 

わたしに尋ねようとしない者にも わたしは、尋ね出される者となり

わたしを求めようとしない者にも 見いだされる者となった。

わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。

反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に絶えることなく手を差し伸べてきた。

 

 

 

エレミヤ24・7

 

そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。

 

 

 

エレミヤ29・12−14

 

そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、 わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこ から呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。

 

 

 

ホセア6・3

 

我々は主を知ろう。

主を知ることを追い求めよう。

主は曙の光のように必ず現れ

降り注ぐ雨のように

大地を潤す春雨のように

我々を訪れてくださる。

 

 

 

ホセア6・6

 

わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく

神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。

 

 

 

使徒言行録17・23

 

道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。

 

 

 

使徒言行録17・27

 

これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見出すことができるようにということなのです。

 

 

 

イザヤ11・9

 

水が海を覆っているように

大地は主を知る知識で満たされる。

 

 

 

イザヤ65・1−2

 

わたしに尋ねようとしない者にも わたしは、尋ね出される者となり

わたしを求めようとしない者にも 見いだされる者となった。

わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。

反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に絶えることなく手を差し伸べてきた。

 

 

 

箴言2・5

 

あなたは主を畏れることを悟り

神を知ることに到達するであろう。

 

 

 

エレミヤ10・21

 

群れを養う者は愚かになり

主を尋ね求めることをしない。

 

 

 

エレミヤ31・34

 

彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。

 

 

 

エレミヤ29・13

 

わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。

 

 

 

 

エレミヤ29・13

 

わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1011

 

この法則は人は他の者からしてもらいたくないことを他の者にしてはならないという普遍的な法則から起っており(マタイ7・12)

 

 

 

天界の秘義2733

 

人は他の者から自分にしてもらいたくないことを自分も他の者にしてはならない。

 

 

 

天界の秘義8223

 

神的な秩序の法則

 

 

 

天界の秘義9049

 

秩序の法則

 

 

 

真の基督教226

 

 

 

啓示前による黙示録解説376

 

また主は彼らが求めるとき、与えられるのである、マタイ7・7、8、21・22、ヨハネ14・13、14、15・7、16・23−27。しかしそれでも主が彼らに求めることを、また何を求めなくてはならないかを与えられるのであって、それで主はそれを前もって知っておられるが、しかしそれでも主は人間が先ず求めることを望まれておられ、それは人間がそれを自分自身から行うものとして行って、かくてそれが彼のものとなるためである。もしそうでないなら、もしその祈願そのものが主から発していないなら、それらの所で、『彼らは何であれ、その求めるものを受ける』とは言われないであろう。

 

 

 

天界の秘義10290

 

「エホバはモーセに言われた」(出エジプト30・34)。これは聖言を通して主により明るくされ、認識することを意味していることは以下から明白である、すなわち、『言うこと』の意義は、それがエホバから言われているときは、明るくされて、認識することであり(それが明るくすることを意味していることについては、7019、10215、10234番を、それが認識することを意味していることについては、1791、1815、1819、1822、1898、1919、2080、2862、3509、5877番を参照されたい)、モーセの表象は聖言である(6752、7014、7089番)。聖言の『エホバ』が主を意味していることについては、9373番に引用されたところを参照されたい。ここから『エホバがモーセに言われた』により主により聖言を通して明るくされ、認識することが意味されていることが明らかである。

 

 

 

[]このことが意味されていることは主は教会の人間とは聖言以外のいかような方法によっても話されはしないためである、なぜなら主はそのとき人間を、かれが真理を認識するように明るくされ、またかれに、それがそうであることを認める認識を与えられるからであるが、しかしそれはその人間における真理を求める願望の質に応じて行われており、人間における真理を求める願望はその真理を求めるかれの愛に従っているのである。真理のために真理を愛する者たちは明るくされるのであり、善のために真理を求める者たちは認識するのである(認識の何であるかについては、483、495、521、536、597、607、784、1121、1387、1919、2144、2145、2171、2515、2831、5228、5920、7680、7977、8780番を参照)。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第3巻中/P150/

172・5−7

 

 あなたたちはどのように祈らねばならないかを聞きなさい。唇をもって、仕事をもって、あなたたち自身のすべてをもって、を、そうです、その祈りを聞いておられるを愛する心の衝動に駆られて、しかし、創造主は誰であり、被造物とは何かをも常に思い出し、祈っていようが商いをしていようが、歩いていようが休息していようが、稼いでいようが人助けをしていようが、常にの御前に畏敬をこめた愛を抱いて止まることです。

 

 心の衝動に駆られて、とわたしは言いました。これは第一のそして本質的な資質です。なぜならすべては心から生まれ、心がそうであるように理性がそうであり、言葉が、視線が、行為がそうであります。正しい人はその正しい心から善を外に引き出し、引き出せば引き出すほど善を見出します。なされた善は、ちょうど血液の循環において新しくなり、吸収された酸素から、また消化された食物の液から引き出した常に新鮮な要素で豊になった心臓に戻る血のように、新しい善を産むからです。それに反して、邪な行為と毒で一杯のその暗黒の心からは、正しい心のうちに積み重ねられるの祝福とは逆に、積み重ねられる罪によって力づけられてますます増える邪な行為と毒しか引き出すことが出来ません。唇から溢れ出し、行為に示されるそれは、心の旺盛さでもあることを信じなさい。

 

 あなたたちは謙遜で、清く、愛深く、信頼に満ちた誠実な心の人となりなさい。花婿の前で慎ましく恥らう処女の愛をもってを愛しなさい。真実にあなたたちに言いますが、どの霊魂も永遠の愛する御者(アマト―レ)、われらのなるに嫁いだ一人の処女なのです。この地球は婚約時代であり、そこで一人ひとりに与えられる守護の天使は、わたしたちの人生の全時間を通して花婿の家へ案内する霊的付き添い人であり、また臨終の時に婚礼衣裳を整える侍女でもあるのです。死の時は完結した婚礼の時であり、その時、認識、抱擁、融合がなされ、霊魂は完結した花嫁の資格でそのベールを上げ、そのの腕の中に身を投じることが出来るのです。このように花婿を愛するために、他者をスキャンダルに誘うことも無く。

 

 しかし今は、おお、まだとの婚約関係に置かれている霊魂よ、花婿に語りかけたい時には、あなたたちの住まいの平和のうちに、また何にもましてあなたたちの内奥の住まいに身を置き、守護の天使に付き添われた肉の天使よ、天使たちのに話しなさい。あなたたちの心の、あなたたちの内面の部屋で密かにあなたたちのと語りなさい。世である一切のもの、すなわち注目を引こうとする切望、お手本になろうとする下心、言葉、言葉、言葉で埋められる単調で生温く、また愛の血の気の失せた冗長な祈りに対する小心翼々とした観念など、すべて外に放っておきなさい。

 

とんでもない! あなたたちは祈りにおける物差しから自由になりなさい。実際、唇だけで繰り返されるモノローグで、また中味の無い音なので、彼の愚かな被守護者のために、燃えるような祈りに没頭してその対策を講じようとする守護の天使にさえも聞き取れぬまさに独白で何時間も無駄にしている者がいます。実際、彼らにが出現し『世の救いは、もしかしたら、わたしとあなたたちの同胞への愛のために、あなたたちのこの魂のこもらない話を止めて、ただ単に、井戸から水を汲み、それを地面に撒きに行くことにあります』と言ったとしても、その時間を別のことに振り向けない者たちがいます。実際、一人の訪問者を親切に迎え入れる行為や困窮している人を助ける愛徳の行為よりも、彼らの独白の方が偉大であると思い込んでいる者たちがいます。祈りという偶像礼拝に堕落した霊魂たちです。

 

 祈りは愛の行為です。また祈りながらもパンを焼きながらも、黙想しながらも病人を看護しながらも、神殿に巡礼しながらも家族の世話に専心しながらも、子羊の生贄を捧げながらものうちに潜心したいというわたしたちの当然の熱望を犠牲にしながらも愛することは出来ます。自分自身のすべてとそのあらゆる行為を愛に浸すだけで足りるのです。恐れてはなりません! は御覧になっています。は理解なさいます。は耳を傾けておられます! は譲与されます。たった一つの、真実の、完全な愛の溜息に対してさえ、与えられなかった恵みがあったでしょうか! 愛を込めてなされた内奥の犠牲にはどれほど豊な恵みが注がれていることか。あなたたちは異邦人のようであってはなりません。あなたたちに必要だからといって、あなたたちがにこうしてくれ、ああしてくれと言う必要はにはありません。異教徒たちなら彼らを理解することの出来ない偶像たちにそれを言うことが出来ます。あなたたちはに、であるのみならずあなたたちのであり、あなたたちが祈り求める前に何が必要かを御存じの真の、霊的にそれを言う必要はないのです。

 

 求めなさい。そうすれば与えられるでしょう。捜しなさい。そうすれば見つけるでしょう。叩きなさい。そうすれば開かれるでしょう。求める者は受け、捜す者は見つけ、叩く者は開けてもらえます。あなたたちのうちで、自分の子がパンを求めているのに石を与える者がいるでしょうか? また魚を求めているのに蛇を与える者がいるでしょうか? いいえ、むしろパンと魚を与えた上に、愛撫と祝福を与えるでしょう。一人の父親にとってその子を養い育て、その幸せな微笑を見るのは甘美なことだからです。したがって、不完全な心の持ち主であるあなたたちが、動物にも共通する、子らに対する自然な愛情によるだけで、良い物を子らに与えることを知っているのなら、におられるあなたたちのが、良い物を求める者たちに、彼らの善を願って必要な物を賜わらぬことがあるでしょうか。求め、願うことを恐れてはならず、それを得なくても恐れてはなりません!

 

 しかしながら(わたしはあなたたちが容易に陥る謬りの危険に気をつけろと言う)信仰において、愛において弱い者たち、真の宗教を知らない異教徒たちのようであってはならず―なぜなら信じる者たちの中にも異教徒たちがいるからで、この哀れな宗教は、迷信と宗教の、ある種のもつれであり、そこにあらゆる種類の寄生植物が忍び込み、粉々に粉砕する寸前の建物だから―弱くて異教徒である彼らは、もし自分たちの祈りが聞き入れられないと見るや信仰が死ぬように感じてしまいます。

 

 あなたたちは求めます。そして求めるのは正しいかに思われます。事実その通り、その時には、その恵みは不適切ですらないでしょう。しかし、人生はその時で終わりません。また、きょう善であるものは明日は善ではないこともありえます。あなたたちはただ現在だけを知っているからこれを知らないし、これもの恵みであることを知りません。しかしは未来も御存知です。一つの最大の苦しみをあなたたちにさせないために、しばしば一つの願いを聞き入れないままにしておかれます。

 

 わたしの公生活中に、わたしは一度ならず苦悶する心が次のように言うのを聞きました。『神がわたしの懇願を聞き入れてくださらなかったあの時、わたしはどれほど苦しんだことか。でも今、わたしは<あれでよかったのだ、なぜならあの時お願いした恵みは、わたしがのこの時に達するのを妨げただろうから>と言います』と。他の者たちはわたしに『よ、なぜわたしの願いを聞いてくださらないのですか?みんなにはそうなさるのに、わたしにはなぜそうしてくださらないのですか?』と言うのを聞きました。それでもなお、その苦しみを見て悲しみつつも、わたしは『出来ません』と言わねばなりませんでした。なぜなら彼らの願いを聞き入れることは、彼らの完全な生命への飛翔を妨げることになりかねなかったからです。も時としておっしゃいます。『わたしには出来ない』と。それはたちどころに聞き入れることがお出来にならないからではありません。ただ、それに続く未来を御存じだから聞き入れようとなさらないのです。

 

 耳を傾けなさい。一人の男の子が腸の病気に罹っています。母親は医者を呼び、医者は『この子を治すには絶対に断食させる必要がある』と言います。男の子は泣き、喚き、哀願し、衰弱してゆくかに見えます。慈愛溢れる母親は自分の嘆き悲しみを息子のそれと一つにします。彼女は息子の号泣と断食が彼に有害なのではないかと疑います。しかし医者は情け容赦なく彼女の考えを退けます。そして最後に言います。『女人よ、わたしはあなたの知らないことを知っています。あなたは坊やを失いたいのですか、それともわたしが坊やを救うのを望むのですか?』と。『この子を生かして!』と母親は叫びます。医者は言います。『それじゃ、わたしは坊やに食物をあげることは出来ません。死ぬでしょうから』と。もそうおっしゃいます。『わたしには出来ない。それがあなたに悪いことを知っているから』と。『我がよ、わたしの愚かさを聞き入れてくださらなかったことを感謝します!』と言う日が、あるいは永遠がそのうちやって来るでしょう。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P67

 

「神となった愛とは何かを知れば、おまえは空や海でなく、炎の渦巻に、巻き込まれ、死と命からなる幸福に吸い寄せられます。神を全く所有するとは、自分の意志で理解する恵みを与えられるということです。その時に、神の完全さで全き一致をすることができます」

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P216

 

“学問がもし神に基づかないなら、人間を高めるよりも人間の品位を失わせる誤謬となる”神に基づいて知る知識を持っている人は、倒れることはない。自分の品位を感じ、自分の永遠の未来を信じているからである。しかし、現存の神を探すべきである。神ではなく霊的な無智で包まれている人間のうわ言にすぎない幻の神々ではなく、まことの神を探すべきである。そのような神々の宗教では知恵のかげもなく、その信仰には真理のかげもない。知恵者となるためには、どんな年でもよい。また、ヨブの書にこう言われている。

 

“あなたの生活は昼よりも輝き、

暗ささえも暁のように思えるだろう。

また希望に満ちて心安らかにおり、

守られて安全に住むことだろう”(ヨブ1・17〜18)

真理を見つけたいという善意さえあれば、遅かれ早かれ、その真理に出会う。

 

 

 

 

聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P248

 

 信仰、希望、愛徳はマリアからもたらされます。彼女は神に至る門なのです。慎ましさ、公明正大さ、力強さ、思慮分別が彼女からもたらされます。恩寵と数々の恵みが彼女からもたらされます。世の救いは、彼女を通して出現するのです。

 おお、わが母よ! 大祭司から最後の平信徒にいたるまでのすべての信者にとって、あなたは聖なる聖体容器(チボリューム)です。その中で聖体は信じるもの誰にでも与えられるために待機しているのです。一切の神の恵みがあなたの汚れなき身体と無原罪の御心を通して流れ出ます。あなたに神秘と真実、秘跡と賜物を求めるものだけが、真の知恵によって神の恵みを理解し、真の意味でそれを味わい、実を結ぶことが出来るのです。あなたは霊魂と太陽、神と霊魂の間にあるスクリーンです。人類はあなたを通して神性を観想し、あなたを通して人間性が完全なる神に捧げられるのです。かつて神を人類に与えた母は、いまや、その微笑みと愛をもって人類に教えることによって、今度は人類を神に与えるのです。

 わが小さなヨハネよ、いつでも御母マリアを通して私のところに来なさい。これは聖人たちが用いる秘訣です。そして彼女は閉ざされた扉です。いまだに人間の暴力では打ち破られたことがなく、これからも決して無理に開けることはできません。彼女は神の子供たちが愛をこめてノックするときにだけ、扉を開けるのです。御母に向けられた魂が謙遜で純粋であればあるほど、御母はよりすばやく扉を開け、あなたを歓迎します。彼女はあなたを母親として優しく腕のなかに抱きかかえて歓迎し、知恵と愛について教えるのです(『手記‘44』8月2日)。

 

 

 

 

4.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P224

 

事実、人がまったく神のものとなるまでに達したとき、自分が望むことを獲得するためには何の困難も見いだすことがありません。なぜならその人は、神が好まれること以外に、何も求めることができないからです。

 

 

 

 

5.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P195

‘88・4・20

 

♡ 花よ、分からないか? 気がつかなかったか? さあ、教えよう: 時の始めから さまざまな場所で、時代も異なる諸民族にたいし、自らを現してきた、ヴァッスーラ、あなたの時代が今や私の印に気づくことができないのはなぜか? 私自身を そして私の印を現すのを止めると、一度でも言ったことがあるか? あなたの時代は死に 自分自身の指で荒廃をもたらしている・・・私は主の主、生ける神。 どうして私に沈黙を強いるか? 死んでいてもらいたがるか? ヴァッスーラ、以前も今も被造物がどうなってしまったかを見せてきた、理解してほしい、私は 結ばれているあなたを 引きずりながらこの荒野を渡っている、過去のこと、今までどうであったか そして残されているものを、示しながら ♡ あなたを傷つけることのないように 私は茨を鋤き 棘を伐り落としている、あなたに触れるなら、ずたずたに、引き裂くであろうから 子よ ♡ ともにいてあなたの道を切り開いている、限りなく愛しているので 私たちの行く手で 茨に捕えられ 傷つき死ぬほど刺されてほしくない! 彼らが近づくだけで あなたを完全な苦しみに陥れるに十分であるのを知っている、このすべてが見え 我がヴァッスーラ 私の心は深く傷ついている、しかし 愛する者よ すべての犠牲はむなしくはならない ♡ ああ どのように愛するか 霊魂よ。 私を探し求める者は本当に私を見出す ♡ 叩きなさい そうすれば本当に戸を開ける、さあ 私の現存を思い出させよう ♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P23

 

私を探しなさい そうするなら見いだす、叩きなさい 戸は開かれる。たとえあなたが:「主の御心に踏み込むなど とうてい私にはできない」と言おうと、私は言う:「あなたは私の子ども、私のものであって私が蒔いた種子。私に属するのであって誰のものでもない。あなたは私に由来し 誰から来たのでもない。それゆえ 我が心の中にいてほしい。」―そう、まだ私を探していなかったかも知れない だが私はあなたを見いだした。これが、我が子 日本よ、あなたへのメッセージ。あなたを祝福し、額に 我が愛の溜息を残す。

 

 

 

 

6.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P337

 

求める者は見出し、見出す者はさらに求めることは、誰しも経験することである。「わたしをすでにみつけていなければ、あなたがわたしを探すはずがない」とパスカルは書いている。人が神の臨在をまったく経験していなければ、神を見出そうとするもしないも同じことであろう。神は、事実すべての人にその臨在感をお与えになっているが、さらに神を探そうとするかどうかは人間自身にかかっている。神は、われわれを全員の手の届く範囲におられるが、神をつかむためには心が神に同調している必要がある。大気中を飛び交う歌や曲、話などのラジオ放送をとらえるには、放送に同調できる受信機を持っている必要がある。同調することがなければ、放送があってもなくても同じことになる。

 

 ある真理探求者が自分の体験を次のように話してくれた。

「前に奉じていた宗教には、慰めのようなものはあっても平和がありませんでした。この慰めがわたしの中に真の平和を求める願いをかき立て、求めているうちに、ゆっくりと平和の源へ導いてくれたのです。この地点に辿り着いたときに、わたしはこのような衝動と心の満ち足りがいずれも生けるキリストから来ることを知りました。今、わたしは安らぎをみています。