主を求めよ

 

わたしに尋ねようとしない者にも わたしは、尋ね出される者となり(イザヤ65・1)

求めなさい。そうすれば与えられる。(マタイ7・7)

イエズスのほかに、もっとすぐれたものをさがすことはいらない

 

 

 

 

1.主を求めよ(聖書より)

2.父を知ることは出来ないか?

3.神を全く所有する

4.神は愛の中に見つけられる

5.神を知る

6.主を畏れることは知恵の初め

7.サンダー・シング

 

 

 

 

1.主を求めよ(聖書より)

 

 

詩篇9・11

 

主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。

 

 

 

詩篇10・4

 

神に逆らう者は高慢で神を求めず

何事も神を無視してたくらむ。

 

 

 

詩篇14・1−4

 

神を知らぬ者は心に言う

「神などない」と。

人々は腐敗している。

忌むべき行いをする。

善を行う者はいない。

 

主は天から人の子らを見渡し、探される

目覚めた人、神を求める人はいないか、と。

だれもかれも背き去った。

皆ともに、汚れている。

善を行う者はいない。ひとりもいない。

 

悪を行う者は知っているはずではないか。

パンを食らうかのようにわたしの民を食らい

主を呼び求めることをしない者よ。

 

 

 

詩篇22・27

 

貧しい人は食べて満ち足り

主を尋ね求める人は主を賛美します。

いつまでも健やかな命が与えられますように。

 

 

 

詩篇24・3−6

 

どのような人が、主の山に上り

聖所に立つことができるのか。

それは、潔白な手と清い心をもつ人。

むなしいものに魂を奪われることなく

欺くものによって誓うことをしない人。

主はそのような人を祝福し

救いの神は恵みをお与えになる。

それは主を求める人

ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。

 

 

 

詩篇40・17

 

あなたを尋ね求める人が

あなたによって喜び祝い、楽しみ

御救いを愛する人が

主をあがめよといつも歌いますように。

 

 

 

詩篇42・2

 

涸れた谷に鹿が水を求めるように

神よ、わたしの魂はあなたを求める。

 

 

 

詩篇53・2−3

 

神を知らぬ者は心に言う

「神などない」と。

人々は腐敗している。

忌むべき行いをする。

善を行う者はいない。

 

神は天から人の子らを見渡し、探される

目覚めた人、神を求める人はいないか、と。

 

 

 

箴言8・17

 

わたしを愛する人をわたしも愛し

わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。

 

 

 

イザヤ45・15

 

まことにあなたは御自分を隠される神

 

 

 

イザヤ45・18,19

 

主は、こう言われる。

わたしが主、ほかにはいない。

わたしは隠れた所で、地の闇の所で語ったことはない。ヤコブの子孫に向かって混沌の中にわたしを求めよ、と言ったことはない。

わたしは主 

正義を語り、公平を告知する者。

 

 

 

イザヤ45・21

 

意見を交わし、それを述べ、示せ。

だれがこのことを昔から知らせ

以前から述べていたかを。

それは主であるわたしではないか。

わたしをおいて神はない。

正しい神、救いを与える神は

わたしのほかにはない。

 

 

 

イザヤ45・22

 

地の果てのすべての人々よ

わたしを仰いで、救いを得よ。

わたしは神、ほかにはいない。

 

 

 

イザヤ55・6

 

主を訪ね求めよ、見いだしうるときに。

呼び求めよ、近くにいますうちに。

 

 

 

イザヤ58・1,2

 

喉をからして叫べ、黙すな

声をあげよ、角笛のように。

わたしの民に、その背きを

ヤコブの家に、その罪を告げよ。

彼らが日々わたしを尋ね求め

わたしの道を知ろうと望むように。

 

 

 

イザヤ59・1−3

 

主の手が短くて救えないのではない。

主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。

むしろお前たちの悪が

神とお前たちとの間を隔て

お前たちの罪が神の御顔を隠させ

お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。

お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ

唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。

 

 

 

イザヤ64・3

 

あなたを待つ者に計らってくださる方は

神よ、あなたのほかにはありません。

 

 

 

イザヤ65・1,2

 

わたしに尋ねようとしない者にも わたしは、尋ね出される者となり 

わたしを求めようとしない者にも 見出される者となった。

わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。

反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に 絶えることなく手を差し伸べてきた。

 

 

 

エレミヤ9・23

 

むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい

目覚めてわたしを知ることを。

わたしこそ主。

 

 

 

エレミヤ10・21

 

群れを養う者は愚かになり

主を尋ね求めることをしない。

 

 

 

エレミヤ13・17

 

あなたたちが聞かなければ

わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。

涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。

主の群が捕らえられて行くからだ。

 

 

 

エレミヤ16・20,21

 

人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうかと。

それゆえ、わたしは彼らに知らせよう。今度こそ、わたしは知らせる

わたしの手、わたしの力強い業を。

彼らはわたしの名が主であることを知る。

 

 

 

エレミヤ24・7

 

そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・10・

 

[]わけても主がおん愛の甘美さを私に示したもうとのは、私がまだ存在していなかった時私を創造り、私が主をはなれて遠くさまよっていた時、私を連れもどってふたたび主に仕えさせ、私に主を愛するよう、お命じになったことであります。

 

[]ああ永遠の愛の泉よ、私は主のことをどう言ったらよろしいでしょうか?私が腐敗し堕落したのちにも、まだ私を覚えていてくださった主を、どうして私は忘れることができましょうか?

 主はまったく思いもよらぬおん哀れみを、主のしもべに施し、その功勲(いさおし)をはるかに越える恩恵と友情とをお示しになりました。

 

 

 

エレミヤ29・12,13

 

そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。

 

 

 

使徒言行録17・27

 

これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。

 

 

 

ローマ1・19、20、21

 

なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P216

 

“学問がもし神に基づかないなら、人間を高めるよりも人間の品位を失わせる誤謬となる”神に基づいて知る知識を持っている人は、倒れることはない。自分の品位を感じ、自分の永遠の未来を信じているからである。しかし、現存の神を探すべきである。神ではなく霊的な無智で包まれている人間のうわ言にすぎない幻の神々ではなく、まことの神を探すべきである。そのような神々の宗教では知恵のかげもなく、その信仰には真理のかげもない。知恵者となるためには、どんな年でもよい。また、ヨブの書にこう言われている。

 

“あなたの生活は昼よりも輝き、

暗ささえも暁のように思えるだろう。

また希望に満ちて心安らかにおり、

守られて安全に住むことだろう”(ヨブ1・17〜18)

真理を見つけたいという善意さえあれば、遅かれ早かれ、その真理に出会う。

 

 

 

 

2.父を知ることは出来ないか?

 

 

マタイ7・7−12

 

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

 

 

 

ルカ11・9−13

 

 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。

 

 

 

マタイ11・25−27

 

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

 

 

 

マタイ5・8

 

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

 

 

 

ヨハネ4・21−26

 

イエスは言われた。

「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 

 

 

ヨハネ6・46

 

父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。

 

 

 

ヨハネ8・19

 

もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。

 

 

 

ヨハネ8・19

 

彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」

 

 

 

ヨハネ14・7

 

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。

 

 

 

ヨハネ14・9

 

フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。

 

 

 

ヨハネ14・24

 

あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

 

 

 

ヨハネ16・25

 

わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。

 

 

 

ヨハネ17・3

 

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

 

 

 

ヨハネ17・26

 

わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。

 

 

 

 

3.神を全く所有する

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P67

 

「神となった愛とは何かを知れば、おまえは空や海でなく、炎の渦巻に、巻き込まれ、死と命からなる幸福に吸い寄せられます。神を全く所有するとは、自分の意志で理解する恵みを与えられるということです。その時に、神の完全さで全き一致をすることができます」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P216

 

“学問がもし神に基づかないなら、人間を高めるよりも人間の品位を失わせる誤謬となる”神に基づいて知る知識を持っている人は、倒れることはない。自分の品位を感じ、自分の永遠の未来を信じているからである。しかし、現存の神を探すべきである。神ではなく霊的な無智で包まれている人間のうわ言にすぎない幻の神々ではなく、まことの神を探すべきである。そのような神々の宗教では知恵のかげもなく、その信仰には真理のかげもない。知恵者となるためには、どんな年でもよい。また、ヨブの書にこう言われている。

 

“あなたの生活は昼よりも輝き、

暗ささえも暁のように思えるだろう。

また希望に満ちて心安らかにおり、

守られて安全に住むことだろう”(ヨブ1・17〜18)

真理を見つけたいという善意さえあれば、遅かれ早かれ、その真理に出会う。

 

 

 

 

4.神は愛の中に見つけられる

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P344

 

神は愛のない所にはおられません。愛のない所に神を探すことは無駄です。その前に神を見出す条件を揃える必要があります。神は愛の中に見つけられます。愛に固く立っている人は苦労して探さなくとも神を見つけ、そして神を有する人の事業は成功します。

 

 

 

 

5.神を知る

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P204

 

 私を受けるには、体の認識は必要な唯一のものではありません。徳によって知られざる神を感じ、そしてこの神を尊敬しつつ、徳に生きる人は、神を知ったと言えます。神は、その人の徳の報いとして、ご自身を現されたからです。

 

もし直接、私を知る必要があるなら、大変なことになります。だれ一人直接、私に近寄ることはできなくなります。間もなく生者は、死者の国を去って、生命の国に戻るでしょう。そのとき人間は、信仰と霊によって私を知るだけであって、他に方法はありません。

 

しかし私に対する知識はやむことなく、完全なものとして広がるでしょう。そのとき人は、感覚の重さを捨て去るからです。神は話し、神は行う。人々は神なる人を愛し、神なる人は新しい手段をもって、その無限の愛をすべて果たしてから御父に立ち返ります。

 

 

 

アヴィラのテレサ/自叙伝37章・2(P489)

 

よりよく神を知る者は、より多く彼を愛し、たたえると私は知っておりますから。

 

 

 

ホセア6・3−6

 

我々は主を知ろう。

主を知ることを追い求めよう。

主は曙の光のように必ず現れ

降り注ぐ雨のように

大地を潤す春雨のように

我々を訪れてくださる。」

 

エフライムよ

わたしはお前をどうしたらよいのか。

ユダよ、お前をどうしたらよいのか。

お前たちの愛は朝の霧

すぐに消えうせる露のようだ。

それゆえ、わたしは彼らを

預言者たちによって切り倒し

わたしの口の言葉をもって滅ぼす。

わたしの行う裁きは光のように現れる。

わたしが喜ぶのは

愛であっていけにえではなく

神を知ることであって

焼き尽くす献げ物ではない。

 

 

 

 

6.主を畏れることは知恵の初め

 

 

詩篇111・10

 

主を畏れることは知恵の初め。

これを行う人はすぐれた思慮を得る。

主の賛美は永遠に続く。

 

 

 

箴言1・7

 

主を畏れることは知恵の初め。

無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

 

 

 

箴言9・10

 

主を畏れることは知恵の初め。

聖なる方を知ることは分別の初め。

 

 

 

ヨブ記28・27−28

 

神は知恵を見、それを計り

それを確かめ、吟味し

そして、人間に言われた。

「主を畏れ敬うこと、それが知恵

悪を遠ざけること、それが分別。」

 

 

 

天界の秘義353

 

誤った理知と知恵とは神的なものを承認しない凡てのものである、なぜなら神的なものを承認しないで、神的なものの代わりに自然を承認する者は凡て、世では如何ほど教育があり、学問があると信じられていても、形体的な感覚的な面から考えていて、たんに感覚的な者にすぎず、彼らの学問は、世で目から見られる物をこえて昇らず、その目で見る物を記憶にしまいこんで、ほとんど物質的に眺めているが、しかしその同じ科学は真に理知的な者には理解を形作るのに役立っているのである。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P151

‘00・1・20

 

言い換えるなら、私を知ることによって、霊魂と精神は 我が超越的な光と栄光で満たされる。 霊魂は我が神性、私自身に満たされる。 そのとき そのとき初めて、心は規律に従い 耳は教えを聞き、こうして真理を手に入れ それを心から大切にする。 あなた方の性質そのものさえも、まこと愛する者たちよ、変容して 我が神性をおびる。 あなたの霊に我が霊を授け そして我が霊によって私の統治、という大いなる富を与えるために、たゆまずあなたのうちより不純物を取り除いてきた我が聖霊が あなた方の一切の意図を動機づけるようになる。

 

あなた方はこう尋ねよう、「では神を理解するとは どういうことでしょう?」と。 私を理解することは英知の第一原理。 それは私をあなたの神として認め 私を畏れること、私を畏れるとは あらゆる悪を避けること。 地上にいながら 霊的な目で私を見ることが望ましい。地上にいる間に私を味わっておくのは本来あなた方一人ひとりがすべきこと。 どの霊魂にとっても このヴィジョン(*)を探し求めることが肝要であり もし私の高み(*1)に霊魂がまだ達し得ていないなら、観想をもって自らの霊を引き上げるように 忍耐強く努力し続けなさい。ほかにどうやって あなたの神を知り得ようか? 私を見たことがないとすれば、三たび聖なる我が光をまとう私の息子 娘たちの一人に どうしてなれようか?

 

 

7.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P321

 

「あなたご自身をお与えください」―それこそが真の祈りなのであります。願う人は、主の中においてしか、けっして満たされることはありません。