知識

 

主(神)を知る梯子

教えられなければ記憶知

富は、天に積みなさい(マタイ6・20)

空疎

 

 

 

 

1.知識・・・信仰の基礎

2.神に対する知識

3.知識の不足・無知

4.神に基づく知識

5.伝承・・・死んだ知識

6.知識により人間は人間になる

7.善と真理との連結は知識の増大に応じて生まれる

8.たとえそれが聖言の内的な知識の記憶知であるにしても

9.知識は手段

10.愛の信仰において完全なものになるために知識を学ぶ者たち

11.ルイザ・ピッカレータ

12.それが満たされるに応じて、その人間は明るくされる

13.その倉庫が豊かであり、確認された誤謬から自由に解放されているに応じて、与えられる認識は益々明るくされており

14.知識は鍵

15.ヨルダンの水路

16.たれ一人教えられなくては天界へ入る準備をすることが出来ない

17.認知〔知識〕が増大するに応じて、その観念〔考え〕も益々増大する

18.真理と善とに関わる知識が霊的な人の富

19.なぜなら後の者が多くの知識により探求するものを前の者はすでに持っているからである

20.理解は知識に応じて高められることが出来るが、意志は教会と宗教との真理に一致した生活によってのみ高められる

21.神は、各人に、その人間の神に関わる知識に神の認識を流入し給い

22.悪と誤謬とは何であるかを学んで知らない中は、教育されない中は悪と誤謬に反抗して戦うことは決して出来ない

23.理解の補助者

24.視野は人間の記憶の中に在る記憶知

25.『門』により聖言から発した真理と善とに関わる知識が意味されているのは、その知識により人間は教会へ導き入れられるため

26.人間は信仰の幾多の知識により改良され、再生される

 

 

 

 

1.知識・・・信仰の基礎

 

 

スウェーデンボルグ/信仰/28

 

材料の倉庫は最高度に必要なものである。それは信仰はそれがなくては形作られることが出来ないためである。なぜなら真理と善との知識は信仰に入って、信仰を作るため、もし知識がないなら、信仰は存在することは出来ないからである、なぜなら全く(内容の)空虚な信仰は有り得ないから。もし知識が乏しいならそれに従って信仰も非常に小さくて痩せこけており、もし知識が豊富なら、それに応じて信仰も豊かで、完全なものになるのである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/信仰/27

 

 しかしこれらの知識はすべて、その数はいかほどあろうとも、またその性質はいかようなものであろうと、単に仁慈の信仰が形作られる材料の倉庫にしか過ぎないのであって、この信仰はその人間が悪を罪として避けるに比例してのみしか形作られることは出来ないのである。もし彼が悪を罪として避けるなら、その時はこれらの知識は霊的生命を内に宿した信仰の知識となるのである。しかしもし彼が悪を罪として避けないなら、その時はこれらの知識は知識以外の何ものでもなく、何らかの霊的生命を内に宿している信仰の知識とはならないのである。

 

 

 

天界の秘義1171[4]

 

エゼキエル書には―

 

シバとラーマとの貿易人、これらの者は凡ゆる香料の主要なものを、凡ての宝石をあなたと交易した者であった、かれらはあなたの助けのために黄金を与えた(17・22、23)。

 

これはツロについて言われている。ここに『シバとラーマ』により意味されているものは、香料、宝石、金であると言われているかれらの商品から明白である。『香料』はその内意では仁慈であり、『宝石』は仁慈から発した信仰であり、『黄金』は主に対する愛であり、その凡ては『シバ』により意味されている天的な事柄である。元来こうした事柄の知識が『シバ』であり(それでそれらはここに『商品』と呼ばれているが)、教会の人間になりつつある者たちは凡てそうしたものに浸透するのである、なぜならたれも知識がなくては教会の人間になることができないからである。

 

 

 

天界の秘義1171[5]

 

これに類似した事柄がソロモンのもとへ来て、香料、黄金、宝石を携えて来たシバの女王により表象され(列王記上10・1−3)、また東から来た賢人たちによっても表象されたのである。すなわち、かれらはイエスが生まれたもうた時その許に来て、平伏し、これを拝し、宝物を開いて、黄金、乳香、没薬の捧物を捧げたのであるが(マタイ2・11,12)、そうした捧物により善が、すなわち、天的な、霊的な、自然的な善が意味されたのである。エレミヤ記には―

 

 何の目的にシバからわたしのもとに乳香が、遠い国から甘美なしょうぶが来るのか。あなたらのはん祭は受け入れられはしない(6・20)。

 

ここにもまた『シバ』により知識と崇拝とが意味されていて、その知識と崇拝とが『香料』と『しょうぶ』であるが、しかしこの場いいそれらは仁慈を欠如したものであって、嘉納されはしないことが明白である。

 

 

 

天界の秘義1176

 

内的な事柄にかかわる知識とは彼らが教義的なものと呼んでいるものであって、彼らはまたそれを祭儀から区別しているのである。例えば、彼らの主要な教義は信仰のみが救うということであるが、しかし彼らは主に対する愛と隣人に対する愛とが信仰そのものであることを知っておらず、彼らが信仰と呼んでいる知識は、その知識によって人間が主から主に対する愛と隣人に対する愛とを受けることが出来るという目的以外のためには存在していないことを知っておらず、またそれが救う信仰であることを知っていないのである。前に述べたような礼拝を生み出し設立する者らは信仰を知識にのみ成立させる者である。

 

 

 

天界の秘義1489

 

「アブラハムの妻、サライのために」。

 

これは、天的なものに接合されねばならなかった真理のために、を意味していることは『妻』の意義から明白であり、従って『妻サライ』の意義から明白であり、それは天的なものに接合されなくてはならない真理であって、それについては前の十二節を参照されたい。実情は以下のようである、すなわち、子供時代に人間を合理的なものにする用を遂行した知識が破壊されて、無とならない限り、真理は天的なものに決して連結されることはできないのである。これらの最初の記憶知の大半は地的なものであり、形体的なものであり、世的なものである。子供が学ぶ教えはいかほど神的なものであるにしても、かれはそれについてはそのような知識から得られる考え以外にはいかようなものも持っていない、それでかれの考えが起ってくる源泉であるその最も低い知識がかれに密着している限り、かれの心が高揚されることはできないのである。

 

 

 

天界の秘義1802[4]

 

このことは全般的に何かの真理を説きつけられる者にも当てはまるのであって、その全般的な真理の個々のものを、またその個々のものの単一のものを―それらは全般的な真理を確認させるものであるが―かれは恰も自分自身で、または自発的に学ぶかのように、容易に学ぶのである、なぜならかれは全般的な真理により、心を動かされ、そこからまた(その全般的真理を)確認させるところの、その同じ全般的真理の個別的なものと単一的なものにより心を動かされるからである、なぜならこれらのものは歓喜と愉しさとをもってその全般的な情愛の中に入り、かくて絶えずそれを完全なものにするからである。これらのものがかれらが『嗣子[相続人]』と呼ばれる理由ともなり、また主の王国を嗣ぐことができる手段ともなっている内なるものである。しかしかれらは善の情愛の中に、すなわち、相互愛の中におり、その相互愛の中へ善と真理にかかわるいくたの知識により、その知識に対する情愛により導き入れられるとき、初めて嗣子[相続人]となり初めるのであり、または相続権を持ち初めるのであり、かれらは善の情愛の中にまたは相互愛の中にいつに正比例して、『嗣子』となり、または嗣業[相続財産]を得るのである。なぜなら相互愛はかれらが主の本質から、かれらの父から受けるものとして受ける生命そのものであるからである。これらのことはつづいて次の節に記されていることから認めることができよう。

 

 

 

天界の秘義2049〔3〕

 

 他生では信仰のいくたの知識の記憶知は何の益にもならない、なぜなら最悪の者でさえも、いな、奈落の者でさえも、その知識の記憶知の中にいて、ときとしては他の者にもまさってその中にいることができるからであるが、しかも益をもたらすものは知識にしたがった生命〔生活〕のみである、なぜなら知識はことごとく生命〔生活〕をその目的としているからである。知識が生活のために学ばれないかぎり、知識はただ人間がそれについて語って、そのことによって世で学問のあるものとして尊重され、名誉を与えられ、名声と富とを得ることもできるということを除いては何の役にも立ちはしないのである。このことから信仰の知識の生命は仁慈の生命以外のものではないことが明白である、なぜなら律法と予言者とは、すなわち、信仰の普遍的な教義はそのあらゆる知識とともになって、主に対する愛と隣人に対する愛から成っているからである。これはマタイ伝(22・34−39)とマルコ伝(12・28−35)の主の御言葉からすべての者に明らかになっている。

 

 

 

〔4〕しかしそれでも狭義的なものは、すなわち、信仰の知識は仁慈の生命を形作るために極めて必要であり、仁慈の生命〔生活〕はその知識がないなら形成されることはできないのである。これが死後救うところの生命であって、決してそれはその生命を欠如した信仰のいかような生命〔生活〕でもない、なぜなら仁慈がないなら信仰のいかような生命もありえないからである。愛と仁慈との生命の中にいる者たちは主の生命の中にいるのであり、それ以外のいかような生命によってもたれ一人主に連結されることはできないのである。

 

 

 

天界の秘義2831

 

霊的な者たちは、天的な者たちとは異なって、善と真理とを認識はしないで、その代りに、良心をもっており、それはその者たちがその両親や教師たちから幼い頃から吸収した信仰の諸々の善と真理から形作られ、後にはその者たちがその中へ生まれてきた信仰の教義から形作られているのである。善と真理とを何ら認識していない者たちは、知識により確認しなくてはならないのである。たれでも自分が学んだ事柄については、また信仰のいくたの善と真理については自ら何らかの観念[考え]を形作るのである、なぜなら観念がないなら、何一つ記憶の中には空虚なものとしてしか残らないからである。それを確認させる物が、他のいくたの知識から、実に記憶知からさえも、それに附加されて、その事柄の観念[考え]を満たすのである。その観念そのものを多くの物により確認することにより、それが[その観念が]記憶の中に密着し、かくてそれが思考の中へ呼び出されることができるようになるのみでなく、また信仰がその中へ徐々に注ぎこまれることができるようにもなるのである。

 

 

 

[2](中略)しかしながら霊的な人間は天的なものと霊的なものにおける善と真理とを認めるこのような認識はもっていないで、それに代って指示を与える良心を持っているのであるが、しかし前に言ったように、この良心はかれらがその両親や教師から、後には教義における、また聖言におけるかれら自身の研究から吸収したところの善と真理に関わるいくたの知識から形作られていて、これらの知識をそれらが全くは善であり、真ではないにしても、かれらは信じるのである。

 

 

 

天界の秘義3161[2]

 

人間は合理的なものとして生まれておらず、たんに合理的なものになる能力の中へ生まれているにすぎないのであり、彼は記憶知を通して、すなわち、多くの種属と種類とのいくたの知識を通して合理的なものになるのであるが、その知識の最初のものは次にそれに続いているものに至る手段となっており、このことは秩序をもって行われて、最後のものにさえも達しているが、最後のものは主の王国の霊的な事柄にかかわる知識であって、教義的なものと呼ばれているのである。これらのものは一部は信仰の教義から、一部は聖言から直接に学ばれ、かくて一部は人間自身の研究から学ばれていることもまた良く知られている。これらの教義的なものが単に記憶の中に存在している限り、それらはたんに記憶知の形をとった真理にすぎないのであり、未だその人間のものとしてその人間に所有されてはいないのであるが、しかしかれがそれらを生命「生活」に適用させるときは、さらにかれに所有されるのである。このことが行われると、そのときは真理は自然的な記憶から合理的なものの中へ引き上げられて、そこで善に連結し、それが連結されると、それはもはやたんに記憶知のものではなくて、生命のものとなるのである、なぜならそのときその人間はもはや自分はいかに生きなくてはならないかを真理から学びはしないで、真理から生きており、そのことによって真理はかれに所有されて[かれのものとなって]、意志のものとなるからである。かくして人間は天界の結婚へ入って行くのである、なぜなら天界の結婚は合理的なものにおける善と真理との連結であるからである。これらの事柄を主は人間のもとに行われるのである。

 

 

 

天界の秘義3391

 

かくて『窓越しに外を眺める』ことは、全般的には外なる人にぞくしているような知識であるところの現れている事柄を内なる視覚により認識することである。合理的な事柄は、または、それと同一のことではあるが、真理の外観は、すなわち、霊的な真理は知識ではなくて、知識の中に存在しているのである、なぜならそれらは合理的なものに属していて、かくて内なる人に属しており、外なる人のいくたの事柄を注視するものは、かくて知識の内に在る真理を注視するものは内なる人であるからである。なぜなら知識は自然的な人のものであるため、それは合理的な事柄を受け入れる器であるからである(真理の神的なものは合理的なものに流入し、合理的なものを通して自然的なものに流入し、この自然的なものの中に、鏡中に多くの物の映像が示されるように現示されることは、前の3368番に見ることができよう)。

 

 

 

天界の秘義3508

 

そのことが真理を通し、すなわち、善と真理とにかかわるいくたの知識を通して遂行されることは秩序に順応しているのである、なぜならこれらの知識がなくては自然的なものは合理的なものにより、または合理的なものを通して明るくされることはできないのであり、かくてそれは再生することはできないのであり、知識が合理的なものから流れ入って来る善と真理とを受け入れる容器であり、明るくされることはその容器が受け入れる質と量とに応じているからである。合理的なものから善と真理とを受け入れる容器は、記憶知、知識、教義的な事柄以外の何ものでもないところの自然的なものの真理そのものである。流れ入ってくるそれらのもの自身の間にそこに存在しているそれらのものの秩序から善は遂行されるのであり、そこから自然的なものの善が発しているのである。

 

 

 

天界の秘義6007

 

そのとき記憶知はかれにその精神活動の究極的な面(プレイン)として役立つからである。

 

 

 

天界の秘義7255

 

 善は人間のもとに天界を作り、悪は地獄を作るからには、善とは何であるか、悪とは何であるかを知ることは最も重要である。善は主に対する愛と隣人に対する仁慈に属するものであり、悪は自己への愛と世への愛とに属するものであることはすでに言ったところである。そこから、善とは何であるか、悪とは何であるかが知られるのはその愛によっており、その愛のみによっていることが生まれてくる。

 

 

 

黙示録講解427イ

 

アベル・・・仁慈の善

カイン・・・信仰の真理

 

『エホバはカインの上に、かれが殺されてしまわないように、ある印をつけられた』

エホバはかれを他の者らから区別されて保持されたことを意味しているのは、救う信仰は歴史的な信仰が先行しない限り与えられることはできないためであり、そのこと[歴史的な信仰]は他の者たちから教会と天界との事柄を知ることであり、約言すると、それは信仰を後になって構成するような事柄にかかわる知識である、なぜなら人間は幼時から聖言から、または教会の教義から、または説教から真理を吸引しないかぎり、かれは空虚なものとなってしまい、空虚な人間の中へはいかような働きかけも行われることはできず、主から天界を経ていかような流入も注がれることはできないからである、なぜなら主は人間のもとに在る真理の中へ善を通して働きかけ、流れ入られ、真理と善とを連結され、かくて仁慈と信仰とを一つのものとされるからである。

 このことから『エホバはカインの上に、たれもかれを殺さないように、またたれであれかれを殺す者はことごとく七倍の復しゅうを受けなくてはならない』の意義を認めることができよう。さらに、単なる歴史的な信仰の中にいる者らは、すなわち、信仰を構成しているような事柄にかかわる知識の中にいる者らは ― かれらは『カイン』により意味されている人物または信仰であるが ― これらの者はまた聖言から真理を他の者たちに教えるために ― そのことをかれらは記憶から行うのであるが ― 保持されるのである。

 

 

 

2.神に対する知識

 

 

マザー・テレサ/ブラザー・ロジェ/祈り―信頼の源へ―/サンパウロ/P114

 

神についての知識は愛をもたらし、自分についての知識は打ち砕かれた謙遜な心をもたらします。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P67

 

「神となった愛とは何かを知れば、おまえは空や海でなく、炎の渦巻に、巻き込まれ、死と命からなる幸福に吸い寄せられます。神を全く所有するとは、自分の意志で理解する恵みを与えられるということです。その時に、神の完全さで全き一致をすることができます」

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち8巻

 

真の知識とは、聖なる三位一体のうちなる、私どもを知り、ともに親密な一致を生きること。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P150

‘00.1.20

 

あなたの時代は、その罪、不遜、私への無関心によって、生者よりも死者の数のほうが多い。 世界が創造されて以来 私は永遠に及ぶ力と 神性を常に示してきた、無から生じた一切のものが 私を知らしめている。 しかもなお、あなたが土の素材ではあっても わたしはその中に住まい、この土の素材に いのちもたらすことができる、あなたが引き上げられたのは 恵みによる。 では、いつまでも 我が被造物たちが反逆のわざによって 死に向っているのを黙って見ているべきか? 慈悲をもって私が 行動しないはずがあろうか?

 

私のもとには 大いなる豊かさと、永続する富があり、悔悛の心で近づく者たちを豊かに富ませる。 婚姻を結んだなら 私をどう所有するかを知るという宝を与えよう。 三位一体の神を知り 理解するという宝を。 聖なる知恵をもってのみ家は建てられ 理解力は それを強固にするとは聞いていなかったか? 知識が、その蔵を あらゆる種類の富、どの時代の賢者も切に欲しがる神聖にして類まれな宝で いっぱいにすると?

 

言い換えるなら、私を知ることによって、霊魂と精神は 我が超越的な光と栄光で満たされる。 霊魂は我が神性、私自身に満たされる。 そのとき そのとき初めて、心は規律に従い 耳は教えを聞き、こうして真理を手に入れ それを心から大切にする。 あなた方の性質そのものさえも、まこと愛する者たちよ、変容して 我が神性をおびる。 あなたの霊に我が霊を授け そして我が霊によって私の統治、という大いなる富を与えるために、たゆまずあなたのうちより不純物を取り除いてきた我が聖霊が あなた方の一切の意図を動機づけるようになる。

 

あなた方はこう尋ねよう、「では神を理解するとは どういうことでしょう?」と。 私を理解することは英知の第一原理。 それは私をあなたの神として認め 私を畏れること、私を畏れるとは あらゆる悪を避けること。 地上にいながら 霊的な目で私を見ることが望ましい。地上にいる間に私を味わっておくのは本来あなた方一人ひとりがすべきこと。 どの霊魂にとっても このヴィジョン(*)を探し求めることが肝要であり もし私の高み(*1)に霊魂がまだ達し得ていないなら、観想をもって自らの霊を引き上げるように 忍耐強く努力し続けなさい。ほかにどうやって あなたの神を知り得ようか? 私を見たことがないとすれば、三たび聖なる我が光をまとう私の息子 娘たちの一人に どうしてなれようか?

 

私はあなた方の霊魂と交わるがゆえ 近よりがたいとか 到達しがたいということはない。 私はあなたと私自身を一致させ 私たちは一つとなる。 そしてひとたび一致したなら、あなたが跡継ぎだと思い起すよう、私自身を あなたにとって知り得るものとする。 荘厳と光輝のうちに 我が深淵へと霊魂を導き入れ 王の気前よさをもって 私自身を顕す。 神の深淵は 霊的なことを理解する霊によってのみ知り得ると読んだことがあろう。 聖書にはこう書かれている:

 

「この世のいのちだけに生きる人は、神の霊に関することを愚かしいとして 受け入れません。それはその人の理解力を超えています。神の霊に関することは、聖霊の働きがあってこそ理解されるからです。」

 

その一方、神の霊に導かれて生きる人は すべての価値を判断できるが、その人自身の真価は誰も判断できない、聖書に「誰が主の心を知り、主に教えることができようか」と書かれている通り。(*2)

 

私を知り理解するという宝は いつの日も地上を天国にする。 それは地上で 親切、義、誠実をもって治めること。 聖霊による恵みによってこの宝を得たなら あなたのうちに働く私の意思が分かるようになる。 私どもはかつてこう言った、「もし誰かが自慢したいなら こう自慢するがよい、 私を理解し 知っていると・・・」(*3)この宝は 真珠の値打ちを上回るもの。 ああ、次の宝は 親密さ、神なる私との親密さ。 燃え立つ愛によって 心から発する炎の火花が、私との親密さの最初の印となる、絶え間なく私を探し求める渇きの長い期間は 私がすべての霊魂に切に望む あの親密な一致へと近づく予兆となろう、こうして彼らは 私の甘美を味わいに訪れ そして、全霊を込めて、天国の悦びに入り あなた方にたいして注いだ私の慈悲を称えて 天国の我が天使たちの調べを歌う。

 

* 神にたいするヴィジョン。

*1 主は、「ご自分」を意味しておられます。

*2 1コリント2・14−16。

*3 ヨハネ福音書9・23(エレミヤ9・23の誤り?)  

 

 

 

ヴァッスーラ/花むこから花嫁への呼びかけ ヴァッスーラの証しの記録/天使館/P141

 

神は地上のことだけに知識があると主張する人びとにはご自分を顕されません、それは知識とは言えないからです。まことの知識とは神を知ることです、そしてこれは、友なる皆さん、理性によってだけでは知り得ません。そこで神は みことばという慈悲と希望の溢れ出る流れを大きくひろげるように命じておられます。私がしているのはこれであり、あなた方にもそうしてほしいと願われています。

 

 

 

3.知識の不足・無知

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻上P154

 

私のことについての知識の不足が、人々を弱めてしまったのだ。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて3・58・6

 

 多くの人々は無知であって、ことに天からの照らしを受けることがほとんどなく、まったくの霊的愛で他人を愛することをめったに知らないような者はそうである。

 

 かれらはまだ天性の愛情や人間的友情によって、あるいはこの人に、あるいはあの人に引き付けられるのであって、下界の物事について感じた通りに、天上の物事についても同様な想像をめぐらすのである。

 

 けれども不完全な者の想像するところと、照らしを受けている人が天上の啓示(しめし)をこうむって眺めるところとの間には、とうていくらべることもできないようなへだたりがあるのである。

 

 だからわたしの子よ、あなたが知り得ぬ物事を、物好きに論ずることを慎み、むしろ神のみ国の相続者中に、たといその最小の者としてでも仲間入りができるよう心がけ、努めるべきである。(中略)

 

 諸聖人のだれが偉いか偉くないかを論ずるよりも、自分の罪の大きいことや、徳の少ないことや、諸聖人の完徳に遠くおよばぬことを考えるほうが、よほど神のみ心に適う。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち8巻

 

真の知識とは、聖なる三位一体のうちなる、私どもを知り、ともに親密な一致を生きること。

 

 

 

天界の秘義1098

 

『セム』により何が意味されているか、また『ヤペテ』により、何が意味されているか、すなわち、内なる教会の人間とはたれであるか、また外なる教会の人間とはたれであるか、引いては『カナン』により何が意味されているかは以下のことを考察するとき、そこから明白となるであろう。内なる教会の人間はその行う善をことごとく、またその考える真理をことごとく主に帰しているが、しかし外なる教会の人間はそれを行う方法を知ってはいないものの、それでも善いことは行っているのである。

 

内なる教会の人間は仁慈から主を拝することを、かくて内なる礼拝を本質的なものとしているが、外なる礼拝をさほど本質的なものにはしていない。しかし外なる教会の人間は外なる礼拝を本質的なものにしていて、内なる礼拝を持ってはいるが、その何であるかを知ってはいない。それゆえ内なる教会の人間は内なるものから主を拝しないならば、自分は自分の良心に反して行動していると信じるが、他方外なる教会の人間は外なる儀式を聖く守らないならば、自分は自分の良心に反して行動していると信じている。

 

内なる教会の人間は聖言の内意から多くのことを知っているため、その良心には多くの物が存在しているが、外なる人は聖言の内意からは僅かなことしか知っていないため、その良心には僅かな事柄しか存在していない。前の者は、すなわち内なる教会の人間は『セム』と呼ばれる者であり、後の者は、すなわち外なる教会の人間は『ヤペテ』と呼ばれる者である。しかし礼拝を外なる物のみから成立させて、仁慈を持っておらず、従って良心を持っていない者は『カナン』とよばれている。

 

 

 

黙示録講解427イ

 

アベル・・・仁慈の善

カイン・・・信仰の真理

 

『エホバはカインの上に、かれが殺されてしまわないように、ある印をつけられた』

エホバは彼を他の者らから区別されて保持されたことを意味しているのは、救う信仰は歴史的な信仰が先行しない限り与えられることは出来ないためであり、そのこと[歴史的な信仰]は他の者たちから教会と天界との事柄を知ることであり、約言すると、それは信仰を後になって構成するような事柄に関わる知識である、なぜなら人間は幼時から聖言から、または教会の教義から、または説教から真理を吸引しない限り、彼は空虚なものとなってしまい、空虚な人間の中へはいかような働きかけも行われることは出来ず、主から天界を経ていかような流入も注がれることは出来ないからである、なぜなら主は人間のもとに在る真理の中へ善を通して働きかけ、流れ入られ、真理と善とを連結され、かくて仁慈と信仰とを一つのものとされるからである。

 このことから『エホバはカインの上に、たれも彼を殺さないように、またたれであれ彼を殺す者はことごとく七倍の復しゅうを受けなくてはならない』の意義を認めることが出来よう。更に、単なる歴史的な信仰の中にいる者らは、即ち、信仰を構成しているような事柄に関わる知識の中にいる者らは ― 彼らは『カイン』により意味されている人物または信仰であるが ― これらの者はまた聖言から真理を他の者たちに教えるために ― そのことを彼らは記憶から行うのであるが ― 保持されるのである。

 

 

 

4.神に基づく知識

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P216

 

“学問がもし神に基づかないなら、人間を高めるよりも人間の品位を失わせる誤謬となる”神に基づいて知る知識を持っている人は、倒れることはない。自分の品位を感じ、自分の永遠の未来を信じているからである。しかし、現存の神を探すべきである。神ではなく霊的な無智で包まれている人間のうわ言にすぎない幻の神々ではなく、まことの神を探すべきである。そのような神々の宗教では知恵のかげもなく、その信仰には真理のかげもない。知恵者となるためには、どんな年でもよい。また、ヨブの書にこう言われている。

 

“あなたの生活は昼よりも輝き、

暗ささえも暁のように思えるだろう。

また希望に満ちて心安らかにおり、

守られて安全に住むことだろう”(ヨブ1・17〜18)

真理を見つけたいという善意さえあれば、遅かれ早かれ、その真理に出会う。

 

 

 

5.伝承・・・死んだ知識

 

 

黙示録講解659イ

 

こうした死んだ知識は聖言においては『伝承[言いつたえ]』と呼ばれている。

 

 

 

マルコ7・6−9、13

 

イエスは言われた。

「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

 

更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。

 

こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

 

 

 

6.知識により人間は人間になる

 

 

天界の秘義1616[2]

 

『ヘブロンにあるマムレの樫の木の杜』がさらに内なる認識を意味していることについて、実状は以下のようである。外なる人にぞくしたものが内なる人の天的なものに連結するにつれ、認識は増大して、さらに内なるものとなるのである。天的なものとの連結は認識を与えるのである、なぜならエホバに対する愛にぞくした天的なものの中には内なる人の生命そのものが存在しており、またはそれと同一のことではあるが、愛にぞくした天的なものの中には、すなわち、天的な愛の中には、エホバが現存されており、その現存は連結が行われないうちは外なる人の中には認められないのであって、認識はことごとく連結から発しているからである。

 

 

 

[3]内意からここに主における実情はいかようなものであったが明白である、すなわち、主の外なる人は、または人間的な本質は知識が増大して実を結ぶに応じて、徐々に神的な本質に連結されたのである。知識によらなくては、たれ一人、人間として、エホバに、または主にいかような方法によっても連結することはできないのである、なぜなら知識により人間は人間になるからである、そのように主も他の人間のように生まれたもうたため、かれらが教えられるようにまた教えられたもうたのであるが、しかし主の知識の中へは、それを容器として、天的なものが絶えず秘かに注ぎこまれ、それでその知識は絶えず天的なものを入れる容器となり、知識それ自身もまた天的なものとなったのである。

 

 

 

[4]主はこのようにして幼児の天的なものの中へ絶えず進まれたのである、なぜなら、前に言ったように、愛にぞくした天的なものは幼児の最初期から子供時代にかけて、また青年期にかけて、徐々に浸透するからである。もしその人間が再生することができるようなものであるなら、これらの知識はそのとき愛と仁慈にぞくした天的なものに満たされ、かくてその人間が幼少の頃から子供時代と青年期にかけて与えられてきた天的なものの中に植えつけられ、かくしてかれの外なる人はかれの内なる人に連結するのである。これらの知識は先ずかれが青年時代に与えられた天的なものの中に植えつけられ、次にかれが子供時代に与えられたものの中に植えつけられ、最後にかれが幼少の頃に与えられたものの中に植えつけられるのであって、そのときかれは主から『神の国はこうした者の国である』と言われた『小さな子供』となるのである。この植えつけられることは主のみにより行われるのであって、そうした理由から主から発していない、また主のものでない天的なものは一つとして人間のもとにはありえないのであり、またあり得るはずもないのである。

 

 

 

7.善と真理との連結は知識の増大に応じて生まれる

 

 

新しいエルサレムの教義23

 

さらに人間は真理により善に導かれ、真理がないならそこへ導かれない(10124、10367番)。もし人間は真理を学ばないなら、または受け入れないなら、善は流れ入ることはできず、かくて人間は霊的なものとなることはできない(3387番)。善と真理との連結は知識の増大に応じて生まれる(3141番)。真理は各人にその才能に応じて受け入れられる(3385番)。

 

 

 

新エルサレムの教義27

「知恵は諸真理により善から発している」。

いかようにして人間の合理的なものが妊もり、また生まれるか(2094、2524、2557、3030、5126番)。これは人間のもとにある知識と科学の中へ主が天界を通して流入されることにより行われ、そこから高揚が生まれてくる(1895、1899−1901番)。高揚は用と用に対する愛とに応じて起る(3074、3085、3086番)。合理的なものは真理を通して生まれ、そこから真理のいかんに合理的なものが応じている(2094、2524、2557番)。合理的なものは善から発した諸真理により開かれ、形作られ、悪から発した誤謬により閉じられ、破壊される(3108、5126番)。人間はいかような主題についても論じることができるということによって合理的なものであるのではなく、何かが真であるか、否かを見、また認めることができるということによって合理的なものである(1944番)。人間は善の中へ生まれていないため、いかような真理の中へも生まれていない。かれはその二つを学び、吸収しなくてはならない(3175番)。人間は感覚に迷わされ、誤謬を確信し、そこから推理し、疑うために、純粋な真理を受け入れて、賢明になるのは容易なことではない(3175番)。人間は真理に反した推理に反抗し、疑いを斥けはじめるとき、はじめて賢明になりはじめる(3175番)。明るくされていない人間の合理的なものは内的な真理を嘲笑する、(そのことが)例から(説明されている)(2654番)。人間のもとに真理がその生命に植えつけられるとき、内的な真理と呼ばれるが、たんに内的な真理と呼ばれている真理であっても、それを知っているということのみでは、内的な真理とはならない(10199番)。

 善には賢明になる能力があり、かくて世で善に生きた者たちは世を去った後は天使の知恵に入って行く(5527、5859、8321番)。善の各々の中には無数の物が存在している(4005番)。

 

(中略)

 

真理は善に連結すると、生命のものとなるため、記憶から消滅する(3108番)。真理は、人間が自由な状態にいないかぎり、善に連結することはできない(3158番)。真理は試練によって善に連結される(3218、4572、7122番)。善には諸真理を秩序をもって排列し、そのことによってその状態を回復しようとする不断の努力がある(3108番)。真理は、善との連なりが妨げられると、不快なものに思われる(8352番)。人間は考えることと意志する[欲する]こととをほとんど区別することができないため、真理と善とをほとんど区別することはできない(9995番)。善は聖言では真理の『兄弟』と呼ばれている(4267番)。またある点で善は『主』と呼ばれ、真理は『僕』と呼ばれている(3409、4267番)。

 

 

 

8.たとえそれが聖言の内的な知識の記憶知であるにしても

 

 

天界の秘義1162

 

『ハムの息子たち』によりこの分離した信仰にぞくした事柄が意味されていることは以下のことから生まれている。

 

『ハム』により意味されていることが知られ、それ故『ハムの息子たち』によっても意味されていることが知られるためには仁慈から分離した信仰はいかようなものであるかが先ず知られなくてはならない。仁慈から分離した信仰は信仰ではない。信仰のないところには、内なる礼拝も外なる礼拝も存在しない。かりにも何らかの礼拝があるにしても、それは腐敗した礼拝であり、それ故『ハム』により同じく腐敗した内なる礼拝が意味されている。

 

仁慈から分離している、天的な事柄と霊的な事柄にかかわる単なる記憶知を信仰と呼んでいる者らは誤った見解を抱いているのである。なぜなら時としては人間の中でも最悪の者でさえもこうした知識を他の者にもまさって持っているからである―ととえば絶えず憎悪と復しゅうの中に、また姦淫の中に生きており、それ故奈落的なものであり、身体の生命の後には悪魔となる者らがそれである。こうしたことから記憶知は信仰ではないことを認めることができよう。

 

しかし信仰は信仰に属した事柄を承認することであり、こうした承認は決して外なるものではなくて、内なるものであり、主のみが人間の中に仁慈を通して作り出されるものである。そしてこの承認は決して口先の事柄ではなくて、生命の事柄である。人間各々の生命[生活]からその者の承認はいかようなものであるかを知ることができよう。

 

信仰のいくたの知識の記憶知をもってはいるが、仁慈をもってはいない者らはすべて『ハムの息子ら』と呼ばれるのである。たとえそれが聖言の内的な知識の記憶知であるにしても、聖言の神秘そのものの記憶知であるにしても、または聖言の文字の意義における凡ゆる事柄の記憶知であるにしても、または呼称のいかんを問わない他の諸真理の記憶知であるにしても―その記憶知からそうした事柄が観察されるのであるが―または外なる礼拝の凡ゆる祭儀の知識であるにしても。もしその者らが仁慈をもたないならば、その者らは『ハムの息子たち』である。『ハムの息子たち』と呼ばれている者はこうした性格を持っていることは今とり扱われている諸国民から明白である。

 

 

 

9.知識は手段

 

 

天界の秘義1472

 

 いくたの知識の記憶知はそれ自身では、それによって人間が合理的なものになり、合理的なものから霊的なものになり、ついには天的なものになる手段以外の何物でもなく、その知識によりかれの外なる人はかれの内なる人に接合されることができるのであって、そのことが行われると、その人間は用そのものの中にいることを認めることができよう。内なる人は用以外には何ごともかえりみはしない。こうした目的のためにまた主は子供と青年とが記憶知の中に認める歓喜を徐々に注ぎ入れられているのである。しかし人間がその歓喜を記憶知の中にのみ存在させはじめるとき、その人間を拉致し去るものは身体の欲念であり、かれがこのようにして拉致されるに比例して(すなわち、かれがその歓喜を単なる記憶知の中に存在させるに比例して)、かれは自分自身を天的なものから遠ざけてしまい、またそれに比例してその記憶知はそれ自身を主に向って閉じてしまい、物質的なものになるのである。しかし記憶知が用の目的をもって―例えば人間社会のために、地上の主の教会のために、諸天界の主の王国のために、ましてや主御自身のために学ばれるに比例して、益々その記憶知は主に向って開かれるのである。こうした理由からまた天使たちは凡ゆる知識の記憶知の中にいて、実にその一万分の一つもほとんど人間には充分に把握されるように示されることもできない程にも記憶知の中にいるものの、それでもこうした知識を用に比較するなら無意義なものと見なしているのである。

 

 

 

天界の秘義1475

 

知識が手段とならないかぎり、外なる人は人間にすらなることはできないのである。

 

 

 

天界の秘義1555

 

信仰の諸真理と諸善とにかかわる幾多の知識により得られるものは理知の光と呼ばれているが、しかし知恵の光はそこから得られる生命の光である。理知の光は知的な部分または理解に関わっているが、知恵の光は意志の部分または生命にかかわっている。

 

 

 

[2]いかようにして人間は真の知恵に至るかを知っている者は、たとえいるにしても、僅かしかいない。理知は知恵ではなく、知恵に導くのである。なぜなら真で善いことを理解することは真で善いものであることではなく、賢いことが真で善いことであるからである。知恵は生命にのみ述べられるのである、すなわちその人間はそうした者であると言われるのである。人間は知ることを手段として、すなわち知識(scientae et cognitiones)を手段として知恵に、または生命に導入されるのである。人間各々の中に意志と理解の二つの部分があり、意志は第一次的な部分であり、理解は第二次的な部分である。死後の人間の生命はその意志の部分に順応していて、その知的な部分には順応していない。意志は人間の中に幼少期から子供時代にかけ主により形成されつつあり、それは密かに注ぎ入れられる無垢により、また両親、乳母、同じ年頃の子供たちに対する仁慈により、また人間には全く知られていないが、天的なものである他の多くのものにより行われるのである。こうした天的なものが先ず人間の中へ幼少期と子供時代に徐々に(秘かに)注がれない限り、彼は決して人間となることはできないのである。このようにして最初の面が形成されるのである。

 

 

 

[3]しかし人間はまた理解を与えられない限り、人間ではないため、意志のみが人間を作るのでなく、理解が意志とともになって人間を作るのであり、そして理解は知識によらなくては決して得られることはできないのであり、それでかれは子供時代から、徐々にこれらの知識に浸透されなくてはならない。このようにして第二の面が形成されるのである。知的な部分が知識を、特に真理と善とにかかわる幾多の知識を教えられると、そのとき初めて人間は再生されることができるのであり、そして彼が再生しつつあるとき、幾多の真理と幾多の善とは、彼が子供時代から主により与えられていた天的なものの中に知識を手段として、主により植えつけられ、かくて彼の知的なものは彼の天的なものと一つになるのであり、そして主がこのようにこれらのものを連結されたとき、その人間は仁慈を与えられて、彼はその仁慈から行動し始めるのであり、この仁慈は良心に属している。このようにして彼は初めて新しい生命を受けるのであって、これは徐々に行われるのである。この生命の光が知恵と呼ばれており、それはそのとき第一位を占めて、理知の上におかれているのである。このようにして第三の面が形成されるのである。人間がその身体の生命の間にこのようになると、そのときは彼は他生で絶えず完成されつづけるのである。こうした考察により理知の光とは何であるか、知恵の光とは何であるかが示されるであろう。

 

 

 

天界の秘義1453

 

「海の方にはベテルがあり、東にはアイがあった」ことは主の状態は依然明確なものではなかったことを、すなわち、天的な霊的なものにかかわる知識については依然明確ではなかったことを意味している、なぜなら天的なものの中にいることと天的なものにかかわるいくたの知識の中にいることとは異なっているからである。幼児と子供とは、かれらはその良心に対する愛の中に、相互愛の中に、また無垢の中にいるため、大人以上に天的なものの中にいるが、しかし大人はその中の非常に多くの者は愛の天的なものの中にいないがらも、幼児と子供以上に天的なものにかかわる知識の中にいるのである。人間は愛と信仰とのいくたのものを教えられない中は、かれは明確でない状態の中に、すなわち、知識の方面では明確でない状態の中にいるのであって、その状態がここに海の方面に、すなわち、西にベテルがあり、東にアイがあることにより記されているのである。すでに言ったように、『ベテル』により天的なものにかかわる知識が意味されているが、『アイ』により世的なものにかかわる知識が意味されているのである。天的なものにかかわる知識は、それが明確なものでないときは、『西』にあると言われている、なぜなら聖言では『西』は明確でないものを意味しているからであり、世的なものにかかわる知識はそれが明白であるときには『東に』あると言われている、なぜなら東は西に比較すると、澄明であるからである。西と東にこうした意義のあることを確認する必要はない、なぜならそれはたれにでも確認しなくとも明白であるからである。

 

 

 

天界の秘義1557

 

「ベテルとアイの間の」。これは知識の天的なものと世的なものとを意味していることは知識による知恵の光である『ベテル』の意義と(1453番参照)世的なものから発した光である『アイ』の意義から(それもまた1453番に述べられた)明白である。そこに言われていることから、主の状態はその時いかようなものであられたかを認めることができよう、すなわち、それは子供のようなものであったのである。そして子供の状態は世的なものが現存しているといったものである、なぜなら世的なものは真理と善とがいくたの知識により天的なものとは何であるか、世的なものとは何であるかを知らない中は天的なものと世的なものとを区別することはできないからである。知識は全般的で明確でない観念[考え]を確実なものにするのであって、観念[考え]が知識により明確にされるに応じて、益々世的なものは分離されることができるからである。

 

 

 

[2]しかしそれでもその子供のような状態は、それが無垢なものであるため、聖いものである。無知はその中に無垢が存在しているときは、聖いものを決して排除しはしないのである、なぜなら聖いものは専ら無知の中に宿ることができるのであって、もしそれが無知の中に宿ることができないならば、人間は聖いものを持たないのである。理知と知恵の最高の光の中にすら存在している天使たち自身のもとでさえも、聖いものはまた無知の中に宿っているのである、なぜならかれらは自分たちは自分たち自身では何事も知っていないのであり、自分たちが知っていることはすべて主から発していることを知りまたそのことを承認しているからである。かれらはまたかれらの記憶知、理知、知恵は主の無限の知識、理知、知恵に比較するならば無に等しいものであり、かくてそれは無知であることを知り、また承認もしているのである。自分が知っている物の彼方には、自分の知らない無限のものが存在していることを承認しない者は天使たちがその中に宿っている無知の聖いものの中には宿ることはできないのである。

 

 

 

[3]無知の聖いものは他の者以上に無知であるということにあるのではなく、人間は人間自身では[人間自身によっては]何ごとも知っておらず、自分の知らないものは自分が実際知っているものに比較するなら無限であるということを承認することにあり、とくにそれは人間が記憶と理解の事柄を天的なものに比較するなら、すなわち、理解の事柄を生命の事柄に比較するならほとんど無価値なものに見なすということにあるのである。主については主は人間的なものを神的なものに連結しつつあられたため、秩序に順応して進まれたのであり、そして主は今初めて、主が子供であられたとき持っておられたような天的な状態に到達されたのであって、その状態の中には世的なものもまた現存していたのである。主はこの状態からさらに天的な状態へ進まれることによりついに幼児の天的な状態の中へ入れられ、この状態の中で主は人間的な本質を神的な本質に完全に連結したもうたのである。

 

 

 

天界の秘義6815

 

私は、あなたら(水星の霊たち)はその知識により用を行うことを願われないか、なぜなら知識は用を目標としており、用が目的とならねばならぬ以上、知識を喜ぶのみでは充分ではないからである、との質問を徐々にに注ぎこむことを許された。私は彼らに告げた、あなた方には知識のみからでは何ら用は生まれてこない、ただあなた方がその知識を伝えようと願っている他の者にのみそこから用が生れてくるに過ぎない、賢明になろうと欲する人間が知識にのみ止まることは決して正しいことではない、なぜなら知識は、生命に属していなくてはならない用を探求する上に役立つように意図された媒介的な原因に過ぎないからである、と。しかし彼らは自分たちは知識を歓んでおり、自分たちには知識が用である、と答えたのである。

 

 

 

10.愛の信仰において完全なものになるために知識を学ぶ者たち

 

 

天界の秘義1964

 

「ハガルがアブラムにイシマエルを生んだとき」。これは、記憶知の情愛の生命が合理的なものを生んだとき、を意味していることは、『ハガル』の意義が記憶知の情愛の生命であることから、また『イシマエル』の意義が最初にみごもった合理的なものであることから明白である―それらの意義については前にとり扱った。本章にはとり扱われている主題は人間の合理的なものであるため、そして合理的なものが専ら真理のみから構成されているときの、また善と善から派生している真理から構成されているときの、その合理的なものの性質が記されているため、以下のことを知らなくてはならない、すなわち、合理的なものは知識(scientifika et cognitiones)によらなくては決してみごもり、生まれることはできない、すなわち、形成されることはできないのである、しかしこれらの知識は用をその目的としなくてはならないのであり、それらが用を持つとき、生命をその目的とするのである、なぜなら生命はことごとく目的にぞくしているため、用にぞくしており、それで知識は用の生命のために学ばれない限り、無用なものであるため、無価値なものであるからである。

 

 

 

[2]用の生命を持たないこうした知識のみからでは、合理的なものはここに記されているようなものになって、自己への愛に汚された一種の真理の愛から、野生のろばに似て気むずかしく、争いを好み、ひからびた、乾いた生命のような性質をもつようになるのである。しかしこれらの知識が用をその目的とするときは、用から生命を受けるが、それでもその用の性質に似た性質の生命を受けるのである。愛の信仰において完全なものになるために知識を学ぶ者たちは―なぜなら真の、真実の信仰は主に対する、また隣人に対する愛であるから―あらゆる用の中の用の内にいて、主から霊的な天的な生命を受けるのであり、かれらはこの生命の中にいるとき、主の王国のあらゆるものを認識する能力を得るのである。この生命のうちに天使たちはことごとくいるのであって、かれらはこの生命のうちにいるため、理知そのものと知恵そのものとのうちにいるのである。

 

 

 

11.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P160

 

 そこで信仰を持つためにはまず三つのことを持たなければなりません。それは信仰の芽ばえ、芽そのものの良性、そしてその発育です。その種はまず信仰についての課題をもったなんらかの情報を通じて私たちの中に蒔かれます。もし先に少なくともなにか知識をもっていなかったとしましたら、勿論信仰について考えることもできないからです。信仰の芽の良性とは、この種を私たちのうちに蒔いてくれる人が、そのうちに持っていなくてはならないものです。信仰の芽を私たちに伝えてくれる人がそれにふさわしい人ならば、それは真の信仰の芽となることが可能です。しかし、もしそれがなんらかの理由で根元から偽者であるとすると、それは偽の芽です。それから、もたらされた情報の題材について、私たちの中になにかそれにたいする不信の気持ち、あるいは情報が不確実なのではないかという考えが生まれたとしましたら、それは信仰の疑いとして慎重に扱われなければなりません。こうして信仰の芽とその良性についてよく確かめたら、そのあとこれを成熟にいたらせるまで育てるために、よく世話されなければなりません。それが真理であるという内的確信がもてた時、それは信仰の課題であることを止めます。つまりその芽が育ち成熟へとますます発展していけるように、その信仰の芽の良性にたいして私たちのあらゆる信頼と才能をかける時、私たちのうちに信仰の姉妹であるあの聖なる希望という徳が生まれるからです。信仰の終点に達したことを分からせてくれるのは、聖なる希望です。すでに獲得した信仰の目標のうちに、希望そのものがあるのです。この神の情報は私たちの中に信仰の種を蒔きます。よく世話されたこの種から光が生まれ、成長し、ますます発展していきますが、この光はあの信仰の芽によってまた新たに更新されていき、信仰の光はさらに崇高なる善である神の全ての特質を私たちに与えます。また私たちをご自分のほうへと招く魅力ある愛によってその善を明らかにして下さり、ご自身のうちに楽しませて下さるために、私たちに与えることがおできになる全ての恩恵を眼前に見せても下さるのです。

 私にとって神の存在に関する情報は信仰の芽ばえであったので、それは私の中で育ちながら、神のそれぞれの特質の無限の崇高さの一部分を私に分からせてくれ、いと高き神のほうへと、ますます私を近づけていくのでした。さらにまた、神は内的、または外的にどのような御方であるのか、あるいは神が私に与えて下さる事柄などについての知識が、私に聖なる希望の種を蒔いてくれました。

 

 

 

12.それが満たされるに応じて、その人間は明るくされる

 

 

天界の秘義3665〔3〕

 

 幼児の頃から子供時代にかけて学ばれる幾多の知識は善で満たされねばならない極めて全般的な容器のようなものであって、それが満たされるに応じて、その人間は明るくされるのである。もしその容器がその中へ純粋な善を容認するようなものであるなら、そのときはその人間はその中に在る神的なものから明るくされ、しかもそのことが益々継続的に行われて行くが、しかしもしその容器がその中に純粋な善が在ることの出来ない底のものであるなら、そのときはその人間は明るくされはしないのである。その者は明るくされているように実際見えはするが、しかしそれは誤謬と悪の光であるところの架空な光であって、それにより彼は益々善と真理とについては暗くされてしまうのである。

 

 

 

天界の秘義3665〔5〕

 

このような知識が年若い子供たちにより知られ、考えられると、その子供たちのもとにいる天使たちはその知識が表象し、意味している神的なものを考えるのであり、そしてその天使たちがそれに感動するため、その天使たちの情愛が伝達されて、その子供がその中に経験する歓喜と楽しさを生み出し、その子供の心を純粋な真理と善とを受けるようにととのえるのである。このようなまた他の極めて多くのものが傍系の善から派生している外なる形体的な真理の知識である。

 

 

 

13.その倉庫が豊かであり、確認された誤謬から自由に解放されているに応じて、与えられる認識は益々明るくされており

 

 

スウェーデンボルグ/主の聖言/28

 

たれでも真理に対する霊的な情愛の中にいる者は、すなわち真理そのものを、それが真理であるために愛している者はことごとく聖言を読むとき、主により明るくされはするが、しかし、知ろうとする願望[欲望]と呼ばれているところの、真理に対する単なる自然的な情愛からそれを読む者は明るくされはしないのである。後の者はその者の愛に一致しているものを除いては、また彼自身で採用したか、または他の者から聞いたり読んだりして取得したか、その何れかの原理に一致しているものを除いてはいかようなものも認めはしないのである。いくたの悪をそれらが罪であるために、またそれらが主に反し、主の神的律法に反しているために避けるかの人間が明るくされるのである。他の者ではなく、ただこの人間のもとにのみ、霊的な心は開かれるのであり、それが開かれるに応じ、天界の光が入り、その光から聖言における凡ゆる照示が発しているのである。なぜなら人間はそのとき善に対する意志を持ち、この意志はそれがその用へ決定づけられるとき、理解の中で先ず真理の情愛[真理に対する情愛]となり、次に真理の認識となり、まもなく合理的な光により真理の思考[真理を考えること]となり、かくて決定と結論となり、それはそこから記憶の中へ入って行くにつれ、また生命[生活]の中へも入り、そのようにして止まるからである。このことが聖言においてすべて明るくされることの道であり、また人間の改良と再生の道である。しかし先ず記憶が必ず霊的なもののみでなく、自然的なものにかかわる知識を得なくてはならない。なぜならこの知識はその中へ主が天界の光を手段として働きかけ給う倉庫[資源]であり、その倉庫が豊かであり、確認された誤謬から自由に解放されているに応じて、与えられる認識は益々明るくされており、その結論も益々澄明になるからである。なぜなら、神の働きは空しくうつろな人間の中には落ち込みはしないからである。

 

 

 

14.知識は鍵

 

 

真の基督教増補1

 

ここから、代の終り、主の再臨、新しい教会について知らないなら、聖言は、いわば閉じられていることが生まれており、(それらのことを)知る知識がなくてはいかようなものもそれを開きはしないのであり、その知識はその中を開いて、導き入れる鍵のようなものである。そのことが聖言のもとで起ると、そのときは、その中にいわば海の底に隠れているようにも隠れている財宝が目に見えてくるのである、なぜなら、その底には、聖言の中には貴重な物を除いては何一つ存在しないからである。

 

 

 

15.ヨルダンの水路

 

 

天界の秘義6538

 

「ヨルダンの水路にある」。これは善と真理とのいくたの知識の中へ徐々に導入される状態である(ところの最初の状態)を意味していることは、『ヨルダン』の意義から明白であり、それは善と真理とのいくたの知識へ徐々に導入されることであり、かくて入る点では主の王国と教会との最初のものであり、出る点ではその最後のものである(4255番を参照)、(カナンの地の境界をなしていた川は主の王国の究極的なものを表象したことは前の1585、4116、4240番に見ることができよう)、そこから『ヨルダンの水路』により善と真理とのいくたの知識へ導入されることが意味されているのである、なぜなら善と真理との知識は人間が教会に属しているものの中へ徐々に導入される手段となる最初のものであるからである。

 

 

 

 

16.たれ一人教えられなくては天界へ入る準備をすることが出来ない

 

 

天界と地獄512

 

しかし誰一人、例えば[一人の]神がおられ、天界と地獄があり、死後の生命があり、神を何ものにもまさって愛さなくてはならない、隣人を自分自身のように愛さなくてはならない、聖言は神的なものであるため、聖言にあることは信じなくてはならないというようなことを先ず教えられない限り、そのように行動することは出来ない。人間はこうした事を知り、また承認しなくては霊的に考えることは出来ず、そうしたことを考えなくては、それを欲しもしない、なぜなら人間は知らないことを考えることは出来ず、考えないことは欲することも出来ないから。それゆえ人間がそうしたことを欲する時、天界は流れ入り、即ち、主は天界を通して、人間の生命へ流れ入られる、なぜなら主は意志へ流れ入られ、意志を通して思考へ流れ入られ、その二つを通して生命へ流れ入られるから。それは人間の生命はすべてその二つのものから発しているためである、これらのことから、霊的な善と真理とは世から学ばれないで、天界から学ばれ、また、たれ一人教えられなくては天界へ入る準備をすることが出来ないことが明らかである。主はまた誰でも人間の生命へ流れ入られるに応じて、教えられる、なぜならそれに応じて主は意志を真理を知ろうとする愛で燃やし、その思考を明るくされて、人間は真理を知り、そしてこうしたことが起るに応じて、人間の内部は開かれて、その中に天界が植え付けられ、更に、それに応じて神的なものと天界的なものとが、人間における道徳的な生活の誠実な物の中へ、また社会生活の公正な物の中へも流れ入って、それらの物を霊的なものにするからである。

 

 

 

 

17.認知〔知識〕が増大するに応じて、その観念〔考え〕も益々増大する

 

 

霊界日記1477

 

しかしこうした事柄の観念〔考え〕はある者のもとでは他の者のもとにおけるよりも、その者の真理に対する認知〔知識〕に従って、さらに豊かなものとなっていることに注意しなくてはならない、なぜなら認知〔知識〕が増大するに応じて、その観念〔考え〕も益々増大するからである。

 

 

 

18.真理と善とに関わる知識が霊的な人の富

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義3913

 

 自然的な人は自分が他の者よりも富んで世界の富を得ると、その幸福の中にいるが、しかし霊的な人は真理と善とに関わる知識の中にいるとき、その幸福の中におり、その知識が彼の富であり、彼が真理に従って善を実践するときは、さらに彼は幸福の中にいるものの、それでも彼は富をそれにより彼はその善を実践して世にいることが出来るため、軽蔑しないのである。

 

 

 

19.なぜなら後の者が多くの知識により探求するものを前の者はすでに持っているからである

 

 

天界の秘義1100

 

『ヤペテ』により(内なる教会に)相応した外なる教会が意味されることは既に述べた、また外なる教会、すなわち、外なる礼拝により意味されていることもすでに述べた、かくて内なる人の何であるかを知っておらず、また内なる人に属したものを何ら知ってはいないものの、それでも仁慈に生きている者を述べた。これらの者のもとにも主は等しく現存されているのである。なぜなら主は仁慈が存在するところにはことごとく、仁慈を通して働かれるからである。この点では小さな子供たちの場合も同一であり、子供たちは仁慈の何であるかは知っておらず、まして信仰の何であるかは知ってはいないものの、それでも主は大人のもとに現存されている以上に子供たちのもとに現存されており、とくに子供たちが仁慈の中に共に生活しているときは、現存されているのである。無垢、仁慈、慈悲を持った単純な人々の場合も同一である。もし人間がその知っていることに従って生活しないならば、その者が多くの事を知ったとて、それは全く無益なことである。なぜなら知ることは人間がそのことによって善くなるためのものであり、それ以外の目的は全く有りはしない。人間は善くなったときは、無数の事柄を知ってはいるが、善良ではない者よりも遥かに多くのものを持つのである。なぜなら後の者が多くの知識により探求するものを前の者はすでに持っているからである。しかし多くの真理と善とを知っていると同時に仁慈と良心とを持っている者の場合は非常に異なっている。なぜならこうした者は内なる教会の人、すなわち『セム』であるからである。知っていることは僅かでも、良心を持っている者は他生で明るくされ、かくて天使となり、表現を絶した知恵と理知とを受けるのである。これらが『ヤペテ』により意味されている。

 

 

 

20.理解は知識に応じて高められることが出来るが、意志は教会と宗教との真理に一致した生活によってのみ高められる

 

 

真の基督教507

 

各人の理解はその人の持つ知識に応じて高められることが出来ますが、然し意志は教会と宗教との真理に一致した生活によってのみ高められることが出来ます。これが無神論者がその自己愛によって名声の栄誉と理知の誇りを掻き立てられ、他の多くの者よりも鋭い合理性を持っている理由ですが、然しこれは彼らが理解によって導かれて、意志によって導かれない時のみであります。何故なら意志の愛が内なる人を所有しますが、理解の思考は外なる人を所有するからです。

 

 

 

21.神は、各人に、その人間の神に関わる知識に神の認識を流入し給い

 

 

真の基督教457

 

神は、各人に、その人間の神に関わる知識に神の認識を流入し給い、それと同時に人々に対する神の愛を流入し給う。前者の方法のみによって流入を受け、後者の方法によってそれを受けない者は、その流入を理解の中に受けて、意志の中に受けず、従って、神に関わる知識を持つが、内的に神を認めない。その状態は冬の庭園のそれに似ている。然し、若し、彼が前者と後者の流入をその意志と理解に、即ち彼の全心に受け入れるならば、神を内的に認め、これは神に関わる知識に生命を与え、その状態は春の庭園のそれに似ている。神は凡ゆる人間を愛し給う故、結合は仁慈によって行われる。

 

 

 

22.悪と誤謬とは何であるかを学んで知らない中は、教育されない中は悪と誤謬に反抗して戦うことは決して出来ない

 

 

天界の秘義1661[2]

 

たれ一人悪と誤謬とは何であるかを学んで知らない中は、それで教育されない中は悪と誤謬に反抗して戦うことは決して出来はしない。人間は自分の理解と判断とを十分に用いない中は悪の何であるかを知らないし、ましてや誤謬の何であるかを知らない、それが人間が成人期に達しない中は試練を受けない理由となっている、それで人間はことごとくその成人期に試練を受けるが、しかし主はその子供時代にそれを受けられたのである。

 

 

 

23.理解の補助者

 

 

神の摂理96

 

更に、もし意志の要素が理解の働きから除かれるならば、人は何ごとも理解することは出来ない。そして人は意志するに応じて、もし知識と呼ばれる補助者がそこに現れるか、またはその瞬間に甦るかするならば、人は理解する力を持つのである。なぜならこの補助者は職人の手の道具のようなものであるから。人は意志するに応じて、即ち理解することを愛するに応じて理解することが出来ると我々は言うのである、なぜなら意志と愛とは一つのものとして働くからである。実際これは背理のように思われるが、しかし理解することを愛しない者、従って理解しようと欲しない者にのみそのように思われるのであって、理解しようと欲しない者は、自分は理解出来ないと言うのである。

 

 

 

 

24.視野は人間の記憶の中に在る記憶知

 

 

天界の秘義9051

 

前の目または理解が見る事柄は霊的なものであり、その視野は人間の記憶の中に在る記憶知である。しかし外なる目の見る事柄は地的なものであって、その視野は世に現れる一切の物である。

 

 

 

 

25.『門』により聖言から発した真理と善とに関わる知識が意味されているのは、その知識により人間は教会へ導き入れられるため

 

啓示による黙示録解説899

 

「十二の門を持ち」(黙示録21・11)は、人間を教会へ導入するところの、そこの真理と善とに関わる凡ゆる知識を意味している。『門』により聖言から発した真理と善とに関わる知識が意味されているのは、その知識により人間は教会へ導き入れられるためである。なぜならすぐ前に説明したように(898番)、門が中に在る『壁』は聖言を意味し、以下の記事には、『その十二の門は十二の真珠であり、門の各々は一つの真珠であった』と言われ(21節)、『真珠』により真理と善にかかわる知識が意味されるからである(727番)。人間は、門を通って都の中に入れられるように、その知識により教会へ道びき入れられることは明らかである。『十二』は凡てを意味することは、前に見ることが出来よう(348番)。

 

 

 

 

26.人間は信仰の幾多の知識により改良され、再生される

 

 

天界の秘義2046

 

「男はことごとく」。これは信仰の真理の中にいる者たちを意味していることは、『男』の意義が真理であることから明白である(これについては、672、749番を参照)。信仰の真理を意味している『男』の名前がここにあげられているのはたれ一人真理の中にいる者以外にはそれらの汚れた愛から清められることは出来ないからである。真理から清いものを、また清くないものを、また聖いものを、汚れたものを知るのである(cognoscit)。彼がこのことを学んでいない中は、主から絶えず流れ入ってくる天界の愛が、その中へ、またそれを通して働きかけることが出来る手段は存在しないからである、なぜならこの天界的な愛は真理を除いては、いかようなもののうちにも受け入れられることは出来ないからである。それで人間は信仰の幾多の知識により改良され、再生されるのであって、これはその人間がその知識に浸透しない中は行われはしないのである。良心そのものは信仰の幾多の真理により形作られるのである、なぜなら再生した人間が与えられる良心は真で正しいものの良心であるからである(977、986番の終わり、1033、1076、1077番を参照)。これがまた石の小刀が、または『岩の剣』が―それはそのように呼ばれているが―割礼に用いられた理由である(これらのものは真理を意味していることは、前の2039番の終わりに認めることが出来よう)。