主との親密さ

 

主(神)を知る

あなたと話すのは 私の悦び

主をお喜ばせする

子供

 

 

1.ヴァッスーラ

2.ルイザ・ピッカレータ

 

 

 

 

1.ヴァッスーラ

 

 

ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか/現代の預言者ヴァッスーラに聞く/P97

 

ヴァッスーラ:世の中には、神に会ったことがないのに、神について話をする方が多いですね。それはその人たちの責任ではありません。最初にイエスが私に話をするために近付いてこられたとき、私が何も知らないので、こうおっしゃいました。 「どうやら、何も教えられていないようだね」。あの時はわたしをかばおうとなさったのです。でも、本当にそうでした。イエスとは誰なのか、本当のイエスについて、だれも教えてくれませんでした。今日、人々が信仰を捨て、神のことを知らないでいるとしたら、それは、どんな方なのか知らないからです。人々が教会へ行くのは、単に行かなければならない義務があると言われたからであったり、教会とよい関係を保つためであって、そこには愛がありません。でもそれはちがいます。今日、神はメッセ―ジを通して御自分の考えを説明し、すべての人間に理解しやすいやり方で姿を現そうとなさっています。神はペルソナであって、抽象的な原理ではありません。多くの人々が、それもキリスト教徒の中にさえ、どこかでその栄光の中にいます抽象的な神のイメージを作り上げている人がいます。神は私の話を聞いてくださるのか? 聞いてくださらないのか? 私をご覧になっているのか? ご覧になっていないのか?

 

ネランク:それは哲学者の神です。

 

ヴァッスーラ:哲学者たちは、神からはるかに遠いところにいます。はるか彼方にです。

 

 

 

 

ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか 現代の預言者ヴァッスーラに聞く/P104

 

ネランク:今しがた、神について語る人は多いが、彼らは一度も神に会ったことがないとおっしゃいました。それは神のことを説明するのが務めであり使命である、たとえば教会で説教をする司祭とか、牧師とか、そうした人々のことをほのめかしておられるのでしょうか? 余談ですが、教会はますます閑散としています。人が減ってゆくのは、まさにそうした人々が、神を知らずに、神について語るからだとお考えですか?

 

ヴァッスーラ:残念がながら、神に出会ったことのない司祭が多いと申し上げざるをえません。なぜでしょうか? かれらの教会の閑散ぶりが、その印しです。神と出会っていれば、それと気が付くでしょうから、これからお話しするように、教会に人がどっと押しかけるでしょう。なぜならその司祭の口から出るお説教はすべて、語り手本人の精神でも光でもなく、聖霊に導かれているであろうからです。神は私たちに、親密さという、易しい糸口を与えてくださっています。この親密さがなければ、神と出会うことも、神を知ることもできません。子供のように、完全に身をゆだねて近付き、心で話かけることです。祈りは、ただ読まれているのではいけません。心底から出るもので、対話になっているべきです。欠けているのは、対話です。対話しながら、神と出会うのです。対話をしようと努力すれば、神は私たちが会いたいのだとお分かりになりますから、腕組みをしたままで、祈っている者がやって来るのをじっとお待ちにはなりません。まったく違います。その人に駆け寄り、ご自分と会ったときに、それと見分けられるような豊かな恩寵を与えてくださいます。

 

ジャン・マリ・ヴィアンネ

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P9

‘99・2・2

 

主よ、聖ヨハネ・クリゾストムの書かれたものを読み上げましょう。実際はあなたのお言葉です、この方を通して私たちに語られたあなたのお言葉です。あなたはこう仰いました:

 

「私は、あなたの父、私は、あなたの伴侶、私は、あなたの住まい、私は、あなたの子守り、私は、あなたの根源、私は、あなたの土台。あなたの望む何にでも、私はなろう。あなたに欠くものがない。私はあなたのために働く。仕えられるためではなく 仕えるために来たがゆえ。私はあなたの友 そして世話係り あなたの頭 そして兄、あなたの姉 そして母となる。私はすべてとなろう。ただ一つ 私と親密になってほしい!

 

私は あなたゆえに貧しい者となり、あなたの使い走りをし、あなたのために十字架にかかり、あなたのために墓に葬られよう。天上では御父にあなたのために嘆願し、地上ではあなたのために御父に執り成す者。あなたは私にとってすべて、兄弟であり、共同の世継ぎであり、友 そして私の一部。これ以上あなたに何が要るだろうか?」

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P152

00・1・20 教会一致週間

 

私を知り理解するという宝は いつの日も地上を天国にする。 それは地上で 親切、義、誠実をもって治めること。 聖霊による恵みによってこの宝を得たなら あなたのうちに働く私の意思が分かるようになる。 私どもはかつてこう言った、「もし誰かが自慢したいなら こう自慢するがよい、 私を理解し 知っていると・・・」この宝は 真珠の値打ちを上回るもの。 ああ、次の宝は 親密さ、神なる私との親密さ。 燃え立つ愛によって 心から発する炎の火花が、私との親密さの最初の印となる、絶え間なく私を探し求める渇きの長い期間は 私がすべての霊魂に切に望む あの親密な一致へと近づく予兆となろう、こうして彼らは 私の甘美を味わいに訪れ そして、全霊を込めて、天国の悦びに入り あなた方にたいして注いだ私の慈悲を称えて 天国の我が天使たちの調べを歌う。

 

 

 

2.ルイザ・ピッカレータ

摂理

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P10

 

主はまた私に、主から決して離れることなく被造物を愛する方法も教えて下さいました。つまり、被造物を神の似姿として眺めるのです。もし人が私に何かよいことをしてくれた時は、まさにそれは主から来たものとして感謝すべきで、主こそが私にたいしてなされたそのよい行いの最初の動機、主人公であり、彼らを通して主が私にそれをして下さったのです。反対に、もし私にたいして何か嫌なことをされた時は、それが霊的なものであれ身体的なものであれ、ただ私のよりよい善のために、神様がそれを行うことをお許しになったと考えなければなりません。それで私の心はますます神に引きつけられ、結ばれるのを感じるのでした。それゆえに、全ての人を神のうちに見、また彼らの一人ひとりのうちに神のお姿を見ることによって、もう彼らにたいする尊敬を失うことがなくなりました。もし人が私を冷やかしたりしても、反対に私の霊魂にとって新しい功徳を獲得させてくれたのだと考えて、その人を神様のうちに愛さねばならないという義務をもっと感じるのでした。その反対に、もし人がほめ言葉や拍手をもって私に近づいてくるような時、私は心の中で、今日はこんなふうだけれども人間の気まぐれから明日は私を憎むこともできるのだと思いながら、それら全てを私への軽蔑のように受け取っていました。とにかく私の心はあの頃から、言いようのないほどの自由を獲得いたしました。

 

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P18

 

全ての人間は消え失せるように。そうすれば、彼らから何か命令された時、あなたはそれをあたかも直接わたしがあなたに命じたかのように行なうでしょう。わたしにしっかりと眼差しをすえているなら、誰をも裁くことはなく、そのことが辛いか、味気ないことか、易しいか、難しいかを眺めることもないでしょう。人からあなたに命じられたこと全てに目を閉じ、わたしにのみその目を開けていなさい。そしてたびたび“主よ、あなたのためにのみ行いつづけ、そして終わりたいので、この仕事がよくできますように必要なお恵みを下さい。私はもう人間の奴隷となりたくありません。”と言いなさい。ですから歩く時も、話す時も、働くに際しても、ただわたしのより大きい喜びと満足のためという唯一の目的のためにして下さい。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P73

 

よろしい、あなたの上に起こる全てのことは、それが悪魔を通してのことであれ、または人間からくるものであれ、あなたのよりよい善のためにわたしが彼らに許し、つかさどっているのだということを覚えていて下さい。それらはあなたの霊魂を、わたしが選んだ最終の状態に導く以外の目的を持ってはいないのです。ですからあなたは目を閉じて、わたしの腕の中に安心していてほしいのです。あなたの周りで起こることを眺めたり調べたりしないで下さい。そうでなければあなたは時間を失うことになり、あなたが召されたあの身分に決して到達することはできないでしょう。それからあなたを囲む人びとに関しては、何も考えないように。彼らには深い沈黙でたいし、善意をもって全てに従いなさい。