ジャン・マリ・ヴィアンネ

1786〜1859

1.「アルスの司祭」

ベルナール・ブロ、ミシェル・カルージュ共著/

伊能哲大訳 石井健吾監修/エンデルレ書店

2.「聖ヴィアンネの精神」/モンナン神父著/

久保守訳/聖母文庫

 

 

農家に生まれ、農作業を手伝っていたジャン・マリ・ヴィアンネが司祭になろうと考えたのは18歳の時。父の反対で神学校へ入ったのは二十歳のとき。学友は皆12〜3歳で、彼はラテン語で大変な苦労をします。さらに苦労したのは、司祭は武器を持つことが許されないため当時神学生は徴兵を免除されていたのですが、彼は手違いで召集されてしまうのです。彼は甘んじてそれを受けようとしますが、かくまわれて「逃亡兵」の身となります。大赦によって許され、勉強を再開。しかし授業はラテン語で行われ、彼は進級できません。理解者にめぐまれフランス語で試験を受け、合格。異例の取り計らいだったため、最後は責任者の長上に判断をゆだねられます。長上の「青年ヴィアンネは敬虔であるか、よくロザリオを唱えるか、彼はマリアに信心を行うか」という照会に対し、「彼は信仰の模範です」との理解者の回答によって彼はついに進級を許されます。

 

二番目の赴任先のアルスという寒村で生涯を熱心な司牧に捧げ、一日の殆どを信者の告解に割きます。彼の評判を聞いて遠く外国からも大勢の信者が告解に訪れるようになります。しかし、魂を神に導くというあまりにも高貴な責任の重さの前に、自分がふさわしくないと思った彼は(と、いうように説明されていますが、真意はわかりません。おそらく愛する主がこれ以上侮辱されているのを聞くことに耐えられなくなったのではないでしょうか。それと過労と・・・。)子供のように三度脱走を試みます。そして一度目は自分から、後の二回は大勢の信者につかまり、懇願されて戻ったそうです。

 

勉学で苦労してやっと司祭になり、さらに司祭の職から三度も逃げ出そうとした彼が、「小教区の保護聖人」とされたことはほほえましい思いがします。しかし彼の言葉にはサンダー・シングのようなやさしい譬えが多く、霊感に溢れ、全体にソフトですが、剛毅なイメージのピオ神父にも劣らぬ霊的な賜物の持ち主だったようです。

 

 

 

1.彼の日常

2.司祭の不幸

3.神を見るでしょう

4.祈り

5.神の愛

6.主は神

7.父なる神

8.聖霊

9.ミサ

10.聖体訪問

11.罪

12.死

13.地獄

14.神に結ばれた心

15.十字架

16.罪によって神を十字架にかける

17.聖母

18.日曜日

19.苦行

20.救霊の方法

21.自己愛、世俗愛

22.自分の性癖との戦い

23.神様と共に

24.地上の天

25.彼に対する証言

 

 

 

 

1.彼の日常

 

 

アルスの司祭P2

 

彼は真夜中に起きた。

一時に祈るために教会へ降りて行った。

六時まで告解をし、ミサを献げた。

七時に「ラ・プロヴィダンス」(孤児のために彼が行った事業)で、ミルクをカップに半分飲んだ。その後すぐ、十一時まで人々の告解を聞いた。

昼から夕の八時までの六時間近く、司祭館で食事をとったり、病人を訪れたり、聖務日課を唱えたり、告白を聞いたりした。

八時に、共同の祈りや説教、カテキズムを行った。

十時に帰宅し、敬意を表して、訪問者を受け入れた。

一時間から三時間眠り、二十時間働き、そのうち十五時間は告白を聞いた。                                                                                                                                                                                

これを三十年間続けた・・・・。

アルスの司祭に告白した人は十万人以上にもなった。

 

 

 

アルスの司祭P93

 

多くの巡礼者がいたので、1836年から馬車が週三回、トレヴォーとアルスの間をはしり、1840年から毎日、リヨンとアルスの間を通った。(中略)最後の年に毎日の巡礼者数は三百人から四百人にもなった。

ほとんどの人が告解を望んだ。ヴィアンネ師はすばやく行った。しかし、冬には十一時、十二時まで告解を行った。夏には十七時から十八時までにもなった。巡礼者は三十時間、あるいは七十時間列に並んだ。

 

 

 

2.司祭の不幸

 

 

アルスの司祭P40

 

 私は叫ぶ。司祭より不幸なものはこの世にいない。どのように司祭は生活するのか。そこなわれた善い神を見るために。その聖なる御名はいつものろわれていた。その教えは破られていた。その愛は汚されていた。司祭はこのことだけを見ていた。このことだけを感じていた。司祭はピラトの屋敷にいる聖ペトロのようなものである。ピラトは私たちの主を侮辱し、軽蔑し、からかい、恥辱を浴びせた。何人かのものは主の顔につばを吐き、また他の者は平手打ちした。また、他の者は茨の冠をかぶせ、またさらに他の者は残酷な重い一撃を加えた。主は押され、地に投げられ、踏まれ、十字架につけられ、剣で刺された。ああ、もし私が司祭であることについて知っていたならば、私は神学校へ行かず、トラピスト修道院にすぐに逃亡していただろう。

 

 

 

3.神を見るでしょう

 

 

アルスの司祭P11

 

神の聖なる現存について考えることはほんとうに甘美で、慰めるものです。神は決して悩ましません。時は矢の如くすぎていきます。喜びは天国を待ち望むことです。―私たちは神を見るでしょう。私の兄弟たちよ、今まで考えたことがありますか。私たちは神を見るでしょう。本当に神を見るでしょう。

私たちは神を(中略)面と向かって見るでしょう。私たちは神を見るでしょう。

 

 

 

4.祈り

 

 

アルスの司祭P43

 

善い神は、私が自分のために祈る以外はほとんど全てを認めてくれる。

 

 

 

アルスの司祭P47

 

 神は、母親が赤子の頭をキスや愛撫をするために手でささえるように、信仰のある人間をささえる。私たちは、私たちが評価する価に応じてものを愛する。このため、私たちが主がその血に値する私たちの魂のためにもった愛を評価しなさい。主は魂との交わりと関係を切望している。

 

 

 

アルスの司祭P48

 

祈る時、波にのって泳ぐ魚のように、神にその心を開かなければならない。

 

 

 

アルスの司祭P48

 

より祈る。より祈りたい。それはまず、水面を泳ぎ、そしてもぐり、深いところへともぐりつづける魚のようである。魂はもぐり、深みに沈み、神との交わりの甘さに夢中になる。

 

 

 

アルスの司祭P48

 

 祈らないものは、飛べないめんどり、あるいは七面鳥のようである。それらが少しでも飛んだとしても、すぐ落ちて、地面をひっかき、そこではい回り、体をよごし、そうすることだけで楽しんでいるようである。

 

 

 

アルスの司祭P49

 

もし呪われたものが千年に一度、たとえ五分でも善い神を愛する恵みを持ったなら、その人の地獄は地獄であることを止める。

 

 

 

アルスの司祭P90

 

 祈りは神との一致そのものです。私たちが純粋な心をもって神と一致する時、自分のうちにバルサムを、私たちを酔わす甘さを、そして私たちを魅了する光を感じます。この親密な一致において、神と霊魂は一緒に溶けたロウの二つのかけらです。それは離れることができません。取るに足らない被造物と神とのこの一致は非常に美しいものです。それは理解できないほどの幸福です。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P281

 

 お祈り、これこそ、地上における人間のすべての幸福です。ああ、うるわしい生涯。霊魂のわが主とのうるわしい一致。ながい永遠も、この幸福を理解するには十分ではないでしょう・・・内的生活は霊魂が浸る愛の湯浴みです・・・霊魂は愛の中に溺れた者のように浸るのです・・・母親が子供の額に接吻をあびせ、たまらない愛撫を繰り返すように、神様も内生の人をこのように取扱い給うのです・・・。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P282

 

 私はよく、わが主を再び見奉ったときの弟子等のよろこびについて考えます。離れているとはこの上なく残酷なことでした。それほど、わが主は彼等を愛し、彼等に対して親切であらせられたのです。『汝等に平安あれ』と仰せられたとき、彼等を抱擁せられただろうことは当然考えられます。お祈りのときには、このように、わが主は私共の霊魂を抱擁してくださいます。私共には『汝等に平安あれ』とおっしゃってくださいます。

 

 

 

5.神の愛

 

 

アルスの司祭P12

 

神は私たちを父よりも、優しい母よりも愛しています。私たちは子供の心をもって、神の意志に自分をゆだね、自分を捨てなければなりません。神の愛は、私たちがあえて願わなかったことを実行に移しました。善き神は私たちを必要としません。もし私たちに祈りを命じるのであるなら、それは神が私たちの幸福を望んでおり、私たちの幸福はそこでしか見つからないからです。―神が私たちのところへ来ようとする時は、父親が話しかける子供の声を聞くために身をかがめるように、小さな被造物に心を向けてくれます。

 

 

 

アルスの司祭P13

 

愛は神が一人でとどまることを許しません。

 

 

 

アルスの司祭P18

 

母が子を火から救うよりも、善なる神が悔やむ罪人をゆるすことのほうが早いのです。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P67

 

 天国では、信徳と望徳とはなくなります。天国では、私共の理性に暗くたれこめている霧は消え去るからです。知恵は、この世で隠されていた事柄を知るでしょう。すべてがあるのですから、もう何も希望しなくなります。宝を持てばそれ以外のものを獲得しようと、望みません・・・だから愛徳は、ああ、私共は愛に酔いしれるでしょう。神様の愛の太陽の中に、溺れ沈み、イエス様のこの広大な愛の中に溶け込んでしまうでしょう・・愛は、この世ながらの天国の味わいです。もし、愛を悟り、感じ、味わうことができるならば、どんなに幸福になることでしょう。それなのに、人々は神様を愛しないのです。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P255

 

 私共のこの世での唯一の幸福は、神様を愛することと、神様が私共を愛しておられることを知ることです・・・

 

 

 

6.主は神

 

 

アルスの司祭P29

 

私たちが神の御業であることを知るのは容易です。しかし神の十字架刑が私たちの行いであることを本当に理解していません。

 

 

 

アルスの司祭P30

 

こんなにも惜しみなさを示す神の前で強欲を示すのは何と恩知らずなことでしょうか。神は自分の血をすべて私たちのために十字架上で与えたのではなかったでしょうか。

 

 

 

アルスの司祭P48

 

純粋な魂は美しいバラであり、その香りを吸うために、三つの神の位格は天からおりてきた。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P103

 

霊魂を満たすことのできるのは神様だけです。神様も、私共の霊魂の糧となるために、人体をとって、この地上にとどまるのを、余りの行き過ぎだとは思われませんでした。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P133

 

 私共の罪のためにいけにえになろうとして地上に降り給う神様、苦しみ給う神様、死に給う神様、私共の重い罪を背負わんとして、一切の責苦を耐え忍び給うた神様。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P123

 

皆さん、神様は霊魂に食物を与えて、生涯の巡歴の間を援けようとされて、被造物を見めぐらされました。その時、御自分を顧みて、御自分を与えようと決意されました・・・。おお、わが霊魂、そなたは何と偉大なのであろう。そなたを満足させることのできるのは、神様だけであるから・・・。霊魂の食物、それは神様の御体と御血とです。ああ、うるわしき食物よ。霊魂は神様によってしか養われない。霊魂を満足させるのは、神様しかないのです。その飢えをいやしうるのは神様しかないのです。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P128

 

おお、人間よ、そなたは何と偉大な者であろう・・・。神様の御体と御血とに養われ、うるおされるとは。この神様との一致の生活は何と甘美なのでしょう。この世ながらの天国です。もう、苦痛も十字架もありません。神様を拝領する光栄を得たとき、暫くの間、心の中に歓喜と芳香とを感じるでしょう。清い霊魂は始終こうなのです。また、この一致はこのような霊魂に力と幸福とを与えます。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P261

 

 神様があれほどの高価な御苦しみによって贖われた霊魂が、永遠に滅びるとは何という損失でしょう。

 

 

 

7.父なる神

 

 

聖ヴィアンネの精神P180

 

 丁度、聖マリア様がイエス様の御死去の後に、聖ペトロに「あなた方の父、私の子は何処です。何処にも見えません」とおっしゃられたように、わが主は息子を失った父のように、妻を失った夫のように御自分の代理者である教皇様のために、泣かれたのです。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P210

 

皆さん、慰め多い考えです。天国では私共は誰と一緒でしょうか。私共の父である神様と一緒です。私共の母である聖母と一緒です。私共の友である天使、諸聖人と一緒なのです。

 

 

 

8.聖霊

 

 

アルスの司祭P50

 

 聖霊は私たちの魂を細工する庭師のようです。

 

 聖霊をもつ人々は自分の才能を自覚できないほど、自分たちの悲惨な貧しさを知っています。

 

 

 

アルスの司祭P91

 

 聖霊を頂いたものは、自分の哀れさを知るとがまんできません。傲慢な人は聖霊にふさわしくありません。

 

 

 

アルスの司祭P49

 

 聖霊を持つ魂は神の現存に決して退屈しない。その心は愛を発散する。

 

 

 

アルスの司祭P31

 

聖霊がないと、私たちは道の石のようです。・・・片手に水のし浸みこんだスポンジを、そして別の手に小石を持って、二つとも同じように握りしめます。石からは何も出ません。スポンジからは水が豊かに出ます。スポンジは聖霊によって満たされた魂であり、石は聖霊のない冷たい、硬い心です。

 

 

 

アルスの司祭P32

 

これは主が私たちに『聖霊を派遣すること』を約束した理由です。神に『私たちを合わせる』ためです。なぜなら、乾燥した小麦粉が、水がなければ、パスタにもパンにもなることができないように、私たちは皆、天から来る『水』がなければ、キリスト・イエスにおいて『一つ』になることができません。そして不毛な土地が水を受けず、果実を生じることがないように、『乾いた樹木』であった私たちも、決して天から自由に与えられる水がなければ、生命の実りを持つことができません。なぜなら、洗礼を通して、私たちの体は体を不滅にする一致を受け取ったからです。しかし、私たちの魂は聖霊によってそれを受けました。このため、一つで他であることが必要になります。なぜなら、一つで他であることが神の生命を手に入れることだからです。

 

 

 

アルスの司祭P35

 

 聖霊によって導かれるものは正しい考えを持っています。知恵ある人よりも賢くとも、無知なものにすぎない人もいます。―眼鏡をかけた時計屋さんが懐中時計の小さい歯車を区別できるように、聖霊の光をもって私たちは私たちのあわれな生活の細部を識別します。その時、ささいな不完全さはきわめて大きいもののように見えます。ささいな罪は恐るべきものになります。―聖霊とともに大きくされたものを見ます。神により完成されたささいな行為の壮大さとささいな罪の重さを知ります。―見るものを拡大する眼鏡のように、聖霊は私たちに増幅された善と悪を見せます。―聖霊を持つ人たちは忍ぶことはないでしょうが、

自分たちのあわれな貧しさを知っています。傲慢な人々は聖霊を持っていない人たちです。

 

 

 

アルスの司祭P36

 

 聖霊をもつ魂は短い祈りのうちに風味を味わいます。しかし、魂は決して神の善なる現存を見失うことはありません。祭壇でも至聖の秘蹟における私たちの善き救い主の前でその心は、圧搾機のもとのブドウのふさです。―私たちの魂は神以外の食べ物を持てません。なぜなら、魂は神の聖霊によって生かされるからです。―天国で私たちは神の息吹きの栄養を知るでしょう。―聖霊があることを望むと、それは簡単に生じます。

 

 

 

9.ミサ

 

 

聖ヴィアンネの精神P122

 

聖体拝領をしたとき、何かの異常なものを感じます。体中を駆け回る何かを、爪の先までも広がっていく満足を感じます。この満足とは何でしょうか。それは、体のあらゆる部分と交じりあって、欣喜雀躍せしめ給うわが主です。聖ヨハネのように「主だ」と言わざるを得なくなります。全く何も感じない者は実にかわいそうです。

 

 

 

アルスの司祭P55

 

 聖なる宴から戻って来てすぐに、本を読みはじめるのを私は好まない。ああ、語りかける神がいる時に、何故人間の言葉にひかれるのか。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P288

 

 聖体拝領の中に隠されている宝を全部理解することができるならば、これ以上に、人間の心を満足させるものを必要としないでしょう。吝嗇漢はもう財産を追い求めず、野心家は名誉を求めないでしょう。各人はこの世を去り、この世の塵をはらって、天国へと飛び行くでしょう。聖体拝領! おお、何という名誉を神様はその被造物に与えてくださるのでしょう。

 

 神様がその被造物の舌の上に憩い、大急ぎでその口を通り、その心を王座として、その上に座し給うのです。ああ、神様! 神様! (この時、聖人は感動に充ち、涙を拭った。)

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P289

 

 聖体拝領は、よく果されるならば、一回でも、霊魂を神様への愛に燃え立たせ、この世をうとんじさせるに十分です。(中略)

ああ、聖なる聖体拝領。ただの一回でも人間のこの世を厭わせ、この世ながらに天国の歓喜を味わせるに十分です。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P289

 

 私はわが主を手にするのです。右手に持てば、その右手にじっとしておられます。左手に持てば、左手にじっとしておられます・・・ミサ聖祭の何たるかを知れば、死んでしまうでしょう。ミサ聖祭を立てることに伴う幸福は天国でしか分からないでしょう・・・不幸にも、神様、このミサ聖祭を平凡なことのように立てる司祭は何と哀れむべきでしょう。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P244

 

 あたかも、神様が海の向こう岸におられるかのように、私共には大変対象から離れているような信仰しかありません。もし、聖人方のように、生き生きとした徹底した信仰を持っているならば、わが主を聖人方のように見奉ることができるのでしょうがね。毎日、ミサ聖祭の時に、主を見奉っている司祭方がおられます・・・。

 

 

 

10.聖体訪問

 

 

聖ヴィアンネの精神P117

 

 私がアルスにきた最初のころのことでした・・・よくお聴きなさい、皆さん。ある人が教会の前を通るとき、決まってその中に入っていきました。朝は仕事に行くときに、晩は仕事から帰るときに、扉のところにスコップとつるはしとをおいて、ながい間、聖体の秘跡の御前にとどまって礼拝していました。ある日、私はあのながい訪問の間に何とわが主に申し上げているのですかと尋ねました。何と答えたかわかりますか。「神父様、私は何も申しません。私は主を見つめ、主は私を見つめておられます・・・」(ここで聖なる要理教師の声は涙で中断した)。

彼はくり返していた「何と美しいことでしょう。皆さん、何と美しいことでしょう」。

 

 

 

11.罪

 

 

聖ヴィアンネの精神P137

 

ごらんなさい、罪の状態にある人は、始終悲しそうにいています。何をしても無駄です。すべてに倦み、味気なくなってきます。

  ・・これに反し、神様と和睦している者は、いつも満ち足りていて、喜びに溢れています・・・ああ、立派な生涯・・・そし 

て、立派な死・・・。皆さん、私共は死を恐れます・・・たしかにそうだと思います。罪が死を恐れさすのです。罪が死をむごいもの、恐るべきものにするのです。この世から来世への戦慄すべき移り行きのときに、悪人を恐れさすのは罪です。

 

 

 

12.死

 

 

アルスの司祭P46

 

私たちの体を通して、死はただ清くされます。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P250

 

 聖アウグスチノは死を恐れる者は神様を愛していないと言っています。これは本当です。ながいこと父親から離れているならば会うのが嬉しくないでしょうか。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P233

 

不幸なことですが、私共はこの世でまず一致していない限り、天国で一緒になることはないでしょう。死は何も変えません。樹は倒れた処にいつまでも倒れています。

 

 

 

13.地獄

 

 

アルスの司祭P19

 

地獄は神の善性のうちにその源をもっています。地獄に落ちた人々は次のように言います。『ああ、せめて神が私たちを愛さなかったなら、私たちはほとんど苦しまなかっただろう。地獄は耐えられるだろう。(中略)しかし、何と愛されているのだろうか。何という悲しみ』

 

 

 

アルスの司祭P90

 

 少年たち、もし君たちが、火刑を準備し、薪を積み重ねている人を見たら、君たちはその人に何をしているのか尋ねるでしょう。するとその人は次のように答えます。『私は自分を焼く火を準備しています』。この時君たちはどう考えますか。そしてもし君たちが、その人が木に火をつけ、身を投げ入れるのを見たのなら、君たちは何と言うでしょうか。罪を説明する時に、私たちはこのようにします。地獄へ私たちを送るのは神ではありません。私たちが自分の罪とともにそこへ歩んでゆくのです。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P139

 

 地獄の存在を証明する必要はありません。わが主御自身「ラザロ、ラザロ」と叫んでいた悪い富豪の物語をされて、地獄について語られました。皆地獄があることをよく知っています。しかし決して地獄が存在しないかのように生活します。いくらかの金銭のために霊魂を売るのです。

 話を地獄に戻しましょう。すべての聖人方が恐れたこの恐るべき時、地獄がこの決定的な瞬間に全勢力を結集して私共に最後の攻撃を試みるこの恐るべき時に、改心の時間と勇気とを誰が保証できるでしょうか。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P257

 

 もし、わが主をお苦しませすることなしに、地獄に行くことができるならば、どうぞ、そのままやらせなさい。しかし、そんなことはできません。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P284

 

選ばれた者の特徴は愛であります。丁度、地獄にいる者のしるしが憎しみであるように。地獄にいる者は同じ地獄にいる他の者を愛しません。弟は兄を憎み、子は父を憎み、母は子を憎むのです。そして、このような憎しみが全部、一つの固まりになって神様に集中されるのです。これが地獄の真の姿です。聖人はすべての人を愛します。殊に敵を愛します・・・神様の愛に燃えた心は、丁度、雌鳥が雛の数に応じて羽を広げるように、神様が自分の生涯の途中で出合わせてくださる霊魂の数が多ければ多いほど大きく開かれます。

 

 

 

14.神に結ばれた心

 

 

アルスの司祭P48

 

神に結ばれた心には、いつも春が来る。

 

 

 

15.十字架

 

 

アルスの司祭P51

 

 これは甘く、これは幸福です。(中略)ただ苦しみの中で愛さなければならない。愛しながら苦しまなければならない。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P172

 

 苦しむこと。それが何でありましょう。それは一瞬の出来事でしかありません。もし、天国に行って一週間過ごすことができるならば、この一瞬の苦しみの価値を悟るでしょう。余り重い十字架や余り辛い試練には出会わないでしょう・・・十字架は神様が御自分の友に贈り賜う贈物です。

 

 毎朝、神様にわが身を犠牲として献げ、一切を自分の罪の償いとして受容されることは、何と美しいことでしょう。十字架に対する愛を願わねばなりません。そうすれば、十字架は甘美なものとなるでしょう。四年か五年の間、私はこのことを経験しました。大変な讒言に会い、反対され、怒鳴りつけられました。ああ、私は十字架を背負いつづけました・・・殆ど背負いきれない程でした。私は十字架に対する愛を願いました。「本当にここにしか幸福はない・・・」と私はつぶやきました。十字架の出処を決して見てはなりません。神様から来るのです。いつも神様が私共の愛を試すためにこの十字架を送り給うのです。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P293

 

十字架は香り高い液を出し、優しい香りを漂わせています。十字架を手にしっかり握って、胸に固く抱きしめれば抱きしめるだけ、その中に充ちている感動が流れ出てきます・・・十字架は人々が手にし得た中で、最も深い知識を蔵した書物です。この書物を知らない人々は、たとえ、他のすべての書物を知っているとしても無学者です。

 

十字架を愛し、十字架に意見を聞き、十字架をきわめる者だけが真の学者です。この書物がどれほど難渋なものであっても、この難渋の中に身を没する以上に満足なことは決してありません。この十字架の学校に通えば、通うほど、いつまでもいたくなります。十字架の中にいる時、時間はいつの間にか過ぎ去ってしまいます。知らねばならないことは、すべてこの十字架の中に学ぶことができます。そして、十字架の中の味に飽きてしまうことも決してありません・・・。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P294

 

 十字架。十字架が平和を失わせるというのですか。十字架が世に平和を与えたのです。私共の心に平和をもたらすべきものは十字架です。私共のすべての悲劇は十字架を愛さないところから来るのです。十字架を恐れることが、十字架をふやすのです。しかし、苦痛を誇張する自己愛を顧みることなく、素直に十字架を担えば、もはや十字架でなくなります。平和の中に耐え忍ぶ苦しみは、もはや苦しみではありません。私共は、まさに、苦しみのないことを当然嘆かねばなりません。それは、十字架を担うこと以上に、わが主に似かよう者としてくれることはないからです。おお、十字架への愛と徳とによってなされる霊魂とわが主との麗しい一致・・・私は信者がそうして十字架を嫌い避けるか分かりません。それは、つまり、私共のために十字架にかかり、十字架上で死ぬことを熱望された御方を避けることではありませんか。

 

 

 

16.罪によって神を十字架にかける

 

 

聖ヴィアンネの精神P132

 

罪によって、私共は神様を侮蔑し、神様を十字架にかけるのです。

 

 

 

17.聖母

 

アルスの司祭P56

 

 善き神は、いまある世界よりも美しい世界をつくることができるだろう。しかし、マリア以上に完全な生涯を与えることはできない。彼女は主のブドウ畑の真中に建てられた塔である。

 

 

 

18.日曜日

 

アルスの司祭P80

 

 あなた方は働いている。しかし、あなた方が稼いだものは心と体をだいなしにします。もし日曜日にも働く人に『あなたは何を行いましたか』と尋ねるなら、その人は次のように答えるでしょう。『私は悪魔に魂を売りました。私たちの主を十字架につけました。』私は日曜日にものを運んでいる人を見ますと、魂を地獄に運んでいると考えました。

 日曜日は善き神の日です。神の日であり、主の日です。主は一週間の全ての日を作りました。主はそれを全てとっておくことができます。主は六日をあなた方に与えました。主は七日目しかもっていません。あなた方はどのようにして、直接にあなた方のものでないものを取るのでしょうか。

 

 

 

前味

聖ヴィアンネの精神P134

 

 天国についても、地獄についてもこの世ながらに一種の前味があります。自我に死んでいない霊魂の中は煉獄です。不信心者の心は地獄です。わが主とよく一致している完徳者の心の中は天国です。

 

 

 

19.苦行

 

 

アルスの司祭P78

 

 時々、彼は食べなかった。彼は食べることに専念することを望まなかった。カテリーヌ・ラサーニュは次のように語っている。「彼はポテトを炊かせ、あるだけそれを食べた。八日間それを食べた。祈りの後、毎夜、家に戻り、しばしばカビの生えていることもあるポテトの鍋をみつけ、そこから一つ二つを取り冷たい水を加えることで、彼の夕食の準備は終わった。」

 

 

 

アルスの司祭P96

 

夜遅く、彼は司祭や修道士と会い、それ以外は自分の部屋で朝課と翌日の讃歌を唱えた。鉄の飾りのついた鞭で体を打った。疲れはてて、二時か三時まで粗まつな寝台に横になった。しばしば、彼は何年も苦しんだしつこいせきで目をさました。彼自らが「屍」と呼んだものが、休息であった。

 

 

 

アルスの司祭P79

 

私の友よ。悪魔はむちとその他の償いの道具をあまり重視していません。悪魔の戦う力を失わせるには、飲食、そして睡眠の苦行をすることです。悪魔が恐れ、その結果、善い神により良い効果をもたらすものはこれ以外にはありません。ああ、私はそのことを証明したのでしょう。私が一人の時、そして八才か九才の時、何不自由なく生活していましたが、ある日食べられなくなりました。(中略)その時私は善き神から他の人のためのように、自分自身のために望んだものを得ました。

 

 

 

20.救霊の方法

 

 

聖ヴィアンネの精神P60

 

救霊を得るには、神様を知り、神様を愛し、神様に仕えねばなりません。何と立派な生涯でしょう。神様を知り、愛し、仕えることは何と立派な、何と偉大なことでしょう。私共がこの世でしなければならないことは、唯これだけです。これ以外のことをするならば、それは時間の浪費です。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P62

 

 世俗の人々は、救霊を得ることは、余りにも難しいことだと申します。しかしながら、これ位、たやすいことはないのです。天主の十戒と聖会の掟を守り、七つの罪源を避けましょう。あるいは、善をなし、悪を避けようとすれば、それだけで結構です。

 

 

 

21.自己愛、世俗愛

 

 

聖ヴィアンネの精神P65

 

 愛によって創造られた人間は愛がなくては生きることができません。神様を愛するか、自分を愛するか、世俗を愛するかであります。皆さん、信仰が欠けているのです・・・信仰がない時、目が見えなくなります。目の見えない者は知ることができません。神様を愛しない者は、自分自身を愛し、同時に、快楽を好みます。その心は、煙のように瞬く間に過ぎ去るものに執着するのです。真理もどのような善も認識することができません。偽りしか認識できないのです。知恵の光りを持たないからです。やがて、自分の愛するすべてのものが与えてくれるものは、永遠の死でしかないことをよく悟るでしょう。まさに、この世ながらに地獄を味わうのです。(中略)

 

このような人々は余りに自分を愛しすぎるのです。しかし、自分を愛するといっても、その愛は筋の通った愛ではありません。神様よりも自分を求め、自己愛や世俗への愛によって、自分を愛するのです。ですから決して満足することもなく、また決して安穏でもありません。いつも不安であり、いつも悩み、いつも惑乱の憂き目にあうのです。

 

 

 

22.自分の性癖との戦い

 

 

聖ヴィアンネの精神P193

 

 信者は自分の性癖を支配するか、それとも性癖が彼を支配するか、二つに一つです。中間はありません。丁度、どちらが強くて他を叩き倒すかというので襟首をつかみ合っている二人の男のようです。大抵の場合、一方が他を地に叩きつけねば終りません。そして、押さえつけたまま、喉首に足をかけて身動きならないようにしてしまいます。彼は主となるのです。同じく性癖との戦いも、滅多にあいこになることはありません。性癖が私共を従えるか、私共が性癖を従えるかです。

 

皆さん、性癖にひきずられるとは何と悲しいことでしょう。信者は高貴な身分のものです。大侯のように家臣に命令しなくてはなりません。私共の家臣は性癖です。ある羊飼いが「あなたは誰ですか」と尋ねられました。「私は王です」「誰を支配しているのですか」「私の家臣です」「では、あなたの家臣は誰ですか」「私の性癖です」。この羊飼いが王であると言ったのは当を得ています。

 

 

 

聖ヴィアンネの精神P194

 

私共はこの世では海に浮かんだ船のようなものです。波を起こすのは何ですか。嵐です。この世では風がいつも吹いています。情欲が魂の中に嵐を巻き起こします。これは天国のための功徳となる戦いです。地上に、この戦いを避けることができる場所があると思ってはなりません。いたるところに悪魔がいます。そして、悪魔は私共から天国を奪おうとして、いたる処でねらっているのです。しかし、私共が何処ででも、また何時でも征服者となることができます。他の戦闘とは違います。敵味方の間には、常に敗北者ができます。しかし、欲するならば、神様の聖寵によっていつでも勝利を得ることができます。そして、神様が決して聖寵をくださることを拒み給うことはありません。

 

万事休すと思うときには「主よ、救けてください。私共は滅びます」と叫びさえすればよいのです。主は常に私共の傍に居て、満足に思って私共を見られ、微笑されて申されるのです「まことにそなたは私を愛している。そなたが私を愛していることが分かった・・・」と。実際、誘惑に対する抵抗によって、私共は神様を愛していることを証明するのです。

 

 

 

23.神様と共に

 

 

聖ヴィアンネの精神P256

 

 一切を神様の御前で、一切を神様と共に、一切を神様をお喜ばせするために・・・ああ、何と美しいことでしょう・・・さあ、わが魂よ、神様と語り合い、神様と共に働き、共に歩き、共に戦い苦しもう。苦労するであろうが、主はそなたの労苦を祝し給うであろう。歩けば、そなたの歩みを祝し、苦しめば、そなたの涙を祝し給うであろう。一切を神様と共に、神様の御前で行うこと、また神様が一切を見ておられ、一切を聖心にとどめてくださると考えることは、何と偉大で高貴なことだろう。何と慰め多いことだろう・・・では毎朝『神様、一切を御身の聖心に適うために、一切の行いを御身と共に・・・』と言おう。神様の現存を考えることは何と甘美で慰め多いことだろう・・・決して倦むことはない。数時間も数分であったかのように過ぎ去ってしまう・・・ああ、これはこの世ながらの天国の味わいである。

 

 

 

24.地上の天

 

 

聖ヴィアンネの精神P257

 

 信仰を持っている信者は愛のために死ぬでしょう・・・神と隣人とを愛する善良な信者・・・また神を愛し、隣人を愛しているとき、ごらんなさい、彼等がどんなに幸福であるかを、その霊魂には何と大きな平和があることでしょう。それは地上に於ける天国です。

 

 

 

25.彼に対する証言

 

 

アルスの司祭P72

 

エクリの小教区民は彼の説教を好んだ。彼の妹マルゲリーテは兄を愛していたが、説教の能力にあまり期待していなかった。しかし、彼の影響を認め、感動した。「私の考えでは、彼は説教がうまくありませんが、しかし、彼が説教する順番の時、全ての人が教会にやってきます。」

 

 

 

アルスの司祭P86

 

 ある人々は、アルスの住民を馬鹿にし、頭の固い信心家よばわりしたが、彼らは怒りもせず答えた。「私たちの司祭は聖人であり、私たちは彼に従わなければなりません。

 

 

 

アルスの司祭P95

 

 聖者のそばで祈っていた司祭は次のように語っている。「彼が聖別のすぐあと、目と手を高く上げている間、五分くらい一種の恍惚状態になっているのを見たのは印象的でした。私たち経験のないものは、彼は善なる神を見ていると語り合っていました」。

 

 

 

アルスの司祭P98

 

我々が思い出を読むように、アルスの司祭はしばしば未来を読んだ。

十一才の少年で、ロワール県のイヴ・ベルティエ・ド・ラ・フォールズの息子は親方にしかられ、サン・ボネ・レ・ウール村で姿を消した。四年間探しても見つからなかったので、失望した母親は息子が死んだのだろうと思い、娘をヴィアンネ師に使いに出した。

「私の娘よ、あなたのお母さんに息子は元気だと伝えてください。彼はこことあなたの家から遠いところで、まじめな人たちと働いています。でも、あなた方は安心することになるでしょう。彼は祝日にやってくるでしょうから」。

五・六週間後の八月十五日の夕方、若者が母のもとに帰ってきた。彼は、優れた鉱夫として働いていたモンソー・レ・ミから帰って来た。

 

 

 

アルスの司祭P106

 

 アルスの司祭を訪ねたアンネット・ドゥリエ夫人:

「廊下で普通の背の高さの女性が歩いているのを見た時、驚いたことに、彼女は金のバラを散りばめたもので、輝く白い上着を着ていました。彼女の靴は私には雪のように白く見えました。彼女の手には非常に高価なダイヤモンドがひかっていました。彼女の頭は太陽の輝きをもつ星の冠によっておおわれていました。彼女は光り輝いていた。彼女をじっとみつめていると、彼女が優しく微笑んでいるのに気づきました。」

 

 

 

アルスの司祭P109

 

別の時、聖者は物思いにふけって、ラ・プロヴィダンス(教会の経営する孤児院)の調理場に入っていった。そこに彼を探しにきたジャンヌ・マリ・シャネにさえ、彼は気づかなかった。彼女は彼が一人ごとを言っているのを聞いた。

「私はまだ日曜日以来善なる神を見ていない」

婦人は叫んだ。

「日曜日の午前中に神様を見たのですか」

聖者ははっとしたが、答えなかった。