摂理

 

 

供えられる神が許される

自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、

また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな(マタイ6・25)

感謝信頼無垢従順

この世の意義人生の目

宇宙創造の目的

 

 

 

 

1.聖書

2.神の摂理の目的

3.神がすべてを整えて与えない理由

4.いかなる強制も許されない

5.悪い者が栄えるのは

6.摂理が中断すればより悪い地獄へ陥る

7.摂理は黙したまま働く

8.絶えざるあわれみの御業

9.先見

10.秩序の法則

11.悪すら善用される

12.神のなさることに無駄なことは一つもない

13.人間は今導かれている以上に良く導かれることは出来ない

14.神の摂理を信じない者は神を信じない

15.神のことばには、それを告げる正しい時がある

16.何もかもがうまく働いてくれていたことが、そのときにはっきりわかる

17.再生した者(即ち、隣人を愛し、更に主を愛している者)がその過去の生活を反省する時、彼は彼がその思考の多くの事柄とその情愛の多くの事柄により導かれて来たことを知るであろう

18.ルイザ・ピッカレータ

19.その言葉はわたしから出たのである

20.神はあなたとともにおられ

21.神的摂理を信じる者は悪から引き出される

22.善がそこから生まれるという目的がないなら、即ち、試練に置かれている者たちのもとに真理と善とが形作られて、強められるという目的がないなら、主は彼らには許されはしない

23.人はその者の悪の中へまず導き入れられない限り、そこから導き出されることは出来ない

24.エホバは凡ゆる力を持っておられるのに、なぜそれを許されるかを悟ることも出来なかった

25.アグレダのマリア

26.トマス・ア・ケンピス

27.神的摂理は自己への愛を斥けた人間における神的な働き。自己への愛は悪魔であり、欲念とその歓喜は地獄というその悪魔の王国の悪。地獄が除かれると、主は隣人愛の情愛と共に入られ、その屋根の窓を開き、次に脇の窓も開かれ、彼に天界、死後の生活、永遠の幸福の在ることを認めさせ、そのとき流れ入ってくる霊的な光と愛とにより、神が凡ての物をその神的真理により支配されていることを承認させられる

 

 

 

 

1.聖書

 

 

創世記50・20

 

あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。

 

 

 

詩篇40・6

わたしの神、主よ
あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。
あなたに並ぶものはありません。
わたしたちに対する数知れない御計らいを
わたしは語り伝えて行きます。

 

 

 

詩篇92・6−7

 

主よ、御業はいかに大きく

御計らいはいかに深いことでしょう。
愚かな者はそれを知ることなく

無知な者はそれを悟ろうとしません。

 

 

 

詩篇94・8−11

 

民の愚かな者よ、気づくがよい。

無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。

耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。

目を造った方に見えないとでもいうのか。

人間に知識を与え、国々を諭す方に

論じることができないとでもいうのか。

主は知っておられる、人間の計らいを

それがいかに空しいかを。

 

 

 

マラキ3・15

 

彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ。

 

 

 

マタイ10・29

 

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。

 

 

 

ローマ8・28

 

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 

 

 

 

2.神の摂理の目的

 

 

神の摂理9

 

すべての創造された物の中には善と真理の結婚が創造の時から存在し、その後この結婚が解消されたゆえ、主はそれを回復しようと絶えず働かれており、従ってその回復と、その回復により、創造された宇宙が人間を通して主に結合することが神の摂理の目的であると合理的に結論することが出来よう。

 

 

 

神の摂理21[9]

 

「主の神的摂理は悪と誤謬を均衡、関係、浄化に役立たせ、他の者における善と真理の結合に役立たせる」。主に神的摂理は人間の真理と善、善と真理の結合へ向って絶えず働くことはすでに述べられたことにより明白であるに違いない。なぜなら、この結合は教会を形成し、また天界を形成するからである。それはこの結合は主の中に在り、また主から発する凡てのものに在るためである。この理由から天界と教会は結婚と呼ばれ、それ故神の国は聖言には結婚に譬えられている。イスラエル教会では安息日は最も聖い宗教的な法令であった。なぜならそれはその結合を意味したからである。また同じ理由から聖言には、その各部に、善と真理との結婚が存在している。これについては「新エルサレムの聖書の教義」(80−90)を参照されよ。善と真理の結婚は主と教会との結婚から起り、そしてこれは主の中に愛と知恵の結婚から起っている。なぜなら善は愛から、真理は知恵から発しているから。かく考察することにより、神の摂理の不断の目的は人間の中に善を真理に、真理を善に結合させることにあることが理解出来よう。なぜなら人間はこのようにして主と結合するからである。

 

 

 

神の摂理279[3](ロ)

 

「人間の生活状態は一瞬にして変えられることが出来、かくして、主の直接的な慈悲により、人間は悪の状態から善となることが出来、従って地獄から導き出されて、直ちに天界へ移されることが出来ると考えることは現代の誤りである」。

 

この誤りの下に苦しんでいる者たちは仁慈を信仰から分離し、救いを信仰のみの結果として認めている、なぜなら彼らは義認と救いとは、その信仰を言い現わしている言葉を信頼と信任とを以て信じ、繰返しさえすれば、そこから生まれてくると考えているからである。多くの者もまたそれと同じ結果が即時に、人間の生涯の最後の時間にも―その前ではないとしても―生まれると考えている。これらの者は人間の生活状態は一瞬にして変えられることが出来、人間は即座の慈悲により救われることが出来ると信じざるを得ない。しかし主の慈悲は即時的なものでなく、人間は一瞬にして悪から善になることは出来ず、神的摂理が人間生活の幼少期からその終わりに至るまでも絶えず働かない限り、人間は地獄から導き出されて、天界へ移されることは出来ないことが本章の最後の項に見られるであろう。ここに我々はそこから以下の主張を引用しよう、すなわち神的摂理の法則は凡て人間の改良を、従ってその救いを目指しており、それ故、生来地獄的な彼の状態をその反対の天界的状態へ変化させることを目指しており、このことは、人間が悪とその歓喜から遠ざかって、善とその歓喜へ入るにつれて、徐々にしか為され得ないものである。

 

 

 

天界の秘義6489

 

かくて何一つ何らかの善がそこから発することが出来るという目的がないなら許されはしない。

 

 

 

天界の秘義7007

 

「あなたが為さねばならないことをあなたに教えましょう」。これは、かくて為されねばならない一切の物の中に存在する神的なものを意味していることは以下から明白である、即ち、『教えること』の意義は流れ入ることであり、それがここのように神的なものについて言われると、発出することであり(前の6993番を参照)、『あなたが為さねばならないもの』の意義は為されるであろうものである。それが、一切の物の中に、を意味していることは、それが神的なものについて言われているためである。人間のもとに起る各々の、また凡ての物の中に〔一切の物の中に〕神的なものが存在している事についてここに若干述べてみよう。そうしたことが真実であることは人間には真理から程遠いことのように思われている、なぜなら彼は、『もし神的なものが、(世に)起る各々の、また凡ての物の中に存在しているなら、悪は起らないであろうし、またたれも地獄に落ちることもないであろう』と考えるからである、また彼は、主張の正しい方が常に勝利を得、正しい者は邪悪な者よりは世では幸福になるであろう、などとそういった類のことを考えはするが、彼らはそれとは反対のことを見ているため、各々の、また凡ての物の中に神的なものが存在していることは信じないからである。かくて彼らは彼ら自身と彼ら自身の怜悧さに個々の物を帰し、神的なものにはただ全般的な統治を帰するに過ぎないのであり、他のすべての事柄を運、好機と呼んで、運、好機は自然の盲目的な事柄と考えるのである。

 

 

 

天界の秘義7007〔2〕

 

 しかし人間がそのように考えるのは、天界の秘められた事柄を知らないためであって、その秘められた事柄とは主は各々の者にその者自身の自由を委ねられているということである、なぜなら人間は自由を持たない限り、決して改良されることは出来ないからである。強制はいかようなものも根付かせはしないため、改良はしないのである、なぜなら強制的なものは人間の意志のものとはならず、自由なものがその意志のものとなるからである。にも拘らず善と真理とは、人間自身のものとして人間のものとなるためには、その意志の中に根を下ろさなくてはならないのである、なぜなら意志の外側に在るものはその人間のものではないからである。そしてこうした理由から各々の者はその者の自由に委ねられているため、人間は外なる恐怖により抑制されない限り、悪を考え、また悪を為すことを許されているのである。そしてまた同じ理由から、この世では邪悪な人間は外観的には正しい人間よりも更に喜び、その栄誉を得ているが、しかし邪悪な者の栄誉と喜びとは外なるものであり、または身体のものであって、他生では奈落の不幸に変化してしまうに反し、正しい者の栄誉と喜びとは内なるものであり、または霊のものであって、存続し、天界の幸福となるのである。

 

 

 

天界の秘義7007〔3〕

 

 更に卓越と富裕の中には世的な幸福は在るが、しかし永遠の幸福は無いのであり、それで邪悪な者も正しい者もそれを得ており、またはもし正しい者がそれを得ないなら、それは彼らがそうしたものにより善から遠ざけられないためである、が、人間は神の祝福を世の色々な善いものと幸福から成立させているため、彼らはその反対のことを見ると、その弱さから神の摂理については誤らないわけにはいかないのである。彼らはまたその眺めている現在の物から結論を下して、以下のことは考えはしないのである、即ち、神の摂理は永遠のものを目指しているが、そのことは特に天界で、また地獄でも凡ゆる物が秩序づけられ、かくて天界は絶えず一人の人間に関連を持つためであり、また地獄はそれと対立したものの中にいるためであり―そこから均衡が生れてくるのであるが―そうした事は凡ゆるものの最も単一的なものそれ自身の中にさえ働いている神の摂理によらなくては、かくて神的なものが人間の自由を導き、また曲げられない限りは、決して有り得ないのである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/黙示録講解135

 

摂理は目的から目的の中に、目的に向かって働いている。

神の摂理は―それはひとえに人間の救いのために働いて、人間の生命の進行過程における最も微細な事柄の中にすら働いているが―

 

 

 

天界の秘義8478〔3〕

 

神的なものを信頼している者たちの場合は非常に異なっている。これらの者は、明日のために心遣いはするものの、それでも心遣いはしない、なぜなら彼らは明日のことを考えても、思い煩いはしないし、ましてや不安などは持たない。彼らはその願っているものを得ようが、得まいが、その心は乱されはしない、彼らは己が分に甘んじて、それを失っても悲しみはしない。彼らは富むにしても、心を富には置きはしない、名誉[ある地位]に挙げられても、自分自身を他の者よりも価値あるものとしては認めない。貧しくなるとしても、悲しみはしない、その境遇が卑しいにしても、気落ちはしない。彼らは、神的なもの[]を信頼している者には凡ゆる物が永遠に幸福な状態に向って進んでおり、時間の中で起るものは何であれ、依然それに貢献していることを知っているのである。

 

 

 

天界の秘義8560

 

即ち摂理は永遠のものを絶えず目指しており、また絶えず救いに向って導いており、そしてそのことは時には楽しい、時には悲しい色々な状態を通して行われており、人間はそのことを到底把握することは出来ないものの、それでもその色々な状態は凡て彼の永遠の生命に貢献しているのである。これらの事が『エホバの御口に従って旅すること』により意味されているのである。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P10

 

主はまた私に、主から決して離れることなく被造物を愛する方法も教えて下さいました。つまり、被造物を神の似姿として眺めるのです。もし人が私に何かよいことをしてくれた時は、まさにそれは主から来たものとして感謝すべきで、主こそが私にたいしてなされたそのよい行いの最初の動機、主人公であり、彼らを通して主が私にそれをして下さったのです。反対に、もし私にたいして何か嫌なことをされた時は、それが霊的なものであれ身体的なものであれ、ただ私のよりよい善のために、神様がそれを行うことをお許しになったと考えなければなりません。それで私の心はますます神に引きつけられ、結ばれるのを感じるのでした。それゆえに、全ての人を神のうちに見、また彼らの一人ひとりのうちに神のお姿を見ることによって、もう彼らにたいする尊敬を失うことがなくなりました。もし人が私を冷やかしたりしても、反対に私の霊魂にとって新しい功徳を獲得させてくれたのだと考えて、その人を神様のうちに愛さねばならないという義務をもっと感じるのでした。その反対に、もし人がほめ言葉や拍手をもって私に近づいてくるような時、私は心の中で、今日はこんなふうだけれども人間の気まぐれから明日は私を憎むこともできるのだと思いながら、それら全てを私への軽蔑のように受け取っていました。とにかく私の心はあの頃から、言いようのないほどの自由を獲得いたしました。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P18

 

全ての人間は消え失せるように。そうすれば、彼らから何か命令された時、あなたはそれをあたかも直接わたしがあなたに命じたかのように行なうでしょう。わたしにしっかりと眼差しをすえているなら、誰をも裁くことはなく、そのことが辛いか、味気ないことか、易しいか、難しいかを眺めることもないでしょう。人からあなたに命じられたこと全てに目を閉じ、わたしにのみその目を開けていなさい。そしてたびたび“主よ、あなたのためにのみ行いつづけ、そして終わりたいので、この仕事がよくできますように必要なお恵みを下さい。私はもう人間の奴隷となりたくありません。”と言いなさい。ですから歩く時も、話す時も、働くに際しても、ただわたしのより大きい喜びと満足のためという唯一の目的のためにして下さい。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P73

 

よろしい、あなたの上に起こる全てのことは、それが悪魔を通してのことであれ、または人間からくるものであれ、あなたのよりよい善のためにわたしが彼らに許し、つかさどっているのだということを覚えていて下さい。それらはあなたの霊魂を、わたしが選んだ最終の状態に導く以外の目的を持ってはいないのです。ですからあなたは目を閉じて、わたしの腕の中に安心していてほしいのです。あなたの周りで起こることを眺めたり調べたりしないで下さい。そうでなければあなたは時間を失うことになり、あなたが召されたあの身分に決して到達することはできないでしょう。それからあなたを囲む人びとに関しては、何も考えないように。彼らには深い沈黙でたいし、善意をもって全てに従いなさい。

 

 

 

『聖母から司祭へ』1974.2.11のメッセージ

 

「ああ、子よ、一日中のどの瞬間にも私はあなたと共にいます・・・。

あなたはもう一人ぼっちではありません。あなたの手をとって導き、その汚れなき心にあなたを抱きしめる母が、いつもあなたと共にいるのですよ。すべてあなたに起こることは、あなたのためになるようにと私が前以て用意したものなのです。

ますます私にだけ信頼することをお学びなさい。暗黒、苦しみ、誤解される時も、それはあなたが私への完全な奉献の道において成長し強くなり得るように、私が備えたものなのです。」

 

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・10・5

 

だからもっとも小さいご恩に対しても感謝せよ。そうすればいっそう大きいのを受けるに足る者となろう。

 もっとも小さいものでも、自分にとってはもっとも大きいものと思い、取るに足らぬものでも、特別の賜物と考えよ。

 もし与え主のとうとさを考えたならば、どんな賜物でも小さいとか、つまらないとか思われないだろう。この上なく高い神のくださる物につまらぬもののあるはずがないからである。

 たとい罰や鞭が与えられても、あなたはこれをありがたく思わなければならぬ。なんとなれば神は私たちにくることをお許しになるものはなんでも、私たちの救霊の役にお立てになるからである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・17・3

 

主よ、主が私に来たらせてくださることは、なんでも主のために喜んで忍びましょう。

主のみ手からならば、善も悪も、楽しみも苦しみも喜びも悲しみも同じ気持ちでこれを受け、私の身に起こるいっさいのことに対して感謝いたしましょう。ただすべての罪から私をお守りください。そうすれば死も、地獄も恐ろしくはありません。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・49・7

 

それゆえいまは謙遜して、すべての人の権下(した)に屈服し、だれがそれを言い、あるいは命じたか、ということに頓着するな。

ただあなたが大いに注意すべきは、あなたの目上にせよ、目下にせよ、あるいは同輩にせよ、あなたに何か望み、または暗示した場合には、すべてそれを好く解(と)って、誠意からそれをなしとげるよう努めることである。

他人は、これを求める者もあれば、あれを求める者もあり、このことを誇りとする者もあれば、あのことを誇りとする者もあって、千万の称賛を博するかもしれないが、あなたはそれにかまわず、これをもあれをも喜ぶことなく、ただ自分を軽んじ、わたしの意に適い、わたしの栄光をあげることばかりを楽しみとせよ。

あなたがまさに望むべきは、生死にかかわらず、あなたによって神がつねに光栄を得たもうことこれである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・50・4

 

 主を愛するためにこの世で苦しみ悩むのは、たといいくたびであろうとも、まただれによってであろうとも、みな主のお許可(ゆる)しがあってそうなるのであって、これは主の友に対するお恩恵(めぐみ)なのであります。

主のご計画とみ摂理とがなく、原因なくして地上に行われることは一つもありません。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P151

 

神は、時の主人です。ふだんのことに関しても、神に希望する人には、神が万事、計らってくださいます。利己心は成功を早めるのではなく、遅らせるのです。愛は成功を遅らせることはなく、早めます。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P234

 

 露の最も小さい一滴にも、その存在のよい理由がある。最も小さい、うるさい昆虫の一匹も存在するによい理由がある。火山の爆発とその火の流れもそれだけの理由がある。また、理由のない台風もない。そして物質の世界から人間のことに移れば、近眼の目しか持っていない人間の傲慢にとって分かりにくいことであっても、涙も喜びも誕生も死も、貧しさ、または病気の不幸、繁栄と健康なども、それぞれの理由がある。

 ・・・神経をいら立たせて衰弱させ、この世での一日を苦しくするさまざまの疑問に打ち勝つための秘訣は、神が知恵深く、または、あるよい理由のためにすべてを行うと信じ、神が行っていることすべて人を苦しめるための愚かな目的のためではなく、愛のためであると信じることである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P351

 

イエズスが声高く言う。

「私は、あなたに言う。 泣くな。 立ちなさい! 私を見よ! あなたをこんなに愛した私が、どんな理由もなくこんなことをしたと思うか。 私が、あなたにこんな苦しみをむだに与えたと思えるか? おいで、ラザロのところへ行こう。彼をどこに置いたのか」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P58

 

 神は一つのことば、一つの行為も無駄にせず、それを果たすことを望んでおられるからです。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P187

(聖母がワルトルタに)

 

あなたたちに黙想してほしい、もう一つの点も信頼に基づいています。起ることは、すべて神のゆるしがなければ起るはずはありません。それなら、あなたが権力(ちから)を得たとすれば、これも神のおぼしめしであり、下積みであるとすれば、それも神のおぼしめしによるものです。権力あるものは、権力が害にならないように警戒しなさい。初めは他人にとってだけの損害と見えたにしても、そのうちに“あなたの損害”になります。というのは、神は色々耐え忍んでくださるとしても、無限に耐え忍ぶことはなく、あなたが限度を越えれば、打たれて崩壊するでしょう。あなたが他人の下にいるとしたら、あなたのこの身分を、天の保護を引くための磁力にしなさい。決して呪ってはいけません。それらのことは神にまかせなさい。人間を祝福するか、呪うかは、皆の主である神だけの権利です。さあ、安心して平和に行きなさい。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P321

 

花よ、私の今日のメッセージを受け取りなさい。 怖れないように、私の計画はあなたが生まれるはるか前に立ててある。 ♡

 

それは私に起ること、そしてあなたのメッセージや、すべての人たちに起ることがなんであっても、み旨によって起るということですか?

 

♡ そうです 愛する者よ、起ることはすべて私から来ている ♡

 

 

 

マーリン・キャロザース/獄中からの讃美P124

 

「わが子よ。あなたに知ってほしかったのは、わたしの許しがない限り、誰もあなたに法外な請求をしたり、傷つけたり、ひどい目にあわせたりすることがないから、今後、心配する必要がないということだったのだ。あなたのいのちは、わたしの手のひらの中にある。あなたは、ただ、わたしを信頼していれば良いのだ。あらゆる環境の中でわたしに感謝しつづけてゆくならば、毎日の生活における、どんな些細な出来事においても、わたしがどれほど完ぺきに働いているか見えるようになってくるのだよ、マーリン」

 

 

 

 

3.神がすべてを人間に整えて与えない理由

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P66

 

「神が、あらかじめ必要なものをすべて整えて与えたなら、それは自分の友人たちに対して盗みを働くことになります。なぜなら、他人にあわれみの業を行うことによって愛の掟に従うという可能性を友人たちから取り上げてしまうことになるからです。 私の友人たちは神と相通じるしるしとして、御業とことばとに現される聖なるあわれみを持つべきです。他人の不幸は、私の友だちにさっき言ったあわれみを実行する機会を与えます。私の言いたいことがわかりましたか」

 

 

 

アルカナ出版/スヴェーデンボルイ/結婚愛7(3)

 

あなた方は天界で偉大なる者になりたければ、仕える人になりなさいと言われた主のみ言葉を忘れのですか。だからいま「王」とか「将軍」が何を意味するかを学びなさい。『キリストとともに支配する』とは、役立ちを味わい実践することです。キリストのみ国つまり天界のことですが、そこは役立ちのみ国です。

 主はみんなを愛しておられます。そしてみんなに善を与えたいと思っておられますが、その善とは役立ちです。主は善すなわち役立ちを果たされますが、間接的なのです。つまり天使をとおして果たされ、前世では人間をとおして果たされます。したがって自分の役立ちを誠実に果たす人には、役立ちへの愛をお与えになり、またその報酬をも与えられます。

 

 

 

天界の秘義6482

 

 天使たちが主に仕える者たちである理由は、彼らが活動的な生命の中にいて、そこから幸福を得るためである。が、それでも彼らの遂行する務めは、天使達もまた一様に告白しているように、彼らから発するものではなく、主から発する流入から発しているのである。

 

 

 

 

4.いかなる強制も許されない

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P54

 

イエズスが:

「贖いとは忍耐の業です。永遠に決められたことで幾世紀もの長い準備期間を経て“今”実現したのです。なぜあわてるのか。神は一瞬のうちにすべてをなし遂げることができなかったのだろうか。神の手から出た、恵まれた理性の持ち主である人間は一瞬のうちにすべてを知ることができなかったのだろうか。この世の始まりに、なぜ私は来られなかったのだろうか。そう、すべては可能だった。しかし“いかなる強制も許されない”どんな場合でも。強制はいつも秩序に背くものです。神から来るものはすべて秩序の中にある。おまえたちは神の知恵と力くらべする者であってはなりません」

 

 

 

 

5.悪い者が栄えるのは

 

 

天界の秘義6481

 

 他生に入ってくる霊たちは、神的摂理[神の摂理]は全般的なものではあるが、個々のものの中には働いてはいないという意見を抱いてくる。この意見の原因は、彼らは悪い者が名誉を与えられて、金持ちになり、成功の栄冠をつけるのを見、それをこうした者らはその者ら自身の賢明さに帰してはいるが、以下のことを知ってはいなかったということであった。即ち、神の摂理は人間の永遠の救いをその目的としており、かくて、この世の人間の幸運を、即ち、人間の豊かさと卓越とを目的としてはいないのであり、大半の人物はその身体の生命の間では幸福そのものをその豊かさと卓越とに置いているが、事実はそうしたものではない。なぜなら卓越は普通自己愛を生み、豊かさは世を愛する愛を生み、かくて神に対する愛と隣人に対する愛とに反したものを生むからである。それでこうした物は悪い者に与えられ、また善い者にも、もしそれが不適当なものでなく、彼らを天界から引き出さないなら与えられるのである。更に主は善い者を通してのみでなく、また等しく悪い者を通してもその御目的に備えられているのである。なぜなら主は悪い者をその者の愛そのものを通して動かして、隣人に、国に、教会に良いことを為させられるからである。なぜなら悪い者は卓越することを求め、自分自身の益を求め、そしてそうした物のために、他から正しい熱意のあるものであると見られようと願い、そうした願いから、恰も火で焚き付けられるように、気質の善良な者よりも更に強く動かされてそうしたことを行うからである。悪い者にはまた、凡ての物は彼ら自身の悧巧さから生まれ、神の摂理などは無い、あってもただ全般的なものしかないと信じることも許されているのである。彼らはそれ以外のことは認めようとはしないため、また彼らが公共の善に資する事柄を遂行するようにと、成功もまた彼らの企画に応じて彼らに与えられているが、その成功は、彼らがそれを彼ら自身に帰しているという事実から、彼らを更に刺激するのである。

 

 

 

仁慈の教義202

 

主は人間各々を通して善を生み出されることが出来、悪い人間が生み出す悪を善に向けられることが出来るのである。主は悪い人間をその人間自身のために、また世のために善を行うように刺激されることが出来るが、しかしその時でも主はその人間の悪の中へ流れ入られはしないで、その周囲に、その人間の円周の中へ流れ入られ、かくてその者の外なるものの中へ―その人間はその外なるものにより善として見えるように願っているのであるが、その外なるものの中へ―流れ入られるのである。それでこの善は、それが悪である限り、皮相的なものであり、本質的には悪である。偽善者のもとではそれは金を被せた糞であり、それは純金以外のものであるとは殆ど信じられはしないものの、嗅覚の鋭い鼻孔のもとへ持ってこられると、その汚臭が認められたのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P356

 

 真理の聖霊(みたま)を受けず、キリストも知らないでいる人々が、この世的な成功を収めているのをみて驚かされることが多い。しかし、このような人々は、霊的考えに抑制されることがなく、目的を遂げるためにはいつでも真理の声を無視し、神への従属を拒むことができるのである。

 

 

 

 

6.摂理が中断すればより悪い地獄へ陥る

 

 

天界の秘義6484

 

 彼からは他の者以上に狡猾な流入が発するため、彼は他の者以上に邪悪なものであると、私は善良な霊たちから言われた。その後その同じ霊はその幼少の頃の状態へ入れられて、その当時の彼の性質はいかようなものであったかを、またそのとき予見された彼の未来の性質はいかようなものであったかを、彼の生命の細々としたもののことごとくが主により導かれたのであり、主の不断の摂理が些かでも中絶(中断?)したなら、彼は極悪の地獄にも陥ったであろうということを主は天使たちに示されたのである。

 

 

 

 

7.摂理は黙したまま働く

 

 

天界の秘義6485

 

 彼らは人間自身の明敏[利口]は神的摂理に比較するなら、一片の塵芥を大気全体と比較するようなものであって、それは無であり、空しいものであると言った。彼らは、凡ゆる物を己が明敏[利口、賢明]に帰する者は暗い森の中を出口を知らぬままに彷徨って、出口を見つけると、それを自分の利口なことに、または幸運に帰するかする者のようなものであると言い加えた。天使たちは更に、偶然も凡て摂理から発しており、多くの理由から摂理は黙したまま秘かに働いており、もしそれが公然と働くなら、人間は到底改良されることは出来ないと言ったのである。

 

 

 

神の摂理211

 

神的摂理は何人もその存在を殆ど知らない程に秘かに働く理由は人間が滅びないためである。なぜなら人間の意志である人間の自己性は神的摂理とは決して協力せず、人間の自己性はそれに対して生れ乍らの敵意を持っているからである、なぜならこれが最初の両親を誘惑した蛇であって、それについては、『私はおまえと女との間に、おまえの裔と女の裔との間に敵意を置こう、彼はおまえの頭を砕くであろう』(創世記3・15)と言われているから。蛇は凡ゆる種類の悪を意味し、その頭は自己愛であり、女の裔は主であり、人間の自己性と主の間には、それ故また人間の深慮と主の神的摂理の間には敵意が置かれている、なぜなら人間自身の深慮は絶えずその頭をもたげ神的摂理は絶えずそれを押さえつけられているからである。もし人間はそれを感じるなら、彼は神に向かって怒り、憤激し、滅びるであろう、しかし彼はそれを感じないため、人間に対し、自分自身に対し、運命に対し怒り、憤激することは出来るが、しかしそのために滅びはしないのである。この理由から主はその神的摂理により絶えず人間を自由の中に導かれ、この自由は人間には全く人間自身のものとして見えている。

 

 

 

 

8.絶えざるあわれみの御業

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P269

 

 神の計らいには無駄なことは一つもない。間違いさえ、善を目指す人にとって、善へ至る手段となります。誤りは幼虫の殻のように抜け落ち、そこから奇形でもなく、臭気もなく、腹這いもしない蝶が出て、花の蜜と太陽の光を求めて飛んで行きます。よい霊魂もこのようなものです。場合によって醜い寄生虫に絡まれることがありますが、後にそれを抜け出して、花から花へ、徳から徳へ、光りの方へ、完全さの方へ飛ぶのです。その絶えざるあわれみの御業のために、主を褒めたたえなさい。その御業は人間が知らなくとも、人間を取り巻いていて、その心に働きます。

 

 

 

 

9.先見

 

 

天界の秘義6489

 

 主の摂理[主が供えられること]は先見と連結しており、一方は他方無しには在り得ないのである。なぜなら悪は先見されて、善が(それに対し)供えられるからである。そして先見される悪は、主が(それに対して)供えられる処置により、絶えず善へ向けられている。なぜなら神的な善の目的が遍く支配しているからである。かくて何一つ何らかの善がそこから発することが出来るという目的が無いなら許されはしないのであるが、しかし人間は、改良されるために、自由を持っているため、自分自身が自由の中にあって悪から善へ向けられるのに堪えるに応じて、(悪から善へ)向けられるのであり、(もし彼が天界へ導かれることが出来ないなら)、極悪の地獄から―そこへ彼は凡ゆる努力を尽くして飛び込むのであるが、その地獄から―更に穏やかな地獄へと向けられるのである。

 

 

 

 

10.秩序の法則

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P90

 

商売をする場合、正義を守りなさい。何かを売る時、“もっとたくさんもうけるために盗みなさい”と貪欲がそそのかすが“だまされるのが自分だったら悲しいと考え、あなたも正しい人でありなさい”という良心の声だけに耳を傾けなさい。自分がしてほしくないことを他人にするのはいけないということを忘れてはなりません。

 

 

 

 

11.悪すら善用される

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P186

 

あなたが私の所へ来たのは、私を滅ぼすために金をもらったからだが、実に創造主は悪いことを善に変えて人を救うことができます。もし、あなたがそう望めば、ここに来たことは善に変わるでしょう。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P242

 

『(前略)もし悪が善意の人々のために、よい結果を全く起こしえないなら、神はそれを滅ぼされたはずである』創造の世界の中にあるどんなものも、善への励ましが全く欠けているはずはない。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P374

 

あなたを迷わせた者を呪ってはいけません。彼らはむしろ大きな恵みの機会をくれたのです。私の話を聞き、このように私の腕に抱かれる恵みを受けました。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P69

 

 サマリア人であっても、お前は本当に幸せ者だ! 年から言っても、お前はどんな鎖にも縛られていないし、父や母に止められることもなく真理の道に従うことができる。・・・何年もの間、罰のように見えたことが、今や摂理と見えてきた。神は善いお方だ。

 

 

 

天使館/マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/P148

 

 人間の業は、よいものでも悪いものでも、常に超自然的な目的のために役立つ。人間の悪意は、に取り入れられ、の手に触れることによって、善のための道具に変わるからだ。は水源から溢れ出て分かれる小川のように、唯一の核から地球に四散している人々を最後の日に、再び唯一の核に結集するという目的を達成するために、その無限を見通す業で八方に手を尽くす。

 わたしの業はすでに始まっており、そして人間的なものを侵害し、傷つける迫害者たちは、彼らがその悪業での大いなる日を創り出しつつあることに気づいていない。その日、わたしは散らされた羊を集めるように、膨大なわたしの羊の群れを十字架のもとに集め、かつては、わたしの羊の群れだったのに野生の状態に戻っている羊たちに、わたしは『子羊たち』と名を付けて、もう一度洗礼を授けるだろう。わたしのしるしの下で人間社会に巣くう毒蛇や狼である者たちを追い払って。

 

 

 

 

12.神のなさることに無駄なことは一つもない

 

 

詩篇92・6,7

 

主よ、御業はいかに大きく

御はからいはいかに深いことでしょう。

愚かな者はそれを知ることなく

無知な者はそれを悟ろうとしません。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P194

 

 私は無駄なことをする習慣がない。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P242

 

神の御業には、よい目的なしに行われたものは一つもない。この真理を黙想せよ。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P266

 

動物と植物、また人間の便利のために造られたものは、創造主の愛の賜物であり、御父が子らに遺産として与えられたものであるから、子らは自分たちの利益のために、すべてを与えてくださった神に対する感謝をもって、それらを使わねばなりません。父親が子供に、服、家具、金、畑、家を与えて『これをおまえと、おまえの後継者に与える。これによって幸せになれ。おまえたちに与える愛の記念を、愛をもって取り扱え』と望んだとします。それなのに子供が、それを悪用するなら、父はどう言うと思いますか? 子は父を尊ばず、父とその贈り物を愛さなかったと言うでしょう。それと同じように人間は摂理によって与えられたすべてのものを慈しまねばなりません。慈しむとは、偶像崇拝や動物、植物その他どんなものに対しても、過度の愛情を注ぐ意味ではなく、我々に役立ってくれて、それぞれの命、すなわち感覚を持っている小さなものに対して、あわれみと感謝の心を持つという意味です。

 

創世の書が話している小さい魂とは、人間の霊魂という意味ではなく、それは命である。単なる命で、物質的なもの、愛情を感じるものであり、感覚的な存在です。動物は死んだら、無感覚になり、死は全くの終りです。動物には未来はない。しかし生きている間は、飢え、寒さ、疲れで苦しむこともあり、傷つけられれば痛みを感じ、苦しむこと、愛すること、憎むことも知り、病気になり、死ぬ運命をたどります。人間は、この世における生活をそれほど苦しくないように手段を与えてくださった神を考え、小さい下僕である動物には優しくしなければなりません。モーゼの本には、動物、飛ぶもの、四つ足のものに対して、慈悲を持てと命じられています。真に創造主の御業は正義の目をもって見なければなりません。そうすれば、神の御業はすべて“よいもの”と分かり、よいものであるなら、常に大事にしなければなりません。それらは、よい目的のために愛によって与えられました。我々はそれを愛することができるし、愛さねばなりません。そのものの彼方に我々のために造ってくださった無限の御者、神を見、それらを役に立つものとして大切にせねばなりません。実に宇宙には目的なしに造られたものは、一つもありません。神は、ご自分の完全な力を、無用なことのために費やされるはずはありません。

 

 この草一本が我々の避難場所となっている大きな幹よりも、役に立たないとは言えません。露の一滴、宝石のような霜が巨大な海に劣るとも言えません。ユスリカ、ブヨなども、大きなゾウより役に立たないとは言えません。堀の泥の中にいるうじ虫さえ、便利さとして鯨に劣るものではない。創造の世界には役に立たないものは一つもありません。神はすべてをよい目的をもって、人間に対する愛をもって造られました。人間はすべてを正しい目的に沿って用い、そして、この世にあるすべてを与えてくださった神への愛をもって、使用しなければなりません。マナエン、動物はしばしば人間よりも忠実に人間に仕えると、あなたは言いました。動物、植物、鉱物などはすべて人間に服従し、創造の法則を守り、あるいは創造主から受けた本能に従って積極的に人間に奉仕します。被造物の宝玉であるべき人間だけが、あまりにしばしば汚れたものとなります。神を褒めたたえるには、天使のコーラスに適した音節が必要なのに、人間はそこに不協和音を差し挟む。呪い、冒涜、反逆はもとより、創造主よりも被造物を盲愛する歌などの不協和音です。偶像崇拝は、神を侮辱する罪です。だからマナエン、心配することはありません。あなたに奉仕して、汗だらけになった一頭の馬をあわれむことは罪ではありません。罪とは隣人に涙を流させることであり、人間のすべての愛にふさわしい神を侮辱する汚れた情欲です。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P269

 

 神の計らいには無駄なことは一つもない。間違いさえ、善を目指す人にとって、善へ至る手段となります。誤りは幼虫の殻のように抜け落ち、そこから奇形でもなく、臭気もなく、腹這いもしない蝶が出て、花の蜜と太陽の光を求めて飛んで行きます。よい霊魂もこのようなものです。場合によって醜い寄生虫に絡まれることがありますが、後にそれを抜け出して、花から花へ、徳から徳へ、光りの方へ、完全さの方へ飛ぶのです。その絶えざるあわれみの御業のために、主を褒めたたえなさい。その御業は人間が知らなくとも、人間を取り巻いていて、その心に働きます。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P116

 

 わたしはきょうと言い、パン(糧)(かて)と言った。わたしは余計なことは決して言わない。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P130

 

 わたしは栄光化された肉体をそなえて来るだろう。

 わたしはこのように言うことによって、貴女の好奇心を目覚めさせた。好奇心がなければ女ではないだろう。とはいえわたしはあなたたちのために良いと思うことを言うのであって、あなたたちの役に立たない好奇心を養うために言うのではない。

 

 

 

 

13.人間は今導かれている以上に良く導かれることは出来ない

 

 

霊界日記3114

 

人間はその者が導かれているよりも更に良く決して導かれることは出来ない

 

 

 

霊界日記3115

 

その人間はそれ以外の方法では導かれることは出来はしない

 

 

 

霊界日記3115

 

人生の凡ゆる瞬間は必然的に生起しているのである

 

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P54

 

そう、私だ。私はあなたに対しては、他の婦人たちとは違う助力を与えてきた。人それぞれ、どんなことで私の助けを望んでいるかを見て、私はそれを行う。私の愛の助けをかりて、あなたも自分のカルワリオの道を歩みなさい。

 

 

 

 

14.神の摂理を信じない者は神を信じない

 

 

神の摂理182

 

心に神的摂理を否定する者はまた神を否定する。

 

 

 

神の摂理235

 

神的摂理に対するいかような信仰も全く持たない者は心では神を信ぜず、神に代って自然を信じ、神的摂理に代って人間の深慮を信じている。それがそうであることは明白ではない、なぜなら人間は二つの異なった方法で考え、二つの異なった方法で語ることが出来、その内なる自己から考え、語る方法とその外なる自己から考え語る方法とは異なっているからである、

 

 

 

 

15.神のことばには、それを告げる正しい時がある

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P54

 

「信じる者としてのあなたの光で、彼を改めさせなさい。・・・それでは、私は行く。なお、私のこと、私の言った事も、私の母以外にはだれにも話さないように。神のことばには、それを告げる正しい時があるのだから」

 イエズスは輝きを放って微笑し、その輝きの中で姿を消す。

 

 

 

 

16.何もかもがうまく働いてくれていたことが、その時にはっきりわかる

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P79

 

 人と被造物全体は虚無に従っているとはいえ、永遠にそうなのではない。人は従順なる気持ちを失いこの災いだらけの儚き状態に全被造物を巻き込んだが、このような霊的戦いの場においてしか人の霊的力は完全に開発され得ないのである。この戦いにおいてしか、人は完成に必要とされるレッスンを学びとることはできないのだ。そこで、天の完全さの状態についに辿り着いた暁には、人は現世の苦しみと戦いについて神に感謝することだろう。神を愛する者たちのために何もかもがうまく働いてくれていたことが、そのときにはっきりわかるからである。

 

 

 

 

17.再生した者(即ち、隣人を愛し、更に主を愛している者)がその過去の生活を反省する時、彼は彼がその思考の多くの事柄とその情愛の多くの事柄により導かれて来たことを知るであろう

 

 

天界の秘義4364[2]

 

 霊的な事柄の場合も、また信仰の事柄の場合も、そうした事柄が仁慈の善に連結しつつある時も同一である。人間は、善と真理とは天界から直接に流れ入り、かくて人間の中に媒介物が無くて流れ入って来ると信じているが、しかしそれは非常な誤りである。主は各々の者をその者の幾多の情愛により導かれるのであり、かくて彼を暗黙の摂理によりたわめられるのである、なぜなら主は彼を自由を通して導かれるからである(1937、1947番)。自由はことごとく情愛または愛のものであることは前に見ることが出来よう(2870、2873番)、ここから善が真理と連結することはことごとく自由の中に行われるが、強制の中には行われないのである(2875−2878、2881、3145、3146、3158、4031番)。それで人間が自由の中に善へ導かれていると、その時は真理は受け入れられて、植付けられ、彼はその真理に感動し始め、かくて徐々に天界の自由へ導き入れられるのである。再生した者(即ち、隣人を愛し、更に主を愛している者)がその過去の生活を反省する時、彼は彼がその思考の多くの事柄とその情愛の多くの事柄により導かれて来たことを知るであろう。

 

 

 

 

18.ルイザ・ピッカレータ

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P234

 

「我が娘よ、なぜ不安に心を騒がせて時間をつぶしているのか? あなたに関する出来事は何でもない。中傷、迫害、反対などのすべては人を義とし、ひとりで人間的な物事に依頼することなく、創造されたときのような神との一致にその人を戻すために、神の摂理が許すことなのである。なぜかというと、その人がどんなに善人で聖人であったとしても、いつも何かその内面に人間的な精神をもっているからである。

 また外面的にも、人は完全に自由ではない。常に希望し、人を信用し、人に頼り、そこから評判や尊敬を取り立てようとする人間的な何かを持っているものである。中傷、迫害、反対などの風が吹きすさぶやいなや、人間の精神は、なんと大きな雹の被害を受けることだろう! 事実人間は、自分が被造物から反対を受け、悪く解釈され、軽蔑されているとみると、もう人々のあいだに慰めを見いだせなくなり、同時に、彼への助け、支え、信頼、尊敬なども不足してくる。それで、最初はその人自ら被造物を捜し求めて行ったのに、その後は彼自身が、人々から逃げ出す。なぜなら、どこを向こうが、苦味ととげしか見つけることができないからだ。ゆえにこの人は、このような状態に成り下がって、独り取り残されてしまう。

 しかし人は、独りで居ることができない。彼は独りで居るために創られていないからだ。それでは、この可哀想な人は何をするだろうか? 彼は少しも躊躇することなく、彼の中心つまり神に全てを向ける。すると神はその全てを彼に与え、人も神を知るために自分の知性を、神と神から受けた恩恵を思い出すためにその記憶を、神を愛するために自分の意志を適用して、自分のすべてを神に与えるようになるのである。

 さあこれが、我が娘よ、霊魂が創造された目的、すなわち義とされ、聖化され、自分の霊魂の中で再び作り直されるということである。たとえその後、また被造物と接し、彼らが助け、支え、尊敬などを彼に与えたとしても、この人はもう、それがどんな値のものかを知っているので、無関心をもってそれらを受けるようになる。もしその人にこれらのことが役に立つと見ても、彼は常に神と共に独り留まりながら、ただそこに神の誉れと栄光を見るためにだけ、それを使用することだろう。」

 

 

 

 

19.その言葉はわたしから出たのである

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・46・3

 

その言葉はわたしから出たのである、それはわたしが許したから起ったのであって、「多くの心の念いが顕われるため」(ルカ2・35)である。

 わたしは罪ある者、罪なき者を審判くだろう。しかしあらかじめ秘密の審判によってその両方を調べようとしたのである。

 

 

 

 

20.神はあなたと共におられ

 

 

天界の秘義6303

 

「神はあなたと共におられ」。これは主の神的な摂理を意味していることは、『神はあなたと共におられるでしょう』の意義から明白であり、それは主の神的摂理である、なぜなら主はたれかと共におられる時は、その者を導かれ、起ってくる物は凡て、それが悲しいものであれ、または喜ばしいものであれ、その者の益になるように、と配慮される[供えられる]からである。これが神の配慮[摂理、供えられること]である。それが『主の』摂理と呼ばれている理由は、『神があなたと共におられるでしょう』と言われていて、聖言の『神』により、また『エホバ』により主が意味されているということである、なぜなら主の他には神は一人もおられないからである、なぜなら主は父そのものであられ、また主は子そのものであられ、父と子は一つであられるからである、即ち、主御自身ヨハネ伝の14・9−11に教えられているように、父は主の中に、主は父の中におられるからである(1343、1736、2921、3035、5663番を参照)。

 

 

 

 

21.神的摂理を信じる者は悪から引き出される

 

 

神の摂理298(ニ)

 

しかし神的摂理を信じる者は悪から引き出されるに反し、それを信じない者はそこから引き出されない。信じる者は悪が罪であることを承認し、そこから救い出されようと欲する者であるが、信じない者はその何れも為さない者である。

 

 

 

 

22.善がそこから生まれるという目的がないなら、即ち、試練に置かれている者たちのもとに真理と善とが形作られて、強められるという目的がないなら、主は彼らには許されはしない

 

 

天界の秘義6489

 

 主の摂理〔主が供えられること〕は先見と連結しており、一方は他方無しには在り得ないのである、なぜなら悪は先見されて、善が(それに対し)供えられるからである。そして先見される悪は、主が(それに対して)供えられる処置により、絶えず善へ向けられている、なぜなら神的な善の目的が遍く支配しているからである。かくて何一つ何らかの善がそこから発することが出来るという目的がないなら許されはしないのであるが、しかし人間は、改良されるために、自由を持っているため、自分自身が自由の中にあって悪から善へ向けられるのに堪えるに応じて、(悪から善へ)向けられるのであり、(もし彼が天界へ導かれることが出来ないなら)、極悪の地獄から―そこへ彼は凡ゆる努力を尽くして飛び込むのであるが、その地獄から―更に穏やかな地獄へと向けられるのである。

 

 

 

天界の秘義6574[2]

 

この凡てからこの節の言葉の内意に意味されていることが明白である、即ち、試練をもたらす霊共のように、真理と善から離反している者らは悪以外には何ごとも意図しないが、しかし神的なものはそれを善に変えられ、しかもそのことは永遠から秩序に順応しており、そこから善の真理の中にいる者たちに生命が発しているのである。なぜならこのように善良な者を悩ますことを許されている奈落の霊どもは悪以外には何ごとも意図しないことを知られたい、なぜなら彼らはその全力を尽して彼らを天界から引きずり下ろして、地獄に投げ込もうと欲しているからである、それは凡ゆる者の霊魂を破壊することが彼らの生命の歓喜そのものであるためである。しかしいかように小さいものでも、善がそこから生まれるという目的がないなら、即ち、試練に置かれている者たちのもとに真理と善とが形作られて、強められるという目的がないなら、主は彼らには許されはしないのである。全霊界を主から発生している目的が支配しているが、それはいかようなものであっても、最小のものでさえも、善がそこから生まれることが出来ない限り、何一つ生じないということである。ここから主の王国は目的と用との王国と呼ばれている。

 

 

 

 

23.人はその者の悪の中へまず導き入れられない限り、そこから導き出されることは出来ない

 

 

結婚愛510

 

なぜなら人はその者の悪の中へまず導き入れられない限り、そこから導き出されることは出来ないからである。

 

 

 

 

24.エホバは凡ゆる力を持っておられるのに、なぜそれを許されるかを悟ることも出来なかった

 

 

天界の秘義7632

 

エホバが「パロの心を頑にされた」と言われていることは、内意ではパロが自分自身の心を頑にしたことを意味しているのである。

 

古代では単純な者たちのために、悪はすべてエホバに帰せられたが、これは起こるようになったものがエホバ以外の源泉からいかようにして起こることが出来るかを単純な者は知ることは出来ず、その大半の者は悟ることも出来なかったためであり、またエホバが悪魔の一味が悪を作り出すのを許されることをいかように理解しなくてはならないかを、またエホバは凡ゆる力を持っておられるのに、なぜそれを許されるかを悟ることも出来なかったためである。

 

単純な者はこれを悟ることは出来ず、理知的な者さえもまたこれを悟ることが出来なかったため、それで多くの者から信じられているように、悪でさえもエホバから発生したと言われたのである。これは聖言では普通のことであって、その文字の意義は単純な者の信仰に従っているのである。

2447、6071、6991、6997、7533

 

 

 

 

25.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P51

 

元后の御言葉

 

天使たち、説教師、司祭や教師を通して特別な苦難や恩恵、他人の例、審判、死や御摂理による出来事により、人間を前進するよう励まします。生活の出来事は人々を神に近づけるため、救われるためなのです。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P337

 

元后の御言葉

 死の時やその後の審判について忘れることほど大きくて悪い誤謬はありません。この誤謬の門を通って、罪が世の中に入ったことを考えなさい。最初の女エワに蛇が言ったことは、「汝は死なないであろうし、そのことを考える必要がない」(創世記3・4)ということでした。こうしていつも騙され、死について考えずに生き、不幸な運命を忘れて死ぬ人たちの数は非常に多いのです。このような結末を避けるため、あなたの死は取り返しがつかないことを確信し始めなさい。多くを頂き、少ししか返さなかったこと、御恵みが多ければ多いほど審判はもっと厳しくなること、主の御恵みがいつでもどこでもどんな状況でも、忘れず不注意にならず働いていることをよく考えなさい。

 

 

 

 

26.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・1・3

 

まったく神に依り頼み、これを恐れ、これをお愛しするがよい。神はあなたに応えて、あなたのために一番よいように計らってくださるだろう。

この世にはあなたの永く住む所はない。どこにいてもあなたは他国者であり旅びとである。キリストと親しく一致していないかぎり、決して安心できないのである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・17・1

 

 わたしの子よ、あなたに対してわたしの意のままに行なわせよ。わたしはあなたのためによいことを知っているからである。

 あなたの考えは人間の考えである。またあなたの判断は多くのことについて、人間の好みに従うのである。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・17・

 

主よ、主の仰せになったことは本当でございます。主が私のために心配してくださることは、私が自分で心配するよりも、さらに深いのであります。

 心配をことごとく主にお任せしない人は、危険であります。

 主よ、ただ私の意志がいつも主に正しくしっかりと向けられていさえすれば、何事でもみ意(こころ)のままに私にしてください。

 なんとなれば、主が私にしてくださることは、何事もみな善でないものはないからであります。

 私の暗闇のうちにあるのがみ旨であっても、主は賛美せられたまえ。また私の光明(ひかり)のうちにあるのがみ旨であっても、やはり主は賛美せられさせたまえ。私に慰めをお与えになっても、主は賛美せられさでたまえ、苦しみをお与えになっても、同じく主は賛美せられさせたまえ。

 

 

 

 

27.神的摂理は自己への愛を斥けた人間における神的な働き。自己への愛は悪魔であり、欲念とその歓喜は地獄というその悪魔の王国の悪。地獄が除かれると、主は隣人愛の情愛と共に入られ、その屋根の窓を開き、次に脇の窓も開かれ、彼に天界、死後の生活、永遠の幸福の在ることを認めさせ、そのとき流れ入ってくる霊的な光と愛とにより、神が凡ての物をその神的真理により支配されていることを承認させられる

 

 

神の摂理207

 

「神的摂理の性質と起原」。神的摂理は自己への愛を斥けた人間における神的な働きである。なぜなら自己への愛は、すでに述べたように、悪魔であり、欲念とその歓喜は地獄というその悪魔の王国の悪であるから。地獄が除かれると、主は隣人愛の情愛と共に入られ、その屋根の窓を開き、次に脇の窓も開かれ、彼に天界、死後の生活、永遠の幸福の在ることを認めさせ、そのとき流れ入ってくる霊的な光と愛とにより、神が凡ての物をその神的真理により支配されていることを承認させられる