信頼
わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう(ヨハネ14・14)/
1.スウェーデンボルグ
2.マリア・ワルトルタ
3.ルイザ・ピッカレータ
4.サンダー・シング
5.トマス・ア・ケンピス
6.似而非なる、誤った信頼
7.信仰を持つ者はまた信頼を持つ
8.マーリン・キャロザース
9.ヨゼファ・メネンデス
聖書
詩篇62・8−9
わたしの救いと栄えは神にかかっている。
力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
民よ、どのような時にも神に信頼し
御前に心を注ぎ出せ。
神はわたしたちの避けどころ。
エレミヤ17・7−8
祝福されよ、主に信頼する人は。
主がその人のよりどころとなられる。
彼は水のほとりに植えられた木。
水路のほとりに根を張り
暑さが襲うのを見ることなく
その葉は青々としている。
干ばつの年にも憂いがなく
実を結ぶことをやめない。
1.スウェーデンボルグ
新エルサレムの教義115
霊的な信仰にいる者たちは自分は主により救われるという信頼を持っている。
天界の秘義2679
人間の凡ゆるものはその最小のものすらも主により予見され、永遠にその者の未来の状態のために供えられており、しかもそれは何らかの方法で可能な限り、またその者が自分自身が主により導かれるのに甘んじる限りその者の益になるように行われているのである。
天界の秘義2892
なぜならそのとき彼はひたすら主のみを信頼し、他の事柄を思い煩わないで、あらゆる事柄は彼の善と祝福と幸福に永遠に向かっていると確信しているからである。しかし自分が自分自身を治めていると信じている者は絶えず取り乱しており、幾多の欲念の中へ未来の事柄に関わる心労へ、かくて種々の不安の中へ拉し去られて行くのである。また彼はそのように信じているため、悪の欲念と誤謬の信念もまた彼に密着しているのである。
天界の秘義3868
信仰は信任と信頼であることを僅かな者しか知ってはおらず、その僅かな者たちの中でもさらに僅かな者しか信任または信頼は仁慈から発していて、それは仁慈の生活を送っていない者のもとでは在りえないことを知ってはいないのである。
天界の秘義4352
愛と仁慈との善を通して流れ入ってくるもの以外には霊的な信頼はない。
天界の秘義6578
なぜなら『慰めること』は理解について、『心に語ること』は意志について言われるからである。それで彼が『彼らを慰めたこと』はまた希望を意味しており―なぜなら希望は真理により理解から生まれるからである―彼が『彼らの心に語ったこと』は信頼を意味している、なぜなら信頼は善により意志から生まれるからであり、それは純粋な信頼は仁慈の善の中にいる者を除いては何人のもとにも不可能であり、純粋は希望は信仰の善の中にいる者を除いては何人のもとにも不可能であるためである。
天界の秘義8455
「営の周りに露が積もった」。これは平安の真理がそれ自身を接合させたことを意味していることは、『露』の意義が平安の真理であることから明白である(3579番)。『露』が平安の真理を意味していることは、朝それが天から降りてきて、細い雨のように草の上に現れ、その中にはまた雨以上に何か甘美な、または歓ばしいものを貯えており、そのため草や畠の作物は喜ぶためであり、『朝』は平安の状態を意味しているのである(2708番)。平安の何であるかについては、2780、3696、4681、5662番を参照されたい。即ち、それは人の心を全般的な歓喜をもって喜ばせるところの地上の暁のようなものであり、平安の真理はその暁の光のようなものである。『平安の真理』と呼ばれているこの真理は主から発している天界の神的真理そのものであり、それはそこにいる者たち(の心)を凡て遍く感動させて天界を天界とさせているのである。なぜなら平安は、主は凡ゆる物を支配されて、凡ゆる物を供えられ、善い目的に向って導かれるという、主に対する信頼をその中に持っているからである。人間はこの信仰を持つ時、平安を得るのである、なぜなら彼はそのとき何ものも恐れないし、将来のことで心を労して不安になることもないからである。人間は主に対する愛の中へ進んで行くに比例してこの状態へ入って行くのである。
天界の秘義8455〔2〕
悪は凡て、特に自己信頼は平安の状態を奪い去ってしまうのである。悪い人物は、何ごともその者のもとで成功するため、喜び、穏やかになる時、平安であると信じられている。しかしこれは平安ではなく、欲念の歓喜と穏やかさであって、平安の状態に似て非なるものである。しかし他生ではこの歓喜は、平安の歓喜に反している為、不快なものに変化してしまう、なぜならそうしたものがその中に隠れているからである。他生では外部は次々と内を明るみに出されて、最内部のものにさえも至り、平安は凡ゆる歓喜における、善の中にいる人間の不快なものにさえおける最も内なるものである。それで彼は外なるものを脱ぎ去るに比例して、平安の状態が明らかに示され、また満足、祝福、幸福を感じるが、その起原は主御自身から発しているのである。
天界の秘義8478〔3〕
神的なものを信頼している者たちの場合は非常に異なっている。これらの者は、明日のために心遣いはするものの、それでも心遣いはしない、なぜなら彼らは明日のことを考えても、思い煩いはしないし、ましてや不安などは持たない。彼らはその願っているものを得ようが、得まいが、その心は乱されはしない、彼らは己が分に甘んじて、それを失っても悲しみはしない。彼らは富むにしても、心を富には置きはしない、名誉[ある地位]に挙げられても、自分自身を他の者よりも価値あるものとしては認めない。貧しくなるとしても、悲しみはしない、その境遇が卑しいにしても、気落ちはしない。彼らは、神的なもの[神]を信頼している者には凡ゆる物が永遠に幸福な状態に向って進んでおり、時間の中で起るものは何であれ、依然それに貢献していることを知っているのである。
天界の秘義9244
天界的愛[天界の愛]の中にいる者は凡て、自分たちは主により救われるであろうという信頼をもっている、なぜなら彼らは主は、信じ、主が教えられた戒めに従って生きる者たちに永遠の生命を与えるために世に来られ、主はその者たちを再生させ、かくしてその者たちを天界に適わしいものとし、主はそのことを、人間の助けなしに、純粋な慈悲から、主御自身のみで行なわれることを信じるからである。このことが『主を信じること』により意味されているのである。
2.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3./P336
「けれども病気、死、災い、悲惨な出来事が続き、皆に見捨てられる時、信、望、愛を忘れず、『いとも高き御方の望みが実現されますように。今起きていることは私にとって有益です』と変わらず言える人こそ、まことに言うが、神の助けを受けるに値するのみならず、神の国での住まいが用意され、もはや清めを必要としない。」
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P187
(聖母がワルトルタに)
「注目してもらいたい、もう一つのことは、神に対しての信頼です。これについて、もう話したことがありますが、あえて繰り返して言います。信頼は、すべての対信徳を要求します。信頼する人には、信仰があるしるしです。信頼する人は、希望している人です。信頼している人は、愛している人です。愛する人は、相手に希望し、信じ、信頼します。神は、私たちのすべての信頼に値するものです。時として裏切ることもあるあわれな人間に信頼しているとすれば、絶対に裏切ることのない神に向かって、どうして、この信頼を拒むのですか。
信頼は謙遜です。傲慢な人は、『自分で充分にできる。あの人は信用できない。無知で、うそつきで横柄だから・・・』と言う。謙遜な人は、『私は信頼する。なぜ信頼してはいけないのか? 私があの人よりも良いとどうして言えるのか・・・』と言う。また、神について『良いお方である神になぜ信頼しないのか? 自分で何でもできるとどうして考えてよいか』と言うのです。神は、謙遜な人には与えるが、傲慢な人からは離れます。
信頼は従順でもあります。このために、神は従順である人を愛されます。従順とは、自らを神の子として認め、神を父として認めるということです。父が“まことの父”だったら愛するのが当然です。神は、われらのまことの父、完全な父であります。
あなたたちに黙想してほしい、もう一つの点も信頼に基づいています。起ることは、すべて神のゆるしがなければ起るはずはありません。それなら、あなたが権力(ちから)を得たとすれば、これも神のおぼしめしであり、下積みであるとすれば、それも神のおぼしめしによるものです。権力あるものは、権力が害にならないように警戒しなさい。初めは他人にとってだけの損害と見えたにしても、そのうちに“あなたの損害”になります。というのは、神は色々耐え忍んでくださるとしても、無限に耐え忍ぶことはなく、あなたが限度を越えれば、打たれて崩壊するでしょう。あなたが他人の下にいるとしたら、あなたのこの身分を、天の保護を引くための磁力にしなさい。決して呪ってはいけません。それらのことは神にまかせなさい。人間を祝福するか、呪うかは、皆の主である神だけの権利です。さあ、安心して平和に行きなさい」
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P44
おまえたちは、神からの召し出しの忠実な配偶者でありなさい。おまえたちは二人の主人に仕えることはできない。同時に神とサタンと床をともにすることはできない。黄金の飢えと同じように肉体の飢えを避けよ。肉体の飢えと同じように権力の飢えを避けよ。サタンはもっぱらこれを提供する。おお、彼の富は何と偽りのものか! 栄光、名誉、出世、権勢、財産、これはおまえたちの魂という貨幣をもって買える猥褻な取引きである。小さいことで満足せよ。神は、おまえたちに必要であるものを与える。これで足りる。空の鳥にこれを保障しているように、おまえたちにもこれを保障する。そして、おまえたちは空の鳥よりもずっと偉大なものだ。しかし、神は、おまえたちから信頼と清さとを望む。おまえたちに信頼があったら、神はおまえたちを幻滅させない。おまえたちに清さがあれば神の毎日の贈り物で足りる。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P375
「そんなに私を信用してくださるのですか。また罪を犯すかもしれないのに」
「いいえ、あなたはもう罪を犯すことはありません。私は知っています。あなたの病は治りました」
マリア・ワルトルタ/復活/P16
「でも私には、何を言っていいのか分かりません。何を言っても、彼は泣くばかりです・・・」
「主の定めがどこにあるかをお話しなさい。恐れているばかりでは、まだ神を知ったとは言えません。もし、罪を犯したとしても、神が罪人をどんなにか愛しておられるかをお話しなさい。神さまはその愛のために、“御ひとり子”をこの世にお送りくださったではありませんか。その神さまの愛には、私たちも愛をもって答えねばならないでしょう。
愛はまた、神さまへの信頼をよび、その信頼は、神さまの裁きを恐れさせないようにさせます。」
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P17
神の打ち明け話の相手になるのは、とても素晴らしいことだが、自分の思いどおりに行動する父に盲目的に身を委ね、父がどこに導いて行くのか敢えて知ろうとしない子たちであることも同じように素晴らしく、聖なることである。
おお 子たちよ、わたしはあなたたちを善の道に導くことを確信しなさい。あなたたちの父はあなたたちの善しか望まない。
打ち明けられる者にしろ、打ち明ける者にしろ、わたしの心の喜びのために必要だし、その上、『打ち明けられる者―打ち明ける者』であることは、完徳の頂点である。その時すでに、あなたたちは師の名において行動出来る弟子であり、父に導かれるままに自分を任せる幼子である。その時、あなたたちはわたしの慰め、わたしの喜びである。
わたしにとって、あなたたちの住んでいる世で、弟子の霊魂を見つけるのはとても困難だ! そして、子供のあいだでさえも、幼子の霊魂を見つけるのはもっと困難だ。わたしが憩いを見出していた素朴さ、信頼、無邪気さを、ごく幼い子供たちの魂のなかでさえも殺した獣の息はあなたたちをすっかり腐敗させてしまった。
3.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P24
「私がどれほど謙遜を愛するかを、もしあなたが知っていたなら。謙遜とは発見されるかぎりのもっとも小さな植物のようなものです。しかしそのつるは、天に届くほど非常に高いところまで伸びる。それは私の玉座の回りにまで這いのぼり、私の心の中にまで入り込んで来る。この小さな植物とは謙遜のことで、この樹が伸ばすつるが信頼なのです。即ち信頼のない謙遜はあり得ず、それのない謙遜は偽物の徳です。」
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国4巻P51
完全な愛とは、愛する対象にたいして抱くべき信頼から成り立つ。
4.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P180
霊的な仕事であれ世俗的な仕事であれ、信じるということがなければどんな仕事も果たせるものではない。人間同士が信頼し合わなければ、この世で生きてゆくことは不可能だ。こうして、何事も信頼の上に成り立っているのであれば、信じる力を人間の中にお造りになった神を信頼しないでよいものだろうか。われわれが無限の知識をもっているのなら、信じる必要もないかもしれないが、実際には無きに等しい位に人智は限られている。従って、この世にあっては、人は常に信仰の必要に迫られている。来世においてもである。人は来世においても無限の知識をもつことはないからである。
信仰は、愛と同じく、神に巻きつく魂のつるである。それは枝葉を伸ばし、豊かな霊的果実を生む。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P394
神について議論したり疑ってはなりません。そのようなことをすれば、主を辱めることになります。主を信頼し、従わなければなりません。わたしたちは主の力を見、主を証することでしょう。わたしにしてくださった大いなることを、主はあなた方にもしてくださることを、わたしは証言します。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・25・10
人がその慰めをどんな被造物からも求めないようになれば、その時からようやく神を完全に味わいはじめるので、どんなことに出会っても、よく満足していられるのである。
そうなると、かれは大きいことも喜ばず、小さいことも悲しまない。そして神はかれにとってすべてのすべてでおいでになり、そのみ前には何物も滅びず死なず、万物ことごとく生きて、躊躇せずそのお指図に従うのであるが、かれはその神に安心してまったく自分をお任せするのである。
6.似而非なる、誤った信頼
天界の秘義4683
そして彼らは(聖言からまた彼ら自身の理知からも教義は生命[生活]を伴わなくては無意味であり、または信仰は果を伴わなくては無意味であることを知ってはいるものの)信仰の生命には、または善には救いを何ら置かないで、ただ信仰のみに置くため、信頼に信仰の救う力を置くが、それは彼らが(信仰の)果からもそのようにして逃れるためであり、彼らは信頼はすべてのその存在を生命の目的から取得していることを、純粋な信頼は善を離れては在り得ないことを、似而非なる、誤った信頼なら悪の中にすら在り得ることを知りはしないのである。そして彼らは更に信仰を仁慈から切り離そうとして、また、前の生活はいかようなものであろうと、ただ一瞬の信頼でも、それが生命の最後の瞬間の信頼であっても救うと主張はするが、それでも人間各々の生命は死後もその者のもとに存続しており、人間各々はその生命の業に従って審かれることは知っているのである。
天界の秘義5826[3]
それでここから、主は旧約聖書の中で以下のことを言われ、新約聖書の中で確認されているのである、すなわち、律法の凡てと予言者たちの凡てとは神に対する愛と隣人に対する愛に基礎付けられ、かくて、生命そのものの中に基礎付けられてはいるが、しかし生活[生命]のない信仰には基礎付けられてはいないのであり、それで決して信仰のみには基礎付けられてはおらず、従って信頼にも基礎付けられてはいないのである、なぜなら信頼は仁慈がなくては不可能であるからである。もしその信頼が危険な時に、または死が差し迫ったときに悪い者のもとに現れるなら、それは似而非なる、または誤った信頼である。なぜなら彼らは死が近づいてきた際それを上辺ではいかほど熱烈に口にしたにしても、他生ではそうした信頼の一かけらも彼らの中には現れないからである。そうした信仰は ― 悪い者のもとでは何の効果も持たないことは、主御自身ヨハネ伝で教えられているのである ―
受け入れた者にはことごとく、かれの御名を信じる者には、かれは神の子となる力を与えられた、これらの者は血からも、肉の意志からも、また男の意志からも生まれないで、神から生まれたのである(1・12,13)。
7.信仰を持つ者はまた信頼を持つ
天界の秘義8240
「彼らは信じた」。これは信仰と信頼とを意味していることは、『信じること』の意義から明白であり、それは信仰を持つことであり、また信頼を持つことである、なぜなら信仰を持つ者はまた信頼を持つからである。信頼は信仰を通して愛に属しており、従って、エホバ、即ち、主に対する信頼は主と隣人とに対する愛の中にいる者たちのもとにのみ可能である、なぜならそれ以外の者のもとには信仰は存在しないからである。
新エルサレムの教義115
霊的な信仰にいる者たちは自分は主により救われるという信頼を持っている。
8.マーリン・キャロザース
ヨハネ5・24
はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P294
私たちがイエスを信じるなら、私たちの罪への罰を取り去るとイエスは約束なさっています。それなのに、なぜ、自分の道を歩もうとするのでしょう? 私はイエスを信じるほうを選びます。そして、あなたがたも同じことをするようお勧めします。
9.ヨゼファ・メネンデス
ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P232
聖マグダネラ・ソフィアはそれをさえぎり、母らしく力をこめて仰った。
「その通りです。私の娘よ、み主を待ち望むのですよ。浄配の望みと期待は天配の光栄なのです。」