この世の意義

 

摂理

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.サンダー・シング

3.トマス・ア・ケンピス

4.ヴァッスーラ

5.聖母から司祭へ

6.パラマハンサ・ヨガナンダ

7.アグレダのマリア

8.マリア・ワルトルタ

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界と地獄360

 

人間は世によらなくては天界のために形作られることは出来ない、そこに〔世に〕各人の情愛が終結しなくてはならない究極の結果があり、そしてこの情愛は、もしそれがそれ自身を働かせて行為とならない限り、または行為の中へ流れ入らない限り― そのことは多くの者の社会の中で行われるが ―遂には窒息してしまい、人間が最早その隣人を顧ないで、ただ自分自身のことのみを顧る程にもなるのである。このことから隣人に対する仁慈の生命が― それは凡ゆる業と凡ゆる務めにおいて義しい公正なことを為すことであるが ―天界に導くが、仁慈の無い敬虔な生活はそこに導くものではなく、従って仁慈を実践し、そのことによって仁慈の生命が成長することは人間が生活の職業に携わっている限り与えられることが出来るが、人間がそこから自分自身を遠ざける限り与えられることが出来ないことが明白である。

 

 

 

天界と地獄528

 

しかし人間は天界の生命を受けるためには、是非世に住んで業務と職業とに従事し、かくして道徳的な、社会的な生活によって霊的生活を受けなくてはならない。それ以外の方法では人間のもとに霊的生活は形作られることは出来ず、またはその霊は天界に入る準備をすることも出来ない、なぜなら内なる生活を送るが、同時に外なる生活を送らないことは、土台の全くない家に住むようなものであって、そうした家は次第に沈下するか、または隙間や破れ口で一杯になるか、またはぐらついて、遂には倒れてしまうからである。

 

 

 

天界の秘義1806

 

「彼は彼を外に連れ出された」(創世記15・5)。これは外なるものから内なるものを見る内的な人の視覚を意味していることは以下の記事に関連した、『外に連れ出すこと』の意義から認めることが出来よう。人間が身体の目で星空を熟視し、そこから主の王国を考える時、内なるものが引き出されて来るのである。人間がその目で何かを眺め、その眺めるものを、恰も見ないかのように見て、それらのものから教会または天界に属した事柄を見る時、または考える時はいつでも、彼の内的視覚は、または彼の霊の視覚は、または霊魂の視覚は『外に連れ出されるのである』。眼そのものは元来外に連れ出された彼の霊魂の視覚以外の何ものでもないのであり、しかもそれは特に彼が外なるものから内なるものを見るためのものであり、即ち、世のものから他生に存在するものを絶えず反省するためのものである。なぜならそれがそのために彼が世で生きている生命であるからでる。そうしたものが最古代教会の視覚であったし、またそうしたものが人間のもとにいる天使たちの視覚であり、またそうしたものが主の視覚であったのである。

 

 

 

天界の秘義2682

 

 しかし自分には死後生くる霊があると信じている者は僅かしかいないため、再生しつつある者も僅かしかいないのである。それを信じている者たちには他生はその者たちの思考と情愛のすべてであり、世はそれに比較すると無価値なものであるが、しかしそれを信じない者らには世がその者らの思考と情愛のすべてであって、他生はそれに比較すると無価値なものである。前の者は再生することの出来る者であるが、後の者は再生することが出来ない者である。

 

 

 

天界の秘義3016

 

人間の生命は幼少期から老年に至るまでも、この世から天界へ進んで行くこと以外の何ものでもなく、死である最後の年はその移行そのものであるからである。それで埋葬は完全に脱ぎ捨てることであるため復活である。

 

 

 

天界の秘義4219

 

 他生ではまた人間としての彼の性質は彼が身体の生命の中で主から受けて、自分自身のものとしたものにより決定されているのである。

 

 

 

天界の秘義5006[]

 

それでも事実は、人間はこの世におけるその活動によって天界のものである事柄の中へ導き入れられるためにこの世にいるのであり、この世における彼の生命は死後の彼の生命に比較するならば一瞬にも当らないということである、なぜなら死後の彼の生命は永遠であるからである。しかし死後生きることを信じる者は僅かしかおらず、そうした理由からもまた、天界の事柄は彼らには全く取るに足らないものとされている。しかし私は以下のことを確実に宣言することが出来るのである、即ち、人間は死後直ぐに他生に入り、この世における彼の生命はそこにも全くそのまま継続し、それはこの世で持っていたと同じ性質を持っているのである。そのことを私は知っているため、それを主張することが出来るのである、なぜなら私は身体の生命の中で私の良く知っていた殆ど凡ての者とその死後も語って、生きた経験からいかような運命が各人を待っているかを、即ち、その生命に応じた運命が彼を待っていることを知ることが出来たからであるが、しかしこのような性質の者たちはその事柄さえ信じないのである。

 

 

 

黙示録講解1087[]

 

 神的真理はその究極的なものの中にその充全な状態の中に在り、またその力の状態の中に在るため―なぜならそれがその中に在る時、それは同時に凡ゆる物の中に在るからであるが―それで主は最初の物から究極的なものを通して働かれなくては、かくて充全な状態な中で働かれなくては、決して働かれはしないのである。なぜなら主は自然的なものである究極的なものにおける真理を通してのみ人間を改良し、再生させられるからである。そしてこれが人間が世から去った後では世であったような者として永遠に止まる理由である。同じ理由のため天界と地獄とは人類から発しており、天使は直接に創造されてはいないのである、なぜなら世では人間はその充全な状態の中に在り、従って人間はそこにみごもられ、生まれ、後に知識、理知、知恵を浸透され、天使となることが出来るからである。他の何らかの方法で天使を創造することは与えられてはいない。

 

 

 

霊界日記801

 

 目的が人間を処理し、人間の生命はその目的の中に在り[その目的から成り]、その目的の大半は人間の愛であり、その目的が共に合して、いわば人間の霊魂となり、そのようなものにその霊魂はなるのである。なぜなら人間の霊魂はただ目的を顧慮するのみであって、その目的の総合体であるからである。かくて人間はその身体の生命の間に自らのためにその霊魂を形作るのであり、その霊魂とは彼の気質と本能である。

 

 

 

天界の秘義2682

 

 しかし自分には死後生くる霊があると信じている者は僅かしかいないため、再生しつつある者も僅かしかいないのである。それを信じている者たちには他生はその者たちの思考と情愛のすべてであり、世はそれに比較すると無価値なものであるが、しかしそれを信じない者らには世がその者らの思考と情愛のすべてであって、他生はそれに比較すると無価値なものである。前の者は再生することの出来る者であるが、後の者は再生することが出来ない者である。

 

 

 

天界の秘義5006[]

 

それでも事実は、人間はこの世におけるその活動によって天界のものである事柄の中へ導き入れられるためにこの世にいるのであり、この世における彼の生命は死後の彼の生命に比較するならば一瞬にも当らないということである、なぜなら死後の彼の生命は永遠であるからである。

 

 

 

天界の秘義7439〔3〕

 

 こうした理由からまた彼らの中で天界にいる者は僅かしかいないのである、なぜなら彼らは他生ではその生命〔生活〕に応じてその運命を受けているからである。それで彼らは他の者にも優って天界へ選ばれたと信じてはならない、なぜならたれでもそのように信じる者は、各々の者の生命は死後もその者のもとに存続していることを信じないし、また人間は世におけるその全生活によって天界へ入る備えをなさなくてはならないのであり、そのことは主の慈悲から為されるのであって、たれ一人、世ではいかような生活をしようとも、ただ慈悲のみからは天界へは入られはしないことを信じてもいないからである。天界と主の慈悲について考えられるこうした見解は信仰のみの教義により、善い業を伴わないただ信仰のみによる救いの教義から生まれているのである。なぜならこうした教義を奉じている者はその生活を何ら顧みないし、かくて垢が水で洗い落とされるように、悪も洗い落とされることが出来ると信じ、かくて人間は一瞬にして善の生命へ移ることが出来、従って天界へ入れられることが出来ると信じているのである。なぜなら彼らは、もし悪の生命が悪い者らから取り去られるなら、悪い者には全くいかような生命も無くなり、もし悪の生命にいる者らが天界へ入れられるなら、その者らはその者自身の中に地獄を感じ、そしてそのことは、彼らが天界の内部へ深く入れられるに比例して、益々甚だしくなることを知らないからである。

 

 

 

新エルサレムの教義126

 

 しかし世の放棄に関する事柄について述べよう。世を放棄し、霊に生きて、肉に生きないことは、富と名誉を主とした世的な物を斥けることであり、絶えず、神、救い、永生に関係した敬虔な瞑想にふけることであり、祈りに、聖言と敬虔な書物をひもどくことに日々を送ることであり、また自分自身を苦しめることであると多くの者から信じられているが、しかしこれは世を放棄することではなく、世を放棄することとは神を愛することであり、隣人を愛することであり、そして人間は神の戒めに従って生きる時、神は愛され、人間が用を遂行する時、隣人は愛されているのである。それで人間は天界の光を受けるためには、世に生き、世で業務に生きねばならないことが全く必要である。世的なものから引き出された生活は愛と仁慈の生活から分離した思考と信仰の生活であり、その生活の中では善の意志と隣人に善を行うこととは死滅してしまうのである。そしてこれが死滅すると、霊的生活は、基礎が無くて、次第に沈下するか、または割れ目や裂け目が一杯になり、または揺れ動いて、遂には倒れてしまう家のようなものになる。

 

 

 

 

 

2.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P79

 

 人と被造物全体は虚無に従っているとはいえ、永遠にそうなのではない。人は従順なる気持ちを失いこの災いだらけの儚き状態に全被造物を巻き込んだが、このような霊的戦いの場においてしか人の霊的力は完全に開発され得ないのである。この戦いにおいてしか、人は完成に必要とされるレッスンを学びとることはできないのだ。そこで、天の完全さの状態についに辿り着いた暁には、人は現世の苦しみと戦いについて神に感謝することだろう。神を愛する者たちのために何もかもがうまく働いてくれていたことが、そのときにはっきりわかるからである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P99

 

体の死がこの自然の絆を断ち切るときまで、世を捨てられる人間は誰一人いないのです。事実、神ご自身がこの世の絆を断ち切ることを求めておられません。神は、われわれがその中に生き、動き、存在するがために、この世界をお造りになったのであり、そうでなければ、人間をこの世界に置かれるようなことはなさらなかったでありましょう。神の聖なる目的に従ってこの世のことがらを正しく使い、地上に生きている間に天上の故郷に対して準備することが、神の御心です。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P101

 

人間が長く厳しい戦いを通して、永遠の生命へと成長することが神の目的です。それは、人が創造主との親密な交わりを歓び、人をご自分の姿形に似せてお造りになった神に似るように絶えず成長し、神の祝福された国にいつまでも留まり、終わることのない天の生命の歓びに与るためなのです。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P220/神との対話

 

8.人はみな、水がなければ生きてはいけないことを知っているが、水に沈めば窒息して死ななければならない。水を利用し飲む必要はあっても、水に落ちて沈んではならないのである。そこで、世俗生活を送るにも慎重さが必要である。まったく世俗生活での出来事に対処しないでいると、生きることが困難になるばかりか不可能になってしまう。人が世俗生活での出来事を霊的生活に生かすという目的のために、神は世界をお造りになったのだが、この世に呑まれてはならないのだ。そうなれば、祈りの呼吸は停止し、霊的に滅びるより他にない。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P240/神との対話

 

苦しみは、人間の強情な反逆的性質から生じるものである。それは、熱帯の炎熱が寒帯に住む者にとっては煩わしく苦痛なものとなり、寒冷が熱帯に住む者にとって苦痛を生むのと同様である。寒さも暑さも、太陽に対する地球の位置関係によって決まるものである。そのように、人は自由意志の使い方によって、神と一致もすれば不和も起す。神の法は人の霊的健康と幸せのためにあるのだから、それに対立すれば霊的苦悩を生むのは当然である。神はこうした神の意志への対立と反逆の状態を一掃してしまうことなく、この世が人間の住処(すみか)として創造されたものではなく、人間にとって異邦の地であることを人にわからせるために、それをお使いになっている。

 この世は、人を完全な不滅の内へと準備させるためのものにすぎない。また、打ち続く不幸も、人が不注意になり、真理から外れてこの滅ぶべき世と運命を共にしたりせぬよう、霊魂を目覚めさせるために与えられているのである。人は創造主との聖き交わりに入り、現(うつ)し世の悲哀から逃れたのちに、永遠の幸福と平和の天界に入るべく意図されている。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P243/神との対話

 

この世の人々があなた方を迫害し中傷しても、それに驚き悩んではいけない。この世は、あなた方にとって休息所ではなく戦場である。あなた方がこの世の者たちから讃えられるなら災いである。それは、あなた方が彼らの悪しきやり方と習慣に合わせていることを証しする。わが子供たちを讃えるのは、彼らの性質そのものに反することである。光と闇とは共存できない。悪人たちがその本性と逆のことをしているとみせかけ、迫害をやめるなら、あなた方はいっそう大きな害を被っている。彼らの影響が霊的生活の中にまで入り込み、あなた方の霊的進歩が阻まれているからである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P245/神との対話

 

信ずる者とそうでない者の生活は、初めのうちは大差なくみえるが、最後は蛇と芋虫ほどの差が生じる。蛇は幾度脱皮しようとやはり蛇である。だが、芋虫は醜いサナギを脱皮して新しい生物となり、美しい蝶となって空を舞う。同じように、信じる者は肉体を脱して霊的栄光の域に入り、天をいつまでも駆けるようになるが、罪人は死んでもやはり罪人である。

 芋虫はまた、十字架に括り付けられたかのように、木に張りついたサナギの中でもがき苦しむが、この苦しみが翼に力を与えて新生命に備えさせる。同じように、わが子らも地上にあって霊的戦いに苦しみ解放のときを溜息とともに待ちこがれるが、十字架を負う中でわたしから力を与えられ、終りなき生命に対して完全に準備する。

 

 

 

 

3.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・18・2

 

 主よ、主は一生の間忍耐し、それによってことにおん父のみ旨をお果たしになりました。ですから、私のようなあさましい罪びとが、主のおぼしめしに従って忍耐し、主のお望みになる間、自分の救霊のため、この朽ちるべき生涯の重荷を負うのは、当然のことであります。

 なんとなれば、この世の生活は私たちにとってまことに辛いものでありますが、しかし主の恩恵によって功績(いさおし)を積むよすがとなり、主の模範と諸聖人の歩まれた跡とによって弱い者にも耐えやすく、明るいものとなったからであります。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・12・5

 

 だからあなたは、もしほんとうの楽しみを味わい、いっそう豊かな慰めをわたしから受けたいと思うならば、いっさい世間の物事を軽んじ、あらゆる卑しい楽しみを捨てるがよい、そうすればあなたは祝福をこうむり、豊かな慰めを与えられるだろう。

 そしてあらゆる物質的慰めから離れれば、離れるほど、あなたはわたしの慰めのますます甘美で力強いことを知るだろう。

 けれども、その境地に達するには、まず多少悲しみをなめ、骨を折って戦わなければならない。

 抜き難い習慣は、あなたに抵抗するだろう。しかしそれにはいっそうよい習慣をもって打ち勝とう。

 からだも恨み歎くだろう。けれども精神の熱烈な力をもってこれを抑えよう。

 あの老獪な蛇はあなたを誘い悩ますだろう。しかし祈りをもってこれを追払おう。その上わけても有益な仕事にいそしむことによって、その入ってくる口をふさぐようにしよう。

 

 

 

 

4.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P341

‘87・9・24

 

聖マリアがそばにおられるのを感じました。

 

♡ ヴァッスーラ、そうです 私、あなたの母です、私はガラバンダルの我が子どもたちに現れました。この子たちが私を見て声を聞くことを許しました ♡ 私はこの子たちに現れ この子たちにはそれが分っています ♡ この子たちをあなたに祝福してほしいのです ♡

 

聖マリアよ、お望みを果せますように助けて下さい。

 

あなたの道を案内します、ヴァッスーラ。

 

ありがとうございます。

私は不思議な感じがしました。後ほど、自分の周りに香の薫りがしたのです。

 

私は、イエス、あなたを祝福し 我が香の薫りで包んだ ♡ 教会は生き返る! ♡ 私たちは一つです ♡ 私の教会を一致させたときはこれ以上待たない、我が霊魂がどのようにあなたを恋い焦がれているかを感じることができようか? あなたを連れに来る 愛する者よ、愛している ♡

(私はこれを聞いて嬉しいでした。)ここにはもう属していないように感じています。そして地球は本当に追放の場です。

 

愛する者よ この世に追放したままでいることで 私も苦しんでいる、しかし すべては無駄にならない、私は我が被造物を愛しているがゆえ 私の被造物を連れ戻してもらいたい、あなたが地上にいるのを見て苦しんでいる、私のために生きなさい 娘よ、私がどのように自分を犠牲にしたかを覚えていよう ♡ あなたの父 私のためにも同様にしてくれるか?

 

あなたにたいしても この犠牲にたいしてもふさわしくして下さい、主よ。

 

♡ 愛する者よ、私 主はあなたを祝福する、さあ 何事も無駄にはならないであろう ♡

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P267

‘89・9・28

 

あなたの地上の日々は過ぎ去る影、消えてなくなる一時的な通り道でしかない。 地上のものは何も残らない。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P22

‘89・10・25

 

世俗的なことから離脱し 生き方を変えるように、小さな者たちよ、この世は通過しているに過ぎないからです。 霊魂は永遠に生きると私は絶え間なく思い出させ 生き方を変えなさいとくり返し注意を促しています。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P107

‘90・1・31

(聖母)

ああ 愛する子たちよ、もう理解したでしょう? 地上は神に出逢うための、準備の地で あなたの住まいは天国です。

 

 

 

 

5.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1983.8.15

 

 あなたがたを待っている天国を、心と魂をもって眺めなさい。天国はあなたがたのほんとうの決勝点です。これほどあなたがたの心を奪い、疲れさせ、すりへらす地上の生活のために、あなたがたはつくられていないのです。地上の生活は、あなたがたにとって、天のみ国に入るために天の御父が準備して下さった、長く、苦しい待合室のようなものです。

 

 

 

 

6.パラマハンサ・ヨガナンダ

 

 

パラマハンサ・ヨガナンダ講話集/人間の永遠の探求/P440

 

昨年のクリスマスにわれわれといっしょにいた人の多くは、今ここにはいません。そして、来年のクリスマスにはだれがここにいるか、だれにもわかりません。人生とはこのようなもので、今後も同じように続いてゆくでしょう。人生は、しばらくの間いっしょに旅をするキャラバンのようなものです。ある仲間は、愚かな遊びや無知の溝にはまりますが、その苦い経験に懲りると、キャラバンの隊長に安全な進み方の指示を求めるようになります。このキャラバンの隊長とは、ほかならぬ地球キャラバンの長である天の父です。われわれがこのキャラバンの途中で別れ別れになっても、また、旅の始めと終りがやみに包まれていても、なおわれわれの人生には深い意味があります。すなわち、人生はわれわれに、真剣に神を求めるよう教えているのです。

 

 

 

 

7.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P51

 

元后の御言葉

私の愛すべき娘よ、生きている者全員が死ぬべき運命にあること、いつ死ぬか判らないこと、生きている間の短いこと、死後の永遠には終わりがないこと、永遠の生か死かはこの世に於て決定されることをいつも思いなさい。この世の危なっかしい巡礼に於て、神の愛を頂くか、神の怒りを招くか、誰も判断できません。この不確実さのために理性を正しく用いるならば、同じ主と友情を得ようと最大の努力を払うでしょう。考える力がつくほど育った子供は、神から徳に向かう道の案内をして頂き、罪から離れさせてもらいます。善を選び、悪を棄てるように教えて頂きます。更に神は絶えず、秘蹟、教義や戒律を与えます。天使たち、説教師、司祭や教師を通して特別な苦難や恩恵、他人の例、審判、死や御摂理による出来事により、人間を前進するよう励まします。生活の出来事は人々を神に近づけるため、救われるためなのです。恩恵の助力は、人間が自由にもらえます。これに反対するのは、罪の助長にかぶれた劣悪の傾向です。五官に傾き、卑しいことを喜び、理性を混乱させ、コントロールの利かない欲望の偽の自由へと意志を魅惑します。悪魔も魅惑やごまかしで人間の内なる光を暗くし、きれいな外側の下に毒を隠します。いと高き御方は人間を見棄てず何度も呼び戻します。人間としての器に応じ、もっとお与えになります。霊魂が自己をコントロールして得た勝利の報酬として、情熱や性欲の力は弱まり、霊魂は自由に高く舞い上がり、自分自身の価値や悪魔たちよりも高く昇ります。しかし、人間が自分の低い望みや忘れっぽさよりも高く昇るのを怠るならば、神や人の敵に負けます。神の善から離れ、いと高き御方の呼びかけに応じなくなり、神に助けを頼まなくなります。悪魔たちや人間の欲情が人間の理性を誘惑し、全能者の恩恵を受けつけなくさせます。主の訪問を歓迎するか拒否するかが、救いか亡びかを決めます。この教義を忘れないように。敵には激しく抵抗し、主をいつも求め、神の光に照らされた戒律を守るように。私は両親を深く愛しましたが、両親を離れることが御旨であることを知り、実家を出て神殿に入りました。

 

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P350

元后の御言葉

 

私は世界中にメッセ―ジを送りたいと思います、「死ぬべき騙された人々よ、何をしていますか。何のために生きていますか。私たちの人生の目的は神に面と向かって会うこと、神の永遠の光栄および神との交わりであることを実感していますか。何を考えていますか。誰があなたの判断を邪魔したり励ましたりしていますか。もし、あなたがこの本当の祝福と幸福を逃すなら、何を求めますか。この世の苦しみは短く、その報いは無限の栄光です。罰は永遠です。」

 

 

 

 

8.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1/P189

 

「しかし、そのとおりです。おまえはなかなか光を受けず、それほどまで人間的な考えにとらわれていることが私を悲しませます。

 いやいや、ヨハネ、ほっといて。あなたもシモン。ユダは思うように話した方がいい。ただ、光で照らされることだけを望みます。ユダ、ここに来て聞きなさい。おまえは、いま生きている多くの人々、未来も生きる多くの人々の考え方に立っています。考え方と言ったけれども、もっと正確には“間違い”と言った方がぴったりでしょう。しかし、おまえたちは悪意からではなく、本当のことを知らないのだから、誤りではなく、子供にありがちな片寄った判断と評価をしているにすぎない。

 そうです、あわれな人間よ、おまえたちはただの子供です。先生の私がここにいるのは、おまえたちを、真と偽り、善と悪、より良いことを単なる良いことと区別できるような大人にするためにここにいます。聞きなさい。生きるとは何でしょう。神なる父が、おまえたちが本当に良い子であるかどうか、その心を試すために与える時間であり、おまえたちの業によっても終わることがなく、試すことのない未来を与えるためです。そうしたら、ちょっと考えてみなさい。ある人は、神に特によく仕えるために稀な恵みをいただいていたために、一生涯にわたって何の不幸も起きないというのは良いことですか。人間生活においては、あまり幸せではなくても、いままでいただいた多くの恵みのために十分幸せであると考えてもよいのではないですか。心に神の啓示の光を受け、同時に賛成する良心のほほえみをもっているのに、この世でまた余分に光栄とか豊かな財産とかをいただくのは不正ではないでしょうか。その上、不賢明なことでもあり得ます」

 

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2/P187

 

苦しみは十字架ではあるが、翼でもあります。だれか死ぬことで、身ぐるみはがれるような気がするが、それは新たな服を与えるためです! 目を開けなさい。悪夢、闇、利己心から脱出しなさい。見なさい・・・世間とは、人が泣いて死ぬ不毛の地です。みなし子たち、病人たち、孤独な人たち、疑心に悩まされている人たち、裏切ったり、他人にむごいことをされて遺恨を心に持ち“助けて”と叫んでいる人々を迎えなさい。忘れられている人々を顧みて、自分自身を忘れなさい。病人たちを顧みて治療しなさい! 絶望している人々の中にあっても希望しなさい! この世は隣人によって神に仕えたい善意の人々に開かれています。この人々は神と一致し、泣いている人々と一致しています。この世は道場で、そこには勝利があります。あらゆる苦しみのとき、ルトに倣いなさい。あなたたちも “私はおまえたちと一緒に死ぬまでいるだろう”と言いなさい。そして治せないこのような不幸が“もう私のことをノエミと呼ばないでください。マラと言ってください。”なぜなら神は私を苦しみで満たしたから“と答えたとしても、おまえたちは耐えなさい。実に、あなたたちが根気強く耐えたならば、このような不幸は、あなたたちにこう聞かせます。”己の苦しみに耐えた一人の方によって、私を孤独、悲惨、苦しさから脱出させた主は祝福されよ“神はノエミを永遠に祝福しますように、私の救いとなったから。」                                           

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P561/132・2

 

イスラエル史上のあらゆる言葉は、選民のものとして霊的な意味を含むものであるから、この物語を考察し、適用しましょう。人生は常に教えです。イスラエルの人生は、地上での日々のためのみならず、永遠の日々を征服するための教えです。