真理
戦う真理/
1.善を受容する器官
2.内意では善
3.真理の外観
4.一人の者の言葉に立ってはならない
5.主から発していない真理は真理ではない
6.何人も真理については一瞬にして説得されてはならない
7.真理そのものは心の中に自ずから輝き出る
8.真理はそれが誤謬に悩まされるに応じて増大する
9.真理を持つためにはそれを承認し、信じなくてはならない
10.最初に争闘するものは真理
11.真理は議論を許さない
12.真理は不安にさせる
13.一つの真理は他の真理を認め、真理は容易に共につらなる
14.真理はそれが生命を持たない限り真理ではない
15.真理は絶えず変化しつつある幾多の状態に応じた形の幾多の多様なものの認識
16.真理はことごとく善の知識
17.真理は善から発する
18.善と真理とが極めて頻繁に言われている理由
19.真理は善により導かれると、それは初めて理知の真理となる
20.主は何人にも真理を明らかには教えられはしないで、善を通して真のものを考えるように導かれる
21.彼らは知恵の宮殿の最初の入口にも近づくことは出来ない、ましてその中へ入って、その楽園の中を歩き回ることは出来ない
22.如何ような真理もそれが証明されない限り人間に認められることは出来ないと多くの者に信じられているが、しかしこれは真でない
23.全天界を跋渉して無数の真理にまでも達することが出来るほどの自由の中にいる
24.暗くなる・・・真理が長らく論じられると、その真理についてしばしば起こること
25.真理は絶えず変化しつつある幾多の状態に応じた形の幾多の多様なものの認識以外の何ものでもなく
26.全般的な真理が教会の土台であり、基礎
27.真理はすべてそれと対立したものと関連づけられる時明らかになる
28.真理の持つ力
29.真理は誰から語られようとも、他の者の耳に入り、その者の心によりその状態と性質に応じて受け入れられる
30.善は諸真理により増大する
31.真理と善とが主によりベールをはがされたとき、そのときは争闘が存在することが可能となる
32.真理は臆病であることがない
33.サンダー・シング
マタイ22・16(マルコ12・14、ルカ20・21)
そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
ヨハネ1・14
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネ1・17
律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
ヨハネ3・20−21
悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。
ヨハネ8・31−32
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
ヨハネ8・31−32
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
ヨハネ14・6−7
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
ヨハネ14・17
この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
ヨハネ15・26
わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
ヨハネ16・13
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
ヨハネ17・17
真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
ヨハネ18・37−38
そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。
1.善を受容する器官
天界の秘義2046
「男はことごとく」。これは信仰の真理の中にいる者たちを意味していることは、『男』の意義が真理であることから明白である(これについては、672、749番を参照)。信仰の真理を意味している『男』の名前がここにあげられているのはたれ一人真理の中にいる者以外にはそれらの汚れた愛から清められることは出来ないからである。真理から清いものを、また清くないものを、また聖いものを、汚れたものを知るのである(cognoscit)。彼がこのことを学んでいない中は、主から絶えず流れ入ってくる天界の愛が、その中へ、またそれを通して働きかけることが出来る手段は存在しないからである、なぜならこの天界的な愛は真理を除いては、いかようなもののうちにも受け入れられることは出来ないからである。それで人間は信仰の幾多の知識により改良され、再生されるのであって、これはその人間がその知識に浸透しない中は行われはしないのである。良心そのものは信仰の幾多の真理により形作られるのである、なぜなら再生した人間が与えられる良心は真で正しいものの良心であるからである(977、986番の終わり、1033、1076、1077番を参照)。これがまた石の小刀が、または『岩の剣』が―それはそのように呼ばれているが―割礼に用いられた理由である(これらのものは真理を意味していることは、前の2039番の終わりに認めることが出来よう)。
天界の秘義2063〔3〕
これも前のように人間における類似したものにより説明することができよう。人間は再生しつつあるときは、すなわち、かれが主に連結しなければならないときは、かれは真理により、すなわち、信仰の真理により連結に向って進むのである、なぜならたれ一人その者が連結へ向って進む手段となる真理であるところの、信仰の諸知識によらなくては再生することはできないからである。主はこの知識に善により、すなわち仁慈により出会おうとして進み出られ、その善(その仁慈)を信仰の知識に、すなわち、そのいくたの真理に適応させられ、または適合させられるのである、なぜならいくたの真理はことごとく善の受容器官であり、それで真理が純粋なものであればあるほど、またそれが増し加えられておればおるほど、ますます豊かに善はそのいくたの真理を容器として受け入れ、いくたの真理を秩序づけ、ついにはそれ自身を明らかに示すことができ、かくて最後にはいくたの真理は、善がそのいくたの真理を通して輝かないかぎりは、現われなくなってしまうのである。このようにして真理は天的な霊的なものとなるのである。主は仁慈のものである善の中にのみもっぱら現存されているため、その人間はこうした方法によって主に連結するのであり、善により、すなわち、仁慈により、良心を与えられ、後にはその良心から真であるものを考え、正しいことを行うのであるが、しかしこの良心はいくたの真理と正しい事柄に―そのいくたの真理と正しい事柄に善または仁慈が適応され、また適合されているのであるが、そうしたいくたの真理と正しい事柄に―順応しているのである。
天界の秘義2261
真理はそれ自身において観察されるなら、それは生命を与えはしないのである。生命を与えるものは善である。真理は単に生命を、すなわち善を受容する器官に過ぎないのである。
天界の秘義3095[2]
真理以外には善を受けるものはなく、真理の如何に受容の如何が応じており、従って明るくされることの如何も応じている[真理いがいには善を受けるものはなく、真理のあるがままに、善が受けられ、また真理のあるがままに明るくされている]。それ故真理により明るくされているときは、その明るくされていることは、真理は真理自身のものであるかのように、真理から発しているように見えるが、しかしそれは善のものであって、善がこのように真理を通して光を与えているのである。さらに善が真理を手段として明るくすることはさらに遠く浸透しており、さらに深く感動させ、真理に対するさらに低い情愛を生んでいるが、そのことについては間もなくとり扱おう。天界の光は主の神的真理を通して主の神的善から発しており、それは主の人間的なものにおける神的真理を通して発しているため、それは天的な者のみでなく、霊的な者にも浸透し、天界にいるすべての者を知恵と理知とをもって明るくしているのである。そしてこれが知恵と理知との源泉であるため、主の人間的なものにおける神的善と神的真理とが聖言の内意に非常に多くとり扱われており、現在の記事では、この意義は善から真理が初めて明るくすることを、また真理を通して善が初めて明るくすることを取り扱っているのである。
2.内意では善
天界の秘義3121
内意では真理はことごとく善である。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P271
‘88・8・9 ローマ
イエス?
♡ 私です、最愛の霊魂よ どんなにあなたを愛するか。 教会は私を通して生き返る あなたを通して自らを現すのを許してもらいたい、我がミルラよ、あなたの主である私をよい香りで包みなさい、私は聖心を示した、私の道を教え 真理に導くために 霊魂よ あなたのもとを訪れた、あなたの時代は真理を探し求めているが、その真理とは愛 ♡ しかし彼らのうちには愛が見当たらない、彼らにとって私の名は(*)、もはや意味を持たない、しかし我が慈しみは私を蔑む者たちの上に大きく注がれている ♡ 被造物は私のやり方を捨ててしまい、盲(めしい)の道案内に導かれるままとなった。 私の掟に反逆し、私のでない掟を教えている、 被造物よ! 奈落にどれほど近づいているかが分かるなら! 互いを迫害するかわりに 心を配り合いなさい(**)、私の道、知恵の道を学びなさい、すべての行為も思いも 愛に覆われるように ♡♡
*その名は LOVE
**教会の人たちが
花よ、私はあなたの献身的な世話係 だから信頼しなさい、我が光のもとで護り、私の露で養っている、非常に大きな好意を寄せている私、あなたの神に信頼しなさい、いつも近くにいて美しく飾る、私は−完全に−忠実な−者(I‐Am‐All‐Faithful)、来なさい、「私たち」、私と一つになるように ♡
ありがとうございます、わが神よ。神に包まれ、神の美しさをちょっとだえけ垣間見て、非常に嬉しい心地でした。
3.真理の外観
スウェーデンボルグ/真の基督教254
基督教界の凡ゆる異端は、人が真理の外観を純粋な真理として誤認し、かかるものとしてこれを確認したために生じたのである。
スウェーデンボルグ/真の基督教257
聖言の文字的な意義における他の多くの物は、中に純粋な真理を隠しているところの真理の外観である。このような外観に従って単純に語りまた考えることは有害ではないが、その外観を確認することは有害である。何故ならその中に隠されている神的真理がこの確認によって破壊されるからである。これは自然から取られた例によって説明することが出来よう。我々がこれを引用するのは自然的な説明は霊的な説明よりも更に心を照示し、且つ教えるからである。太陽は眼で見ただけでは、地球の周囲を日毎に年毎に回転しており、それ故、太陽は登り没する、これによって朝、昼、夕、夜が生じ、また春、夏、秋、冬の四季が生じ、従って日と年が生まれると、我々は語っている。(中略)太陽が動くというのは外面的な真理であるが、それは動かないということが純粋な真理である。にも拘らず、凡ゆる者は外面的な真理に従い、太陽は登り、没すると語るのである。そして彼はかく語ることを殆ど避けることが出来ず、頑固にこのような表現の仕方に従って考えることは理性を鈍らせ、暗ませるのである。
4.一人の者の言葉に立ってはならない
スウェーデンボルグ/天界の秘義4197〔7〕
真理はことごとく二人または三人の証人の言葉の上に立って、一人の者の言葉に立ってはならないという表象的な教会に与えられている命令は(民数記35・30、申命記17・6、7、19・15、マタイ18・16)、一つの真理は善を確認しないが、多くの真理がそれを確認するという神の律法に基礎づけられているのである。なぜなら他の真理との関連性を持っていない一つの真理は確認を与えはしないが、幾多のものが共になると、一つのものから他のものが認められることが出来るため、確認を与えることが出来るからである。一つのものはいかような形も生み出しはしないし、かくていかような性質も見出しはしないが、連続して関連づけられている幾多のもののみがそれを生み出すのである。なぜなら一つの調子ではいかような旋律も生まれないし、ましてやハーモニーは生まれはしないように、一つの真理でもまた生まれはしないからである。
デボラ/生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/2巻上P124
カリスマを受けた人々の一致によって、人類が長い間待ち受けた善い果実を与えることになるでしょう。アヴェ、マリア!
デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻下P63
誰も、全てのカリスマを同時に所有することはない。各自に(まことに私の者である人々に)一つの使命が与えられ、各自が自分の悲惨を保ちつつ私の教会の完成のために招かれるのである!
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P346
ヴァッスーラ、心配しないように、どの人間も私を讃え讃美する自分のやり方がある。 あなたにはこの方法(著者注:書くこと)を与えた。
天界の秘義3436
かれが途方にくれる所では、他の記事から理解を与えられる。)
天界の秘義6222
一つの記事を他の記事と入念に比較するとき、何を為さねばならないかを認識する。
天界の秘義3785
「家畜がともに集められる時ではありません」
これは教会の、また教義的なもののいくたの善と真理とが未だ一つに集められることができなかったことを意味している。
天界の秘義3786
このことは教会が再び設立されつつあるときには、全般的に教会にも言われるのである、すなわち善と真理との教義的なものは一つに集められねばならないのである、なぜならそれらのものの上に教会は建てられるからである。さらに教義的なものは互いに関連し、また互いに相互的な関係を持っており、それでそれらのものが先ず一つに集められない限り、欠陥があり、欠けているものは人間の合理的なものにより補われねばならないのである。そしてこの人間の合理的なものは、霊的な神的な事柄においては、その合理的なものの結論がそれ自身から発している時は、いかに盲目であり、またいかに誤ったものであるかは前に充分に示したところである。こうした理由から、善と真理との教義的なものをすべて含んでいる聖言が教会に与えられているのである。(中略)教会にぞくしている善と真理との教義的な事柄は、人間が再生する以前にその人間の中に先ずともに存在しなければならない。
5.主から発していない真理は真理ではない
天界の秘義2904
教会には主の真理である真理以外の真理は存在しない。
主から発していない真理は真理ではない。そのことはまた聖言から、聖言から由来している信仰の教義からも明白である。それはヨハネ伝における聖言から明白である―
人間は天から与えられなくては、何ものも受けることはできない(ヨハネ3・27)
また他の所には―
わたしとともにいないかぎり、あなたたちは何ごとも為すことはできない(ヨハネ15・5)。
そのことは信仰の教義からも明白である。すなわち、信仰の凡ゆるものは、すなわち、真理はことごとく主から発しているということから明白である。
6.何人も真理については一瞬にして説得されてはならない
天界の秘義7298
更に以下のことを知られたい、即ち、何人も真理については一瞬にして説得されてはならない。即ち、真理は、それについてはいかような疑念も残さぬほどに一瞬にして確認されてはならないということが秩序の法則に順応しているのである。なぜならそのように印象づけられた真理は説得された真理となって、拡がることに欠け、また柔軟性を全く持たないからである。こうした真理は他生では固いものとして表象され、善をその中に取り入れてそれが応用出来るものとはならないといったものとして表象されているのである。そこから他生では何らかの真理が善良な霊たちの前に明白な経験により示されると直ぐに、その後には疑いを生み出すところの対立したものが示されるのである。このようにして彼らはそのことについて考え、それがそうであるか否かと考察し、理論を集め、そのようにしてその真理を彼らの心の中へ合理的に取り入れることが出来るのである。そのことによりその真理については霊的な視覚が、その対立したものにまで拡がることが出来、そこからその視覚は理解の中でその真理の性質をことごとく見、また認め、またそこからその対象の状態に応じて天界から流入を許容することが出来るのである。なぜなら諸真理はその実情に応じて色々な形を受けるからである。これが魔法使いらがアロンの行ったように行うことを許された理由である。なぜならそのことによりイスラエルの子孫の間に奇跡についてそれが神的なものであるか、否かとの疑念がかきたてられ、かくてそれが神的なものであるか、否かと考え、考察し、最後にそれが神的なものであることを自分自身に確認する機会が彼らに与えられたからである。
7.真理そのものは心の中に自ずから輝き出る
天界の秘義4741
「彼らはヨセフからその肌着を剥ぎ取った」(創世記37・23)。これは彼らが真理の幾多の外に現れたもの[外観]を消散させ、消滅させたことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『剥ぎ取ること』の意義は、それがここでは『ヨセフ』である神的な真理について述べられているときは、消散させ、また消滅させることであり、『肌着』の意義は、それが色々な色のものであったため、真理の幾多の外に現れたもの[外観]である(4677番)。真理の幾多の外に現れたもの[外観]を消散させ、消滅させることは、真理そのものが斥けられた後に起こるのである、なぜなら真理そのものは心の中に自ずから輝き出るのであり、それがいかほど消滅されようとも、依然として現れるのであり、特に善の中にいる者たちの中に現れるからである。これはまた己が中に真理を消滅させてしまった者たちにより明らかに見られるのであり、それでまた彼らはこれらの外に現れたもの[外観]を消散させ、消滅させようと努めるのである。
天界の秘義8694
「啓示」は何かが真理であることに内部から同意し、またそれに好感をもつこと。
もしそれが真理でないなら好感をもたない。好感がもたれると心は休まって、穏やかになり、この状態の中では信仰に属する承認があるのである。それの原因は主から発している天界の流入から来ているのである。なぜなら主から天界を通して光が発しており、それが内なる視覚の目である知性を取り巻き、それを明るくしているからである。そのときその光の中で見られるものは真理である。なぜならこの光そのものは主から発している神的真理であるからである。この神的真理は天界の光である。
真の基督教354
人間はこの世の職業の故に、信仰の真理を僅かしか得ることが出来ないが、若し、彼が主に近づき、主のみを礼拝するならば、凡ゆる真理を知る力を得るのである。かくして、主を真に礼拝する者は凡て、以前知らなかった信仰の真理を聞くや、直ちに之を悟り、認め、受入れるのである。何故なら主は彼の内にあり、彼は主の中にあるからである。従って、真理の光は彼の中にあり、彼は真理の光の中にあるのである。何故なら上述したように、主は光そのもの、真理そのものにて在すから。是は以下の如くに証明されたのである。私に或る一人の霊が示された。彼は心の単純な社会の一員であるように思われた。何故なら、彼は主のみを天地の神として認め、且つ、この信仰を聖言の僅かな真理によって確認したからである。彼は彼よりも賢明な天使たちの間に取り上げられ、そこで以前、それについては何事も知らなかった智恵を示して彼らと同様に賢明になったことを私は告げられたのである。主の新しい教会へ来る者は同様の経験を持つであろう。彼らの状態はエレミヤ記に次のように録されている。「我がイスラエルの家に立てんところの契約はこれなり、即ち我律法を彼らのうちに置き、その心の上に録さん。人各々その隣とその兄弟に教えて汝エホバを識れと復(また)いはじ。そは少より大に至るまで悉く我を知るべければなり」(31・33、34)。更にイザヤ書に、「エッサイの株より一つの芽出でん。真理はその腰の帯とならん。その時狼は子羊とともに宿り、豹は小山羊とともに臥さん。乳児は毒蛇の洞に戯れ、乳離れの子は手を蝮の穴に入れん。そは水の海を覆えるごとくエホバを知るの知識地に満つべければなり。その日エッサイの根たちて、諸々の邦人はこれに服(まつら)ひきたり、栄光はその留まる所にあらん」(11・1、5、6、8、10)
真の基督教361
かくて、主に対する信仰を持ち、隣人に仁慈を行なう者は自然的なものの中に霊的なものを持ち、かくして、彼らの自然的な心は透明になり、それに応じて彼らは霊的な物と自然的な物に於て賢明となり、何事かを考察し、聞き、或は読む時、直覚的にそれが真理であるか否かを知るのである。これは、彼らの理解の高いスフィアに霊的な光と熱とを注ぎ入れ給う主によって生ずる。人間の信仰と仁慈とが霊的なものになるに従って、彼は己が自己性から引き出され、己自身をまた如何なる報酬をも償いをも考えなくなる。何故なら、彼は信仰の真理を見、且つ仁慈の業を為すことのみを喜び、彼の霊性は増大するにつれて、彼の喜びは救いと永遠の生命の祝福となるからである。この人間の状態は聖言には地上の最も美しい、また最も愉しい物に、例えば、果樹に、果樹の生える庭園に、花に満ちた野に、宝石に、美味に、結婚に、祝祭に、慶事に譬えられている。然し、自然的なものが霊的なものの中にある時、人間は外面的には天使ではあるけれども内面的には悪魔である。
神の摂理317[3]
「人間が思い込んで、確認した物は凡て彼の中にその自己性の一部として存続する」。 如何ような真理もそれが証明されない限り人間に認められることは出来ないと多くの者に信じられているが、しかしこれは真でない。王国または共和国の社会的なまた経済的な事柄においては、有用で善い物は多くの教令と法令とを知ることなしには認められることは出来ず、また司法上の事柄における有益なまたは善いものも、その法律が知られない限り認められることは出来ず、自然の研究においても、例えば、物理、化学、解剖学、機会学等においても、人間がその科学を教えられない限り、それは認められることはできない。しかし純粋に合理的な、道徳的な、霊的な事柄においては、人間が単に健全な教育により多少合理的に、道徳的に、霊的になってさえおれば、真理はそれ自身の特有な光の中に現れるのである。その理由は人間は凡てその霊の方面では―彼はその霊で考えるのであるがー霊界にいて、そこに住む者たちの間におり、従って彼は彼の内なる理解を明るくし、いわば指導するところの霊的な光の中にいるということである。なぜなら霊的な光は、その本質では、主の神的な知恵の神的真理であるから。これが人間が分析的に考え、司法上の事柄で公平で正しいものについて結論を引き出し、道徳的生活の尊いもの、霊的生活の善いものを認め、また多くの真理を理解することが出来る理由であって、真理は誤謬を確認しない限り不明瞭にはならないのである。人間は、各人に生来具わっている知識以外の知識が何らなくとも、他人の性質をその顔の中に認め、その情愛をその声の調子から認めると同じように、これらの物を認めるのである。如何なる動物でも霊界から発する流入により自分自身の自然的な必要な物を知っているのに、なぜ人間はそのような流入によって、霊的で道徳的な己が生命の内的な事実を多少なりと認めないであろうか。鳥はその巣を作り、卵を生み、雛をかえし、その食物を見分ける方法を知っている、我々が本能に帰している他の驚くべき事柄は言わずもがなである。
霊界日記1606
さらに、このようにして人間の心を暗くしてしまう哲学的な事柄は技巧的な規定に陥ってしまうような推理の形となるが、真理はそれ自身では、たれでもそうしたものの助けがなくても、その真理を認めることが出来るほどにも鮮明なものである。それでこれらの哲学者らは極めて偏狭で、知的な事柄を暗くしてしまい、明らかに認められる真理でさえも絶えず問題とされるのである。
天界と地獄603
本書で天界、霊たちの世界、地獄について述べたことは、霊的な真理を知ることを喜ばない者たちには明確ではないであろうが、それを喜ばれる方々には、特に、真理のために真理を愛される方々、即ち、真理を、それが真理であるために愛される方々には明白であろう、なぜならすべて愛されるものは光をもって、特に真理はそれが愛される時は、光をもって、心の観念〔考え〕の中へ入って来るからである、それは真理はすべて光の中に存在するからである。
結婚愛121
人間は諸真理によって理解、認識、凡ゆる思考を得、諸善によって愛、仁慈、凡ゆる情愛を得ている理由は、人間の凡ての物は真理と善とに関係しており、彼の中に在って彼を構成している二つのものは意志と理解であって、意志は善を容れる器であり、理解は真理を容れる器であるということである。意志に特有な物は愛、仁慈、情愛であり、理解に特有な物は認識と思考であることは、論証による光を要しない。なぜなら理解それ自身からその命題の中に光が発しているからである。
8.真理はそれが誤謬に悩まされるに応じて増大する
出エジプト記1・1−14
ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。
ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた。ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。
「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」
エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。
天界の秘義6634
第一章の内意には、取扱われている主題は新しくされた教会の状態であって、善が主役を演じ、信仰の諸真理の増大により、多くの実を結ぶときである。
天界の秘義6635
その後これらの諸真理が自然的なものにおける誤謬と悪とに取りつかれて悩まされることが取扱われ、またこの悩まされることを通して、善が諸真理により更に実を結ぶことが取扱われている。続いて本章はその終わりに至るまでも、その取りついて悩ますことを取扱い、またそれが増大して行くことを、それが起る順序を追って取扱い、その結果諸真理が善から植え付けられ、確認されることを取扱っている。
天界の秘義6637
イスラエルの息子たちの表象は霊的な諸真理であり(5414、5879、5951番)、イスラエルの表象は真理の善であり、または、霊的な善である(3654、4598、5803、5806、5812、5817、5819、5826、5833番)。イスラエルは真理の善を、または、霊的な善を表象し、彼の息子たちは自然的なものにおける霊的な諸真理を表象しているため、それでイスラエルの息子たちは教会を表象している、なぜなら教会は霊的な善とそこから派生している諸真理から教会となるからである。霊的な善の中に、即ち、仁慈の善の中におらず、また霊的な諸真理の中に、即ち、信仰の諸真理の中にいない者は、教会の中に生まれていても、教会の者ではない。なぜなら主の王国全体は愛の、また信仰の善の中にいるからであり、教会もそれに似たものの中にいない限り、それは天界と連結していないため、教会であり得る筈はないのである。なぜなら教会は地上の主の王国であるからである。
天界の秘義6663
「彼らがそれを苦しめるに従って、それは増大した」(出エジプト記1・12)。これは諸真理は悩まされるに応じて増大したことを意味していることは以下により明白である、即ち、『苦しめること』の意義は悩ますことであり、『増大すること』の意義は真理の方面で増大することである(このことについては前の6656番を参照)。この間の実情のいかようなものであるかを述べてみよう。なぜなら他生で行われていることを経験しなくては、その何であるかを何人も今は知ることは出来ないからである。世から来て、主の戒めの生活を送った霊達の大半は、天界に挙げられて、そこの社会に加えられる以前に、彼らに属している幾多の悪と誤謬を除かれるために、それらに取り憑かれて悩まされるのである、(6639番を参照)、なぜなら彼らが身体の生命の中で取得したところの、天界とは全く調和していない不潔な幾多のものがあるからである。(その悪と誤謬とに取り憑かれて)悩まされることは彼らがその悪と誤謬との中に浸されることによって起るのであり、彼らがその悪と誤謬との中にいると、それに似た悪と誤謬との中にいる霊らがその場に現れて、凡ゆる手段を尽くして彼らを真理と善から連れ出そうと努めるのである。しかしそれでも彼らは、主から天使を通して注がれる流入が勝利を得ない程には深く彼らの悪と誤謬とに浸されはしないのであり、均衡は正確に維持されているのである。このことの目的は、(悪と誤謬とに)取り憑かれて悩まされる者が自由の中にあり、かくて悪と誤謬とに自分自身から戦うように自分自身に思われつつも、抵抗する力は凡て主から来ていることを、その時でなくても、後になって承認するためである(1937、1947、2881、5660番)。このことが為されつつある時、前に植え付けられた真理と善とは強められるのみでなく、更に多くのものが導入されるのであり、これはその争闘者がその中で勝利を得る凡ゆる霊的な争闘の結果である。それがそうであることは普通の経験からもまた明らかである、なぜなら自分の意見をそれを攻撃する者から守る者は、その見解をそれだけ更に確認し、またその時それについて以前気づかなかった他の確証も見出し、またその対立した意見を否定する他の確証も見出し、このようにして彼は自分の見解を強め、またそれを更に考慮して説明するからである。このことは霊的な争闘の場合更に完全に行われるのである、なぜならその争闘は霊の中に起って、善と真理とに関係しているからであり、また特に主がその場に現存されて、天使たちにより導かれるからである、なぜならその争闘は永遠の生命と救いとに関わっているからである。このような争闘においては、主が地獄の意図する凡ゆる悪を善に変えられることが普通であり、それで争闘に置かれている者に適応した善に変えられることの出来る悪を越えた悪を、またはそうした悪以外の悪を引き出すことは地獄には許されてはいないのである。そのことの理由は主の王国は用の王国であって、それで善を生み出さないものは何一つそこには為されることは出来ないという事実から発している。この凡てから、『彼らはそれを苦しめるに応じて、それは益々増大した』により意味されているところの、真理はそれが(誤謬に)悩まされるに応じて増大することはいかように理解されねばならないかを認めることが出来よう。
天界の秘義6664
「それは増加した」(出エジプト記1・12)。これは、彼らが、即ち、諸真理が強められたことを意味していることは、『増大すること』の意義から明白であり、それが悪と誤謬とから悩まされることによって増大する諸真理について言われるときは、強められることである、なぜなら強められる諸真理以外の諸真理は存続はしないし、それで諸真理はその強められる数だけ、増大するのである。(真理は悩まされることによって強められることについては、すぐ前の6663番を参照)。
天界の秘義6665
「彼らはイスラエルの息子たちのために嫌悪の念にかられた」(出エジプト記1・12)。これは更に大きな反感を意味していることは、『嫌悪の念にかられること』の意義から明白であり、それは反感であり、ここでは彼らが苦しめられることにより更に増大したために、更に反感を抱くことである。
天界の秘義6666
「エジプト人はイスラエルの息子たち[子孫]を仕えさせた」(出エジプト記1・13)。これは征服しようとする意図を意味していることは以下のことが明白である、即ち、『仕えさせること』の意義は征服であり、ここでは彼らが征服しようと絶えず努力しているが、しかし善に決して勝利を得ないため、征服しようとする意図であり、『エジプト人』の意義は教会の諸真理に対立した分離した記憶知であり(6651番を参照)、『イスラエルの息子たち』の意義は教会である(6651番を参照)。ここから『エジプト人はイスラエルの息子たちを仕えさせた』により、教会の諸真理に対立した分離した記憶知の中にいる者による征服しようとする意図が意味されていることが明白である。
天界の秘義6666〔2〕
地獄から来ている悪い者のもとに存在しているような、征服しようとする意図については、私はまた以下のことを知ることが出来たのである。善と真理の中にいる者たちを征服しようとする彼らの努力と意図とは表現を絶したものである、なぜなら彼らは凡ゆる悪意、凡ゆる狡知と詐欺、凡ゆる欺瞞と凡ゆる残忍とを用い、それらはもしその一部のみを語るにしても、世では殆どたれ一人それを信じることも出来ないといった性質を持った凄まじいものであり、その術策たるや実に狡猾と技巧と呪詛とに満ち満ちたものである。約言すると、これらの奈落の者はこれにはいかような人間も、実に天使すらも到底抵抗できはしないし、ただ主のみがこれに抵抗されることが出来るといった性質のものである。彼らがこうした努力と意図に取りつかれている理由は、彼らの生命の歓喜の一切は、かくて彼らの生命そのものは悪を為すことに在り、それでそれ以外のことは彼らの思いを占めておらず、従って彼らはそれ以外何事も意図してはいないということである。彼らは善いことを行うことには反感を覚えているため、そのことは全く出来ないのであり、もし善いことを行うなら、自己のためであり、かくてそれは自己のために為されるのである。
天界の秘義6666〔3〕
こうした霊どもから地獄は現在無限に増大し、しかも驚嘆すべきことは、特に教会内にいる者らから増大しているが、それは狡猾、詐欺、憎悪、復讐、姦淫のためであり、そうした悪は教会内では他の所よりもはびこっているのである、なぜなら教会内では狡猾は今や利口なこととして、姦淫は尊いこととして考えられ、それに異議を差し挟む者は嘲笑されてしまうからである。現今教会内でそのようなことが行われていることはその最後の時が切迫しているというしるしとなっている、なぜならマタイ伝24・22の主の御言葉に従って、『終わりが無いなら、たれ一人救われない』からである、なぜなら悪はことごとく丁度酒のおりが塊まりに染み込み、かくて遂に凡てのものに染み込むように、伝染し、染み込むからである。
天界の秘義6667
「残酷に」(出エジプト記1・13)。これは無慈悲を意味していることは解説の要もなく認めることが出来よう、なぜなら今し方取り扱った者らは隣人を全く愛しないで、ただ自己のみしか愛しはしないため、慈悲を全く持たないからである。彼らの許に現れる隣人愛は自己愛以外の何ものでもない、なぜならたれか他の者が彼らに好意を示す限り、即ち、その者が彼らのものである限り、その者は愛されはするが、しかしその者が彼らに好意を示さない限り、またはその者が彼らのものでない限り、その者は斥けられ、もしその者が以前友達であったなら、嫌悪されるからである。こうしたものが自己愛に隠れていて、世では明らかにされはしないが、しかし他生では明らかにされ、そこで爆発するのである。それがそこで爆発する理由は、外なるものはそこで取り去られ、その時その人間は内部ではいかようなものであったかが明らかにされるということである。
天界の秘義6668
「彼らは彼らの生活を甚しい仕事で苦しめた」(出エジプト記1・14)。これは、征服しようとする意図が煩わしいものになるまでも、を意味していることは以下から明白である、即ち、『生活が苦しくなったこと』の意義は煩わしいものになることであり、『労役』の意義は征服であり、ここでは(前の6666番のように)征服しようとする意図である。
天界の秘義6669
「粘土における、煉瓦における」(出エジプト記1・14)。これは、彼らが考案した悪と、また彼らが案出した誤謬によって、を意味していることは以下から明白である、即ち、『粘土』の意義は善であり、その対立した意義では悪であり(そのことについては以下に述べよう)、『煉瓦』の意義は彼らの案出する誤謬である(1296番を参照。奈落の輩の考案し、案出する悪と誤謬については、すぐ前の6666番を参照)。
『粘土』は誤謬が発生して来る悪を意味していることは聖言の以下の記事から明らかである―
邪悪な者は掻き立てられて、休むことの出来ない海のようなものであり、その水は泥と粘土とを打ち上げる(イザヤ57・20)。
『泥』は悪を生み出す誤謬を、『粘土』は誤謬を生み出す悪を意味している。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P426
現代における批評家たちの攻撃は、高層批評あるいは近代主義と呼ばれているが、それは霊的体験と生命をまったくもたない、名ばかりのクリスチャン信仰を崩すことはできても、実在に対して、あるいは実在を信じる者に対しては、まったく力がない。一方、それは真の信仰者が力を強め成長するための手段となる。一時の流行病が感染者をさらって消えてゆくのと同じく、合理主義という病をまき散らす批評家たちも、いずれは姿を消し、彼らとともに病も死滅する。
二、学者の批評や反論は、真実よりも個人の憶測に頼っていることが多い。批評家が学者だからといって、批評が学問的とは限らず、仮説や推測に基づくため、受け入れるに値しないことの方が多いものである。彼らの説の中には天の光を反映するものもあるかもしれないが、同時に地獄の火を反射するものも多いのである。そこで、学識ある批評家すら、自分自身の誤りと幻想のとりこになる場合が少なくない。彼らの地上的知恵と哲学そのものが、霊感を受けた聖書記者たちの深い霊的意味を知るのを難しくしているのである。彼らは、文体や年代、記者の特長といった外側の殻ばかりをつつき、「実在」という核は調べずにいる。
9.真理を持つためにはそれを承認し、信じなくてはならない
天界の秘義2429
人間は自分自身の中に真理を持つためには、それを知るのみでなく、それを承認し、それを信じなくてはならないのであって、そのとき初めて彼は真理を持つのである。なぜならそのときそれが彼に感動を与え、また残ってとどまるからである。彼がたんに真理を知るのみで、それを承認はしないし、またそれを信じもしないときはそうではない。なぜならこの場合には、彼は彼自身の中に真理を持たないからである。悪の中にいる多くの者たちの場合がそれであって、彼らは真理を知ることができ、ときには他の人間以上にも知ることができるが、それでも真理を持たないのであり、いな、彼らは心ではそれを否定しているため、それだけそれを持ちはしないのである。たれ一人善を受ける以上に真理を持たないように、すなわち、それを承認し、また信じないように主により配慮されている。
天界の秘義3762[2]
隣人に対する仁慈と主に対する愛とにかかわるこれらの真理は、人間が再生されることができる以前に学ばれなくてはならず、また承認され、信じられなくてはならないのであり、そしてその諸真理が承認され、信じられ、生命に植え付けられるに比例して、益々その人間は再生するのであり、また益々同時にその諸真理はその人間の自然的なものの中に植え付けられ、その中にそれを自分自身の地として存在するのである。その諸真理は先ずその中に両親や教師たちから教えられることを通して植え付けられ、次には主の聖言から植え付けられ、後にはその人間自身がその諸真理について反省することを通して植え付けられるのであるが、しかしこれらの手段によってはその諸真理は単に自然的な人の記憶の中に貯えられて、その中のいくたの知識の間に組分けされるにすぎないのであり、生命[生活]がその諸真理に一致していない限りは、依然承認されはしないし、信じられもしないし、接木されもしないのである、なぜなら生命[生活]がそれに順応した時その人間は情愛へ入り、生命[生活]から情愛へ入るに比例し、益々これらの真理はかれの自然的なものの中にそれをその土地として植え付けられるからである。このようにして植えつけられない諸真理は実際人間のもとにあるにはあっても単にたんなる知識または歴史の事柄としてかれの記憶の中に在るに過ぎないのであり、そうしたものは話題に材料となって、富や名誉を獲得する上に役立つ名声を得る手段になるという目的以外の目的には仕えはしないのである。こうした場合これらの真理は植えつけられはしないのである。
10.最初に争闘するものは真理
天界の秘義1685
最初に争闘するものは真理である、なぜなら争闘は真理から発しているからである、なぜなら真理から誤謬の何であるか、悪の何であるかが知られるからであり、こうした理由からその人間が真理と善とにかかわる知識に浸透しない中は、このような争闘は決して起らないのである。
11.真理は議論を許さない
天界の秘義2733
他生では真理は論議を容認しないのである。
天界と地獄385
彼はそれがそうしたものであるか、否かを論じたいと願った。しかし、彼は以下のように言われた。真理は議論を許さない。なぜなら議論は人が楽しむところを、引いては悪と誤謬とを支持するからである。
結婚愛481
真理は議論を許さない、なぜなら議論は霊の歓びに反抗して、肉の歓びを守るからである。
12.真理は不安にさせる
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P174
‘90・6・30
我が赦しはすでに彼らに与えられてある、そう、悪を行わずには寝ない まさにこの者たちに、ですから彼らを赦すあなたの声も 聞かせなさい・・・
彼らを赦します、主よ、していることが分かっていないのです。
あなたに目を注いで見守っている。 私は力強く護り 真に支える者です、それゆえに たとえ迫害、脅迫そして攻撃さえ受けても、あなたと私の間には はだかるものが何もない。 迫害、脅迫や攻撃を受けなかった預言者がいたであろうか? 教会の位では、使徒に次いで、二位についていながら、いつでも不当に扱われ 虐待されてきた なぜならその口から真理が発せられるのを彼らは聞くが 真理は不安にさせるからです ♡
13.一つの真理は他の真理を認め、真理は容易に共につらなる
天界の秘義2863[3]
今日でも同じである、基督教徒よりもさらによく振舞っている異教徒が地球のあらゆる地方から来ているが、かれらは基督教徒よりも善く、このような問題については語っており、彼らはさらに良いことを語っているのみでなく、それに従って生きもしているのである。これらの、また他の多くの真理が異教徒たちの間に存在していて、彼らが主から得ている善にその真理自身を連結させており、その連結から彼らはさらに多くの真理を受ける状態の中にいるのである、それは一つの真理は他の真理を認め、真理は容易に共に連なるためである、なぜならそれらの真理は互に他に関連し、また関係しているからである。ここから世で善の中にいた者たちは他生では容易に信仰の諸真理を受けるのである。彼らのもとに在る誤謬は彼らの善に連結しないで、その善から分離することができるような方法で単にその善にそれ自らを適用させるにすぎないのである。連結した誤謬は存続するが、しかし単に適用されたものは分離するのであり、それはその人たちが信仰の諸真理を学び自分自身にそれを浸透させるとき、分離するのである。信仰の真理はことごとく誤ったものを取り除き、分離し、かくてついにはその人間はそれに反感を持って、それを避けてしまうのである。このすべてから私たちは、ミルカがアブラハムの兄弟ナホルに生んだ息子たちによりいかような種類の人間が意味されているかが、すなわち、教会の外にいるが、善から兄弟関係にある者たちが意味されていることを認めることができるのである。
14.真理はそれが生命を持たないかぎり真理ではない
天界の秘義3077
「見よ、レベカが出てきた」。これは教義的な事柄から発している真理に対する情愛を意味していることは以下のことから明白である、すなわち、レベカの表象は合理的なものの神的善に連結することになっていた真理の神的なものであるが、しかしここでは、彼女が婚約しない間は、彼女は教義的な事柄から発している真理に対する情愛の表象を着ているのである、なぜならその情愛から真理が発しており、真理はそれが生命を持たないかぎり真理ではなく、その生命は愛に属している情愛であるからである。
15.真理は絶えず変化しつつあるいくたの状態に応じた形のいくたの多様なものの認識
天界の秘義3318[2]
合理的な人と自然的な人におけるこれらの容器は真理と呼ばれるものであるが、しかしこれらの容器はこれらのもの自身においてはこれらのものの形のいくたの多様なものの認識にすぎないのであり、また状態のいくたの変化の認識に過ぎないのであり、それに応じて[その状態のいくたの変化に応じて]これらのいくたの多様なものが色々な方法で発生してくるが、それは極めて微妙な原質の中に、表現を絶した方法により行われているのである(2487番)。
天界の秘義3318[4]
ここからそのとき善は真理と連結され始めるのであり、それは先ず合理的な人の中に、後には自然的な人の中に行われるのである、なぜなら前に言ったように、真理は絶えず変化しつつあるいくたの状態に応じた形のいくたの多様なものの認識以外の何ものでもなくこれらの認識は流れ入ってくる生命から発しているからである。
16.真理はことごとく善の知識
天界の秘義3680
「かれをパダン アラムへ送った[去らせた]」。これはこの善の諸知識を通して明らかに示されることの始まり[その善の知識により存在することの始まり]を意味していることは以下から明白である。すなわち、『かれを去らせること』の意義は明らかに示されること[存在]の始まりであり(3674番)、『パダン アラム』の意義は真理の諸知識である(3664番)。それらが善の諸知識と呼ばれるのは、真理はことごとく善の知識であり、善から発しないところの、または善を目的としないところの真理は真理ではなく、それが教義を目指しているかぎり、真理の知識と呼ばれるからである。
17.真理は善から発する
天界の秘義3704[5]
ヨアシ王はエリシャが死んだときエリシャにそのように話しかけたのである―
かれはかれの顔の上で泣いて、言った、父よ、父よ、イスラエルの戦車よ、その騎士よ(列王記下13・14)。
王がかれらをそのように呼んだ理由は、王は神的真理の方面の主を表象し、祭司は神的善の方面の主を表象したということであり、また真理は善に対しては子が父に対するようなものであるからである。なぜなら真理は善から発するからである。
天界の秘義5345
なぜなら内部における真理は善以外のいかような源泉からも決して増大しないからである。善から発していない真理が増大することは真理が増大することではない、なぜならそれは外なる形ではいかほど真理であるように見えても、真理ではないからである。それは内に生命のない一種の映像であって、死んでいるため、真理に近づいてはいない、なぜなら真理が人間の中に真理となるためには、それは善から、すなわち、主から善を通して生きなくてはならないからであり、それがそのように生きるとき、増大するということが霊的な意味でそれに述べられることができるのである。真理が増大することは専ら善から発していることは、以下の事実から認めることができよう、すなわち、何一つ結婚に似たものによらなくては増大することはできないのであり、真理は善以外のいかようなものとも結婚に入ることはできないのであり、もし他の何らかのものと結婚するなら、それは結婚ではなくて、姦淫なのである。それで結婚から増大するものは合法的なものであって、かくて真理であるが、しかし姦淫から増大するものは合法的なものではなくて、似而非なるものであり、かくて真理ではないのである。
18.善と真理とが極めてひんぱんに言われている理由
天界の秘義4390[2]
解説の中で善と真理とが極めてひんぱんに言われている理由は、天界における凡てのものは善と真理とに関係しているということである。全般的に言ってこの二つのものは教義と生命とにぞくしている凡ての事柄を含んでおり、真理は教義にぞくしている凡ての事柄を、善は生命にぞくしている凡ての事柄を含んでいるのである。さらに人間の心は真理と善とのものである対象以外の対象をもってはおらず、その理解は真理のものである対象以外のものを、その意志は善のものである対象以外のものをもっていないということは普遍的な事実である。ここから真理と善とは最も広い意義をもった言葉であり、その派生したものの数は表現不可能であることが明白である。このことが真理と善とが極めてしばしば言われる理由である。
19.真理は善により導かれると、それは初めて理知の真理となる
天界の秘義4884[2]
人間の中の真理はそれが善により導かれるまでは理知の真理ではなく、それが善により導かれると、それは初めて理知の真理となるのである。なぜなら真理は真理自身からは生命を持たないで、善から持っており、それは人間が真理に従って生きる時、善から生命を得るからである、なぜならそのとき真理はそれ自身を人間の意志の中へ注ぎ入れ、意志から活動の中へ注ぎ入れ、かくて人間全体の中へ注ぎ入れるからである。人間がたんに知り、または把握しているにすぎない真理はかれの意志の外側に止まり、それでかれの生命の外側に止まっている、なぜなら人間の意志はかれの生命であるからである。しかし人間が真理を意志する[欲する]とき、真理はかれの生命の入口に立っており、人間がそれを意志すること[欲すること]からそれを行うと、そのとき真理はその人間全体の中に存在し、かれがそれをひんぱんに行うときは、その真理は習慣から再起するのみでなく、情愛から再起し、かくて自由から再起するのである。
20.主は何人にも真理を明らかには教えられはしないで、善を通して真のものを考えるように導かれる
天界の秘義5952
『快いものとして』と言われているのは、『エジプトの車』により意味されている教義的なものは聖言の文字の意義から来ており(5945番)、その文字の意義は内意がないなら何であれ如何ような善にも適用されることができるからである。なぜなら主は何人にも真理を明らかには教えられはしないで、善を通して真のものを考えるように導かれるからであり、またそうした事柄は聖言がそのように明言しているため、またそれは聖言に一致しているため、真理であるという認識を、その人間に知られぬままに、その人間に吹き込まれ、従ってそれを選ばせられるのである。このようにして主は善が各人により受け入れられるに応じて、それに諸真理を適応させられるのであり、このことは各人の情愛に従って起こり、かくて自由の中に起るため、ここに『快いものとして』と言われているのである。
21.彼らは知恵の宮殿の最初の入口にも近づくことはできない、ましてその中へ入って、その楽園の中を歩き回ることはできない
天界と地獄270
彼らはまた第三の天界の天使たちの知恵を有用な凡ゆる物で満ち、周囲の至る所に楽園があり、その楽園のまわりにも多くの種類の壮麗な物の在る宮殿に譬えたのである、その天使たちは、知恵の諸真理にいるため、その宮殿の中へ入って、凡ゆる物を見、またその楽園の中を凡ゆる方向に向って歩き回って、凡ゆる物を楽しむことが出来るのである。しかし真理について論じる者は、特にそれについて論争する者はそうではない、これらの者は、真理を真理の光から見ないで、他の者からか、または内的に理解していない聖言の文字の意義からか、その何れからか得ており、それは信じなくてはならないものであり、信仰をそれに働かさなくてはならないと言って、それを内的に見ることを欲しないのである。これらの者については天使たちは言った、彼らは知恵の宮殿の最初の入口にも近づくことは出来ない、ましてその中へ入って、その楽園の中を歩き回ることは出来ない、なぜなら彼らはその最初の一歩で立ち止ってしまうから。真理そのものにいる者はそうではない。これらの者は何ものにも妨げられないで前進し、また無限に進歩して行く、なぜなら彼らは何処に行こうと、その見る真理が彼らを導き、広々とした野へ連れて行くからである、それは真理の各々は無限の広がりをもって、他の色々なものと連結しているからである、と。
22.如何ような真理もそれが証明されない限り人間に認められることは出来ないと多くの者に信じられているが、しかしこれは真でない
「人間が思い込んで、確認した物は凡て彼の中にその自己性の一部として存続する」。 如何ような真理もそれが証明されない限り人間に認められることは出来ないと多くの者に信じられているが、しかしこれは真でない。王国または共和国の社会的なまた経済的な事柄においては、有用で善い物は多くの教令と法令とを知ることなしには認められることは出来ず、また司法上の事柄における有益なまたは善いものも、その法律が知られない限り認められることは出来ず、自然の研究においても、例えば、物理、化学、解剖学、機械学等においても、人間がその科学を教えられない限り、それは認められることは出来ない。しかし純粋に合理的な、道徳的な、霊的な事柄においては、人間が単に健全な教育により多少合理的に、道徳的に、霊的になってさえおれば、真理はそれ自身の特有な光の中に現れるのである。その理由は人間は凡てその霊の方面では―彼はその霊で考えるのであるがー霊界にいて、そこに住む者たちの間におり、従って彼は彼の内なる理解を明るくし、いわば指導するところの霊的な光の中にいるということである。なぜなら霊的な光は、その本質では、主の神的な知恵の神的真理であるから。これが人間が分析的に考え、司法上の事柄で公平で正しいものについて結論を引き出し、道徳的生活の尊いもの、霊的生活の善いものを認め、また多くの真理を理解することが出来る理由であって、真理は誤謬を確認しない限り不明瞭にはならないのである。人間は、各人に生来具わっている知識以外の知識が何らなくとも、他人の性質をその顔の中に認め、その情愛をその声の調子から認めると同じように、これらの物を認めるのである。如何なる動物でも霊界から発する流入により自分自身の自然的な必要な物を知っているのに、なぜ人間はそのような流入によって、霊的で道徳的な己が生命の内的な事実を多少なりと認めないであろうか。鳥はその巣を作り、卵を生み、雛をかえし、その食物を見分ける方法を知っている、我々が本能に帰している他の驚くべき事柄は言わずもがなである。
23.全天界を跋渉して無数の真理にまでも達することができるほどの自由の中にいる
天界の秘義5096[2]
彼らは真理を全く容認しないで、それを跳ね返すか、または打ち返してしまうかする輩であり、しかもそれをその確信の度に応じて、特に誤謬が悪から発しているときには、または悪が誤謬を説得させてしまっているときには頑強に行われるのである。これらの者がマタイ伝の主の譬の中に意味されている者らである―
ある種は固い道に落ちたが、鳥が来て、それを食い尽した(マタイ13・4)
『種』は神的真理であり、『固い岩』は確信であり、『鳥』は誤謬の原理である。このような者は自分が縛られていることを、または牢にいることを知りさえもしないのである、なぜなら彼らは彼ら自身の誤謬に感動していて、それをそれが発生して来る源泉である悪のために愛しており、そこから彼らは自分たちは自由であると考えているからである、なぜなら何であれ情愛または愛に属しているものはことごとく自由に思われるからである。しかし確認された誤謬の中にいない者たちは、すなわち、誤謬を確信していない者たちは容易に真理を容認し、それを認め、撰び、それに感動し、後には誤謬をいわば彼ら自身の下に認め、また誤謬を確信している者らがいかに縛られているかを認めるのである。これらの者は観察と思考とにおいて謂わば全天界を跋渉して無数の真理にまでも達することが出来るほどの自由の中にいるが、しかし何人も善の中にいない限り、この自由の中にいることは出来ないのである。なぜなら善から人間は天界におり、天界では真理は善から現れるからである。
24.暗くなる・・・真理が長らく論じられると、その真理についてしばしば起こること
霊界日記1937
しかし私は以下のことに気付いたのである、すなわち、或る者たちの心は、その議論の後で、暗くなり、何が真であるかを知らなくなったのであるが、そうしたことは真理が長らく論じられると、その真理についてしばしば起こることであり、その心は暗くなってしまうため、その討論に携わる者たちはついには真理の光そのものの中に在っても躓いてしまうのである。
25.真理は絶えず変化しつつある幾多の状態に応じた形の幾多の多様なものの認識以外の何ものでもなく
天界の秘義3318
真理は絶えず変化しつつある幾多の状態に応じた形の幾多の多様なものの認識以外の何ものでもなく、これらの認識は流れ入って来る生命から発しているからである。
26.全般的な真理が教会の土台であり、基礎
啓示による黙示録解説238
『地が海の上に基礎づけられる』は、地により意味された教会が全般的な諸真理の上に基礎づけられることである、なぜなら全般的な真理が教会の土台であり、基礎であるから。
27.真理はすべてそれと対立したものと関連づけられる時明らかになる
天界の秘義7075
彼らは、自分たちが対立したことを示すのは、真理が後になってそのため更に良く明らかになるという理由が更にあるからである、なぜなら真理はすべてそれと対立したものと関連づけられる時明らかになるからである、とも言い加えたのである。
28.真理の持つ力
天界の秘義3091
力から受容器官を服従させることは、(受容器官であるところの、3068、3079番)教義的なものが、知識が、記憶知が、それ自らを適応させる[適用させる]ことに在るのである。生命の最初のもの、すなわち、主から一つの連続した従属があり、かくて適合[適応]があり、従って服従が発している。低い所に在るものは高いものに仕えねばならぬため、それは服従しなくてはならない、なぜなら服従がないなら連結はないからである。ここに語られている『力』は真理から発しており、これが下に在るものを服従させるのである。聖言には力は特に真理に帰せられており、それ故『手』『腕』『肩』は(それらによりその内意では力が意味されているが)真理について述べられ(878、1085番を参照)、そして真理から発しているように見える力はそれ自身真理を通して善から発しているのである。
天界の秘義6344
霊界では力はことごとく善から真理を通して発しているのである。善がなくては真理はいかような力も持っていないのである。なぜなら真理は身体に似ており、善はこの身体の霊魂に似ており、霊魂は何事かを為すためには、身体によらなくてはならないからである。ここから丁度身体は霊魂が無くては何ら力を持たないように、真理も善が無くてはいかような力も持たないことが明らかである、なぜならそうした時は身体は死体であり、善の無い真理もまたそうしたものとなるからである。
天界の秘義6344〔2〕
善により真理の信仰が先ず生まれる時、力は真理の中に在るように見えるのである。この力が『信仰により真理に属した最初の力』と呼ばれ、『勢いの初め』より意味されているものであって、それはまた『生得権』を取り扱っている聖言の他の所でも同じである。例えばダビデの書には―
彼はエジプトの長子を凡て、ハムの天幕の中の勢いの始めを打たれた(詩篇78・51)
他の所にも―
かれは彼らの長子を凡て、彼らの勢いの凡ての始めを打たれた(詩篇105・36)。
申命記にも―
かれはその憎んでいる者の最初に生まれた息子を承認して、彼のために見出される凡ゆるものの中で倍の部分を彼に与えなくてはならない、彼は彼の勢いの始めであり、その生得権の権利は彼のものであるから(申命記21・17)。
天界の秘義6344[4]
善から真理の中にいる者たちは、すなわち、仁慈から信仰の中にいる者たちは善から真理を通して力の中にいるのである。この力の中に凡ゆる天使たちはおり、ここから天使たちは聖言では『力』と呼ばれている、なぜなら彼らは悪霊らを抑える力を持っていて、一人の天使でも一千の者を直ぐにも抑えることが出来るからである。彼らはその力を主として人間のもとで発揮し、時としては多くの地獄に対して人間を守り、しかもそのことを無数の方法で行うのである。
天界の秘義6423
「が、彼はその弓の強さの中に坐り」。これは彼が教義の戦う真理によって安全であることを意味していることは以下から明白である、即ち、『座ること』の意義は安全であることであり―なぜならその弓の強さの中に座っている者は安全であるからである―『弓』の意義は教義である(2686、2709番を参照)。教義の強さは真理である、なぜならその中には真理が全く無い教義は全く無力なものであるから(真理に力と強さとが属していることについては前の878、3091、4931、4934、4937、6344番を参照されたい)。真理が強い理由は、善は真理を通して働くということである、なぜなら善は悪または誤謬は何一つそれに近づくことが出来ず、かくて奈落の輩は一人としてそれに近づくことは出来ず、彼らは善が近づく時、または善の中にいる天使が近づく時は逃げ去ってしまような性質を持っているからである。しかし善が、地獄から来て人間のもとにいるかの一味と戦って、人間を凡ゆる点で守り、また世から到着する霊たちを守り、同じく低地にいる者たちを守るためには、善は真理を通して働くのである、なぜならそれはその方法で彼らに近づくことが出来るからである。
天界の秘義6423〔2〕
真理の中にはいかほどの力が在るかは、私が他生で見ることを許されたものにより明白にされたのである。世で生きている間正しい人間であったため、自然的な真理の中にいた或る一人の霊が幾多の地獄を通って、そこから私と語って、その地獄を説明したのである。彼は奈落の霊たちが些かも彼を悩ますことも出来ない程にも偉大な力と強さとを持っていたため、一つの地獄から他の地獄へと安全に移ったのであるが、そうしたことは真理の中にいない者たちには全く不可能なのである。この凡てから、『弓の強さの中に坐ること』により教義の真理により安全であることが意味されていることが明白であり、それは戦う真理によっていることは前の記事から生まれており、そこには『射る者は彼を射、彼を憎む』と言われているのである。
天界の秘義7332
「川にあった水はすべて血に変った」。これは、その結果真理が凡て誤謬化されたことを意味していることは以下から明白である、『川にあった水』の意義は誤謬であり(そのことについては前の7307番を参照)、『血』の意義は真理の誤謬化〔真理を誤謬化すること〕である(そのことについてもまた7317、7326番を参照)。他生で誤謬の中におり、とりついて悩ます者らが真理を誤謬化することが許されている理由は、彼らが信仰に属した真理を通して天界にいる者たちと交流し、しかも生命〔生活〕に属した悪を通して地獄にいる者らとも交流し、そこから真理を通して天界から若干の光を得、かくして若干の理知を得、それを生命に属した悪に仕えさせることを防ぐためであり―なぜなら彼らは理知に属したものを悪に利用し、かくてその中に在る天界の物を地獄の物に従わせてしまうからである―また彼らが真理を通して単純で正しい霊たちと交流して、その霊たちをたぶらかしてしまうことを防ぐためでもあるのである。更に他生にいて、そのもとでは真理が未だ誤謬化されていない悪い者らはその真理を手段として主権を得る方法を知っているのである、なぜなら真理にはそれに反抗することが出来ない力が在るからである(3091、6344、6423、6948番)。かくて彼らはまた真理を濫用もするのである。更に悪い者のもとでは真理はその生活の改善には些かの効果も持ちはしないのであり、彼らは単にそれを悪を為す手段として用いるに過ぎず、そのように用いることが出来ないなら、真理に冷罵を浴せかけるのである。彼らは、教義に真理が自分に利得をもたらすものとされない限り、これを冷笑する悪い教職連のようなものである。これらが悪い者らが自分に属した真理を誤謬化することを許されている理由である。
29.真理は誰から語られようとも、他の者の耳に入り、その者の心によりその状態と性質に応じて受け入れられる
神の摂理14
しかしそれが単に外的なものにすぎないことを知らずに、それを聞いて受ける者には、それはそのようなものではない。なぜなら外なる物は凡ての人にその者自身の内なる性格に応じて影響を与えるからである。真理は誰から語られようとも、他の者の耳に入り、その者の心によりその状態と性質に応じて受け入れられる。遺伝的に自然的な善にいるが霊的な善にいない者の場合には殆どこのことが[前に言ったことが]言われる。なぜなら凡て善と真理の内的なものは霊的なものであり、これは誤謬と悪を斥けるが、単に自然的なものは誤謬と悪とを支持し、そして悪と誤謬とを支持して、しかも善を為すことは矛盾するからである。
天界の秘義6647
「イスラエルの息子たちは多くの子を生み、多産であった」。これは教会の諸真理が善の方面で増大したことを意味していることは以下から明白である、即ち、イスラエルの息子たちの表象は霊的な諸真理であり(5414、5879番を参照)、教会であり(6637番)、『子を多く生むこと』の意義は善の方面で増大することであり(43、55、913、983、2846、2847、3146番)、『多産であること』の意義は更に派生することである、なぜなら教会が人間のもとに新たに設立されると、その時は善は内なるものの中にも、また、外なるものに向って、また外なるものの中にも絶えず増大して、派生するからである。霊的な教会の人たちのもとには善は諸真理により増大することはすでに再三示したところである、なぜなら霊的な教会の人間は、天的な教会の人間とは異なって、認識を持ってはおらず、そのため彼らは真理によらなくては、教会の善、または霊的な善の何であるかを知らないからである。それで霊的な教会の人間が再生しつつある時は、諸真理は彼のもとにいる天使たちを通して主によりかき立てられ、そのことによって彼は善へ導かれるのである。しかしその人間が再生すると、その時は真理と善とが共にかき立てられ、そのようにして彼は導かれて行くのである。しかし霊的な教会の人間のもとでは、真理のいかんに、善が応じており、そこから良心も応じており、良心が彼には認識として存在し、その認識に従って彼は生きるのである。
31.真理と善とが主によりベールをはがされたとき、そのときは争闘が存在することが可能となる
黙示録講解504ホ(31)
ルカ伝には―
主は、御自分は地に火を投じるために来たのであり、それにすでに火が点じられているなら御自分は何を望むであろうか、と言われた(12・49)。
このことは善と悪との間の、真理と誤謬との間の敵意と争闘とを意味している、なぜなら主が世に来られる以前には教会には誤謬と悪以外には何一つなく、従ってそうしたものと真理と善との間には何一つ争闘は存在しなかったのであるが、しかし真理と善とが主によりベールをはがれたとき、そのときは争闘が存在することが可能となり、そうしたものの間の争闘がなくては改良も在り得ないのであり、それゆえこのことが主が『火がすでに燃えていることを望まれたこと』により意味されていることである。このことがこれらの言葉の意味であることは以下の言葉から認めることができよう―
わたしは分離を与えるために来たのである、今から後は一つの家の中で五人の者は分離されるであろう、父は子に反抗し、子は父に反抗して分離されるであろう、母はその娘に反抗し、娘は母に反抗して分離されるであろう(ルカ12・51−53)。
『父は息子に、息子は父に反抗する』は、誤謬は真理に、真理は誤謬に反抗することを意味し、『母は娘に、娘は母に反抗する』は誤謬の欲念が真理の情愛[真理に対する情愛]に、真理の情愛が誤謬の欲念[誤謬に対する情愛]に、真理の情愛が誤謬の欲念[誤謬に対する欲念]に反抗することを意味し、『一つの家の中に』は、一人の人間のもとで、を意味している。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/9卷上P55/604・6
「わたしは真理である。真理は臆病であることがない」。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P426
学者の批評や反論は、真実よりも個人の憶測に頼っていることが多い。批評家が学者だからといって、批評が学問的とは限らず、仮説や推測に基づくため、受け入れるに値しないことの方が多いものである。彼らの説の中には天の光を反映するものもあるかもしれないが、同時に地獄の火を反射するものも多いのである。そこで、学識ある批評家すら、自分自身の誤りと幻想のとりこになる場合が少なくない。彼らの地上的知恵と哲学そのものが、霊感を受けた聖書記者たちの深い霊的意味を知るのを難しくしているのである。彼らは、文体や年代、記者の特長といった外側の殻ばかりをつつき、「実在」という核は調べずにいる。
これに対して、真の実在の探求者は、聖書にまったく異なる取り組みをする。彼は実在との交わりのみを願い、いつ、誰の手によって福音書その他が書かれたかというような、ささいなことにはとらわれない。使徒たちが聖霊に動かされて書いた神の手にしていること、その真理たる証拠は歴史や論理に拠るものではないことを、彼らは知っている。真理には古いも新しいもない。それは永遠である。さらに、このような真理の探求者は、心の糧と永遠の生命を求めているので、それをモーゼ、ダビデ、イザヤ、エレミヤから学ぼうが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネから学ぼうが問題ではない。彼が求めるのは実在のみである。神との交わりの中に彼は真の生命を見出し、神における永遠の満ち足りをみる。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P313
罪の中に生きている人々は、川に渡された水の橋が見える高山地帯に登ったことのない人々に似ています。彼らは宗教の真理を理解できません。しかし、祈りの生活に生きている人々は、寒冷地に生きる人々のようです。彼らは理解できるのです。奇蹟についてきかれたときに、わたしはそれを体験していると答えます。わたしは、キリストが力であることを知っているのです。