ヨシュア(戦う真理)

 

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない(マタイ10・34−35)

 

 

 

天界の秘義8595

 

「モーセはヨシュアに言った」(出エジプト記17・9)。これは戦う真理へ注ぐ神的な流入[戦う真理へ神的なものが流入すること]を意味していることは以下から明白である、即ち、『言うこと』の意義はここではヨシュアにより表象されている戦う真理の中へ言うことであるため、流入であり―それが神的なものの流入であることは、モーセにより神的な真理が表象され、即ち、主から直接に発生している真理が表象されるためであり、この真理は純粋に神的なものであるため、凡ゆる種類の信仰の諸真理の中へ流れ入って、それらを真理としているのである―ヨシュアの表象は戦う真理である。ヨシュアが戦う真理を意味していることは、彼がアマレク、即ち、内的な悪から発した誤謬と戦うように命じられたという事実から明白である。この戦いは神的な真理が流入することによって戦うものとされた真理により行われねばならないのである。主から直接発生している神的な真理そのものは戦いはしない、それは穏やかなものである、なぜならそれは主に神的愛の神的善から発出しているため、平安そのものである。しかしそれが戦う真理となるためには、それは真理と善とを熱烈に求めている天使たちに流れ入り、彼らはその熱意に動かされて戦うのである。そこからヨシュアにより表象されている戦う真理が発生するのである。

 

 

 

天界の秘義8595[2]

 

この真理がヨシュアにより表象されたため、それで彼はまたモーセの後にイスラエルの子孫の指導者とされて、彼らをカナンの地へ連れて入り、そこで諸民族と戦ったのである。こうした理由からまた彼がカナンの地へ入ったとき、エホバの天使が手に抜身の剣を持って現れ、自らを『エホバの軍勢の君』と呼んだのである(ヨシュア5・13−15)。『手の中の抜身の剣』により戦う真理の神的なものの力が意味されているのである。(『剣』は戦う真理を意味し、2799、4499番を参照、また『抜身の剣』は誤謬と悪とに絶えず戦っている真理を意味し、8294番を参照、『手』は力を意味し、878、4931−4937、7518、8050、8153、また『カナンの地の諸民族』により、それに向って戦いを交えなくてはならない悪と誤謬とが意味されている、8504番)。

 

 

 

天界の秘義8596

 

「私たちのために男を選び」(出エジプト記17・9)。これは、それが戦いのために真理を引き上げることを意味していることは『男』の意義が真理であることから明白である(265、749、1007、3134番)。この諸真理をその戦いのために引き上げることが『ヨシュアが彼らを選ぶこと』により意味されている、なぜならヨシュアにより戦う真理の神的なものが表象されるとき、『彼が選んで』、自分自身に結合させた『男』によりその戦いのために引き上げられた真理が意味されるからである。

 

 

 

天界の秘義8598[]

 

仁慈の善が戦う真理と連結し、その中へ流入することの実情のいかようなものであるかを簡単に述べよう。前に言ったように、神的なものは熱意を持った者たちと連結することを通して戦う真理となるのである。熱意を持った者たちは戦いはするが、それでもそれは敵意、憎悪からは全く発してはいないで、むしろ仁慈から発しているのである、なぜなら熱意はその中に仁慈の善を宿しているという事実から怒りとは異なっており、それで熱意が戦うときは、それは誤謬と悪の中にいる者たちを遠ざけて、彼らに善と真理の中にいる者たちを害させないようにするにすぎないのである。他方、怒りは単に彼らを遠ざけるのみでなく、憎悪と復讐とをもって迫害するのである。なぜなら熱意は、その中にある仁慈から、悪と誤謬の中にいる者らにすら、良かれと願っており、またその者らが善良な者を害しない限り、その者らに善いことを行うからである。これに反し、怒りは、その中にいる憎悪と復讐から、その戦う凡ゆる者に、その者が善かろうが、悪かろうが、危害を加えようと願っているのである。このことから仁慈の善が戦う真理の中へ流入することにより意味されていることを認めることをことが出来よう。(熱意はその中に善を持ち、怒りは悪を持つことについては4164、4444番を参照されたい。)

 

 

 

天界の秘義8599

 

「神の棒を手にとって」(出エジプト記17・9)、これは、そのことから力が発したことを意味していることは以下から明白である、即ち、『神の棒』の意義は神的な力であり(4013、4015、4876、4936、7026番)、『手』の意義もまた力である(8595番)。『手に取った神の棒』と言われていることは『棒』により外的な力が意味され、『手』により内的な力が意味され、または『棒』により自然的な力が意味され、『手』により霊的な力ら意味されるためである(6947、7011番)。『ここから力が発した』と言われていることは、戦う真理は善からその中に力を得るためである、なぜなら真理が持っている力は凡て、その中に在る善から発しているからである。その理由は神的なものは善の中に存在し、善を通して真理の中に存在しているが、しかし善のない真理の中には存在しないということである。真理の力はすべて善から発していることについては3563、4932番を参照、

 

 

 

 

 

天界の秘義8601

 

「ヨシュアはモーセが彼に言ったように行った。」これは、戦う真理が神的な真理により教えられていたように、その結果を意味していることは以下から明白である、即ち、『行うこと』の意義はその結果であり、ヨシュアの表象は戦う真理であり(すぐ前の8595番を参照)、『モーセが彼に言ったように』の意義は、それが神的真理により教えられていたように、である。なぜならモーセにより神的真理が表象され、『彼が言ったように』により、それにより教えられることが意味されるからである。