わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない

マタイ10・34−35

 

 

 

わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父母、子供、畑を捨てた者は(マタイ19・29)・・捨てる

わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである(ルカ12・49)

分裂分離

 

 

 

 

ミカ7・5−6

 

隣人を信じてはならない。

親しい者にも信頼するな。

お前のふところに安らう女にも

お前の口の扉を守れ。

息子は父を侮り

娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。

人の敵はその家の者だ。

 

 

 

 

マタイ10・34−35

 

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。

 

 

 

ルカ12・49−53

 

わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。

 

 

 

天界の秘義4843[3]

 

ミカ書には―

 

 大いなる者はその魂の邪しまをかたり、それをねじまげる。彼らの善い者は茨のようなものであり、正しい者は野ばらのようなものである。息子は父を軽んじ、娘は母に反抗し、義理の娘[嫁]は義理の母[姑]に反抗する、人の敵はその家の者である(ミカ7・3、4、6)。

 

ここにとり扱われている主題は、教会が剥奪されたその最後の時に陥るところの悪から発した誤謬であり、その最も近い意味ではユダヤ教会が陥っていたものである。『母に反抗する娘』は悪の情愛が真理に対立していることを意味し、『義理の母に反抗する義理の娘』は、誤謬の情愛が善に対立していることを意味している。

 

 

 

天界の秘義4843[4]

 

 試練の中にいる人間の場合も類似しているため―なぜなら試練の中では悪は真理に、誤謬は善に反抗して戦い、霊的な試練は人間の中で誤謬と悪とが剥奪されること以外の何ものでもないからである―試練または霊的な争闘はマタイ伝に主によりほとんど同じ言葉で示されている―

 

 イエスは言われた、わたくしは地に平安をもたらすために来たと思ってはならない、わたくしは平安をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのである。なぜならわたくしは人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に争わせるために来たからである。人の敵はその者の家の者となるであろう(マタイ10・34−36)。

 

予言者の書から直ぐ前に引用した同じような言葉も教会の剥奪を意味したが、しかしここではその言葉は教会のものである者たちの試練を意味しているのである、なぜならすでに言ったように試練は誤謬と悪を剥奪することであり、または遠ざけること以外の何ものでもなく、そうした理由から試練も剥奪も水の氾濫により、洪水によりまた意味され、記されているからである(705、739、756、907番)。それでここにもまた『娘が母と争うこと』は真理に対立した悪の情愛を意味し、『姑と争う嫁』は善に対立した誤謬の情愛を意味しており、試練を受けている人物の中には悪と誤謬とが内部に在り、またはその者のものであるため、それらのものはかれの家の者であると言われているのである―『人間の敵はその家の者となるであろう』。試練がこのように示されているものであることは、主は平安を与えるために来られたにも拘らず(ヨハネ14・27、16・33)、主はわたくしは地上に平安をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのであると言われたことから明らかである、なぜなら『剣』により争闘する真理が意味され、その対立した意義では争闘する誤謬が意味しているからである(2799、4499番)。そのように示されているものは試練であることは同章のその後に言われていることから明白である、『自分の十字架を取らないで、わたくしに従わない者はわたくしにふさわしくない』。

 

 

黙示録講解504ホ(31)

 

ルカ伝には―

 

主は、御自分は地に火を投じるために来たのであり、それにすでに火が点じられているなら御自分は何を望むであろうか、と言われた(12・49)。

 

このことは善と悪との間の、真理と誤謬との間の敵意と争闘とを意味している、なぜなら主が世に来られる以前には教会には誤謬と悪以外には何一つなく、従ってそうしたものと真理と善との間には何一つ争闘は存在しなかったのであるが、しかし真理と善とが主によりベールをはがれたとき、そのときは争闘が存在することが可能となり、そうしたものの間の争闘がなくては改良も在り得ないのであり、それゆえこのことが主が『火がすでに燃えていることを望まれたこと』により意味されていることである。このことがこれらの言葉の意味であることは以下の言葉から認めることができよう―

 

わたしは分離を与えるために来たのである、今から後は一つの家の中で五人の者は分離されるであろう、父は子に反抗し、子は父に反抗して分離されるであろう、母はその娘に反抗し、娘は母に反抗して分離されるであろう(ルカ12・51−53)。

 

 

『父は息子に、息子は父に反抗する』は、誤謬は真理に、真理は誤謬に反抗することを意味し、『母は娘に、娘は母に反抗する』は誤謬の欲念が真理の情愛[真理に対する情愛]に、真理の情愛が誤謬の欲念[誤謬に対する情愛]に、真理の情愛が誤謬の欲念[誤謬に対する欲念]に反抗することを意味し、『一つの家の中に』は、一人の人間のもとで、を意味している。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P175

‘89・5・15 激しい迫害を受けて

 

主よ?

 

♡ 私です、私は地上に平和をもたらしに来たのではない: 平和ではなく、剣を持って来た・・・(マタイ福音書10・34−35) 愛をもって宣教しなさい 私の天使よ、愛のために、助けを与える。 私は、イエス・キリスト あなたを愛する者 ♡