捨てる

 

離脱

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない(マタイ10・34−35)

 

 

 

1.聖書より

2.先ず、あなた自身を棄てなさい

3.父、母、子供、財産を捨てる

4.自我に死ぬ

5.自尊心

6.百倍の報い

7.全的な服従

8.トマス・ア・ケンピス

9.真理と善との間の争闘

10.マリア・ワルトルタ/福音を生きる

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ10・34−39

 

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族が敵となる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 

 

 

マタイ16・24−26

 

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

 

 

 

マタイ19・29

 

わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。

 

 

 

マルコ8・34−38

 

それから、群集を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命をうしなったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときにその者を恥じる。」

 

 

 

マルコ10・17−31

 

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 

 

ルカ9・23

 

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

 

 

ルカ12・49−53

 

わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。

 

 

ルカ14・26−27

 

もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、私の弟子ではありえない。

 

 

ルカ18・29

 

イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

 

 

2.先ず、あなた自身を棄てなさい

 

デボラ/生ける神より明かされた英知/5巻下P17

 

 全てを棄てなさい、と私があなたに言うとき、それは先ず、あなた自身を棄てなさいという意味である。

 

 

3.父、母、子供、財産を捨てる

 

スウェーデンボルグ/黙示録講解724ロ

 

 しかし、「息子」は聖言の多くの記事の中に言われており、未だ息子は教会の、教義の真理を意味していることは知られてはいないため、多くのものの中から私は確認のために単に以下の記事を引用しよう。福音書には―

 

イエスは言われた、わたしの名のために、家を、兄弟を、姉妹を、父を、母を、妻を、子供たちを、畠を離れる者は百倍を受け、永遠の生命を受けつぐであろう(マタイ19・29、マルコ10・29,30)。

わたしのもとに来て、自分自身の父を、母を、子供たちを、兄弟たちを、姉妹たちを、実に自分自身の魂を憎まない人間はことごとくわたしの弟子となることはできない(ルカ14・26)。

 

 父、母、妻、子供たち、兄弟たち、姉妹たち、また家と畑とはここには意味されてはいないで、人間そのものに属して人間自身のものと呼ばれているようなものが意味されていることをたれが認めることが出来ないか。なぜならもし人間が主を拝し、主の弟子となることを欲し、「百倍のものを受け入れ」、「永遠の生命を嗣ぐこと」を望むなら、これらのものを棄て去って憎まなくてはならないからである。人間自身のものであるものは、人間の愛に属し、かくて人間がその中へ生まれている人間の生命に属しているものであり、従ってそれらのものは凡ゆる種類の悪と誤謬である、これらのものは人間の愛と生命とのものであるため「人間は自分自身の魂を憎まなくてはならない」と言われている。これらの悪と誤謬とは「父と母、妻、子供たち、兄弟たちと姉妹たち」と呼ばれている、なぜなら人間の愛と生命とに属している凡ゆるものは、または情愛とそこから発する思考に属しているものは、または意志とそこから発する理解に属しているのはことごとく一人の父と一人の母から下降している幾世代のもののように形作られ、連結し、また幾多の家族と家とに区別されるように区別されるからである。自己を求める愛とそこから発する世を求める愛はそれらの「父と母」であり、そこから発する幾多の欲念とそれらの悪と誤謬とは「兄弟と姉妹」である「子供たち」である。これがその意味であることは以下から明らかに認めることが出来よう、すなわち、主は何人かがその父と母とを、または妻あるいは子供たちを、または兄弟を、または姉妹を憎むことを欲しられないのである、なぜならそうしたことは天界から各人の中に植え付けられている霊的愛に反し―それは子供たちに対する両親の愛であり、また両親に対する子供たちの愛であるが、それに反し―妻に対する夫の愛であり、夫に対する妻の愛である結婚愛にも反し、同じくまた兄弟と姉妹が相互に抱いている愛である相互愛にも反しているからである。実に、主は敵を憎んではならない、愛さなくてはならないと教えられるのである。凡てこのことは、聖言における血族関係の者、同盟関係の者、縁故関係の者を決定する言葉は霊的な意味における血族関係の者、同盟関係の者、縁故関係の者を意味することを示している。

 

 

天界の秘義4843[5]

 

聖言の内意を知らない者は、ここのこうした言葉により家、兄弟、姉妹、父、母、妻、子供、畑以上の物は何一つ意味されてはいないと考えるであろう、しかし彼の棄てねばならないものは人間に属しているようなものであり、彼自身のものであり、彼がそれらの物に代って受けるに違いないものは主のものである霊的なものと天的なものであって、しかもそのことは試練によるのであり、試練が『迫害』により意味されているのである。たれでももし彼が一人の母を棄てるなら数人の母は受けはしないし、それは兄弟にも、姉妹にも、その他のものにも言われることは認めることが出来よう。

 

 

天界の秘義10227[18]

 

ルカ伝には―

あなたらの中でたれであれ、その財産[持ち物]をことごとく棄て去らない者はわたしの弟子となることは出来ない(14・33)。

 

『財産[所有]』はその内意では聖言から発している霊的な財と富とを意味していることを知らない者は、自分が救われるためには自分自身から富をことごとく剥ぎ取ってしまわなくてはならないとしか考えることは出来ないが、それでもそれがこの言葉の意味ではなく、『財産』によりここでは人間自身の理知から発した事柄の凡てが意味されているのである、なぜならたれ一人自分自身から賢明になることは出来ないのであり、ただ主のみから賢明になることが出来るのであり、それで『財産をことごとく棄て去ること』は理知と知恵を一つとして自己に帰しはしないことを意味しており、このことを行わない者は主により教えられることは出来ないのであり、即ち、『主の弟子』となることは出来ないからである。

 

 

天界の秘義10490[]

 

 「兄弟」、「仲間」、「隣人」、その他縁故関係を示している多くの名前により教会と天界の諸善と諸真理とが意味され、また悪と誤謬であるその対立したものが意味されていることを知らない者はそうした名前が示されている聖言の他の多くの記事の中に含まれている意味を知ることは出来ないのである、例えば以下の記事には―

 

  わたしは地に平安をもたらすために来たと思ってはならない、わたしは平安をもたらすために来たのではない、剣をもたらすためである。わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとに争わせるために来たのである。人の敵はその者自身の家族の者となるであろう。わたしよりもさらに父または母を愛する者はたれであれわたしには価しない。わたしよりもさらに息子または娘を愛する者はたれでもわたしには価しない。たれでもその者の十字架をとって、わたしに従って来ない者はわたしには価しない(マタイ10・34−38)。

 

 再生することが出来る者たちが受けなくてはならない試練である霊的な争闘がここに取扱われており、かくて人間のもとに地獄から発して存在している悪と誤謬と、また人間のもとに天界から発して存在している善と真理との間に人間の中に起こってくる争闘が取扱われているのである。こうした争闘がここに記されているため、「たれであれ自分の十字架を取り上げて、わたしに従ってこない者はわたしには価しない」と言われており、「十字架」により試練に置かれた際の人間の状態が意味されているのである。こうした事柄が「人間」と「父」により、「娘と母」により、「嫁」と「しゅうと」により意味されていることを知らない者は、主は家と家族から平安を取り去って、争いを持ち込むために世に来られたと信じるに違いないが、主はヨハネ14・27その他における主御自身の御言葉に従って、平安を与え、争いを取り去るために来られたのである。

 

 

天界の秘義10490[]

 

内なる人と外なる人との争いがこの記事に記されていることは『人[人間]』と「父」、「娘」と「母」、「嫁」と「しゅうと」の内意における意義から明白であり、その内意では『人[人間]』は主から発している善を意味し、「父」は人間自身のものから発している悪を意味し、「娘」は善と真理とを求める情愛を意味し、「母」は悪と誤謬とを求める情愛を意味し、「嫁」は教会の善に接合した教会の真理を意味し、「しゅうと」は誤謬の悪に接合した誤謬を意味しているのである。

 人間における、善と悪との間の、誤謬と真理との間の争闘が記されているため、「人間の敵はその者自身の家族のものとなるであろう」と言われているのである。なぜなら「人間自身の家族の者たち」により人間に所属しており、引いてその者自身のものである事柄が意味され、「敵」は霊的な意義では善と真理とを攻撃する悪と誤謬とを意味しているからである。

 こうした事柄が「人間」、「父」、「娘」、「母」、「嫁」、「しゅうと」により意味されていることはこれらの解説の中に遍く示したところである。

 

天界の秘義10490[]

 

以下の言葉でも同様である―

 

 兄弟は兄弟を、父は息子を死にわたすであろう、子供たちはその父に反抗して立ち上がり、かれらを死にわたすであろう(マタイ10・21)。

 

 もしたれでもわたしのもとへ来て、その父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を憎まないなら、しかり、その者自身の魂をもまた憎まないなら、その者はわたしの弟子となることは出来ない。そしてたれでもその者の十字架を負って、わたしの後から来ないなら、わたしの弟子となることは出来ない。それであなたらの中でその持っているものをことごとく棄て去らない者はたれでもわたしの弟子となることは出来ない(ルカ14・26、27,33)。

 

 これらの言葉はその文字に従って理解してはならないことを、少なくとも、人間が主の弟子となることが出来るためには、父、母、妻、子供、姉妹を憎まなくてはならないと無制限に言われているという事実からでも認めない者があろうか。たれでも、敵でさえも憎んではならないことは主の御戒めに従っているのである(マタイ5・43,44)。

 

 

天界の秘義10490[7]

 

人間に属した事柄、すなわち、悪と誤謬とが秩序をもって、これらの名前により意味されていることが明白である。なぜなら彼は彼自身の魂を憎まなくてはならない、彼はその持っておるものを凡て、即ち、その者に属しているものを凡て棄て去らなくてはならないともまた言われているからである。

 試練の状態が、即ち、霊的な争闘の状態がまたここに記されているのである。なぜなら「たれでもその十字架を負うて、わたしの後から来ない者はことごとくわたしの弟子となることは出来ない」と言われているからである。主の弟子となることは主によって導かれて、自己により導かれないことであり、かくて主から発している善と真理により導かれて、人間から発している悪と誤謬により導かれはしないことである。

 

4.自我に死ぬ

 

光明社/トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて2・12・14(168)

 

あなたは絶えず自我に死する生涯を送らなければならぬことをしっかりと明らかに知れ。人は自我に死ねば死ぬほど、ますます神に生きるようになるものである。

キリストのおんために苦難を忍ぼうとする者でなければ、決して天上のことを悟ることはできないのである。

 

 

光明社/トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて3・8・1(P205

 

 「私は塵と灰とに過ぎない者ですが、あえて主に申し上げましょう。」(創世記18・27)

もし私が自分をそれ(塵灰)以上のものと考えるなら、見よ、主は私に反対され、私の罪はそれを実際に証拠立て、私はそれに対し、弁解することができないだろう。

 しかし自分を軽んじて虚無にひとしい者と思い、すべての自尊心を去って、自分がほんらい塵に過ぎぬことを考えるならば、主の恩恵は私にくだり、主の光明(ひかり)は私の心に近づき、すべての自尊の念は、たとえそれがいかに小さなものであろうとも、ことごとく私の無の深淵(ふち)に沈んで、永遠に消え失せてしまうだろう。

 そしてそこにおいて主は、私がどういう者であるか、どういう者であったか、またどこまで迷い下落(くだ)ったかをお示しになるだろう。なんとなれば、私は無にひとしい者であるのに、それを知らないからである。

 

 

光明社/トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて3・8・2(P207

 

 私は誤って自分を愛し、自分を失ったが、ひたすら主ばかりを求め、主ばかりを愛することによって、自分をも得、主をも得ることができた。のみならずこの主に対する愛によって、私はさらに自分を虚無のうちに深く沈めることができたのである。

 

5.自尊心

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P183

 

 人は、キリストの霊が宿っていなければ、神でありながら仕える者の姿をとられた主のように、謙虚にはなれない。自分の本当の姿を忘れ去り、誤った自尊心を植付けてはならない。人は自尊心によって真理から外れ、自らを滅ぼすのだ。かりに他の人より進んでいたとしても、ダイヤモンドと木炭が同じ炭素から出来ているのを忘れてはいけない。条件の違いによってかくまで違った形になるとはいえ、高価なダイヤモンドも木炭と同じく、焼けば灰と化す。

 

 

光明社/トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・13・1−3(P225

 

「わたしの子よ、服従を拒もうとする者は、恩恵を拒む者である。

また私の利益を得ようとする者は、公の利益を失う者である。

人が目上に対し、進んで快く従わないのは、その肉体がまだまったくその人に

従わず、たびたび逆らい不平を鳴らすことがあるという徴候である。

だから自分の肉体を従わせたいと思うならば、

自分の目上に対し、すぐに従うことを学ぶがよい。

 

内なる人(精神)が荒らされていないならば、

外なる敵(肉体)に打ち勝つことはたやすいからである。

精神とよく一致しないならば、霊魂にとってあなた自身よりも

害のあるやっかいな敵はほかにはあるまい。

あなたは肉と血とに勝ちたいと思うならば、

自分というものをまったく軽んじなければならない。

 

あなたはまだ自分をむやみに愛しているので、

それで他人の意思にまったく従うことを恐れるのである。

しかし、無から万物を造り出した全能にしてこの上なくとうとい

わたしですら、あなたのためにへりくだって人間に服従したのに、

塵であり虚無であるあなたが、神のため人に服従したとて、

それがどうして大したことだろう。

わたしはすべての人のうちで、もっとも卑しいもっとも低い者となったが、

それはわたしの謙遜によってあなたが自分の高慢に打ち勝つためである。

塵であるあなたよ、従うことを学べ、土芥(つち)であるあなたよ、

へりくだって、すべての人の足元に屈服することを習え。

あなたの意思をくじき、何事につけても人に服従することを学ぶがよい。

 

自我を抑える熱心に燃え立ち、

心の中に高ぶる思いを少しでも持っていてはならぬ。

かえって卑しい者、小さい者たる実を示して、すべての人に自分の上を

踏み歩かれ、街路の上の糞土のごとくふみにじられるようにすべきである。

 

むなしい者よ、あなたになんの不平を鳴らすことがあるのか?

あさましい罪びとよ、あなたはかようにしばしば神に背き、

いくたび地獄におとされても文句の言えない身でありながら、

あなたを責める人々に対して、どう言いわけすることができるのか?

 

けれども、それをわたしが大目に見ていたのは、あなたの霊魂がわたしの

前に貴重なものであったからで、またあなたがわたしの愛を認め、

わたしの恵みを絶えず感謝し、いつも真の服従と謙遜とに甘んじ、

自分が軽蔑されるのを、忍耐するようになるためである。」

 

 

6.百倍の報い

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P111

 

ペトロが尋ねる。

「主よ、ごらんの通り私たちは、あなたに従うために、人に許されていることを含めて、すべてを捨てました。すると私たちはどうなるのでしょうか?私たちは、あなたの御国に入れるのでしょうか?」

「真にそのようにして私に従った人々、そして未来においてもそのようにする人々は、私と共に神の国に入るでしょう。この世にいる間は、今まで行った善くないことを償う日々が与えられ、今までの罪や怠りを償う日時が与えられます。新しい人に生まれ変わるために私に従ったあなたたちは、人の子が栄光の座につく時、この世のもろもろの部族を治めるために、共にそれぞれの座につくでしょう。

 再び言います。“善い訪れ”を蒔くために、私の使命を続けるために、家、畑、父母、兄弟姉妹を離れて私につき従った者は、この世で百倍の報い、未来の世で永遠の生命を受け継ぐでしょう」

 ケリオットのユダが言う。

「けれども、私たちがすべてを捨てたなら、どうしてこの世で持ち物を百倍にすることができるのですか?」

イエズスは言う。

「重ねて言いますが、人間に不可能なことでも、神には可能です。神は、世間の人間を神の子に変え、霊的な人間となったその人に、霊的喜びの百倍をお与えになります。(後略)」

 

 

7.全的な服従

 

天界の秘義6138

 

「わたしたちも、わたしたちの土地もパロの僕として生きましょう」(出エジプト47・19)。

これは全的な服従を意味していることは以下から明白である。すなわち、『わたしたちとわたしたちの土地』の意義は(すぐ前にように、6135−6137番を参照)善と真理との容器であり、『僕』の意義は人間自身のものから発している自由をもたないことであり(5760,5763番を参照)、かくて全的な服従である。容器により人間の形そのものが意味されている。なぜなら人間は主から生命を受ける形以外の何ものでもなく、この形は遺伝と実際の生活とによって、主から発している霊的な生命を容認することを拒絶するといったものとなっている。しかしこれらの容器が最早その人間自身のものから発している自由を何ら持たなくなるほどにも放棄された時、そこに全的な服従が生まれるのである。再生しつつある人間は、荒廃することと支えられることとが再三繰り返されることによって遂には最早自分が自分自身のものであることを欲しなくなって、主のものとなることを欲するようになり、そして彼が主のものとなった時、彼は自分が自己に放任される時、悲しみ、不安に襲われるような性質の状態に入り、この自己の状態から解放されると、幸福と祝福の中へ帰って来るのである。天使たちは凡てこうした状態の中にいるのである。

 

 

天界の秘義6138[]

 

主は人間を祝福し、幸福にされるために、全的な服従を望まれるのである。即ち、人間が一部分は、その人間自身のものであり、一部分が主のものであることがないように望まれているのである。なぜならその時は二人の主人がいて、何人も同時にこの二人の主人には兼ね仕えることは出来ないからである(マタイ6・24)。全的な服従はまたマタイ伝の主の御言葉により意味されている―

 

わたしよりも父と母とを愛する者はわたしにふさわしくない、わたしよりも息子と娘を愛する者はわたしにふさわしくない(マタイ10・37)。

 

ここでは『父と母』により遺伝から人間自身のものとなっているものが全般的に意味され、『息子と娘』により実際の生活から人間自身のものとなっているものが意味されているのである。人間自身のものはまたヨハネ伝の『魂』により意味されている―

 

自分の魂を愛する者はそれを失うであろう、しかしこの世で自分の魂を憎む者はそれを保って永遠の生命を得るであろう。たれでもわたしに仕えようと欲するなら、わたしに従わなくてはならない、わたしのいるところに、わたしの僕もまたいるのである(ヨハネ12・25,26)。

 

全的な服従がまたマタイ伝の主の御言葉により意味されている―

 

他の一人の弟子が言った、主よ、わたしに先ず父を葬りに行かせてください。しかしイエスは彼に言われた、死んだ者にその死んだ者を葬らせなさい(マタイ8・21,22)。

 

 

天界の秘義6138[]

 

服従は全的なものでなくてはならないことは教会の最初の誡命から非常に明白である―

 

あなたはあなたの神、主を心[心情]を尽くし、魂を尽くし、心[思い]を尽くし、力を尽くして愛さなくてはならない、これは最初の誡命である(マルコ12・30)。

 

かくて主に対する愛は人間から発しないで、主御自身から来ているため、受容する器官である心の凡ては、魂の凡ては、思いの凡ては、力の凡ては主のものとならなくてはならないのであり、従って服従は全的なものでなくてはならないのである。これが『わたしたちも、土地もパロの僕として生きましょう』という言葉によりここに意味されている服従である。なぜならパロにより、内なる天的なものの庇護の下に在るところの自然的なものが全般的に意味され、その最高の意義では主の庇護の下に在る自然的なものが全般的に意味されており、主がその意義では『ヨセフ』であられるからである。

 

 

 

 

8.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・12・1

 

「自分を捨て、自分の十字架を取ってイエズスにしたがえ。」(マタイ16・24)とはひどい言葉だと多くの人は思っている。

 しかし「のろわれた者よ、わたしをはなれて永遠の火に入れ。」(マタイ25・41)という最後の言葉はもっとひどく聞こえるだろう。

 だからいま喜んで十字架の言葉を聞き、これにしたがう者は、永遠の刑罰の宣告を聞く心配はあるまい。

 主がさばくためにおいでになる時には、この十字架の印が天に現われるだろう。

 その時生前自分を、十字架に付けられたもうお方に肖(あや)からせた十字架のしもべたちは、みな大きい信頼をもって審判者であるキリストに近づくだろう。

 

 

 

キリストに倣いて/3・32・3

 

あなたにはまだ捨てるべきものがたくさんある。それをわたしのためにまったく棄て去らなければ、あなたはとうてい望むところに達しないだろう。

 

 

キリストに倣いて/3・37・1

 

わたしの子よ、自分を捨てよ、そうすればわたしを見出すだろう。

 何も望まず、何物をも持つな、そうすればつねに利益を得るだろう。

 なんとなれば、あなたが自分をまったくわたしにささげて、これを取りもどそうとしないならば、すぐにいっそうゆたかな恩恵があなたに与えられるからである。

[]主よ、私はいくたび自分を主におささげすべきでしょうか?またどういうことで自分を捨てるべきでしょうか?

[]つねに、いかなる時にも、大事にも小事にも、である。

 わたしは例外というものを設けない、万事においてあなたが無一物になることを望むのである。

 もしそうでなくて、あなたが内においても外においても自我の念を棄て去らないならば、どうしてあなたはわたしのもの、わたしはあなたのものとなることができようか?

 そうすることが早ければ早いほど、それはますますあなたのためになる。またそうすることが完全で誠実であればあるほど、いよいよあなたはわたしの意(こころ)に適い、大なる利益を得るだろう。

 

[]ある人々は自分を捨てるが、いくらか例外を設ける。これはまだ神を十分に信頼し切っていないので、自分で自分のために用意しようとするのである。

 またある人々は、最初はいっさいをささげるが、あとで誘惑におそわれると、先にささげたものをまた取りもどす。それで一向徳に進歩しないのである。

 これらの人々は、まずまったく自分を捨て、毎日自分を犠牲としないならば、清い心の真の自由も、またわたしと楽しい親交(まじわり)をする恩恵も、得ることができない。なんとなればこれがなくてはわたしとの喜ばしい一致は成り立たないし、またいつまでも成り立たないだろうからである。

 

[]わたしはこれまでにもうたびたびあなたに言ったが、いまもまた言う、

「私心(わたくし)を去り、自分を捨てよ、そうすれば大なる心の平安を得るだろう。」と。

 すべてを得るために、すべてをさし出せ。何物も残しておかず、何物をも取りもどすな、ただひたすらわたしを頼みとせよ。そうすればわたしをあなたのものとすることができるだろう。

 あなたの心は自由となり、暗黒(くらやみ)があなたをおおうこともなくなるだろう。

 だからあなたは、すべて自分の所有物(もの)を捨て、はだかになってはだかのイエズスに従い、自分に死んで、わたしに永遠に生きるよう、努め、祈り、望むがよい。

 そうすればあらゆる空想や、心の悪しき乱れや、余計な心配は、消えてしまうだろう。

 それからまた過度の恐れは去り、よくない愛情は死んでしまうだろう。

 

 

キリストに倣いて/3・39・4

 

人のほんとうの進歩は、自分を捨てることである。そして自分を捨てた人は、非常に自由で安全である。

 

 

9.真理と善との間の争闘

 

黙示録講解504ホ(31)

 

ルカ伝には―

 

主は、御自分は地に火を投じるために来たのであり、それにすでに火が点じられているなら御自分は何を望むであろうか、と言われた(12・49)。

 

このことは善と悪との間の、真理と誤謬との間の敵意と争闘とを意味している、なぜなら主が世に来られる以前には教会には誤謬と悪以外には何一つなく、従ってそうしたものと真理と善との間には何一つ争闘は存在しなかったのであるが、しかし真理と善とが主によりベールをはがれたとき、その時は争闘が存在することが可能となり、そうしたものの間の争闘がなくては改良も在り得ないのであり、それ故このことが主が『火がすでに燃えていることを望まれたこと』により意味されていることである。このことがこれらの言葉の意味であることは以下の言葉から認めることが出来よう―

 

わたしは分離を与えるために来たのである、今から後は一つの家の中で五人の者は分離されるであろう、父は子に反抗し、子は父に反抗して分離されるであろう、母はその娘に反抗し、娘は母に反抗して分離されるであろう(ルカ12・51−53)。

 

 

『父は息子に、息子は父に反抗する』は、誤謬は真理に、真理は誤謬に反抗することを意味し、『母は娘に、娘は母に反抗する』は誤謬の欲念が真理の情愛[真理に対する情愛]に、真理の情愛が誤謬の欲念[誤謬に対する情愛]に、真理の情愛が誤謬の欲念[誤謬に対する欲念]に反抗することを意味し、『一つの家の中に』は、一人の人間のもとで、を意味している。

 

 

10.マリア・ワルトルタ/福音を生きる

 

天使館/天使のたより/2005.10/第10号/P26/マリア・ヴァルトルタ/「手記」より

 

福音書をどう生きるか

1944年3月28日

 

イエズスは言われる。

「あなたたちのように気を散らして福音書を読むなら、あまりにも多くの真理はあなたたちから漏れてしまうだろう。それら偉大な教えを摑みなさい。現在のあなたたちの物の見方にその教えを適合させるのも悪い。

 あなたたちに適合すべきなのは福音書の方ではなく、あなたたちこそ福音書に適合すべきである、と知りなさい。福音書は在って在るものだ。その教えは、生命の最初の世紀に存在したものであり、最後の世紀にもそのようなものであるだろう。たとえその世紀が十億年後であるとしても。あなたたちは、福音書にしたがって生きることを最早知らないだろうが―ましてそれを行うことは最早極めて少ない―しかし、だからといって、福音書は別のものにはならないだろう。福音書は常に、同じ本質的な真理をあなたたちに語るだろう。

 あなたたちの生き方に福音書を適合させようとするその願望は、あなたたちに告げるわたしに対する信仰があなたたちにあるなら、初代キリスト信者たちがしていたように、福音書を完全に生きるように努力するだろう。また、『そう言われても、現代の生活はわたしたちがこれらの教えに完全についていけないようなものになっている。わたしたちはその教えに感嘆するけれども、その教えについて行くにはわたしたちはあまりにも異なる者です』と言ってはならない。

 最初の諸世紀の異邦人たちは、彼らとて福音書とは縁遠い人たちであったにもかかわらず、それについて来た。淫らな者、貪欲な者、暴飲暴食をする者、残忍な者、懐疑主義者、悪徳者たちは、すべてこれらの吸血鬼を自分自身から剥ぎ取り、霊魂を赤裸々にし、異教的な生活の触手から捥(も)ぎ取るためにそれに血を流させ、思想において、愛情において、習慣においてこんなにも傷つき、わたしのもとに来て、言った、『主よ、もし思し召しなら、あなたはわたしを癒すことがお出来になります』と。そしてわたしは彼らを治した。彼らの英雄的な傷口をつないだ。

 完全に受け入れられた一つの掟への愛のために、悪である一切を自分から剥ぎ取ることを知るのは英雄的行為だからだ。わたしについて来るために障害となる一切のものを断ち切るのは英雄的行為だ。わたしが、『あなたたちによく言っておく。わたしについて来るためには、家を、田畑を、富と、愛情を捨てなければならない。しかしわたしの名に対する愛に迫られわたしについて来るために一切を捨てる者は、来るべき世ではその百倍を受けるだろう。あなたたちによく言っておくが、わたしについて来るために生まれ変わる者は、王国を所有し、最後の日には人びとを審判するために、わたしと共に来るだろう』と、指摘したのは英雄的資質である。

 おお!わたしの真の信徒たちよ!わたしと共に、あなたたちはわたしと共に、わたしの凱旋の時、わたしのものはすべてあなたたちのもの、わたしの喜びであるわたしの子ら、わたしから愛される愛人たち、わたしの祝福された者たちのものであるからあなたたちの凱旋の時、あなたたちは祝祭の喜びに溢れる輝かしい群集となるだろう。

 しかし、おお、人びとよ、わたしのものとなるためには、『生まれ変わる』必要があるのだ。生まれ変わること。マタイがわたしの言葉を引用してそう言っているように、ヨハネもそのことを言っています。すなわち、マタイは金持ちの青年について語っている行(くだり)で、わたしの愛弟子ヨハネは、ニコデモとの対話の行で。再び生まれることが必要です。生まれ変わることが必要なのです。一つの新しい霊魂になること、あるいは二十世紀の新しい異邦人たちになることだ。わたしの理念(イデア)を信じ、それを生きるために、世の妥協と理念を脱ぎ捨て、霊魂を立ち直らせるのだ。本当にそれを生きるのだ。全面的に。

 最初の諸世紀の異邦人たちはこのようにしたし、そして天の栄光ある聖人たちになったのだ。また、地球に文明をもたらしたのだ。もし、わたしを愛しているのが真実なら、もし、もう一つの生命を目指しているのが真実なら、もし、地球の文明のために働いているのが真実なら、あなたたちはそのようにしなければならないのだ。その地球は今!処女林に埋められた一部族のそれよりも野蛮である!なぜか?わたしを拒絶したからだ。自分たちをキリスト者だと言うことは、キリスト者であることを意味しない。洗礼を制定する形式に賛成して洗礼を受けたのではない。キリスト者とは、キリストがかくあるべしと言ったようにあることを意味する。福音書があなたたちに繰り返しているように。

 だが、あなたたちは福音書をめったに読まないし、まずい読み方をするし、偉大な教えの中に自分の気に障るところがあるとカットする。また繊細で微妙な教えには気付きさえしない。

ちょっと言ってみてほしい。或芸術家が一つの作品に取り掛かる時、彫刻家なら粗彫りをし、画家ならスケッチをし、建築家なら壁画の建立作業をするにとどめておくだろうか?いいや、大まかな仕事を終えると、彼は仕事の細部に立ち向かう。この仕事を遂げるには、最初の大仕事にはない、もっとずっと長い時間がかかる。だがこれこそ傑作を産む仕事なのだ。

素人にはすでに生きているかと思われるほどの大理石に、へらと鉄槌をもって挑む彫刻家は、その作品を完璧に仕上げようと、どれほどの愛を込めて働くことか!その仕事ぶりは彫金師かと思われるほど微に入り細をうがつ。しかし、あの石の顔が、いかに諸道具の愛撫―最早注意深い柔らかな愛撫ではあるが―の下で、生命を獲得していくかを見なさい。目は眼差しを飾るかに思われ、鼻孔は息づき膨らむかに、口は生暖かく唇の曲線を描き柔らかに見え、髪は、おお!最早石の中で硬直してはおらず、風に靡(なび)いているかに見え、愛を込めた一つの手がそれを梳(と)いたかのようにのびやかに、しなやかに見える。

あの画家を見てみなさい。画布はすでに完成している。すばらしい、すばらしく完璧であるかに見える。だが彼は絵筆を置こうとしない。ここには濃紺の影が、そこには洋紅色(カーアイン)の筆触が一つ欲しい。少女が手にする輝くこの花には、その真珠色の無垢を浮き立たせる陽光の一つのきらめきが必要だ。その頬には、おおくの苦しみの中で生き延びてきた忘我の喜びに生彩を添えるために、涙の一滴が欲しい。これらの羊の群が草を食(は)み、通り過ぎて行くこの花咲く野には、花々の絹に鮮明さを加えるために露を置きたい。画家は、作品に『真実だ!』と言わせるほど完璧なものにするまでは筆を置かない。そして建築家も同様、音楽家も同様、傑作を世に出したい真の芸術家たちは皆そうなのだ。

そして、あなたたちはあなたたちの霊的人生の傑作を、こうして物しなければならないのだ。

ところであなたたちは何を考えているのか? わたしは、ただ言葉を語る趣味のために、説教とは無縁の言葉を付け加えたのだと思っているのか? いいや、わたしはあなたたちを完徳へと導くために、純粋に必要なことを言ったまでだ。また、もし偉大な福音的教えの中にあなたたちの霊魂に救いをもたらすものがあるとすれば、その最も微細な筆触のうちに、あなたたちを完徳へ導くものがある。

 第一は十の戒律である。それに従わないことは生命に死ぬことを意味する。第二は幾つかの勧告である。これに従うことは、成聖をますます早め、完全さにますます近づくことを意味する。

 さて、マタイの福音書にはこう言われている。『悪がはびこるので多くの人の愛が冷えるであろう』と。子らよ、めったに黙想されていない偉大な真理こそこれだ。

 今、あなたたちは何に苦しんでいるのか? 愛の欠如に苦しんでいる。本質的に戦争とは何か? 憎悪だ。憎悪とは何か? 愛の正反対だ。政治的道理? 生活空間? 不正な国境? 政治的屈辱? 言い訳、言い訳。

 あなたたちは互に愛していない。互に兄弟であると感じていない。あなたたちは皆一つの血に由来し、皆同じように生まれ、皆同じように死に、皆同じように飢え、渇き、寒さを覚え、睡眠をとり、同じようにパンを、衣服を、家を、火を必要としているのを思い出さない。あなたたちは、『互に愛し合いなさい。互に愛し合うならばそれによって人びとは皆、あなたたちがわたしの弟子であることを知るだろう。あなたたちの隣人をあなたたち自身のように愛しなさい』とわたしが言ったのを思い出さない。

 あなたたちはこの真理を御伽噺の言葉だと思っている。このわたしの教義を、一狂人の教義だと思っている。それを、多くの人間的な貧弱な教義と取り替えている。それらの創作者の都合のいいように貧弱であるか、それとも悪意に満ちている。それらの中の最も完全なものも、わたしのものと違っているなら不完全である。神話的彫像のように、それらの大部分は貴金属で出来ている。しかしその土台は泥土であり、最後には教義全体も転覆するだろう。それらに支えられていた者たちの崩壊のうちに。わたしの教義は崩壊しない。その教義に支えられている者たちは崩壊せず、最高の確立で常に上昇する。すなわち、地上でのとの契約に基き、を所有するために、地上の彼方、天へと上昇する。

 しかし、邪悪が生きている所に愛徳は存在することが出来ない。なぜなら愛徳はであり、と共生しない。したがってを愛する者はを憎む。を憎むことによって邪悪は増大し、ますます愛徳から離れて行く。見よ。これこそあなたたちを拷問にかけようと追い詰める出口の無い円運動なのだ。

 権力者たちよ、あるいはその屈従者たちよ、あなたたちはあなたたちの罪を増大させた。福音書をないがしろにし、十戒を愚弄し、神を忘れ―肉に基いて生きている者、知性の傲慢に基いて生きる者、サタンの勧告に基いて生きる者は、神を思い出すとは言えないから―家族を踏みにじり、盗み、罵詈雑言し、殺し、偽りの証言をし、嘘を吐き、姦淫し、不法行為を勝手気ままに行った。ここでは地位を、人妻を、物を盗むことによって、より高いあちらでは国の権力、あるいは自由を奪うことにより、国民に対しては彼らをあなたたちの偽りの工作により死に赴かせることを正当化するために偽り、あなたたちの盗みを増やすことによって。ささやかな幸せのみを願って平穏に暮らすことしか求めないかわいそうな民!それなのに、あなたたちは国中の血と涙と犠牲という高い代償を払って、合法ではない富裕と繁栄を自分たちに保証するために、毒舌を振るっていがみ合っている。

 しかし、有力者たちの大罪にはどれほどの個々人の罪が加担していることだろう!罪に土台を築くのは個々人の小罪の薪(たきぎ)の山なのだ。もし一人びとりが、飽くなき肉欲と金銭欲と権力への欲無しに、聖なる生活を送るならば、どうしてを引き起こし得よう?犯罪者はずっといるだろう。しかし誰も彼らを使わないだろうから、彼らは無害とされるだろう。充分に隔離された狂人たちのように、彼らはその権利乱用の卑猥な夢の奥で乱心を続けるだろう。サタンが彼らを助けるとしても、その助けは、に基いて生きることにより聖なるものとなった全人類の反対統一体から無に帰せられるだろう。その上、この人類はを味方につけている。従順で善良なその子らに対して、は慈愛に溢れておられる。したがって、愛徳は人びとの心にあるだろう。愛徳は生きており、聖化するものである。だが悪は転倒するだろう。

 子らよ、悪人にならないためには愛する必要があり、愛を所有するために悪人にならない必要があるのを理解しただろうか?愛する努力を惜しんではならない。もしあなたたちが愛するなら・・・ほんの少しだけでも!もし愛し始めるとしたら。その出だしで足りる、あとはおのずから進歩するだろう。

 刈り入れは麦の穂が稔らなければ出来ない。形づくられなければ穂は成熟できない。またもし株が形成されなければ穂が生じることはない。しかし農夫が土に小さな種子を蒔かなければ、穂の栄光を支える生きた杯として株は畝溝から生じるだろうか?種子はこんなにも小さい!それなのに土塊を破り、地中に入り込み、貪欲にそれを吸い、そして、やがてその希望の色、それとも風に戦(そよ)ぎ、太陽に輝くその黄金色をもって、パンと人間のためのパンを与えてくださる御方に祝福を歌う。もしあの一羽の雀の餌袋を満たすのにさえその何十倍を必要とするであろう、あの小さな小さな一粒の種子がなければ、あなたたちは祭壇上のホスチアも持てないだろう。肉体の飢えと霊的絶食で死ぬだろう。

 一人びとりの心に一粒の麦、愛徳の小さな一粒の麦を蒔きなさい。それが侵入していくのを待ちなさい。あなたたちのうちで生長させなさい。あなたたちの剥き出しの強欲を、すべてが愛徳から生まれた聖なる業の豊饒な開花に変えなさい。今は全体に茨と棘のある潅木がはびこる土地は、あなたたちに拷問の苦しみとなっているその面とその棘々しさを、至福なの前金、すなわち閑静な、いい居住地に取り替えるだろう。互に愛し合うことは、もうすでににいることなのだ。は、愛以外の何ものでもないのだから。

 読みなさい、福音書を読み、最も些細な章節も読みなさい。その完全という染料の中で生きなさい。愛から始めなさい。とても難しい掟、勧告に思えるだろう。だが万事を解く鍵だ。善のすべてを。喜びのすべてを。平和のすべてを」。