分裂

 

 

 

『はなれないこと』は愛と慈悲離婚分離カイン

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない(マタイ10・34−35)

宗派

 

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

4.聖母から司祭へ

5.ヴァッスーラ

6.マーリン・キャロザース

7.善は連結させ、悪は分裂させる

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ10・34−36

 

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族が敵となる。

 

 

 

マタイ12・25

 

どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。

 

 

 

マタイ12・30

 

 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。

 

 

 

ルカ12・49−53

 

わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。

 

 

 

ヨハネ16・32

 

だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ。

 

 

 

ヨハネ17・11

 

 聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。

 

 

 

ヨハネ17・21−23

 

 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。

 

 

 

 

コリント1・1・10−13

 

 

さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。  わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。

 

 

 

 

コリント1・3・3−6

 

相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。 アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。

 

 

 

 

テトス3・10

 

分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。あなたも知っているとおり、このような人は心がすっかりゆがんでいて、自ら悪いと知りつつ罪を犯しているのです。

 

 

 

ユダ17−19

 

愛する人たち、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出しなさい。彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう。」この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者です。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義343

 

 羊の群を仁慈の善へ導く者は『羊の群を集める者』であるが、これを仁慈の善に導かない者は『羊の群を追い散らす』のである、なぜなら凡て共に集まり、一つになることは仁慈から生まれ、追い散らして一つにならないことは仁慈の欠如から発するからである。

 

 

 

天界の秘義389

 

 『凡て彼を見つける者は彼を殺すであろう』は悪と誤謬のことごとくが彼を破滅させるであろうということを意味することは既に述べたことから生まれている。なぜなら事実は以下のようであるから、即ち、人間は自分自身から仁慈を剥ぎとる時自分自身を主から引き離すのである、それは人間を主に連結するものはひとえに仁慈であり、即ち、隣人に対する愛、慈悲であるからである。仁慈がない時、分離が起り、分離が起る時、人間は自分自身にまたは自分自身のものに委ねられ、かくて凡てその考えるものは誤りとなり、凡てその意志する所は悪となる。これが人間を殺し、または人間に生命を些かも残さなくなるものである。

 

 

 

天界の秘義2417[]

 

 教義は二重性のものとなっている、即ち愛と仁慈の教義と信仰の教義になっている。最初、主の教会はことごとく、それが未だ小さな娘、処女である間は、仁慈の教義以外にはいかような教義も持たず、またそれ以外のいかような教義も愛しはしないのである、なぜならこれは生命[生活]に属しているからである。しかし次々とその教会はこの教義から離反し去り、遂にはそれを安価なものに考えはじめて、しまいには棄て去ってしまい、信仰の教義と呼ばれているもの以外にはいかような教義も承認しなくなり、そしてそれが信仰を仁慈から分離してしまうと、この教義は悪の生命[生活]と結びついてしまうのである。

 

 

 

天界の秘義2417[]

 

それが主が来られた後の原始教会の、または異邦人の教会であったのである。それはその始まりでは愛と仁慈との教義以外にはいかような教義も持っていなかったのである、なぜならそのことを主御自身が教えられたからである(2371番の終りを参照)。しかし主の時以後、次々と、愛と仁慈とが冷ややかになり始めるにつれ、信仰の教義が起り、それとともに分離、異端が起って、それは人間がこの教義を強調するにつれて増大したのである。

 

 

 

天界の秘義3488

 

 教会の歪められた第二の状態が福音書の前にかかげた主の御言葉により記されたことは、その内意から明白であり、それは以下のようなものである―

 

 凡てこれらのことは悲しみの初まりである。

 

 これは前に起る事柄を―即ち、教会の歪められた最初の状態に属している事柄を―意味しており、それは前に言ったように、彼らは善いものと真のものとをもはや知らなくなりはじめ、そのことについて彼ら自身の間で論争し、そこから誤謬が生まれ、それで異端が生まれてくるであろうということである。このような事柄が数世紀もたたない中に教会を歪めたことは以下の事実から明白である、即ち、基督教界の教会は分離してしまい、しかもそれは善と真理とにかかわる見解に従って起きたのである、かくて教会が歪められることは、久しい前から始まったのである。

 

 

 

天界の秘義4997

 

『神に向かって悪と罪を犯す』と言われているのは、悪は、また罪は、それ自身において観察されるときは、善から分離する事以外の何ものでもないためである。さらに悪そのものは分離[非結合]から成っている。このことは善から明らかである、なぜなら、善はすべて主に対する愛と隣人に対する愛のものであるため、善は連結であるからである。

 

主に対する愛の善はその人間を主に連結させ、従って主から発出している善の凡てに連結させ、隣人に対する愛の善はかれを天界に連結させ、そこに在るいくたの社会に連結させるのであり、それゆえこの愛によりまた人間は主と連結するのである、なぜなら主は天界の凡ゆるものにおける凡ゆるものであられるため、元来天界と呼ばれている天界は主であるからである。

 

 

 

天界の秘義4997[]

 

しかし悪の場合はその逆である。悪は自己への愛と世への愛のものである。自己への愛はその人間を主のみでなく、天界からも分離させるのである、なぜなら彼は彼自身を除いては何人も愛しないし、他の者は、彼がその他の者を彼自身の中に認める限り、またその他の者が彼と一つのものとなっている限り、愛するに過ぎないからである。そこから彼は凡ゆる者の注意を彼自身に向けさせ、それを他の者たちから特に主から外らせてしまうのであり、そして多くの者が一つの社会の中でそうしたことを行う時は、必然的に、凡ての者は分離してしまい、各々の者は心では他の者を敵視し、もしたれかが彼に不利なことを何か行うなら、彼はその者を憎悪して、その破滅を歓ぶのである。世への愛の悪もそれと異なっていない、なぜならこれは他の者の富と財産とをむさぼり求めて、その者に属している凡ゆるものを所有しようと欲し、そこからまた敵意と憎悪とが生まれてくるが、しかしその度は(前の愛の場合よりは)低いのである。悪とは何であるかを知り、従って罪とは何であるかを知るには、自己と世への愛のいかようなものであるかを知ろうと努めさえすればよいのである。そのことにより彼は悪の何であるかを知り、従って誤謬の何であるかを知り、またそのことから善の何であるかを知り、従って真理の何であるかを知るのである。

 

 

 

天界の秘義5440

 

「かれらは言った、わたしたち、あなたの僕らは十二人の兄弟であります」。これは信仰の凡ゆるものであり、それがここのようにヤコブの息子たちについて述べられ、またはかれらにちなんで名づけられた種族について、また使徒たちについて述べられているときは、信仰の凡ゆるものの一つの統合体であり(577、2089、2129、2130、2553、3272、3488、3858、3862、3913、3926、3939、4060番を参照)、『兄弟』の意義は善を通して連結していることである、なぜなら諸真理が善により連結するときは、その諸真理はそれら自身の間にいわば兄弟関係のようなものをおびるからである。もしそれらが善がないのに連結しているように見えるなら、たとえ連結しているように見えても連結はしていないのである、なぜなら悪の誤謬が常にそれらのものに入って、それらのものを分離するからである。そのことの理由はそれらのものが派生する源泉である一つの起原を持ってはおらず、またそれらのものがそれに向って向けられる一つの目的を持ってもいないということである。なぜなら連結が存在するためには最初のものと最後のものとは連結しなくてはならないのであり、最初のものはそれらのものが発生してくる源泉である善でなくてはならず、最後のものもそれらのものがそれに向ってすすむ善でなくてはならないからである。さらに諸真理が連結するためには、善が遍く支配しなければならないのである、なぜなら遍く支配するものが連結させるからである。(『兄弟』が善の情愛[善に対する情愛]を意味していることは前の2360、2524、3303、3459、3803、3815、4121番に見ることが出来よう)。

 

 

 

天界の秘義5474

 

『罪を犯すこと』の意義は分離であり(5229番を参照)―なぜなら罪は凡て分離するからである―

 

 

 

天界の秘義5807[3]

 

 しかしそれに対立した愛は、すなわち、自己を、また世を求める愛は連結ではなくて、分離である。それらは実に連結のように見えはするが、しかしそれは各々の者が他方の者を、その二人が利得と名誉とを追求している限り、または彼らに反抗する者に復讐し、これを迫害しているかぎり、自分自身と一つのものとなっているものとして、認めているためである。それでその一方の者が他方の者にくみしないなら分離が起こるのである。天界的な愛はそれとは異なっていて、自己のために他に善を為すことを全く嫌忌し、他の者の中に在る善のために善を為し、これを彼は主からから受け入れるのであり、従ってその善が発生してくる源泉である主御自身のために善を為すのである。

 

 

 

天界の秘義8928〔2〕

 

 先ず、霊的な教会に属している者たちは自分たちは光の中にいると信じてはいるが、しかし彼らは真理の神的なものについては明確ではなく、否、暗闇(の状態)に置かれていることは以下の事実から明白である、即ち、彼らは教会の言っていることが真であることを何ら内なる確認から知らないで、単に教会がそのように言っているという事実からのみ知っており、そのことをそれが誤っていようが、真であろうが、自分自身のもとで確認しているのであり、真理の神的なものを何ら内的に認識しない者は暗闇の中におり、または、それと同じことではあるが、彼には神的な真理は暗闇となっているのである。例えば、霊的な教会に属している者たちは聖言には何か内意が在ることを知らないし、また知ろうともしないし、何かのことでたまたまそれを信じるにしても全くそれはそれがそうであると内的に認めているからではなく、何か他の源泉から説得されてのことなのである。

 

 

 

天界の秘義8928〔3〕

 

 他の例を考えられたい、霊的な教会に属している者たちは信仰は救いの唯一の手段であり実に仁慈とその善が無くてさえも、その手段であると言うのである。このことを彼らは教会がそのように言っているために信じるのであって、仁慈の在るところ以外のところには信仰は無く、一方は他方に、丁度配偶者が配偶者に属しているように属しており、従って仁慈は、それが善から生れているため、教会の本質的なものであることを認めるといった認識の光に浴してもいないのである。このことからもまた霊的な教会はいかような不明の状態の中に〔明確でない状態の中に〕またはいかような暗闇の中に置かれているかが明らかである。それで彼らはそうした暗闇の中にいるため、信仰の真理について抱かれる多くの色々な教義と同数の諸教会に教会を分裂させているのであり、そうしたことは、もし彼らが光の中にいるなら行いはしないのである。なぜなら光の中にいる者は、主に対する愛と隣人に対する仁慈とは教会の本質的なものであり、その上に聖言の真理がすべて、従って信仰の凡ゆる真理が基礎づけられていることを決して疑いはしないし、ましてやそれを否定はしないからである。そのことに依存して、信仰の諸真理と呼ばれている他の凡ゆる真理についても同じことが言われるのである。(しかしこれらの事柄は更に明らかに前に示したところである、2708、2715、2831、2849、2935、2937、3241、3246、6289、6427、6865、6945、7233番。霊的な教会に属している者たちは知恵の最初の入口にさえも、または天的な教会に属している者たちの浴している光の最初の光線の中へさえも到達はしないことについては、2718、3833、6500番を参照されたい)。

 

 

 

新エルサレムの教義318

 

 祭司は人々に教え、彼らを真理によって生活の善へ導かねばならないが、それでも何人をも強制してはならない、なぜならたれ一人その心から真であると考えるものに反したものを信じるように強制されることは出来ないから。祭司の信じていることと異なったことを信じてはいるが、何ら騒ぎを起こさない者は安らかに放任しておかねばならない、しかし騒ぎを起す者は分離しなくてはならない、なぜならそのことは祭司職が確立されている目標となっている秩序に属しているからである。

 

 

仁慈の教義27(5)

 

「人間が行う善が仁慈の善となる以前に、悪は先ず、それが仁慈に反しているため、遠ざけられねばならない(そのことは悔改めにより行われる)」悪は、それが遠ざけられるためには、先ず知られねばならないからには、そのため十戒が聖言の最初のものであったのであり、全基督教世界においてもまた教会の教義の最初のものである。凡ての者は悪を知って、それを行わないことにより教会へ入れられるのである、なぜなら悪は神に反しているからである。

 

 

新エルサレムの教義325

 

 国の法律に従って王に服従しなくてはならない、またいかような方法によっても、行為によっても、言葉によっても王を害してはならない、なぜならそのことに公共の安寧はかかっているからである。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P463/121・10

 

わたしたちは皆兄弟です。また、愛は言葉ではなく、行為で証すものです。同類に心を閉ざす者はカインの心の持ち主です。愛が無い者はの命令に対する反逆者です。わたしたちは皆兄弟です。にもかかわらず、わたしは、そしてあなたたちは、家庭内部―等しい血が、血肉をもっても、アダムからわたしたちに由来する兄弟関係を再確認するところ―においても憎しみと摩擦があるのを見ています。兄弟たちは兄弟たちに対立し、子たちは両親に対立し、配偶者たちは互いを敵視します。

 しかし常に邪な兄弟たちにならないために、またいつの日か不倫の夫婦にならないために、人は、六歳から十一歳くらいまでの幼年期から世界で最小の、だが最も偉大な組織、家庭に対する尊敬を習得する必要があります。一つの町、一つの地方、一つの国、一つの大陸という機構に比べれば一番小規模の機構です。しかし最も古いがゆえに最も偉大なのです。なぜなら、祖国とか国家とかの概念がまだ存在しなかった時に、によって制定され、しかもその時すでに生き生きと活動する核家族であったし、種族へ種族へと湧出する水源であり、そこでは男性が王であり、女性は女王であり、臣下は子供たちである小さな王国です。一つ屋根の下に住む者たちの間に分裂や仲違いが生ずれば、小さな王国は継続するでしょうか? 継続できません。実は、もし従順、尊敬、調和、善意、勤勉、愛が無いなら一つの家族は永続しないのです。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P229

 

「もう、こんなことをしてはならない。あなたたちにとって、別々になるのはよくない。私が皆一緒にいるようにと言うのは、互いに支え合う必要があるからです。あなたたちは一人では何でもできるほど強くない。一緒にいれば、互いに支え合うこともできるし、抑えもできる。別々にいると・・・」

 

「先生、ユダに一人で行くように言ったのは、私でした。あなたは皆一緒にベタニアへ行けと仰せられたので、そうするつもりでしたが、ユダが訳あって我々から離れました。我々も彼と一緒に行けばよかったのですが、そこまで考えませんでした。すみません」と率直にバルトロメオが謝る。

 

「もう済んだことだが、繰り返して言います。もう別々になってはなりません。従順を守れば、少なくとも一つの罪は避けられます。自分でできるという過信に落ちてはなりません。悪魔はあなたたちに何か罪を犯させようと狙っている。もはや、こんなにあちこちから責められている私に、もっと損害を与えようと、狙っています。私にとって、また私が作ろうとする団体にとって、ますます困難な時が近づいています。だから私が、傷を受けたり、殺されたりしないように注意しなさい。私は世の終わりまで殺されることはないが、泥で汚されることはありえます。敵はあなたたちを見張り、すべての行為や言葉に聞き耳を立てています。それは私について、悪口の材料を集めようとしているからです。あなたたちが分かれて、口争いやけんかをしたりして、隙を見せるなら、彼らはそれを拾い上げて好きなように混ぜ合わせ、それを泥のように、私と今生まれつつある団体に投げつける。私はあなたたちを咎めはしないが、あなたたちがよくなるように助言します。友よ、彼らは上面の正義を振りかざして、何が何でも私を訴えようとしている。これからは、もっと従順になり、賢明に行いなさい」

 

 

 

 

4.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1979.2.11

 

 イエズスが、あなたがたを愛してくださったように、あなたがたは、あいたがいに愛し合いなさい。そうすれば、あなたがたが、心をひとつにすることができるでしょう。一致こそ、愛の完成なのです。

 

 

 

聖母から司祭へ1979.2.11

 

 私の敵は、今は、この教会の神的特権の光を自分の煙で暗くするのに、成功しています。

 内的なこの分裂は、信者自身のあいだにも、あらわれてきたのです。でも、信者の場合、たいていは、真理をよりよく守り、人々により広め、告げ知らせようという努力から分裂を起すことが多いのです。その結果、自ら真理を裏切ることになってしまうのです。

 というのは、私の子の福音は、分裂をもたらすことは、ありえないからです。

 この内的分裂によって、ときには、司祭は司祭に向かって、司教は司教に向かって、カルディナルはカルディナルに向かって立ち上がり、対立を生じるのです。こんにちほど、サタンがかれらの間に割り込んできたことは、かつてありませんでした。こうして、サタンは、かれらあいたがいの貴重な愛のきずなを断ち切ってしまったのです。

 

 

 

聖母から司祭へ1984.8.15

 

 わたしの敵は、家庭にも修道会にも教会にも、どこにでも、人間の社会全体に分裂をもたらします。

 こんにち、お互いに理解しあい、納得し合うことがなんとむずかしくなっていることでしょう。

 

 

 

聖母から司祭へ1996.2.22

 

―地獄の力が勝ち誇ることはない。悪魔が、わたしの御子イエズスの神秘体である教会の一致を粉々に砕いて、分裂や教義の分離など深い裂傷の種を蒔いて暴れ回ったにもかかわらずです。何世紀にもわたって、カトリック教会から分離した様々なキリスト教派は、キリストから望まれ、御父から熱く嘆願された教会の一致に対抗する反逆者の勝利を代表します。今、これら全ての間違いを、和解と教会一致運動の道を歩むことによって償おうと試みられております。しかし、カトリック教会の中における全ての教派の再構成は、世界におけるわたしの汚れなき心の勝利と共に実現するでしょう。

 

 

 

 

5.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P80

‘88・12・3

 

♡ 私を愛する者は 我が愛のうちに成長してゆき、一方彼らは私を愛するよう 他の者たちも連れて来れるようになる ♡ 我が聖心は愛の炎で燃え立ち その深淵に皆を引き入れようと切望している。 愛に渇く。 あなたに求めるのは愛のみ、愛は有徳の木の根だから。 来なさい、私と和解していないすべての者たち、来なさい、来て和解し 私自らの平和を受けなさい、来て 我が愛を共有しなさい、まだ私を理解していない者たちよ 来て、私と和解しなさい(ヨハネ14・27)、来て 愛と和解しなさい ♡ 私、あなたの主イエス・キリストは あなたに我が光の子となってほしいと願っている、そう、私を尊ぶ 平和と愛の弟子となって、

 

ああ 主よ! ほかのどの時代もそうですが、迫害されるでしょう!

 

分かっている 我が子よ、心がまだ閉じたまま 心ではなく頭で判断する人びとによって迫害を受ける者もあろう、しかし恵みにより、この人びとの多くも 我が聖心に引き寄せる。 小さな花たちよ、勇気を、傍らにいて 目をあなたに注いでいる、怖れないように、我が平和と愛のメッセージが北から南へ 東から西へと広がって行くのは 私の望み、私を信じなさい、秘かにあなたの時代のために それを準備してきた ♡ メッセージの中で 我が教会が一つになることを求めている、父と私が一つであるように、我が教会も一つとなり、皆が一致して一つの群れとなる必要があるためである。 守護者として 我が再臨まで真理のうちにあなた方を護るようにと ペトロを選んだ、しかし人びとは私に背き、分裂し、自分たち自身の規則を布告した。 真に言っておくが、我が−仔羊たちの−ペトロ、今はヨハネ・パウロ二世である、ペトロに反対する人びとに耳を傾けてはならない・・・ 私に選ばれ 我が霊魂に愛された者だからである、彼を貶める者たちの声を聞いてはならない、道を逸れてしまったからだ。 愛する者たちよ、あなた方が最近分裂した時は、私の一部が引き裂かれた、そう、我がからだの一部を引き裂いたとは知らずに、ああ 我が愛する者たちよ・・・ これは私にふさわしい仕打ちか? ・・・ なぜ我が心を引き裂くか?・・・ なぜ我が眼をさらに多くの血で満たすか?(*)・・・

 

  苦しみの極みにあるイエスの肖像が現れました。御眼は血が溢れ、固まってその周りにこびりついています・・・

 

ちょうど、自らの友により不具となってしまった、乞食のようにして、懇願する、皆ペトロのもとに立ち帰り 一つとなりなさい、父と私が一つであるように ♡ 母を拒むすべての人にも呼びかける(*)、耳を開いて聞くように、母は天の元后、神の母と呼ばれている。 知らなかった人びとを非難してはいない、真理に連れ戻そうとしているだけだ。 この世の改心のためにも呼びかける、私の全能を忘れてしまった人びとは 私を自らと比較しないように(**)、皆に思い出させているが、あなた方は時の終わりに生きている それで我が印も増えてきた・・・ 聖書が成就されつつある・・・ 私は平和と愛、私、あなたの主イエスは 慈しみに満ち溢れ、そう、我が慈しみは偉大。 我が慈しみを信じなさい、それでもなお、私が義の神であるのを決して忘れないように。 私の送る浄めは、愛によってなされる。 これを誤解したり 解釈を誤って 神からの脅し とは呼ばないように、脅しからではなく、愛を込めて警告している。 子に注意を与え、道理を説いて、家に帰らそうとする父親のように、私も、道理を説き あなた方のある者たちが いかに誤っており 道を逸れているか、罪によって我が光を妨げ得るかを 示そうとしている。 多くが深い眠りに陥っているために、起こしに来た。 我が限りない慈しみを通して、死者を甦らせに 皆のもとを訪れよう、あなた方皆に抱く限りない愛ゆえに、悔い改め 生き方を変えて 聖となるようにと、来て頼んでいる、私は聖であるから、聖なる生き方をしなさい ♡ 私の平和を与える、あなたが平和のうちに留まり 兄弟にもこの平和を分け与えられるように ♡ さあ 来なさい、この一年の終わりに当たって 祈りのうちに気を落ちつかせていなさい、来て 主である私があなたを愛するように 互いに愛し合いなさい。 あなた方一人ひとりに 祝福を与える ♡

 

 *プロテスタントの人びと  **今日の神の御わざを理性で推し量ろうとする人びと。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P89

‘88・12・20

 

♡ 我が子よ、私を捨て去り この世の富だけに捕えられている 兄弟たちのために祈りなさい、我が十字架を恐れる 失われた霊魂たちのために祈りなさい・・・我が教会が一致し 一つとなるように 我が子よ 祈りなさい、どの司祭も私、主が、この一致を望んでいるのを 理解するように ♡ いかなる分裂も 私からではなく、敵から来ている、我が王国は唯一 聖であるべきもの ♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻Pviii

 

ヴァッスーラ:そうですね、マリア様からの強い一致の呼びかけがあります。そのメッセージをお読みする前に、一般的な「一致」の解釈には同意できないと申し上げたいのです。ギリシャ正教では時々、兄弟のローマ・カトリックが、ギリシャ正教になるなら一致が実現すると言います。そしてカトリックでは時々、皆がローマ・カトリックになるのを期待しています。これが人間の考え方です。天国ではこうした考え方ではありません。天国では一致を、一人ひとりの心のうちに築くものと見ています。私は今でもギリシャ正教です。ギリシャ正教徒のままです。ギリシャ正教を実践していますが、カトリックの兄弟のもとに行っても壁をつくりません。この方がたの教会に行きます。イエスはどこへでも私をお遣わしになるのです。ギリシャ正教のもとだけでなく。心のうちに、心をもって一致すべきです。

 今は廃墟となっている教会の上に、イエスが建てると仰っている教会について、それは、いわば分派のように、全く新しい教会を造るのではなく、「初代教会に似せて、唯一であり 一致し、愛と謙遜という基礎の上に築く」と言っておられます。 ― 互いを受け入れ、イエスに向かって一緒に、祈りを捧げるのです。

 

 ではマリア様が話しかけられておられる箇所を読みます:

「反逆は兄弟の間で一致を妨げます。心の不誠実は神の杯をさらに満たしていくことになります。彼らは我が子のからだをねじ曲げ、分裂させ、手足を切り落し、麻痺させてしまいました。思い出させましょう あなた方は皆 主を通して、唯一の霊のうちに、御父のみもとにいたる自分の道があるのです、ですのに我が子の名のもとに 別れたままでいます。一致と平和をあなた方は口にしますが、それを実践する人びとに対しては罠を仕掛けます。神は欺かれません、あなた方の理屈に納得もされていません。

 神の国は口にのぼる言葉だけにとどまりません。神の国は 心のうちにある愛、平和、一致と信仰、それは心の中で一つに一致している主の教会なのです。一致の鍵は愛と謙遜です。イエスはあなた方の分裂をお勧めになったことはなく、ご自分の教会の分裂は イエスのお望みではありませんでした。心と声をもって一致し 我が子の初代教会を心の中に再び築いて下さるようにお願いします。我が子の初代教会と申しているのは、その教会が愛、素朴、謙遜と、信仰に基いていたからです。改めて新しい組織を造り上げるのではなく、心の中の組織を造り直すようにと申しています。心の中にある古い煉瓦、不一致、不寛容、不実、赦しの拒み、愛の欠如という煉瓦を壊して、我が子の教会を 和解によって造り直すのです。非常に大きな霊の貧しさと 溢れるほど豊かな寛容が 要求されます、そして屈まなければならないと理解するまでは、一致できないでしょう。」(ノート54、‘91・9・23)

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P23

‘89・10・25

 

♡ 主への愛 そして兄弟への愛を通して主の王国をひろげなさい、悪を愛で返し、人生が愛に主導され、愛があなた方の根となりますように。 自分の考え方に警戒しなさい、互いに裁かないように、あなた方のやり方は主のなさり方とは違うのです。 他への批判はさしひかえ 謙虚さによって主をお喜ばせなさい、神の愛はあなた方の最も小さな者たちにさえ 明かされています。 愛する人びとよ、家に帰っても私どもを後ろにおいて行かないで下さい、一緒に連れて行って下さい。 私どもの聖なる現存を感じるようになり、「私」の代わりに「私たち」と言うようにして下さい、皆を祝福します、主が望んでおられるように、一つとなりなさい、天国では一つなのですから 分かれていないように ♡ 平安のうちに 平和の中で暮らすように ♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P218

‘91・10・7

 

私の十字架を預けた。 この十字架はあなたを聖化し 救うであろう。 愛をこめ身を低くして それを担ぎなさい。 絶え間なく私の名を呼ぶように。 あなたの使命は、我が子よ、愛を証し 愛と忠実さが欠けているさ中で私の至聖を示すこと。 恐れずに前へ進み 私の言霊となるように ♡ 歓びと、熱意をもって証しをし、愛のために 愛をこめて証しするように ♡ 敵があなたを突き刺すたびに、歓びなさい! あなたの傷をすべて捧げなさい 私が直ちに癒す。 私を求めて目を上げるたびに、慈しみ豊かな私の心は答えるであろう。 あなたは私がもらい受け、養い育てた子ども。 人を怖れることはない。 あなたを破滅させはできない。 まもなく自由にする。 それまで、我が一致の十字架を持って歩き、私に栄光を帰しなさい。 真理 そして私自身が設立した唯一の教会を

             擁護する者

となりなさい。 すべての国に行って、あなた自身を紹介しなさい ♡ 私の聖なる名のもとに 平和と唯一の教会を望んでいると伝えなさい。 自分の公正さを主張し、分裂したままでいる者は、自らの育てた実を食べて滅びると伝えなさい ♡ 偽善的な心をいかに忌み嫌うかも知らせなさい。 その儀式や議論は私を疲れさせる。 ふんぞり返った頑な態度には背を向けると伝えなさい。 その判断は人間の目には見事で印象深く映るかもしれないが 私にとってはそうでない。 腐敗しかけている瀕死の教会を喜ぶことはできない。 聞きたい者に伝えなさい:

     自分の声を低くしなければ、私の声は絶対聞こえない。

声を低くするなら、私の声が聞こえはじめ、我が意思を行うであろう。

私は唯一であるのに、それぞれが自分のキリストをつくり上げてしまった。 私は我がからだの頭(かしら)であるのに、見えるのは、私のでなく、彼らの頭ばかりだ。 頭を下げるように言いなさい そうすれば私の頭が見えてこよう。 身を低くするように伝えなさい 私のもとに引き上げることができるように ― この人びとの前で震え上がらなくてよい、我が子よ。 私に忍耐があるように忍耐を持ちなさい。 そばにいて謹んでいなさい。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P17

‘99・2・5

 

御父はこの上なく気を損ねておられる。 地上はあとどれほど分離し引き裂かれているのか? 我が教会はいつまで分裂し反逆しているのか(*)? 御父の霊は 私に仕える者たちの多くに絶え間なく冒涜され ばかにされている。 この世代にはまだ 天が騒然とするのが聞こえてこないのか? あなた方はまだ 至高なる天で聖人たちが嘆くのを聞いていないのか?

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P123

‘00・9・28

 

英知によって建てられ、尊い聖血で買い取られた家があった。 突然 サタンが復讐に立ち上がって それを壊そうとした。「この破壊のわざを行うために誰を送ろうか? もちろん、野獣とその手下を送って 破壊し 分裂させ、聖なるものを瀆(けが)して取り壊そう・・・」

 

災禍が訪れたとき、私が救い出しに来た、しかし教会の高官たちは、誰も まじめに、聞こうとはしなかった。「それは単なる 個人的啓示にすぎない、耳をかさなくともよい。」彼らはこう言った。

 

私の声を隠すのは 大罪。 私をとことん篩(ふる)いにかけて こと細かく調べるのは 私の眼差しには 忌むべき罪。 あなたの猜疑心は いつの日かこう言うだろう、「しかしごらん下さい、私たちは知りませんでした。」実に 私の慈悲に あなたは背いた。我が慈悲に背いただけでなく、その懐疑によって、悪の力に地歩を与え 我が独り子が自らの尊い聖血で 買い取った家を荒廃させた。 そして何と!その猜疑心を正当化するために 我が言葉を何と巧みにあやつることか!

 

私の玉座を あなた方は奪ったことに気づかないのか? 人類全体の敵になろうとしているのが分かっているのか? 我が預言者たちを通して与えている言葉の価値を阻害し 減じているあなた方は 預言者たちが私の意思を我が民に宣言し 我が独り子の家を一つに集めて 一致させる障害となっているではないか?

 

「ヴィジョンがなければ 民は堕落する。 教えを守る人びとは 幸い。」(*)

 

*箴言の書29・18。「ヴィジョン」とは恐らく預言の賜、「教え」とは預言者たちの教え、あるいは掟のことでしょう・・・

 

  あなたにこう呼ばわった方のために 祈っています:

  「太陽のもとに費やした

 あらゆる努力に絶望し果てた・・・」

 

では こう彼に言う、「あなたの労苦は 無駄とはならない。 重い罪であるこの分裂を 私は喜んでいない、だが一致の実現は手が届かなくはない。」 たくさんの歪んだ言葉が 多くの心から発せられよう、しかしその間 私も呼びかけているではないか? 気落ちしたときは、私のほうを向きなさい・・・

 

「私の僕たちは み言葉をもって形造られる」と我が霊は ダビデに語った。 そして彼らの話と口にする言葉によって あなたは彼らを見分けよう。 この時代は やせ衰えている、そこで これほどの背教に私が介入しないでいられようか? 略奪者が 聖書を好き勝手にして、私どものぶどう畑を荒廃させている それはあなたも知っていよう。 わたしは介入しないでいられようか? 見よ! 我がアベルたちは 沙漠で嘆き悲しんでいる。 どの預言者をも迫害する、エルサレムの、頑な心に 我が独り子が激しく泣いたように 我が平和の使者たちも あなた方の頑な心に 激しく泣いている・・・

 

  いつまでですか、主よ?

 

彼らがこう叫ぶようになるまで:

「主の名によって来られる者に 祝福があるように!」と(*)

 

 *マタイ福音書23・39

 

そしてあなたには、ヴァッスーラ、言っておく、あなたを形造り あなたを通してほかの者たちをも形造った我が言葉を忘れず 大切にするなら 私はあなたのうちに悦びを見いだす。 我が計り知れない宝と 我が言葉の驚くべき不思議を 観想できるよう 目を見開いていなさい。 私の栄光を 観想することは、我がヴァッスーラ、あらゆる神学にまさると 言ってきた。 ああ、この世で 神のうちに分け入り その現存をたのしむ以上のことがあろうか?至高の神なる、私を見る以上に 素晴らしいことがこの世にあろうか? 荘厳と権威をまとう者が あなたに語りかけている。 私は超越し 栄光の高みで君臨するゆえ永久に眼差しを高くあげていなさい そうするなら救われよう。

 

今の世代に このことを教えつづけるのです。 行って 私のわざを宣べ伝えなさい この世代が私に心を開き、私もまた、この世代に向って美徳の門を 開けるよう。 教会を護る羊飼いに叫んで こう尋ねなさい、「私たちの主の甘美と全善を どなたか 味わった方はいらっしゃいますか? 教会に 神の知識に秀でた方が どなたかいらっしゃいますか?」

もし最初の質問に「はい」と答え 二つ目の質問に「いない」と答えるなら、では、どうして私を迫害するのか? 私が懇願すると あなた方は非難した。 私はあなた方の上に慈しみを輝かせながら 訪れた、しかしあなた方が私に差し出したのは 尊大さと敵意だった。 私は扉を叩いたが、あなたは戸を開けないばかりか 窓の錠がかかっているかどうかを確かめた。 あなた方は主に いかなる場所も割(さ)かなかった。我が集会でしたあなた方の説教や 私に捧げた流れるような言葉を 私は今讃えるべきか? これらの言葉はすべて空の空であるがゆえ。 あなたは 何の目的に仕えているのか? 病いに倒れないうちに 身を低くしなさい。 我が言葉を あなたの教育係り、助言者 そして悦びとしなさい。

そうするなら 生きよう・・・

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P146

‘00・1・20 教会一致週間

 

主よ、どうしてこれほど多くの目を 御わざにたいして見えなくさせておられるのですか? 彼らが悔い改めと和解を 頑なに拒むからでしょうか? お教え下さい、そしてご意見を仰って下さい・・・

 

ああ、我が子よ・・・私の意思とは 我が霊の光の中で あなた方が愛をもって働くこと! 今日 私の霊はこれまでよりいっそう 我が羊飼いたちが和解するようにと叫ぶ。 救われるには、誰もが悔い改めて 和解しなければならない。 それぞれの羊飼いが 自らの道を吟味するように。「人生の各瞬間に、御父と私と聖霊が注いできた溢れる愛を 思い巡らしなさい、羊飼いよ・・・」

 

ああ、娘よ、あなたに任じた使命がいかに困難を伴うか 私が気づいていないとは思わないように。 我が家を一致させるのはたやすいことではない、まして生き返らせるのは! しかし元気を出しなさい あなたは一人ではないゆえ。 私が共にいる。 あなたのうちに私の計画を見いださない人びとに落胆しないように、「私たちは見えている」という人たちからは視力を取り上げ、見えない人たちに視力を与えた。 世の人びとにとって一致の模範となり、あなたの犠牲を通して、兄弟たちに和解をもたらしなさい。

 

サタンは率先して 我が教会に戦いを挑んだ。 暴力によって 私が自らの聖血で贖ったものを攻撃している。 真理と我が掟を宣言する すべての忠実な心を呪い、我が教会を分裂させておく。

 

教会に属するあなた方の多くは今日 略奪者だ。 聖体のうちに我が体を認めず、私が真に制定したやり方で我が聖なる秘義に与るのも拒んで こうして略奪している。 聖体のうちなる我が神性と現存の荘厳を評価するとなるや あなたは私の家から略奪している。 ほかにもさまざまな仕方で我が家から 奪い取っている。 聖書は決して偽りがなく否定し得ない、だがそれをあなた方は部分的に否定し、そうしたやり方でも奪い取った。 我が教会では、私は教会を豊かにしようと使徒を与え、預言者たちと教師を育てて与え、そのほかにも、奇跡や癒しをはじめさまざまな賜を与えてきた。 しかしあなた方は我が家を略奪し、今日そこから持ち去っている。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P195

 

羊飼いたちは分裂し、互に反目し合っている。 その霊的いのちを衰えさせている そしてもしいまなお我が家のために熱意をもって 十字架を進んで担う者がいたら、この者たちもこうした罪人たちに迫害されよう。 彼らは私の跡をきちんとつき従っていると言えようか?「はい」と言うなら、どうして分裂しているかを説明しなさい。 分裂は罪。 勿論 次の意味を知っていよう、「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果て、どんな町や家でも、内輪で争えば立ち行かない。」

 

信仰の明確な印が彼らのうちには欠けている、もはやそこには 愛がない・・・

 

たとえこの分裂が 直接彼らにはよらず先祖からのものだったとしても、彼らは地下に由来するこの火を煽り 生かしている。 そこで今や、我が羊飼いたちには悔い改めを求める、私に 真の回心を捧げ、この巨大な力をもって、変容が起るのを、許すよう求める。真の回心とは 霊魂を闇から光へと導き入れる門 ♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P199

 

私は 我が家とその家族の護り手。 我が家が引き裂かれてしまったのを 苦悶のうちに眺めている。 読んだか? 「両手がだらけていれば屋根は漏り 両腕が怠けているなら梁は落ちる。」我が家は 疎かにされた。 どの家も 誰かが買うもの。 わたしは自らの血潮で我が家を買い取った。 あなた方が一つになるようにと御父に祈る時 どうしてその懇願の声に誰も耳傾けてはくれないのか? 従順を示して、今日、我が呼びかけに応えていたなら、一つの祭壇を囲んで 一つの杯を分かち合っていたであろうに。

 

  ああ 主よ、最大のお望みは一致することだと 私に話しかけておられるのを

  本当に信じている人が どれほどいるでしょう?

  一致して 皆で一つの祭壇を囲み

  一つの杯を分かち合うことだと。

 

彼らは心を開かねばならない そうするなら信じよう・・・

 

  ああ キリストよ、自ら「分裂をもたらす者」の道具となり

  あなたのお体を引き裂いたかも知れないと

  私たちが気づくまでに その尊いお体は あとどれほど刺し貫かれて

  散り散りにされなければならないのでしょう。

  私たちはそのつもりもなく 不注意にもそうしてしまいました。

  あなたの教会と呼ばれている 本当に尊い破片を見つけだし

  保てますように お助け下さい。

  再び一つに戻せますように。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P200

‘01・12・10

 

ああ キリストよ、自ら「分裂をもたらす者」の道具となり

あなたのお体を引き裂いたかも知れないと

私たちが気づくまでに その尊いお体は あとどれほど刺し貫かれて

散り散りにされなければならないのでしょう。

私たちはそのつもりもなく 不注意にもそうしてしまいました。

あなたの教会と呼ばれている 本当に尊い破片を見つけだし

保てますように お助け下さい。

再び一つに戻せますように。

 

もし 一致を妨げる否定的な障害物を、聖書によれば 彼らの信仰と愛と礼拝の一致の成就に敵対する障害物を 諸教会が乗り越えられるなら、私は 全世界に平和の時節を解き放つという我が約束を 忠実に守る。この平和は どの人をも我が神秘体に引き寄せ、神なる御父への祈りの中で私があなた方皆に与えた言葉を成就させよう。その祈りは:

「どうか、すべての人を一つにして下さい。 あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、彼らも私たちの内にいるようにして下さい。 あなたが私をお遣わしになったことを、この世が信じるためです(*)。」

我が神聖な唇より発せられたこの懇願は いまだ天より毎瞬 こだましている。

 

我が言葉は 調印による一致ではなく 全被造界を霊的な一致へと促す意図で発せられた。 我が言葉を成就させるには 謙虚と愛、すなわち聖霊によって そして大きな悔悛を通して得られる恵みを 諸教会がまず探し求めなければならない。

 

 *ヨハネ福音書17・21

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P208

‘02・1・7

 

ああ、谷間に海に そして山々に放たれるはずだった 御父の悦びよ! 傲慢で 横柄な者たちを踏みつけ その浮かれ騒ぐ物音を鎮めて 黙らせるために、造られた者よ。 あなたは 我が杯を示したときに こう言った、「イエスよ、それを飲ませて下さい、こうして お慰めできる何であっても 捧げます。」そのときこの捧げ物に 心打たれ悦んだ私は あなたの方に身を屈め 抱擁した。 腕に 小さな水仙を抱きかかえた。 やっと生まれ出で やっと健康を取り戻したばかりだが、それでも心がこもっていた。 あなたのひ弱さは一度ならず また世界中の誰よりも 私の涙をさそった! あなたは、ここに生まれたばかりなのに もう自分の意思を放棄し 霊魂と体を、ためらうことなく、私に捧げていた。 何よりも、祭壇の前に自らを投げ出して、その小さな手を我が杯へと勇敢にも伸ばし そこから飲もうと我が杯を口まで持ち上げた!

 

あなたが決意して 祭壇の方へ決然と走り寄るのを私が見たとき、天から大きな響きとなって、歌う声が聞こえた、「アレルヤ!彼女を征服した主に 栄光!」このあと、私は あなたの唇に杯を持ち上げ 中身を味わうだけで 飲みほさないようにと命じた。 私はこう言った、「私のもとに 我が民を連れて来なさい そして共に一つの祭壇を囲むように。 私の名を尊び 信仰の従順をすべての国たみに 教え諭しなさい。 分裂にとどまるのが いかに愚かであるかを示すように。 いつまでも あなたの傍らにいる。」

 

 

 

ランプのあぶら1・『花むこから花嫁への呼びかけ・ヴァッスーラの証の記録』P132

 

 私どもの分裂は罪であり、世界のほかの人びとを前にしてスキャンダルです。分裂がいかに悪いかをどうやって理解していただけるでしょう!! それは残酷さの具現! サタンそのものです!

 

 

 

ヴァッスーラ/天使館/天使のたより2号/P2〜4

 

何故私たちは罪の中にあるのでしょうか? そもそもキリスト教が各派に分裂、分離していること自体が罪なのです。

 

現在の教会間の分裂は、直接私たちに起因せず私たちの祖先にその原因がある訳ですが、それでも私たちは有罪です。何故なら、その分裂をそのままにしていることは、私たちがその分裂状態を温存、維持していることにつながるからです。

 

私たちキリスト教徒が分裂しているかぎり、休むことなく非キリスト教化の道をたどるか、いつも過ちに陥っているかのどちらかなのです。

 

 

 

ヴァッスーラ/天使館/天使のたより4号/P12

 

 悔い改めが、魂を暗闇から光へと導く入り口です。したがって、今日に至ってもまだ私たちが分裂し、ばらばらである現状を考えますと、私たちが光の中を歩んでいるとは言えません。私たちは皆、神の子供ですから、神の前で皆平等なのです。

 

 

 

ヴァッスーラ/天使館/天使のたより4号/P13

 

それぞれの教会は、自ら進んでエゴと頑なさに死ぬべきであり、そして感情に流されないこのような死を通して、キリストの現存が教会の中に生命を持つようになるでしょう。それぞれの教会は絶えまない悔い改めを通らなければならず、それによって過去と現在の失敗をぬぐい去るキリストの人類への神聖な愛に結びつくことができるでしょう。この謙った行いによって、一致が実現されるでしょう。聖書はこうおっしゃっています。「主のみ前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」(ヤコブ4・10)

 

 

 

ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P183

 

 ヴァッスーラ:

私たちの分裂は罪です。分裂は神からのものではなく、「ディアボロ」からのものです。この言葉はギリシャ語では、分裂をもたらすものを意味していて、訳せば悪魔のことです。まず教会の一致の問題ですが、これについてのイエスの最大の願いは―それは一致のための鍵でもあるのですけど―謙虚さと愛とによって、復活祭の日付けが統一されることです。1989年の10月26日にイエスは私をお呼びになり、頭に付いた三本の棒を描くようにおっしゃいました。そこで私はイエスに言われたとおりに、三本の鉄の棒と頭を描きました。イエスは私に、三本の鉄の棒はローマ・カトリック教会、東方正教会、プロテスタント教会を象徴しているとおっしゃってから、これらの教会がたわみ一本になることを望んでおられるともおっしゃいました。

「でもこの三本の棒はまだ頑なだから、自分たちだけでたわむことはできない」。「だから私は、私の火をたずさえて三本の鉄の棒のもとへ赴かねばなるまい。炎の力で棒たちは柔らかになりたわみ、溶解して、堅固な一本の棒になるだろう。そして私の栄光は地上全体を満たす

だろう」。

 

 

 

ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか―現代の預言者ヴァッスーラに聞く/P214

 

ヴァッスーラ:時折、夫婦の調和と一致に関するメッセージをいただくことがあります。今離婚が多いのは、家庭に神が不在だからです。家庭を築き上げている夫婦が神に結ばれ、神において結ばれていれば、別れたりはしないでしょう。なぜなら、不和は神からのものではないからです。ギリシャ語の「diable」という言葉は、分割する者を意味します。

神を中心にすえた家庭は、子供の宗教教育には理想的な環境です。それは理想の家庭でしょう。残念なことに、そううまくはゆかないものです。私自身の家庭でも、私が回心する前は、理想どおりにはゆきませんでした。今になって、わが家の家庭不和は、結局のところ神の不在のせいだったということに気が付きました。

 

 

 

 

6.マーリン・キャロザース

 

 

マーリン・キャロザース/モアパワー/P56

 

 混乱は、すべての人、すべてのものに関して、私たちを取り囲んでいます。私たちが気を緩めると、サタンは、一緒に住んでいる人、一緒に働いている人、ともに礼拝している人に対してさえ、悪い考えを持ち込んでくるでしょう。サタンは、家庭や教会を破壊するために混乱を用いるのです。分裂と争いの二つがサタンのお気に入りの武器です。

 

 

 

 

7.善は連結させ、悪は分裂させる

 

 

天界の秘義343

 

 羊の群を仁慈の善へ導く者は『羊の群を集める者』であるが、これを仁慈の善に導かない者は『羊の群を追い散らす』のである、なぜなら凡て共に集まり、一つになることは仁慈から生まれ、追い散らして一つにならないことは仁慈の欠如から発するからである。

 

 

 

天界の秘義4997

 

『神に向かって悪と罪を犯す』と言われているのは、悪は、また罪は、それ自身において観察されるときは、善から分離する事以外の何ものでもないためである。さらに悪そのものは分離[非結合]から成っている。このことは善から明らかである、なぜなら、善はすべて主に対する愛と隣人に対する愛のものであるため、善は連結であるからである。主に対する愛の善はその人間を主に連結させ、従って主から発出している善の凡てに連結させ、隣人に対する愛の善はかれを天界に連結させ、そこに在るいくたの社会に連結させるのであり、それゆえこの愛によりまた人間は主と連結するのである、なぜなら主は天界の凡ゆるものにおける凡ゆるものであられるため、元来天界と呼ばれている天界は主であるからである。

 

 

 

同4997[]

 

しかし悪の場合はその逆である。悪は自己への愛と世への愛のものである。自己への愛はその人間を主のみでなく、天界からも分離させるのである、なぜならかれはかれ自身をのぞいては何人も愛しないし、他の者は、かれがその他の者をかれ自身の中にみとめるかぎり、またその他の者がかれと一つのものとなっているかぎり、愛するにすぎないからである。そこからかれは凡ゆる者の注意をかれ自身に向けさせ、それを他の者たちからとくに主から外らせてしまうのであり、そして多くの者が一つに社会の中でそうしたことを行うときは、必然的に、凡ての者は分離してしまい、各々の者は心では他の者を敵視し、もしたれかがかれに不利なことを何か行うなら、かれはその者を憎悪して、その破滅を歓ぶのである。世への愛の悪もそれと異なっていない、なぜならこれは他の者の富と財産とをむさぼり求めて、その者にぞくしている凡ゆるものを所有しようと欲し、そこからまた敵意と憎悪とが生まれてくるが、しかしその度は(前の愛の場合よりは)低いのである。悪とは何であるかを知り、従って罪とは何であるかを知るには、自己と世への愛のいかようなものであるかを知ろうとつとめさえすればよいのである。そのことによりかれは悪の何であるかを知り、従って誤謬の何であるかを知り、またそのことから善の何であるかを知り、従って真理の何であるかを知るのである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P229

 

もう、こんなことをしてはならない。あなたたちにとって、別々になるのはよくない。私が皆一緒にいるようにと言うのは、互いに支え合う必要があるからです。あなたたちは一人では何でもできるほど強くない。一緒にいれば、互いに支え合うこともできるし、抑えもできる。別々にいると・・・

 

 

 

ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか―現代の預言者ヴァッスーラに聞く/P214

 

ヴァッスーラ:時折、夫婦の調和と一致に関するメッセージをいただくことがあります。今離婚が多いのは、家庭に神が不在だからです。家庭を築き上げている夫婦が神に結ばれ、神において結ばれていれば、別れたりはしないでしょう。なぜなら、不和は神からのものではないからです。ギリシャ語の「diable」という言葉は、分割する者を意味します。

 

神を中心にすえた家庭は、子供の宗教教育には理想的な環境です。それは理想の家庭でしょう。残念なことに、そううまくはゆかないものです。私自身の家庭でも、私が回心する前は、理想どおりにはゆきませんでした。今になって、わが家の家庭不和は、結局のところ神の不在のせいだったということに気が付きました。