自我人間自身のもの自己愛何者かであろうとする

憎しみ・憎悪怒り

 

 

 

1.悪魔的形

2.憎悪

4.悪の始まり・自分が何者かであると思う

6.悪が許される理由・・・悪は激発することを許されない限り、人間はそれを知らず

7.聖絶

8.口寄せ、霊媒

9.同性愛

10.人間が悪人になるのは

11.罪

12.悪を行ったことに対する不安

13.悪は分裂させる

14.悪は善に近づけないが、真理には近づける

15.善と悪

16.悪と誤謬の中にいる者は絶えず殺されはしないかと恐れている

17.悪が善のための道具に変わる

18.悪の持つ狂気

19.行為における誤謬

20.悪は善に近づくとき、苦しみもだえる

21.地獄から発している悪の流入の起原

22.地獄

23.生命の源泉、または主は、人間が悪と誤謬を考える原因でない

24.誤謬の悪

25.悪から発している悪

26.悪は善から認められることは出来るが、善は悪から認められることは出来ない

27.誤謬が悪と連結すると、その時は悪は誤謬によって激発する

28.悪い人間は神的なものに対して常に怒っている

29.悪は内的に真理を憎んでいる

30.神を信じない者は悪を罪としては認めないし、それでそれに反抗して戦いはしないし、むしろそれに加担する

31.悪は感染する・・・腐敗

32.悪の起源は本質的には人間の能力である自主性と合理性の濫用

33.善に接合されることが出来る誤謬

 

 

 

 

マラキ3・15

 

彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ。

 

 

 

1.悪魔的形

 

天界の秘義2363      

 

自己への愛と世への愛のこの生命の性質について(またそれと同一のものであるところの、誇り、貪欲、羨望、憎悪、無慈悲、姦通の生命の性質について)明らかな考えを得るために、たれでも才能のある人はその人自身でこれらの悪の中の何れか一つを人格化されてみられよ、または、もしできることなら、その人が経験と理性からその悪について思いつくことができる考えに応じて、その目の前にそれを絵に描いてもみられよ。そのときその人はその人が描写しまたは画いたものの力強さに応じて、これらの悪はいかに恐るべきものであるかを、またそれらは内に何ら人間的なものを持っていない悪魔的な形のものであることを認められるであろう。こうした悪に己が生命の歓喜を認める者はすべて死後このような形に実際なるのであり、その者らのその悪における歓びが大きければ大きいほど、益々その者ら自身の形は恐るべきものとなるのである

 

2.憎悪

 

天界の秘義1010

 

憎悪を抱いている者は仁慈を持っていないのみでなく、仁慈に暴行を加えるのである、すなわち、「血を流す」のである。憎悪には事実殺害が存在しており、それは以下のことから明白である。すなわち憎悪を抱いている者はその憎んでいる者が殺されることを何ものにもまさってねがっており、もし外的な拘束により抑えられもしないならば、彼を殺そうと欲するのである。

 

 

天界の秘義4836

 

悪は教会の善と真理とに対する反感と憎悪以外の何ものでもないからである。

 

 

4.悪の始まり・自分が何者かであると思う

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4P110

 

我が娘よ、人間の中で、どこから悪が始まるか知りたいか? その始まりは、人が自分自身を知るとき、つまり道理を分り始めるやいなや自分自身に「ぼくは、人物である」と言うときである。彼は自分が何者かであると信じて、私から離れて私を信頼しなくなる。それが原因となって、色々な善い原則の目標を見失うということが起こる。

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4P232

 

 我が娘よ、私の前や人々の前で、自分が何者かであると信じている人は、何の価値にも値しない。自分が無であると信じる人は、すべてに値する。私の前で一番になる人とは、何かをすることが出来、その力と能力をもっていても、それをしていないと信じる人である。この人は神から恵み、助け、そして照らしを受けるから行うことができるのだ。つまりこの人は、神の権能のおかげで働くことができるのだと言える。神の権能を自分自身とともに有している人は、すべてに値するのである。

 人間は、この神の権能のおかげで行動することによって、それはまったく異なった働きとなる。このような行動は、神の権能が有している光を伝承することだけをする。ゆえにもっとも邪悪な者も、気づかないうちにこの光の力を感じて、その意志に自分を従わせる。人々の前においても同じことが言え、他の人たちもすべてに値するようになる。

 反対に、自分が何かに値すると信じている人は、何にも値しないだけでなく、私の存在の前ではいまわしい者ともなり、何者かであると信じているこのような人たちが取る、見かけ倒しで欠点だらけのやり方は、他の人たちを馬鹿にすることにもなる。だから人々は、このような者を、嘲笑と迫害の目標として指さすようになるだろう。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P35

 

‘87・11・8

 

ヴァッスーラ 決して何者かであることを求めないように。 無のままでいなさい 達成する全ての聖なるわざは純粋に私のものであり あなたによるのではない

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P118

‘89・2・9

 

♡ 我が小さな霊魂たちは幸い、この者たちを特別に愛している。 小さく単純なままでいなさい、何者かになろうとはしないように、我が聖心の深奥に 忍び込めるよう 小さいままでいなさい。 幼児の−ような−信仰を持つ、子どものようでありなさい、御父はそれを喜ばれる ♡

 

 

聖母から司祭へ1973.12.19

 

 私の運動の司祭たち皆が、この偉大な仕事に準備されるため、どのような心遣いをこめて前以って私に選ばれ、教育され、形づくられたかを知ったならば・・・!

 最も取るに足りぬものであっても、彼らの人生におけるすべてのものには、的確な深い意味があります。そのため、めいめい、その存在の、茫然とするほどすばらしい本を、私と共に読む習慣をつければよいと思います。

 彼らに心の上智の賜を与えましょう。そうすれば自分に関するすべてのことに、どのような意味があるかを私と共に理解するでしょう。

 不可解だったたくさんのことの理由、苦しみの意味、見捨てられたことのわけ、倒れてしまったことの意味がみなわかるでしょう。ああ、私が特別に愛しているこの子供たちは、その人生において、どれほどの暗黒と煩悶の時を経験しなければならなかったことでしょう。

 でも、それは彼らにとって必要で実り豊かな時期でした。それは、私が彼らをいっそうわがものとするためであり、あらゆるもの、すなわち自分のものの見方、感じ方、いろいろのもの、良い結果、良い活動、成功などに、たやすく執着することから離脱させるためでもあり、また、私だけのものとなり、私のためにのみ生き、ただ私の望みだけを行うことを学ばせるためでもありました。

 自分は何もよいことはできない、たいした者ではないという印象を受けさせたかったのです。それで心の謙遜と幼子の精神という大きな贈物を彼らに与えました。私以外には何の支えも信頼できるものもなく、ただ私だけのものであるということを感じさせたかったからです。

 嘲笑され、踏みつけられた、私のこの可哀想な子供たちによって、私は大きな計画を実現するでしょう。

 

 

6.悪が許される理由・・・悪は激発することを許されない限り、人間はそれを知らず

 

スウェーデンボルグ/神の摂理251(ハ)

 

「自分自身と自然とを拝する者は、極めて多くの人間の殺戮とその者たちの財産の掠奪とを伴う戦争が許されていることを考えると、神的摂理に対する不信仰を確認する」。

 

神的摂理は戦争を生じさせない、なぜなら戦争は基督教的仁慈に正反対の殺害、掠奪、暴行、残酷、その他恐るべき悪を伴うから。しかし依然それは避けることはできない、なぜなら人間の生命の愛は、(アダムとその妻により意味されるところの―241参照)最古代の人々の時代から歪められて、他の者を支配し、世の富を所有し、遂には凡ての富を所有しようと欲するほどになったからである。この二つの愛は拘束することはできない、なぜなら人間は各々神的摂理により理性に従って自由に行動することを許され(71−99)、こうした許しなしには主は人間を悪から導き出し、かくして彼を改良し、救われることはできないからである。

 

なぜなら悪は激発することを許されない限り、人間はそれを知らず、引いては承認することができず、かくてそれに抵抗するように導かれることはできないから。

 

これが悪は摂理により抑えられることができない理由である。なぜなら、それが抑えられるならば、閉じ込められて、がんまたはえそのように拡まり、人間の生命的なものを凡ておかすからである。何人も自分が地獄にいることを知って、救われることを欲しないかぎり、主によりそこから引き出されることはできない。そしてそれは許しなしには為されることはできず、その許しの理由が神的摂理の法則である。これが大なり小なり戦争の起こる理由であり、後者は領主とその隣の者との間に起こって、小さな戦争と大きな戦争との間の唯一の相違は後者は国家の法律により拘束され、前者は国際法により拘束されていて、何れの場合にもその法律を踏み越えようとする欲望があるが、小さな争闘者の方ではそれを為すことができないが、大きな方は少なくとも或る程度はそれを為すことができるということのみである。

 

何故なら殺害、掠奪、暴行、残酷を必然的に伴う王侯の大きな戦いがその初期にもその進行中にも主により止められないで、何れか一方の争闘者の力が弱められて、遂にその者が死滅の危険に陥る時のみ止められることについては他に多くの理由が神的知恵の宝庫に貯えられている。これらの理由の中私に示されたものがあるが、その中には以下のようなものがある。

 

すなわち、戦争は凡てたんに世の事にのみ関係しているものですら、天界では教会の状態を表象していて、相応であるということである。これは聖言に記されている凡ての戦争に言われ、また現今の凡ての戦争に言われる。聖言に記されている戦争はイスラエルの子孫がアモリ人、アンモン人、モアブ人、ペリシテ人、シリア人、エジプト人、カルデア人、アッシリア人のような種々の民族と交えた戦争である。教会を表象したイスラエルの子孫が、その守ることを命じられた教令と法令とを犯し、それらの民族により意味される悪に陥ったとき(なぜならイスラエルの子孫が戦いを交えた各民族は或る特殊の悪を意味したから、)彼らはその民族により罰せられたのである。例えば、彼らは教会の聖い物を忌まわしい偶像崇拝により冒涜したとき、アッシリア人とカルデヤ人により罰せられたのである。なぜならアッシリアとカルデアとは聖物冒涜を意味したからである。彼らのペリシテ人との戦争の意味は「新エルサレムの信仰の教義」に見ることができよう(50−54)。同様の事が現今の戦争によりその戦争が何処で行われようとも表象されている。なぜなら自然界の凡ての出来事は霊界の霊的な事柄に相応し、霊的な事柄は凡て教会に関係しているからである。この世では何人も基督教世界の如何なる国がモアブ人とアンモン人にどれがシリア人とペリシテ人に、どれがカルデア人とアッシリア人、その他イスラエルの子孫が戦った民族に相応しているかを知らないが、にも拘らずこのように相応している民族がいるのである。

 

 

 

 

天界の秘義5470

 

この状態については、主は絶えず人間のもとに善をもって、また真理と共に善の中に流れ入られているが、しかし人間は(それを)受けるか、受けないか、しており、もし彼が(それを)受けるなら、彼は幸になるが、もし受けないなら、不幸になるのである。もしが受け入れない時、(ここに『魂の苦しみ』により意味されている)多少の不安を感じるなら、彼は改良されるかもしれない希望はあるが、もし何ら不安の感情を持たないなら、その希望は消滅してしまうのである。

 

 

 

天界の秘義5470[2]

 

それで青年期における多くの者の常として、人間が自らを悪に近づける時、その者が悪いことを行ったことについて反省する時何らかの不安を感じるなら、それは彼は依然天界から天使たちを通して流入を受けるという印となり、またそれは彼が後になって自分自身が改良されることに甘んじるという印ともなるが、しかし彼が悪いことを為したことで反省する時、何ら不安な感情を持たないなら、それは彼が天界から天使たちを通して流入を最早受けようとはしないという印となり、また後になっても彼は自分自身が改良されることに甘んじないという印ともなるのである。それでヤコブの十人の息子たちにより表象されている外なる教会の諸真理が取り扱われているここには、ヨセフがその兄弟たちから遠ざけられた時、その陥った魂の苦しみが記されており、次にまたルベンが彼らを諌めたことが記されており、そのことにより、こうした状態が先行した時は、改良が、または内なるものが外なるものと連結することが後に起きることが意味されているのである(その連結については以下の頁に記そう)、なぜならその時不安になる者たちのもとには、悪の内なる承認[悪を内部で承認すること]が在り、それが主により呼び出されると、告白となり、遂には悔改めとなるからである。

 

 

 

天界の秘義6071[3]

 

 さらに以下の真理を導入されたい、即ち、幾多の地獄が存在していて、そこから凡ゆる悪が流れ出ており、そのことがその地獄に許されているのは、それは人間のためには避けることが出来ないためである、それは人間は悪の中にいて、その生命はそこから発しているからであり、それで人間が悪の中に置かれなくては、彼は自由の中にいることは出来ず、かくて改良されることは出来ないのである。にも拘らず善以外には何ものも神から発していないのである、なぜなら人間がそのことに堪える限り、神は悪を善へたわめられるからである。

 

 

 

結婚愛510

 

なぜなら人はその者の悪の中へまず導き入れられない限り、そこから導き出されることは出来ないからである。

 

 

7.聖絶

 

天界の秘義4903[]

 

ユダヤ民族は内なるもののない外なるものの中にいて、それで真理を誤謬であり、誤謬を真理であると信じたことは、かれらが敵を憎むことは許されていると教えたことから明白であり、またかれらはかれらの宗教を奉じなかった者たちを凡て憎んだというその生活からも明白である。

 

またかれらは異邦人を残虐にまた残酷に扱って、かれらを殺した後ではその死体をさらしものにして鳥や野獣に食わせ、かれらを生身のまま鋸で二つ切りにし、鉄のまぐわやおのできりきざみ、焼きがまのなかを通らせつつも自分からはエホバをよろこばせ、エホバに仕えているとさえ信じもしたのである(サムエル記後12・31)。

 

さらに何らかの理由で敵であると宣言された同胞をもほとんど同じように扱うこともかれらの教えにはかなっていたのである。かくてかれらの宗教[宗教性]の中には何ら内なるものがなかったことが明白である。もしたれかがそのときかれらにこのような事柄は教会の内なるものに反していると言ったとするなら、かれらはそれは誤りであると答えたであろう。かれらはたんに外なるものの中にいて、内なるものの何であるかを全く知らず、内なるものに反した生活を送ったことは、主がマタイ伝5章21節から48節に言われていることもまた明らかである。

 

 

サムエル記後12・31(新共同訳聖書)

 

そこにいた人々を引き出し、のこぎり、鉄のつるはし、鉄の斧を持たせて働かせ、れんが作りをさせた。また、アンモン人のほかの町々もすべてこのようにした。それからダビデと兵士は皆、エルサレムに凱旋した。

 

 

サムエル記後12・31(文語版聖書)

 

かくてダビデ其中の民を将(ひき)いだしてこれを鋸と鉄の千歯と鉄の斧にて斬りまた瓦陶(かわらやきがま)の中を通行(とおら)しめたり、彼かくのごとくアンモンの子孫の凡ての町になせり。

 

 

マタイ5・43,44

 

あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

 

 

天界の秘義8223

 

この凡てから、前のような、マタイ伝の、敵に対する愛に関わる主の言葉の意味と、主から廃止されはないで、説明をされた報復の律法に関わる主の御言葉の意味を認めることができよう。すなわち、天界的な愛の中にいる者たちは報復、または復しゅうに歓喜を覚えてはならず、益を与えることにそれを覚えなくてはならないのであり、また善いものを守る秩序の法則そのものは、悪い者らを通して、それをその法則そのものから遂行しているのである。

 

 

8.口寄せ、霊媒

 

レビ記19・26

 

占いや呪術を行ってはならない。

 

 

レビ記19・31

 

霊媒を訪れたり、口寄せを尋ねたりして、汚れを受けてはならない。わたしはあなたたちの神、主である。

 

 

レビ記20・6

 

口寄せや霊媒を訪れて、これを求めて淫行を行う者があれば、わたしはその者にわたしの顔を向け、彼を民から断つ。

 

 

レビ記20・27

 

男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪に当る。

 

 

9.同性愛

 

レビ記18・22

 

女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。

 

 

レビ記20・13

 

女と寝るように男と寝る者は、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当る。

 

 

申命記22・5

 

女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。

 

 

申命記23・18

 

イスラエルの女子は一人も神殿娼婦になってはならない。また、イスラエルの男子は一人も神殿男娼になってはならない。

 

 

ローマ書1・27,28、32

 

同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。

 

 

コリント1・6・9,10

 

 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。

 

 

聖母から司祭へ1987年6月2日 米国ワシントン州、シアトル市

 

イエズスの神的み心をなんと苦しめることでしょう。

 

きょう、ここ司教座聖堂の中で、この州の最も遠い所から来たわたしの愛する司祭とまた大勢の信徒たちといっしょに行っているチェナクルム(集い)を、よろこんで受け入れます。

 あなたたちの愛とつぐないとの捧げものを受け入れます。

 

 イエズスは、こん日もまた、神秘的な体のうちにぶじょくされ、うち打たれ、傷つけられています。不潔のもっとも重大な罪さえも正当化するたくさんの司祭たちと、何人かの司教たちが示している放任的な態度は、どれほどイエズスの神的み心を苦しめていることでしょう。ちょうどここに、この聖なる場所で、この恐るべき悪徳に堕落しているわたしの多くのあわれな子らが歓迎され、自然に反する不潔の罪の道を歩みつづけてよいと、公にはげまされたことが、イエズスのみ心を軽蔑し傷つけ、侮蔑したのです。

 

 自然に反する不潔な行為は、神のみ前で復讐を要求する罪です。

これらの罪は、あなたちと、あなたたちの国々のうえに、神の正義の火を呼びよせずにはいません。

神はモイゼに与えられた「姦淫するな」の第6戒は、今でもその価値を完全に保っているのです。堕落した、そして、邪悪に流れたこの世代にあってなお、これを守らねばならないことを、はっきりと、しかも勇気をもって、すべての人に宣言する時が来ました。

 

この種の罪を正当化するすべての牧者は、自分の上、そのいのちの上に神の正義の燃える火を呼ぶのです。

 罪悪のさかずきは、すでに満ち満ち、もうこれ以上は耐えられないほどいっぱいになって、どの方向からも溢れ出るのです。それで、あなたたちの、祈りのチェナクルム(集い)をふやして、これを取りつぎとつぐないの力強い支えとし、またあなたたちのいのちを、潔白の徳をもって香り高いものとして、わたしに捧げることをすすめます。

 

 この世がふたたび光と潔白の花園へと返り咲くことができるように、やがてこのわわれな堕落した世界の上に、天が開けて、神の正義とあわれみの燃える露が降りそそがれることを約束しましょう。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P205

 

体の不自由な人は主の集会に入ってはならないと言われています。体の不自由な人が神の民に属せなくて、どうして霊魂の腐った人が神の使いとなれるでしょうか。というのは、司祭や先生たちの多くは霊魂が腐っており、男らしい霊が損なわれたものだからです。こういう司祭や先生が多過ぎます!

 

 

10.人間が悪人になるのは

 

聖母マリアの詩下P376

 

聖母:「多くの場合、人間が悪人になるのは、だれにも愛されたことがないか、または、悪く愛されたからです。」

 

11.罪

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P162

 

主がプラウティーナに:

「“罪は、知っていながら神の命令に背き”“今、私がしていることを悪いと知りつつ、それをする場合”です。神は正しいものです。だから、善いことをしようと思って悪いことをしてしまう人を罰したりできないが、善と悪とを知る機会があったのに、悪を続ける人を罰します」

 

12.悪を行ったことに対する不安

 

天界の秘義5470[2]

 

それで青年期における多くの者の常として、人間が自らを悪に近づけるとき、その者が悪いことを行ったことについて反省するとき何らかの不安を感じるなら、それはかれは依然天界から天使たちを通して流入を受けるというしるしとなり、またそれはかれが後になって自分自身が改良されることに甘んじるというしるしともなるが、しかしかれが悪いことを為したことで反省するとき、何ら不安な感情を持たないなら、それはかれが天界から天使たちを通して流入をもはや受けようとはしないというしるしとなり、また後になってもかれは自分自身が改良されることに甘んじないというしるしともなるのである。それでヤコブの十人の息子たちにより表象されている外なる教会の諸真理がとり扱われているここには、ヨセフがその兄弟たちから遠ざけられたとき、その陥った魂の苦しみが記されており、次にまたルベンがかれらをいさめたことが記されており、そのことにより、こうした状態が先行したときは、改良が、または内なるものが外なるものと連結することが後に起きることが意味されているのである(その連結については以下の頁に記そう)、なぜならそのとき不安になる者たちのもとには、悪の内なる承認[悪を内部で承認すること]が在り、それが主により呼び出されると、告白となり、ついには悔改めとなるからである。

 

 

 

 

13.善は連結させ、悪は分裂させる

 

 

天界の秘義343

 

 羊の群を仁慈の善へ導く者は『羊の群を集める者』であるが、これを仁慈の善に導かない者は『羊の群を追い散らす』のである、なぜなら凡て共に集まり、一つになることは仁慈から生まれ、追い散らして一つにならないことは仁慈の欠如から発するからである。

 

 

 

天界の秘義4997

 

『神に向かって悪と罪を犯す』と言われているのは、悪は、また罪は、それ自身において観察されるときは、善から分離する事以外の何ものでもないためである。さらに悪そのものは分離[非結合]から成っている。このことは善から明らかである、なぜなら、善はすべて主に対する愛と隣人に対する愛のものであるため、善は連結であるからである。主に対する愛の善はその人間を主に連結させ、従って主から発出している善の凡てに連結させ、隣人に対する愛の善はかれを天界に連結させ、そこに在るいくたの社会に連結させるのであり、それゆえこの愛によりまた人間は主と連結するのである、なぜなら主は天界の凡ゆるものにおける凡ゆるものであられるため、元来天界と呼ばれている天界は主であるからである。

 

 

 

同4997[]

 

しかし悪の場合はその逆である。悪は自己への愛と世への愛のものである。自己への愛はその人間を主のみでなく、天界からも分離させるのである、なぜならかれはかれ自身をのぞいては何人も愛しないし、他の者は、かれがその他の者をかれ自身の中にみとめるかぎり、またその他の者がかれと一つのものとなっているかぎり、愛するにすぎないからである。そこからかれは凡ゆる者の注意をかれ自身に向けさせ、それを他の者たちからとくに主から外らせてしまうのであり、そして多くの者が一つに社会の中でそうしたことを行うときは、必然的に、凡ての者は分離してしまい、各々の者は心では他の者を敵視し、もしたれかがかれに不利なことを何か行うなら、かれはその者を憎悪して、その破滅を歓ぶのである。世への愛の悪もそれと異なっていない、なぜならこれは他の者の富と財産とをむさぼり求めて、その者にぞくしている凡ゆるものを所有しようと欲し、そこからまた敵意と憎悪とが生まれてくるが、しかしその度は(前の愛の場合よりは)低いのである。悪とは何であるかを知り、従って罪とは何であるかを知るには、自己と世への愛のいかようなものであるかを知ろうとつとめさえすればよいのである。そのことによりかれは悪の何であるかを知り、従って誤謬の何であるかを知り、またそのことから善の何であるかを知り、従って真理の何であるかを知るのである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P229

 

もう、こんなことをしてはならない。あなたたちにとって、別々になるのはよくない。私が皆一緒にいるようにと言うのは、互いに支え合う必要があるからです。あなたたちは一人では何でもできるほど強くない。一緒にいれば、互いに支え合うこともできるし、抑えもできる。別々にいると・・・

 

 

 

ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか―現代の預言者ヴァッスーラに聞く/P214

 

ヴァッスーラ:時折、夫婦の調和と一致に関するメッセージをいただくことがあります。今離婚が多いのは、家庭に神が不在だからです。家庭を築き上げている夫婦が神に結ばれ、神において結ばれていれば、別れたりはしないでしょう。なぜなら、不和は神からのものではないからです。ギリシャ語の「diable」という言葉は、分割する者を意味します。

 

神を中心にすえた家庭は、子供の宗教教育には理想的な環境です。それは理想の家庭でしょう。残念なことに、そううまくはゆかないものです。私自身の家庭でも、私が回心する前は、理想どおりにはゆきませんでした。今になって、わが家の家庭不和は、結局のところ神の不在のせいだったということに気が付きました。

 

 

 

 

14.悪は善に近づけないが、真理には近づける

 

 

天界の秘義10187

 

なぜなら悪は善のスフィアには決して堪えることができないため、それは善には近づくことができないからである。

(中略)

しかし真理については、それには悪が近づくことができるのである、なぜなら悪は真理を誤った解釈により歪曲し、かくて悪自身の欲念を支持するようにそれを利用するからであるが、しかし真理の中に善が存在しているに比例して、真理に近づくことはできないのである。

 

 

 

天界の秘義9809[10]

 

悪と善とは互いに他を嫌悪しているため、悪は到底善に接合されることが出来ない。

 

 

15.善と悪

 

新エルサレムの教義19

 

悪におり悪から誤謬の中に確認と生活によって宿っている者は一人として善と真理とは何であるかを知ることはできない、なぜなら彼は自分自身の悪は善であると信じ、そこから誤謬は真理であると信じているから。しかし善の中におり、真理の中に確認と生活によって宿っている者はすべて悪と誤謬のいかようなものであるかを知ることができるのである。このことの理由は善とその真理の凡ては、その本質では、天界的なものであり、そしてその本質で天界的なものでない物も依然天界の起原から発してはいるが、しかし悪とその誤謬とは凡て、その本質では、地獄的なものであり、そしてその本質で地獄的なものでない物も、依然その起原をそこから得ており、そして天界的なものは凡て光の中にあるが、しかし奈落的なものは凡て暗黒の中にあるためである。

 

 

16.悪と誤謬の中にいる者は絶えず殺されはしないかと恐れている

 

天界の秘義390

 

悪と誤謬の中にいる者は、モーセの書に以下のように記されているように、絶えず殺されはしないかと恐れている―

            

おまえらの地は荒廃し、おまえらの都は荒れはてるであろう、またおまえらの中で残された者にはその敵の地でわたしは恐れを抱かせよう。彼らは木の葉のうごく音にもおどろいて逃げ、剣をさけて逃れるようにも逃げ、また追う者もないのに倒れるであろう、彼らは追う者もないのに、剣の前にあるかのように、互いにその兄弟につまづいて、その上に倒れるであろう(レビ記26・33、36、37)。

 

かれらはかれらを守ってくれる者をたれ一人持っていないため、凡ての者を恐れている。悪と誤謬の中にいる者はすべてその隣人を憎悪し、凡て互に他を殺そうとしている。

 

 

天界の秘義391

 

他生にいる悪霊の状態は、悪と誤謬の中にいる者が凡ての人を恐れていることを示している。自分自身から仁慈をことごとく剥奪した者はさまよって、彼方此方へと逃げて行く。凡て彼らの行く所ではそれがいかような社会であっても、その社会の人々はかれらが単に近づいてくるのみで直ぐさまその性格を認めるのである、なぜなら他生に存在する認識はそうしたものであるからである。かれらはかれらを放逐するのみでなく、激しく罰し、実にかれらを殺しかねないような憎悪を以って罰するのである。悪霊は互に他を罰し、責め苛むことに最大の喜びを感じており、それがかれらの最高の満足となっている。悪と誤謬そのものがその原因であることは今まで知られていなかったのである、なぜならたれでも人が他の者にのぞむことは凡てその人自身に帰ってくるからである。誤謬はそれ自身の中に誤謬の刑罰を持っており、悪はそれ自身の中に悪の刑罰を持っており、従って、かれらは自分自身の中にこれらの刑罰の恐怖を持っているのである。

 

 

17.悪が善のための道具に変わる

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P148

 

 人間の業は、よいものでも悪いものでも、常に超自然的な目的のために役立つ。人間の悪意は、に取り入れられ、の手に触れることによって、善のための道具に変わるからだ。は水源から溢れ出て分かれる小川のように、唯一の核から地球に四散している人々を最後の日に、再び唯一の核に結集するという目的を達成するために、その無限を見通す業で八方に手を尽くす。

 わたしの業はすでに始まっており、そして人間的なものを侵害し、傷つける迫害者たちは、彼らがその悪業での大いなる日を創り出しつつあることに気づいていない。その日、わたしは散らされた羊を集めるように、膨大なわたしの羊の群れを十字架のもとに集め、かつては、わたしの羊の群れだったのに野生の状態に戻っている羊たちに、わたしは『子羊たち』と名を付けて、もう一度洗礼を授けるだろう。わたしのしるしの下で人間社会に巣くう毒蛇や狼である者たちを追い払って。

 

 

18.悪の持つ狂気

 

天界の秘義5070

 

 義しい者に与えられる永遠の生命は善から発している生命である。善は、生命そのものであられる主から発しているため、それ自身の中に生命を持っている。主から発している生命の中には知恵と理知が存在している、なぜなら主から善を受けて、そこから善を意志することは知恵であり、主から真理を受け入れて、そこから真理を信じることは理知であり、この知恵と理知とを持っている者は生命を持ち、そしてこのような生命には幸福が結合しているため、永遠の幸福もまた『生命』により意味されているからである。悪の中にいる者らの場合はそれに反している。これらの者も生命を持っているかのように―とくにこれらの者自身には―実さい見えはするものの、しかしそれは聖言では『死』と呼ばれているような生命であり、また霊的な死である、なぜならかれらはいかような善からも賢いのではなく、またいかような真理からも理知的なものではないからである。このことはたれであれその事柄を考察する者から認められることができよう、なぜなら善とその真理の中に生命が在るため、悪とその誤謬の中には、それらは対立したものであって、生命を消滅してしまうため、生命は在りえないからである。それで問題の人物は狂人にぞくしているような生命以外の生命は持たないのである。

 

 

19.行為における誤謬

 

天界の秘義4823

 

行為における誤謬、すなわち、悪

 

 

20.悪は善に近づくとき、苦しみもだえる

 

天界の秘義5798[7]

 

かれらはそれを天に、従って主に帰しはするが、事実はかれら自身にその呵責を与えるものはかれら自身なのである、なぜなら悪は善に近づくとき、苦しみもだえるからである。

 

 

21.地獄から発している悪の流入の起原

 

天界の秘義6203

 

 地獄から発している悪の流入の起原については、実情は以下のようになっている。人間が最初は同意から、次に意図から、最後に情愛の歓喜から、自分自身を悪に投げ込むと、そのときそうした悪の中に在る地獄が開かれて―なぜなら地獄は悪とその多様性とに応じて互に他から明確に区別されているからであるが―その後その地獄からは流入が起るのである。人間がこのようにして悪に入ると、それは彼に密着するのである、なぜなら地獄は―そのスフィアの中に彼はそのときいるのであるが―その悪の中にあるとき、その歓喜そのものの中にあり、それでそれは後退などしないで、頑強に押し入り、その人間にその悪について、最初は時たまではあるが、後にはその悪に関連した事柄が起る度毎に考えさせ、遂には彼のもとで彼を遍く支配するものとなるのである。こうしたことが起ると、そのとき彼は、それは悪ではないと確認させるようなものを探し求め、遂にはそれは悪ではないと自分自身に全く説きつけるまでも求め続け、かくて能う限り、外なる束縛を除去しようと努め、悪を―例えば姦淫、術策と詐欺で行われる窃盗、色々な種類の傲慢、誇り、他の者に対する軽蔑、もっともらしい口実をつけて悪しざまに罵り、迫害するといったようなことを―許されること、悧口なこととし、最後には似つかわしい、尊いことにさえするのである。こうした悪は徹底した窃盗の場合に似ており、それが二、三度確乎として意図から行われると、そこから遠ざかることは出来ないものとなるのである、なぜならそれはその人間の思いに絶えずまつわりつくからである。

 

 

天界の秘義6204

 

 さらに悪は地獄から絶えず注ぎ入れられており、またそれは絶えず天使たちによりはね返されているため、思考に入ってくる悪は人間に何ら害を与えはしないことを知られたい。しかし悪が意志へ入ると、そのときはそれは害を与えるのである、なぜならそのときはそれは、外なる束縛により抑えられないときは、常に行為へと進むからである。悪はそれが思考の中に留めおかれることにより、同意により、とくに行為とそこから生まれてくる歓喜により意志の中へ入るのである。

 

 

 

 

22.地獄

 

 

天界の秘義6279

 

『悪』の意義は地獄である。『悪』が地獄を意味している理由は地獄そのものは悪意外の何ものでもないということである、なぜなら地獄の凡てのものは悪であると言うも、地獄は悪であると言うも、それは同じことであるからである。(中略)人間の悪そのものは地獄以外の何ものでもない、なぜなら悪は地獄から流れ入っており、人間はそのとき、地獄にいる各々の者と同じく、最小の形の地獄であるからである。同じく一方では、人間における善そのものは人間における天界以外の何ものでもないのである、なぜなら善は主から天界を通して流れ入っており、善の中にいる人間は、天界の各々の者のように、最小の天界であるからである。

 

 

 

天界と地獄547

 

人間の中の悪は人間の中の地獄である。なぜなら悪と言うも、または地獄と言うも、それは同じことであるから。

 

 

 

 

23.生命の源泉、または主は、人間が悪と誤謬を考える原因でない

 

神の摂理292

 

 凡て人間の思考と目的とそこから発する言葉と行為とは生命の唯一の源泉から流れ出るものの、生命の源泉、または主は、人間が悪と誤謬を考える原因でないことは、以下の自然現象から説明することができよう。熱と光とは太陽から発して、可視的な凡ての主体と対象とに流れ入り、たんに善い主体と美しい対象のみでなく、悪くて醜いものにも流れ入って、それらのものの中に異なった結果を生んでいる、なぜならそれらは良い実を結ぶ木にみでなく、悪い実を結ぶ木にも流れ入り、さらに果実そのものに流れ入って、それを成熟させているから。同様にそれは善い種子やまた雑草に、善い用を持った、または有益な潅木に、また悪い用を持った、または有害な潅木にも流れ入っている。しかしそれは同じ熱と同じ光であり、悪の原因はこれらのものになくて、これらを受ける主体と対象にあるのである。なきふくろ、みみづく、まむしの卵をかえす熱は、鳩、白鳥または他の美しい鳥の卵をかえすときと同じ働きをする。その二種類の卵を牝鳥の下に置くなら、それらは牝鳥の熱でかえるが、熱そのものは無害なものである。それ故熱は何を悪い有害なものと共有しようか。湿った、糞のような、腐った、屍のような物に流れ入る熱は、ぶどう、花、植物、その他の生きた有機体に流れ入る時と同じような働きをする。誰が悪い結果の原因は熱にはなくて、それを受けるものに在ることを認めることができないか。さらに同じ光は或る物の中に快い色を、他の物には不愉快な色を生み、白い物体では特に光り輝くが、つやのない物では陰鬱に、暗くなっている。霊界でも同様である。そこでもまた熱と光は太陽または主から流れ出て、主体と対象に流れ入っている。主体と対象とは天使と霊であり、特に彼らの意志と理解である。霊的な熱は神的愛であり、霊的な光は神的知恵であり、共に主から発している、それらはそれが異なった人々により異なって受け入れられる原因ではない、なぜなら主は『神は悪い者にも善い者にも陽を登らせ、雨を正しい者にも正しくない者にも降らせられる』と言われるから(マタイ5・45) 。太陽はその最高の意義では、神的愛を意味し、雨は神的知恵を意味している。

 

 

24.誤謬の悪

 

天界の秘義7272〔2〕

 

こうした悪もまた誤謬の悪である、

 

 

25.悪から発している悪

 

天界の秘義7272〔3〕

 

悪から発している悪は自己と世への愛から起ってくる欲念から発しているものである。

 

 

26.悪は善から認められることは出来るが、善は悪から認められることは出来ない

 

天界の秘義8237

 

かくて悪は善から認められることは出来るが、善は悪から認められることは出来ないのである、なぜなら善は高く、悪は低いからである。

 

 

27.誤謬が悪と連結すると、その時は悪は誤謬によって激発する

 

天界の秘義7448

 

しかし誤謬が悪と連結すると、その時は悪は誤謬によって激発するのである。

 

 

 

 

28.悪い人間は神的なものに対して常に怒っている

 

 

天界の秘義10618 []

 

怒りについては、悪は怒るようになるが、善は決して怒るようにはならないことを知られたい、それは、怒ることは他の者に悪を欲することであるが、善はそうしたことは決して行うことが出来ないためである、なぜなら善は他の善を欲することに在るからである。悪は凡てその中に敵意、憎悪、復讐、残酷を持っており、そうしたものの中に、またそうしたものから悪はその歓喜を得ているのである。さらに悪は善を憎悪しているのである、それは善はその歓喜に対立しているためである。従って悪は善を害うことが出来ない時は―悪は善を害おうと絶えず努めてはいるが―それは先ず憤慨し、後に怒りとなるのである。悪と言うも、悪い人間と言うも、意味は同じである。なぜなら悪は人間の中に人間を主体として存在しているからである。そのことが善に反抗する悪の性質であるため、それはまた神的なものにもそのように反抗しているのである。なぜなら善はことごとく神的なものから発しているため、それは人間のもとに在る神的なものであるからである。ここから悪い人間は神的なものに対して常に怒っているのである―たとえ外面では人間の前ではそれとは裏腹のことを話してはいるにしても。

 

 

 

黙示録講解929

 

なぜなら悪は凡て主に対する怒りを含んでおり、従って主から発している善と真理との反抗する怒りを含んでいるからである。

 

 

 

 

29.悪は内的に真理を憎んでいる

 

 

生命45

 

それでこの凡てから、前に示したように、ちょうど人間が悪を罪として避けるに応じて、ちょうどそれだけ善にいるため、ちょうどそれだけ信仰を持っていることが生まれてくる。このことはまたその反対のことにより確認される、即ち、悪を罪として避けない者は、悪におり、悪は内的に真理を憎んでいるため、信仰を持ってはいないのである。外面では実に彼は真理の友として活動し、それを理解の中に存在させておきもし、それをそこに持つことを愛しさえもしているかもしれないが、死後行われることではあるが、外なるものが脱ぎ棄てられると、彼は先ずこの世の彼の友であった真理を棄て去り、それからそれが真理であることを否定し、遂にはそれに嫌忌を感じるのである。

 

 

 

 

30.神を信じない者は悪を罪としては認めないし、それでそれに反抗して戦いはしないし、むしろそれに加担する

 

 

仁慈の教義203

 

「人間は悪を罪としてそれを恰も自分自身から避けるかのように避けなくてはならないもの、それでも主からそれを避けなくてはならない。」聖言を読み、何らかの宗教をもっている者であって、たれが悪が罪であることを知らないか。聖言はそのことを初めから終りにかけて教えており、それが宗教のすべてである。悪はそれが聖言に反し、宗教に反しているというそのことから罪と呼ばれている。たれ一人悪を罪として自分自身から避けない限り避けることは出来ないことをたれが知らないか。人間は自分自身の中で、このことは私は行わない、そのことを行うことは私は慎もう。そうだ、その悪が帰ってくる時はいつでも私はそれと戦って、それを征服しよう、とは言わないか。それでもたれ一人神を信じない限り自分自身の中ではそのように話しはしないのである。神を信じない者は悪を罪としては認めないし、それでそれに反抗して戦いはしないし、むしろそれに加担するのである。しかし神を信じる者は、また、その者自身の中に、神を通して私はそれを征服しよう、とも言うのである。そして彼は懇願して、征服するのである。このことはたれにも拒まれてはおらず、凡ての者に与えられている、なぜなら主は人間を改良し、再生させ、彼を幾多の悪から清めようと、その神的な愛から、絶えず努められているからである。そしてその人間がまたそれを欲し、意図するとき、主のこの不斷の努力は行為となるのである。

 

 

 

 

31.悪は感染する・・・腐敗

 

 

神の摂理328(ハ)

 

「このことは遺伝悪が相次ぐ世代の中に累積することから起っている」。 遺伝悪はアダムとその妻イヴが知識の木の実を食べたことを通して彼らから来ているのでなく、両親により継続的に受け入れられて、その子孫に伝えられ、かくてそれは累積し、時代から時代へと益々悪くなっていることが前に述べられ、また説明された。このように悪が多くの人間の間に増大すると、それは他の者に感染する、なぜなら悪の凡てには他の者を腐敗させる欲念があり、それは或る人間の中では善に対する憤怒に燃えており、そこから悪が感染するからである。教会の支配者、役員、指導者が悪にとりつかれると、宗教は歪められるようになり、真理である薬剤も誤謬化により腐敗するようになる。これらが教会に善の継続的な腐敗と真理の破壊とをもたらし、遂に教会は終局に達するのである。 

 

 

 

 

32.悪の起源は本質的には人間の能力である自主性と合理性の濫用

 

 

神の摂理15

 

善は真理から、真理は善から分離することが出来、また分離したときも依然善と真理のように見える。なぜなら人間は自主性と呼ばれる行動の能力と合理性と呼ばれる理解の能力を持っているから。人間が外面的には内面的な自分とは異なったものとして見られるのはこの能力の濫用によっている。従って邪な人間は善を行い、真理を語り、悪魔も光の天使を装うことが出来る。しかしこの主題については、「神の愛と知恵」を取扱った著作の以下の記事を参照されよ。悪の起源は本質的には人間の能力である自主性と合理性の濫用にある(264−270。

 

 

 

 

33.善に接合されることが出来る誤謬

 

 

天界の秘義9809[11]

 

しかし真理については、それはそれに誤謬が接合されることの出来る性格を持ってはいるが、それでも悪を内に持った誤謬ではなくて、善を内に持った誤謬がそれに接合されることが出来るのである、例えば小さな子供たちや、未だ無垢な状態にいる間の少年少女たちや、気質は善良であるが、無知な異邦人や、聖言の文字の意義の中にいて、そこから生まれてくる教義の中にとどまってはいるものの、それでも生命[生活]の善を己が目的としている者たち凡てのもとに在るような誤謬は善に接合されることが出来るのである。なぜならこうした善は、それが目的となると、誤謬の悪性をことごとく駆逐し、それ自身を適用することによってその誤謬を一種の真理に似た形に作りかえてしまうからである。