宗派

 

 

分裂教会の一致・刷新

主は、いかなる教会の分裂も望まれない

分裂は主の身体を引き裂く羊飼いの杖を折る

分離分裂したままでいる限り まだ闇の中にいる

どうして分裂しているかを説明しなさい分派

連結『はなれないこと』は愛と慈悲

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.サンダー・シング

3.ヴァッスーラ

4.マリア・ワルトルタ

5.聖母から司祭へ

6.マーリン・キャロザース

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

主新しい教会へ招きたもう/大要(10)(P16)

 

今から後は人々は福音派、改革派と呼ばれてはならない、ましてやルーテル派、カルビン派とも呼ばれてはならない。基督教会と呼ばれなくてはならない。

 

 

 

天界の秘義1799

 

[]教会の外なるものとは何であるかは前に述べたところである(1083、1098、1100、1151、1153番参照)。前に言ったように、教義に関わるものがそれ自身では外なるものを作るのではない、ましてや内なるものを作るのではない、また主にあってもそれが諸教会を相互に他から区別するのではなく、それを行うものは教義的なものに従った生活であり、その教義的なものはすべて、それが真のものでありさえするなら、その根元的なものとしては仁慈を目標としているのである。教義は人間が如何ように生きねばならぬかを教えるものでなくて何であろう。

 

 

[]基督教界では教会を区別しているものは教義的なものであり、その教義的なものから人間は自分自身をロマ・カトリック教会、ルーテル派、カルビン派または改革派、福音派などと呼んでいるのである。彼らがそのように呼ばれているのは教義的なもののみによっているのであって、こうしたことはもし彼らが主に対する愛と隣人に対する仁慈とを信仰の第一義的なもの[主要なもの]とするなら、決して存在はしないであろう。そうした場合教義的な事柄は信仰の諸々の秘義に関わる種々の見解であるにすぎなくなり、真に基督教的な人間ならそれらをたれでもその者の良心に従って抱くままにさせて、その心の中に、人間が基督教徒として、すなわち、主が教えられているように、生活するときは、真に基督教徒であると言うであろう。かくて互に異なっている諸教会のすべてから一つの教会が形作られ、教義のみから生まれているあらゆる分離は消滅してしまうであろう、実に相互に他に抱き合っている憎悪もことごとくたちまち消散して、主の王国は地上に臨むであろう。

 

 

[]洪水直後の古代教会は多くの王国に拡まっていたけれど、それでもこうした性格を持っていたのである、すなわち、人々は教義的な事柄については彼らの間では非常に異なっていたのであるが、それでも仁慈を第一義的なものとしたのであり、礼拝を、信仰にかかわりをもった教義的なものから眺めないで、生命[生活]にかかわりをもった仁慈から眺めたのである。このことが彼らはすべて一つの唇を持っており、その言葉も一つであったと言われているところに(創世記11・1)意味されているのであり、そのことについては前に言ったことを参照されたい(1285番)。

 

 

 

天界の秘義6272

 

「彼はその手をたがいちがいに伸ばした」。これは、かくて、秩序に従わないで、を意味していることは、『手をたがいちがいに伸ばすこと』の意義から明白であり、それは、秩序に従わないで、である。なぜならそのことによりかれは弟を長子とし、逆に長子を弟とし、従って信仰の真理を先在的なもの、高いものとし、仁慈の善を後在的なもの、低いものとするからである。なぜなら『生得権』が先在性と卓越性とを決定するからである(3325番を参照)。このことがいかに多くの悪を教会に導き入れるかは明白である。なぜならそのことにより教会の人々は善とは何であるかを知らないし、かくて真理とは何であるかも知らないような不明な状態に陥るからである。なぜなら善とは焔のようなものであり、真理はその焔から発する光のようなものであるからである。すなわち、もし焔を取り去るなら、光もまた消滅するのであり、もし何らかの光が現れるにしても、それは焔から発していない、人を迷わせる光のようなものである。そこから諸教会は互に他と抗争して、真理について論争し、一つの集会は何かの事柄が真であると主張すると、他の集会はそれは誤っていると主張するのである。そして悪いことは、一度かれらが教会の集まりで信仰を第一位におくと、次に信仰を仁慈から分離して、仁慈を比較的無価値なものとし、かくて生活を無視しはじめるが、人間は生来こうしたことに陥る傾向を持っているのである。ここから教会は死滅してしまうのである。なぜなら人間のもとに教会を作るものは生活[生命]であって、生活のない教義ではなく、かくて卓越した信仰であるところの信頼でもないからである。なぜなら純粋な信頼は仁慈の中にいる者たちのものにのみありうるのであって、仁慈から信頼の生命が発しているからである。(さらに仁慈の善は事実上長子であり、すなわち、第一位に立っていて、信仰の真理はそのようなものとして見えるにすぎないことは前に見ることができよう、3324、3539、3548、3556、3563、3570、3576、3603、3701、4243、4244、4247、4337、4925、4926、4928、4930、4977番)。

 

 

 

天界の秘義6765

 

 人間が再生しつつあるときは、彼は誤謬との争闘へ入れられ、そのとき主により真理の中に留めおかれるが、しかしそれは彼が真理であると自分自身に説きつけた真理の中に留め置かれるのであり、この真理から彼は誤謬と戦うのである。彼はまた純正なものではない真理からも―もしその真理が何らかの方法で善と連結されることのできるようなものでありさえするなら―戦うことができるのであり、それは無垢により善と連結するのである。なぜなら無垢は連結の手段であるからである。ここから人間は何らかの教義から教会の中で再生することが出来るが、しかし純正な真理の中にいる者たちはとくに顕著に再生することが出来るのである。

 

 

 

天界の秘義8928〔3〕

 

このことからもまた霊的な教会はいかような不明の状態の中に〔明確でない状態の中に〕またはいかような暗闇の中に置かれているかが明らかである。それで彼らはそうした暗闇の中にいるため、信仰の真理について抱かれる多くの色々な教義と同数の諸教会に教会を分裂させているのであり、そうしたことは、もし彼らが光の中にいるなら行いはしないのである。なぜなら光の中にいる者は、主に対する愛と隣人に対する仁慈とは教会の本質的なものであり、その上に聖言の真理がすべて、従って信仰の凡ゆる真理が基礎づけられていることを決して疑いはしなし、ましてやそれを否定はしないからである。

 

 

 

 

2.サンダー・シング

 

 

A.J.アパサミー/インドの聖者スンダル・シング/P213

 

 「宗派というのは奇妙で、不必要なものです。神はただひとりです。それなのに、どうしてこんなに多くの教義があるのでしょう。平和と静けさは、キリストを知ることから来ます。その後に、意見の衝突が起きるはずがありません。しかし、それでも・・・」

 彼はあきらめたようにいう。「これが地上です。でも喜びがないわけではありません。もしすべての宗派がひとつになったら、それはもはや地上ではなくなるでしょう。天国でしょう」

 

 

 

A.J.アパサミー/インドの聖者スンダル・シング/P218

 

「わたしはどの宗派にも属していません。わたしはひとりの単純なキリスト教徒です。宗派主義は『けんか主義』となります」

 

 

 

サンダー・シング/インドの聖者スンダル・シング/P199

 

1920年にロンドンでフォン・ヒューゲル男爵にお会いしたとき、彼はとても親切にしてくれました。彼に会えて嬉しく思いました。教会の会員については、わたしはキリストの体に所属しているということです。それは、生きる者も死んでいる者も、目に見える者も目に見えない者も、真のキリスト教徒の体として理解されるものです。

 しかし、ひとが地上で組織的な教会の会員になることについては、わたしはまったく反対しません。この意味においては、わたしはインドの聖公会の一員です。わたしは使徒継承[教会が権威を使徒たちから継承されているという主張]を信じませんが、この信念がひとの霊的生活の助けとなるのであれば、彼らがそれを信じるのは構いません。

 真の霊的な継承は何度か遮られてきました。すべての主教や法皇たちが、本当に聖霊によって任命されたわけではないからです。多くは聖人でも、全員ではありません。活けるキリストが本当にわたしたちのそばにいて、心の中で生きているのなら、なぜ中心にある核を拒絶して、乾き切った外の殻にすがる必要があるでしょうか。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P298

 

 サンダー・シングの友A.J.アパサミー博士はこう書いている。「サードゥーは、霊界での経験のいくつかを話してくれた。あるとき、天界にはどれくらいの数のローマ・カトリック信徒がいるのかと彼はたずねた。すると、『一人もいない』との答があった。では、英国国教会の信徒はときくと、やはり『いない』と答を返された。彼は次に、メソジストは何人いるのか、バプテスト、プレスビテリアンは何人いるのかとたずねたが、やはり『一人もいません』と言われた。すっかり当惑し、驚いた彼は『では、ここにいる人々は誰ですか』とたずねた。『全員キリスト者です』との答が返ってきた」

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P134

 

 わたしはまた、聖餐と洗礼をも信じています。クリスチャンはみな、この秘蹟に関して主ご自身がお定めになったことに、従わなければなりません。それらは、大きな祝福の手段となるからです。聖変化によってではありません。信仰によってです。わたしは、どの教会でも聖餐に与っています。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P338

 

今日、こんなにも多くの新宗教があるのは、人々が彼らを満たしてくれるイエス・キリストを知らないからであります。人々は、これを信じ、あれを信じ、それでも足りなければ、また別のものを受け入れる。それでも満ち足りてはいません。みなさん、わたしたちを満たせるのは教えでも、倫理でもありません。生けるキリストなのです。わたしは、様々な国々で、キリストを嫌悪する人々を多く見てきました。ところが、主を知るや、彼らは変えられたのであります。彼らは、主の中に強さと力を見たのであります。

われわれの生活が祈りの生活となり、われわれがこの世界において主を知り、主を愛するように、主がわれわれを助けてくださいますように。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻Pxvi

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P23

‘87・10・27

 

どうやって、主よ、どのように伝えればとお望みですか、なんの権威と根拠をもって、教皇庁にお話しするなんて、私は何者でしょう! 主よ! ジェームズ神父には受け入れていただきましたが、せんだってのカトリックの神学者は、私が共同体に、それも彼の共同体に所属していないと知るや、私への関心を失いました!

 

しかし ヴァッスーラ 勿論彼らには所属していない、私に所属している、私はあなたの創造主であり、聖なる父、あなたは我が権威のもとにある ♡

 

主よ、そうです、私たちはあなたの権威のもとにあります。ところが組織化されていて、キリスト教共同体のどれかに入る制度になっていると、聞かされました。

 

♡ 私の目には 全てが同じだ、からだの分裂を私は望んだ覚えがない、私を分裂させてしまったのは、あなた方! あなた方が私のからだをこのようにしてしまった! 不具にして(*)

 

 *一瞬の沈黙があり、イエスは非常につらそうな、悲しみに満ちたお声でした。そんなことを思い出させてしまった自分に、罪悪感を覚えました。

 

ああ 神よ

 

娘よ 涙は母のためにとっておくようにと言わなかったか(*)?

 

    主はきつい口調でこう言われましたが、私と同じように悲しんでおられるのに気づかないわけにはいきませんでした。

 

そうです、主よ、でもあまりに傷ついておられるようでしたし、私もただの人間ですから。

 

ヴァッスーラ、こうなったのは 二人して私の杯を分かち合っているためだ、私の杯は苦い ♡ 教皇庁にあなたを送っているのは私だと伝えなさい、聞くように、どの共同体に属しているかと尋ねるなら、私に属し 我が権威のもとにあると答えなさい、

 

主よ、口答えしたくはないのですが、ギリシャ正教だと言ってはいけないでしょうか? 私はギリシャ正教徒です。

 

東方教会! カトリック! プロテスタント! 皆私のものだ! 私から見れば一つだ! 私は何の区別もしないというのに、なぜ恐れるか、愛する教皇ヨハネ・パウロに尋ねなさい、彼なら区別しないはずだ ♡

ヴァッスーラ こう伝えなさい:

「愛する者よ、主なる私が戸口に立って、あなたの戸を叩いている、呼び声を聞いてくれるか、戸を開けてくれるか、そうするなら家に入り 並んで席につき 食事をともにする、勝利を勝ち取ったなら 玉座を分かち合うのを許す、私の声を聞くように、諸教会に向って霊が語りかける言葉に耳を澄ましなさい ♡」

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P215

‘88・5・7

 

我が−心の−ペトロよ、我が−仔羊たちの−ペトロよ ♡ これが彼に与えた聖なる名:我が−仔羊たちの−ペトロ、しかしカインたちは私が彼の名誉のために与えた冠を彼の頭からはずし 盗み取った、主なる私は彼を愛している この者は我が魂の寵愛を受けており、私は盗まれた冠を彼のために取り戻す。 私のからだの血色を悪くしている偽りの諸王国を打ち倒す、漂う王国、根無し草のような諸王国を。 偽りの王国をひっくり返し、松明のように私の明りを照らして 真実の王国を打ちたて ペトロにその座を完全に取り戻させ、頭には王冠をかぶせる、そして手には羊飼いとして司牧する力を授ける鉄の笏を置く、私は散らされた仔羊たちを集め(*)、それを成し遂げたなら、この囲いを私の腕で囲み、誰も! 誰も!悪魔でさえこの囲いから一匹の仔羊も盗み出すことはできないであろう ♡ 私のマントを彼らに上に広げて護り、私のぬくもりで覆う。 ペトロには地上で肉のうちにいた時に授けたものを取り戻させよう ♡ どの人間も我が意思の限界を越えることはない、今ある状態はすべて、私でなく、あなた方に起因する。 無政府状態 そして私に対する反逆を憎む ♡ ヴァッスーラ! 許嫁よ! 兄弟たちよ! あなた方のたどるどの一歩も、主なる私が祝福する ♡♡

 

あなた方が探し求める、私主は 我が神殿に不意に入る、私は戸口で叩いている、入れてくれるか? 救いの計画を携えて、その巻物はすでに書かれてあり 食するばかりとなっている、 ♡ 当然尊ぶべきであったペトロの聖座に名誉を与えるために 私の平和と愛による救いの計画が敷き直されたと伝えるように、私は教皇の羊飼いとしての名誉を取り戻しにやって来た、ペトロに近づきなさい・・・ペトロに近づきなさい・・・ペトロに近づきなさい・・・あなたの主に近づきなさい ♡♡♡

 

 *天使たちが囲いの中に仔羊たちを集めようとしているヴィジョンを見ました。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P229

‘88・5・31

 

日々時間を捧げ 聖なるロザリオを唱えなさい。

 

はい、主よ。―主よ、「家に連れ帰るガブリエルのミッション」というのを読んでいますが、その中では聖マリアもロザリオのことも挙げられていません。

 

♡ ヴァッスーラ、誤った方向に導く松明と 私主が呼ぶのはこれだと知らせなさい、宗派(セクト)のために祈るように、主である私は我がからだが 頭から切り離されているのを許さない、これらは、娘よ、宙に浮く王国、以前に話した根のない王国で、今その実例を一つ示した、聖心がどう感じているかは言うまでもなかろう ♡ ヴァッスーラ 私の聖心を黙想しなさい、決して欺くことないこの心を、最後まであなたの聖なる教師となる ♡ 手を離さないように、「私たち」?

 

はい、主よ。

 

「私たち」?

 

はい、聖マリア、神に栄光。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻Pxvi

 

一つの祭壇でパンを分かち合う日が来る そして誰も我が子たちが私のもとにやって来るのを止めないであろう。誰も:「あなたはギリシャ正教徒か?」とは尋ねない。あなた方を分かつために築いたこの要塞を 私はもう非としている。 あなた方は皆私のうちで兄弟です。こう信じるように教え 勧めなさい。 ― 私の聖なる名のもとに自分たちを分け隔て、からだと霊において分かれたままでいる者たちには、サルディスの教会(黙示録3)に言ったと同じことを言う:世間の目に生きていると評価されても、創り主の目にはそうでない。残されたほんのわずかないのちを生き返らせなさい:それは急速に死にかけている 死骸のあるとこにはどこでも、はげ鷹が群がるものだ。一致しなさい! 集まりなさい! ともに私の名を呼び求めるように! ともに私のからだと血を献げなさい! 道を迫害しないように!  一致し 私を讃えることができるように自らへりくだり かがみなさい。あなた方は聖霊について語るが 聖霊のうちに行ってはいない。 道について話すが それを第一に遮る者となっている! ― ほとんど私を知らない者よ・・・。 私の名を呼びながら、聖櫃と祭壇の間で我が子たちを殺害しているではないか。 私は厳粛に言う、このすべては裁きの日にあなたの前に持ち出される 私に顔を向けて まことに言えようか:「私は兄弟と和解した」と? あなたはまことに言えようか:「あなたの聖なる御名のもとに私は兄弟たちの間で自分を分け隔てしなかった」と。 私の前で弁明する時、あなたの面前で言おう:「離れなさい、あなたは兄弟を同等に扱ってはいなかった。私のからだを日々殺害した。 あなたの勝利はどこか? 私が造り上げている時、あなたは打ち壊していた。 私が再び集めようとしていた時、あなたは散らしていた。 私が一致させようとしていた時 あなたは分裂させていた! しかし、今日でさえも、ありのままの姿で 私のもとに来るなら、癒すことができる。変容させることができる そして あなたが我が誉れとなろう。 私の日に、身重の女と、乳飲み子を持った女たち(ルカ21・23)のように罪を孕み 仲間うちで罪に練達した者同士がいるのを見られたなら災いである。 しかしこの人たちの間から 弟子を誘い つき従わせようと 紛(まが)い物の真理を口にする者たちが出ると言われている(使徒行録20・30)。あなたを救うために 私は叫び声を上げ 耳が不自由でもあなたに聞こえるようにしている そしてこうあなたを非難するのは、あなたにたいする大きな愛からである。しかしまことに言う: いつの日か私のばらばらになったからだのすべての部分を 一体となるように集めることであろう。」(ノート55、『私の天使ダニエル』166−167ページ)

 

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P79

 

「それなら私たちはあなたを失ってしまうわけですね」

「そうではないニコデモ。洗者ヨハネのところにもいろいろな宗派の人々が行く。同じように私のところには、どんな位の人でも、どんな宗派の人でも来ることができる」

 

 

 

 

5.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1993.1.1

 

 多くの司祭と奉献された人々が、快楽と便利で安易な生活におぼれ、不潔のうちに干からびています。信者たちは、異教化した世界にいざなわれ、ますます広がっていく数知れない宗派に迷わされています。

 この大試練のときは、まず第一に教会に来ます。なぜなら、教会が信仰の希薄さのためにゆすぶられ、棄教によって暗くされ、裏切りによって傷つき、その子らにうち捨てられ、離教が分裂をもたらし、フリーメーソンによって占領され支配されるようになるからです。

 こうして教会は、罪悪の人、すなわち偽キリストの邪悪の木が繁茂する格好の土地と化すでしょう。偽キリストは、そのとき、教会内部にその王国を持ち込むでしょう。

 

 

 

 

6.マーリン・キャロザース

 

 

マーリン・キャロザース/この世に天国を/P20

 

 時として、クリスチャン同士が教会でうまくいかないことさえあります。でもイエスは、「あなたがたが互に愛し合っているのを見て、人々はあなたがたが私の弟子であることを知るようになります」と言われたのです。

 教会が冷たく、教会員が互に厳しく批判的であると感じられるときは、赦そうとしない精神がすべての喜びと愛を消しているのかもしれません。あなたがそんな教会にいるならば、あなたをそこに置いてくださったことを神に感謝し、自分自身の態度をよく調べてみてください。

 パウロは書いています。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてのことに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい」(コロサイ3・13−15)。

 もしすべてのクリスチャンが、互に愛し、赦し合うという責任と特権にふさわしく生きていたなら、今よりはるかに少ない教派しか今日、存在していないことでしょう。常に赦し、愛すること、平和で心を満たすこと、常に感謝することは私たちのすばらしい特権なのです。

 

 

 

マーリン・キャロザース/この世に天国をP98

 

様々な教派があるのは、クリスチャンが互に仕え合うことのできない結果です。