『離れないこと』は愛と慈悲

 

 

レビ磁石

分裂離婚

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.トマス・ア・ケンピス

3.ヴァッスーラ

4.ルイザ・ピッカレータ

4.マリア・ワルトルタ

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義3875

 

『離れないこと』は仁慈であることは、仁慈は、またはそれと同一のことではあるが、相互愛は霊的な連結であるという事実から明白である、なぜならそれは意志の情愛の連結であり、またそこから生まれてくるところの理解の幾多の思考の一致であり、かくてそれは心が両方の部分の方面で連結することであるからである。その最高の意義では『離れないこと』は愛と慈悲であることはそこから明らかである、なぜなら仁慈または霊的な愛について述べられるところの無限で永遠のものは慈悲であり、それはかくも大いなる悲惨の中に沈められている人類に対する神的愛[神の愛]であるからである。

 

 

 

 

天界の秘義343

 

 『羊を牧う者』は仁慈の善を行う者であることは何人にも明白であるに相違ない。なぜならこれは旧新約聖書の聖言の親しい象徴であるからである。導いて、教える者は『羊飼い』と呼ばれ、導かれ、教えられる者は『羊』と呼ばれている。仁慈の善へ導かないし、またそのことを教えない者は真の羊飼いではないし、善に導かれないし、また善いことを学びもしない者は羊の一匹ではない。(中略)

 

イザヤ書には―

アラビヤの羊の群はことごとくあなたのもとに集められ、ネバイオテの雄羊はあなたに仕えるでしょう(60・7)。

 

羊の群を仁慈の善へ導く者は『羊の群を集める者』であるが、これを仁慈の善に導かない者は『羊の群を追い散らす』のである。なぜなら凡て共に集まり、一つになることは仁慈から生まれ、追い散らして一つにならないことは仁慈の欠如から発するからである。

 

 

 

 

天界の秘義389

 

 『凡て彼を見つける者は彼を殺すであろう』は悪と誤謬のことごとくが彼を破滅させるであろうということを意味することは既に述べたことから生まれている。なぜなら事実は以下のようであるから、すなわち、人間は自分自身から仁慈を剥ぎとる時自分自身を主から引き離すのである、それは人間を主に連結するものはひとえに仁慈であり、すなわち、隣人に対する愛、慈悲であるからである。仁慈がない時、分離が起り、分離が起る時、人間は自分自身にまたは自分自身のものに委ねられ、かくて凡てその考えるものは誤りとなり、凡てその意志する所は悪となる。これが人間を殺し、または人間に生命を些かも残さなくなるものである。

 

 

 

天界の秘義4837[3]

 

 それはまた教会が一つのものではなくて、幾つものものになっており、しかもその幾つものものが信仰の諸真理に従って、または幾多の教義的なものに従って互に他から明確に区別されているようなイメージを提示するのであるが、しかし教会は善がその中で本質的なものとなり、それが諸真理により加減されて、いわば変化する時は一つのものなのである。(中略)

そのことはただ善の中にのみ、即ち、主に対する愛の中に、また隣人に対する愛の中にのみ在り得るのである。なぜなら愛は凡ての者を連結するのであり、各々の者が善と真理に対する愛を持つ時、彼らは主から発している共通の生命を持ち、かくて主を持ち、主からは凡ての者を連結されるからである。

 

 

 

天界の秘義5002

 

「彼女と共にならなかった」。これは、そのようにしてそれが結合しないように、を意味していることは、たれかと『共になること』の意義から明白であり、それは更に密接に連結することであり、または結合することである。『(共に)なること』は結合することを意味しているのは事物の存在そのものは善であり、善はすべて愛のものであり、愛は霊的な連結または合一であるためである。ここから主はその最高の意義では、主から愛または霊的な連結のものである善がことごとく発しているため、存在またはエホバと呼ばれ給うている。天界は主から発する愛を通し、またその愛を受けることを通して代って主を愛することを通し、相互的な愛を通して一つのものとなっているため、それでそれは結婚と呼ばれ、その結婚を通して、それは存在しているのである。教会も、もし愛と仁慈とがその教会の存在であるならば、同様になるであろう。それゆえ連結または結合がないところには、存在はないのである、なぜなら一つのものにする、または結合させるものがない限り分離し、消滅しなくてはならないからである。

 

 

 

天界の秘義5002[2]

 

 かくて各自がただ自分自身のために存在していて、たれ一人自分自身のためでないかぎり他の者のために存在してはいない市民社会では、(かれらを)結合させる法律がないかぎり、また利得を、名誉を、名声を、生命を失う恐れがないかぎり、その社会は全く消滅してしまうのであり、かくてこのような社会の存在もまた連結または合一であるが、しかしそれはたんに外なるものにおける連結または合一であって、内なるものの方面では、その中には存在は全くないのである。そうした理由からまたこのような人物は他生では地獄に留めおかれ、同じようにそこでも外なる束縛により、とくに恐怖により結びつけられているが、しかしこの拘束がゆるめられるときは絶えずかれらは互に他の者の破滅をはかってたけり狂い、何ものにもまさって他の者を抹殺しようと欲求するのである。天界では異なっており、そこには主に対する愛とそこから派生してくる相互愛とを通して内なる連結が存在しているのである。そこでは外なる拘束がゆるめられると、かれらはさらに密接に共に連結するのであり、そして、かれらは主から発している神的な存在にそのようにしてさらに近づけられるため、さらに内的に情愛の中におり、そこから自由の中におり、従って祝福、幸福、喜びの中にいるのである。

 

 

2.トマス・ア・ケンピス

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・7

 

[1」イエズスにおすがりしている人は、永久にしっかりと立っているだろう。

 かれを愛しかれをあなたの友とせよ。なんとなればすべての者があなたをはなれても、かれはあなたをおはなれにならず、終りにあなたの滅びるのをそのままにはなさらないからである。

 

[2」生きるにも死ぬにもイエズスにおすがりして、その真実にわが身をお任せせよ。他のものにはできなくても、主だけはあなたを助けてくださることができる。

 あなたの愛するお方のご性質は、あなたの心を他のだれにも許さず独り占めにし、そこに王のごとく玉座に即いて支配なさろうというのである。

 あなたがもしあらゆる被造物からはなれることを学ぶならば、イエズスは喜んであなたとともにお住みになるだろう。

 

 

3.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P23

‘89・10・25

 

♡ 主への愛 そして兄弟への愛を通して主の王国をひろげなさい、悪を愛で返し、人生が愛に主導され、愛があなた方の根となりますように。 自分の考え方に警戒しなさい、互いに裁かないように、あなた方のやり方は主のなさり方とは違うのです。 他への批判はさしひかえ 謙虚さによって主をお喜ばせなさい、神の愛はあなた方の最も小さな者たちにさえ 明かされています。 愛する人びとよ、家に帰っても私どもを後ろにおいて行かないで下さい、一緒に連れて行って下さい。 私どもの聖なる現存を感じるようになり、「私」の代わりに「私たち」と言うようにして下さい、皆を祝福します、主が望んでおられるように、一つとなりなさい、天国では一つなのですから 分かれていないように ♡ 平安のうちに 平和の中で暮らすように ♡

 

 

4.ルイザ・ピッカレータ

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P219

 

第五番目の特別な愛について考えるようにとイエスが促していらっしゃるのを聞いて、私の内で次のように言われるイエスの沈んだ、しかし建設的なお声を聞こうと私は心の耳をすませました。「娘よ、わたしから離れないで下さい。わたしを独りにしないで下さい。わたしの愛はいつも誰かとともにいることを熱望しますが、これがもうひとつのわたしの特別な愛であることを覚えていて下さい。わたしの神性が本質的に与えうるかぎりの親密な一致を形成しているように、わたしの永遠の言葉と本質的に一致しているわたしの人間性も、もちろん被造物の同伴を喜ばないはずはないのです。わたしが母の胎内に宿った時、同時にわたしは全ての被造物を恵みへと身ごもったという事実に、あなたは留意しました。それは彼らの全てが知恵と真理のうちにわたしと同じように成長するためです。ですから、わたしは彼らとともにいることを愛し、彼らとの間に絶えず愛の交換を持ちたいと望むので、何度でもわたしの愛の生き生きとした証明を彼らに伝えたいのです。わたしの喜びと悲しみを彼らに分かち与えるために、絶えず彼らと愛の心地よい会話を交わし、わたしが天から地上に来たのは彼らを完全に幸せにしたいという以外、なんの理由もないということを彼らに知らせたいのです。ですからわたしは善意と愛に彼らを目覚めさせ、それぞれの人にわたしの富、わたしの国を再び与え、彼らの命のためにはわたしの死もいとわず、最も辛い犠牲も捧げようという望みをもって、一人の小さな兄弟として彼らの真ん中にいることを熱望しています。すなわち彼らを接吻や愛のやさしい愛撫で満たし、彼らとたわむれ楽しみたいと望んでいるのです。ああ、でも悲しいことには、わたしの愛へのお返しとしては、絶え間ない痛みと苦しみしか受けません。事実、わたしの永遠の命の言葉をいやいや聞く人、わたしの同伴を避ける人、わたしの愛から自由になろうとする人、逃げる人、聞こえない振りをしてわたしに沈黙を強いる人などがいるのです。また直接わたしを軽蔑し、汚すもっとひどい人もいます。最初の人びとはわたしの富と王国を大切にせず、わたしの接吻と愛撫にたいして無関心と忘却をもって返します。ですから彼らへのわたしの楽しみは沈黙と放棄に変わり果ててしまうのです。後者の人びとはわたしの彼らへの愛を、もっともにがい涙へと変えるので、わたしはただ満足を与えられないだけでなく、軽蔑と侮辱、恥辱を受けるのです。

そのうえ、わたしは彼らの真ん中にいるというのに、わたしはいつも独りです! 彼らの放棄によってわたしに与える無理強いの孤独、わたしのほんの少しの言葉にたいしても、その小さな愛の嘆きを妨げるために聞こえない振りをすることによってわたしに与える孤独感は、なんとわたしの心に重く感じられることか。わたしは常に独りで憂鬱に黙っていなくてはなりません。なぜならもし話しても、少しも聞いてくれないからです! ああ、わたしの娘よ、わたしをこのような孤独のうちに決して独りにしないで下さい。あなたがわたしの愛への応えの不足を満たし、どうかわたしに話しかけ、わたしの言うことを聞き、わたしの教えに耳を傾けることによってわたしに喜びを与えて下さい。わたしは全ての教師たちの中に教師であることを覚えていて下さい。もしあなたがわたしのことを聞くならば、ああ、なんと多くのことをわたしから学ぶことでしょう! さあ、答えて下さい。あなたはわたしといっしょに遊びたいですか?」

 私は主にいつも忠実であることを申し述べたあと、主へのさらなる愛しい同情をもって愛しながら、主のうちに自分をお委ねしました。主はご自身の全てをもって人間を喜ばせたいと望まれるほど寛容でいらっしゃるというのに、主は彼らからなんの慰めをも受けることなく、暗い孤独のうちにとり残されたままにされていらっしゃいまる。こんなふうに第五番目の黙想をしながら過ごしておりますと、イエスはそのうちなる声を再び私の心にお聞かせ下さいました。

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P52

‘44年9月12日

 

 厳しい書取りだ。わたしの小さなヨハネのことを思うと、わたしの胸も痛む。しかしわたしは愛撫で勇気づける。その愛撫とは、すべての人が貴女を見捨てたとしても、わたしは貴女のそばにとどまるということだ。すべての人が貴女を忘れ去っても、わたしは貴女を憶えている。すべての人が貴女を憎むとしても、わたしは貴女を愛してやまないだろう。必要とあれば精神的にはもちろん物質的にも、体力を与えることによって、どれほどわたしが貴女を助けるかを見ただろう? 貴女はわたしの手のなかの、愛すべき道具なのだ。恐れてはならない。