レビ
天界の秘義342
『レビ』は仁慈を意味し、(創世記29・32,33,34)それでまたレビの種族は祭司職を受けて、『羊を牧う者』を表象したのである。
天界の秘義3325[9]
初生児は主を意味し、また主に対する愛により主のものである者たちを表象したため、レビの種族は凡ゆる初生児に代って受け入れられたが、それはレビは主の愛を表象したためである。『レビ』もまた愛を意味している、なぜなら『レビ』は『密着』であり、『連結』であり、密着と連結はその内意では愛であるからである、その主題については主の神的慈悲の下に後に述べよう(29章34節)。
天界の秘義3873
34節「かの女は再びみごもり、息子を生んで、言った、こんどこそわたしの男はわたしを離れないでしょう[わたしに密着するでしょう]、わたしはかれに三人の息子を生んだからです、それでかの女はかれの名をレビと呼んだ」。『かの女は再びみごもって、息子を生んだ』は、前のように、外なるものから更に内なるものへ向う霊的な懐妊と出生とを意味し、『言った、こんどこそわたしの男はわたしをはなれないでしょう[わたしに密着するでしょう]』は、その最高の意義では愛と慈悲を、内意では仁慈を、外意では連結を、現在の場合では霊的な愛を意味し、『わたしはかれに三人の息子を生んだからです』は継続しているものを意味し、『それでかの女はその名をレビと呼んだ』はその性質を意味している。
天界の秘義3875
「言った、こんどこそわたしの男はわたしを離れないでしょう[わたしに密着するでしょう]」。これはその最高の意義では愛と慈悲を、外意では連結を、現在の場合では霊的な愛を意味していることは、『はなれない[密着する]こと』の意義から明白である。外なるまたはそれに最も近い内的な意義では『はなれない[密着する]こと』は連結であることは解説の要もなく明白である。内意では『はなれないこと』は仁慈であることは、仁慈は、またはそれと同一のことではあるが、相互愛は霊的な連結であるという事実から明白である、なぜならそれは意志の情愛の連結であり、またそこから生まれてくるところの理解のいくたの思考の一致であり、かくてそれは心が両方の部分の方面で連結することであるからである。その最高の意義では『はなれないこと』は愛と慈悲であることはそこから明らかである、なぜなら仁慈または霊的な愛について述べられるところの無限で永遠のものは慈悲であり、それはかくも大いなる悲惨の中に沈められている人類に対する神的愛[神の愛]であるからである。なぜなら人間は人間自身では悪以外の何ものでもないため、また人間の中に在るものは、それが人間から発している限り、奈落的なもの以外の何ものでもないため、また人間は主により神的愛から眺められるため、かれがかれ自身ではその中におかれている地獄から挙げられて、救い出されることは、『慈悲』と呼ばれるからである。ここから、慈悲は神的愛から発しているため、『はなれない[密着する]こと』により、その最高の意義では、愛と慈悲とが意味されているのである。
天界の秘義3875[2]
内意では『はなれないこと』は霊的な愛を意味し、またはそれと同一のことではあるが、隣人に対する仁慈を意味していることは、聖言の他の記事からもまた認めることができよう、例えばイザヤ書には―
エホバをはなれない[エホバに密着している]他国人の息子に、エホバはわたしをその民からひき離し、引き離させると話させ、言わさせてはならない。エホバをはなれないで、かれに仕え、エホバの御名を愛する他国人の息子たちをエホバの僕としなくてはならない(56・3,6)。
『エホバをはなれないこと』は霊的な愛のものであるところの誡命を遵守することを意味している、なぜならたれ一人隣人に対する仁慈の善の中にいる人間を除いては心から神の誡命を遵守はしないからである。
エレミヤ記には―
かの日イスラエルの息子たちは、かれらとユダの息子たちとは来るであろう、かれらは行きつつ、また嘆きつつ、行き、その神エホバを求めるであろう。かれらは道についてシオンにたずね、そこへかれらの顔は向くであろう、来よ、わたしたちは忘れられない永遠の契約をもってエホバをはなれずにいよう[エホバに密着しよう](50・4,5)。
ここでは『エホバをはなれないこと』は同じように心から、すなわち、仁慈の善から、誡命を遵守することを意味している。
天界の秘義3875[4]
『レビ』はその最高の意義では主の神的な愛をまたは慈悲を意味し、内意では霊的な愛を意味しているため、それでレビの種族は祭司とされたのである、なぜなら聖言の内意では『祭司性[祭司たること]』は愛の聖いもの以外の何ものでもなく、
『王者性[王位、王たること]』は信仰の聖いもの以外の何ものでもないからである(1728、2015、3670番を参照)。
天界の秘義3875[7]
結婚愛もまた『はなれない[密着する]こと』により表現されていることが以下の記事から明らかである―
それで男はその父と母とをはなれて、その妻に密着しなくてはならない、かれらは一つの肉とならなくてはならない(創世記2・24)。
あなたたちの心がかたくなであるためにモーセはこの誡命を書いた、が、創造の初めから神はかれらを男と女とに創造られたのである、それで男はその父と母をはなれて、その妻に密着しなくてはならない、かれら二人は一つの肉とならなくてはならない、それで神が共に結合されたものを人は分離してはならない(マルコ10・5−9、マタイ19・5)。シケムの魂はヤコブの娘デナをはなれなかった、[デナに密着した]かれはその乙女を愛し、その乙女の心に語った(創世記34・3)。ソロモンは多くの他国の女を愛した、ソロモンは愛の中にかれらをはなれなかった[かれらに密着した](列王記上11・1,2)
この凡てから今や『はなれない[密着する]』ことは愛の言葉であり、古代教会により受け入れられて用いられたことが―その教会は表意的なものの中にいたのであるが―また内意ではそれは仁慈と愛であるところの霊的な連結以外の何ものをも意味していないことが明白である。
天界の秘義3876
「わたしはかれに三人の息子を生んだからである」。これは継続しているものを意味していることは前に言われたことから明白である(3871番)。『三人の息子』によりここに意味されている継続的な状態は仁慈が今や到来するということである、なぜなら人間が再生しつつある間では、すなわち、教会にされつつある間では、最初の事柄はその者が信仰の真理とは何であるかを知り、理解することでなくてはならず、第二の事柄はそれを意志し[欲し]、行うことでなくてはならず、第三の事柄はそれに感動することでなくてはならないからである。そして人間が真理に感動するとき、すなわち、真理に従って行動することの中に歓喜と祝福とを認めると、その時はかれは仁慈または相互愛の中にいるのである。こうした継続がここに『わたしはかれに三人の息子を生んだ』により意味されているものである。
天界の秘義3877
仁慈にかかわる実情はそれがそれ自身の中に真理を意志する[欲する]ことを含んでおり、それを通してそれ自身の中に真理の理解[真理を理解すること]を含んでいるということである、なぜならたれであれ仁慈の中にいる者はこうしたものを持っているからである。しかし人間は仁慈へ来る前には、先ず外なるものの中に、すなわち、真理の理解の中にいなくてはならないのであり、次に真理を意志することの中に、最後に真理に感動することの中にいなくてはならないのであり、そのことが仁慈である。そして人間は仁慈の中にいると、そのときかれは主を注視するのであり、その主がヤコブの第四の息子『ユダ』により、その最高の意義で意味されているのである。
天界の秘義6998
「かれは言われた、あなたの兄弟であるレビ人アロンはいませんか」。これは善と真理との教義を意味していることは、アロンの表象から明白であり、それは神的善または祭司職の方面の主であるが、しかしここでは、アロンが祭司職に就任しなかった以前であって、善と真理との教義である、それでまた『彼はモーセの口となり、モーセは彼の神とならねばならない』と言われているのである、なぜならモーセにより主から直接に発出している神的真理の方面の主が表象されており、従ってアロンにより、主から間接に発出して、善と真理との教義であるところの神的真理が表象されているからである。ここのモーセが表象している真理は人間によっては聞かれも認められることも出来ない真理であるが(6982番)、しかしアロンが表象している真理は人間から聞かれもし、認められもすることの出来る真理であり、ここからアロンは『口』と呼ばれ、モーセは彼の『神』と呼ばれており、またここからアロンは『レビ人』と呼ばれているのである、なぜなら『レビ人』により祭司職に仕え、また役立つところの、教会の善と真理との教義が意味されているからである。
天界の秘義8080〔4〕
人の初児を贖うことに関わる律法が布告されたのは、彼らがその息子たちを生贄としてはならないという目的からであり、そうした生贄は古代教会の法令が残存していた諸国民の間に行われていたのであり、古代教会は表象的な教会であったが、時の経つにつれて、全く不善化されてしまったのである。初児は神に清められねばならなかったことは古代教会の法令の一つではあったが、しかし『清めること』により彼らは生贄とすることを理解し始めたのである。ヤコブの子孫もまたそのようなことを行なう気持ちになったのである、それでこの律法が布告されたのであり、彼らにそうしたことを為させないために、すでに述べたように、初児に代ってレビ人が受入れられたのである。霊界でこの律法はそれに相応した意義に従って明らかにされたが、それは、信仰の諸真理は聖いものではなく、かくて(主に)清められまたは帰せられてはならず、信仰の諸善が(主に清められ、または帰せられねばならないということである)。更に清めることは後で以下のように理解されたのである、即ち、ルカ伝の以下の言葉に従って、彼らはエホバに初児を捧げ、または差し出して、その初児のために生贄を捧げなくてはならないというように理解されたのである。
モーセの律法に従って彼らの清めの日が満ちた時、彼らはイエスをエルサレムに連れて来て、かれを主に差し出した。主の律法に、胎を開く男の子は凡て主に聖いものと呼ばれなくてはならないと記されてあるように、また生贄を捧げるために(ルカ2・22−24)。
マリア・ワルトルタ30・11/天使館1巻P257
イエズスは言われる。
きょうはわたしが語る。あなたはとても疲れているが、もう少しの辛抱です。
聖体の祝日の前日です。あなたに、聖心(みこころ)の使徒であった聖人たちについて語ったように、この度はあなたに聖体について、またこの信心の使徒となった聖人たちについて語ることもできよう。しかし、もう一つのこと、わたしの体に対する崇拝の先駆者たちである、わたしの体の礼拝者たち一群についてあなたに語りたい。それはあの羊飼いたちです。人となったロゴスの体を、最初に礼拝した人たちです。
一度、わたしはあなたに言ったことがあり、わたしの教会も言っていることだが、あの聖なる無辜の幼子たちは、キリストの最初の殉教者たちです。今、わたしはあなたに言う。あの羊飼いたちは、神の体の最初の礼拝者たちである、と。彼らには、わたしの体の礼拝者として要求されるすべての資格、聖体を礼拝するにふさわしい魂があります。
確実な信仰。彼らはあの天使を即時に、盲目的に信じます。
懐の深さ。彼らは自分たちのすべての富を主に捧げます。
謙遜。人間的にいえば、彼らは自分たちよいも貧しい人びとに近づき、相手に恥をかかせない慎みをもって、自分たちは彼らのしもべである、と言い切ります。
熱望。自分たちが与えられないものを、使徒職と労働によって得ようと全力を尽くします。
機敏な従順。マリアがザカリアにイエズスの誕生を知らせたと望んでいることを知るや、エリヤは逸早くヘブロンへと出発します。先送りすることなく。
愛。最後に彼らは洞窟を立ち去り難く思う。あなたは彼らの思いを『後ろ髪を引かれる思い』と表現したがその通りです。
それはともかく、わたしのこの秘跡に対しても、そうあるべきではないだろうか?
それからもう一つ、これはあなただけに言います。あの天使は、誰にまず自分を現わし、マリアの愛情の吐露を聞くに値したのは誰であったか、よく観察しなさい。それは牧童レビです。
子供のような純真さをもつ者に、神はご自分を現わし、その神秘を明かし、自分とマリアの言葉をお聞かせになる。子供のような純真さをもつ者は、『イエズスの産衣に接吻させてください』と言うレビの聖なる大胆さを持つ。彼はそれをマリアに言う。それもそのはず、あなたたちにイエズスを与えるのは、常にマリアだからです。聖体を運ぶ人は常に彼女なのです。生きた聖体容器(チボリウム)は常に彼女なのです。
マリアのもとへ行く者は、そこにわたしを見つけます。わたしを彼女に求め願う者は、彼女からわたしを受けます。わたしの母の微笑は、『もっと愛するためにイエズスをわたしにください』と誰かが言うとき、諸天を喜びの、同じく幸せの強烈な輝きで青ざめさせるのです。
だから『イエズスの産衣に接吻させてください。その御傷に接吻させてください』とわたしの母に言いなさい。さらに大胆に言いなさい。『あなたのイエズスの聖心の上にわたしの頭を凭れさせてください。至福を味わうために』と。
おいで。そして憩いなさい。イエズスとマリアの間に置かれた揺り籠で。イエズスのように」。