離婚

 

 

神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない(マタイ19・6)

 

 

 

 

1.聖書

2.善は連結させ、悪は分裂させる

3.『はなれないこと』は愛と慈悲

4.結婚愛より

5.マザー・テレサ

6.ルイザ・ピッカレータ

7.ヴァッスーラ

8.聖母から司祭へ

9.マリア・ワルトルタ

10.ナジュの聖母

11.結婚した配偶者のみを愛して、永遠に彼女と共に住み、決して彼女を去らせてはならない

12.マーリン・キャロザース

 

 

 

 

1.聖書

 

 

創世記2・24

 

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

 

 

 

申命記24・1−4

 

人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせるその女が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない。

 

 

 

イザヤ54・6

 

捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように

主はあなたを呼ばれる。

若いときの妻を見放せようかと

あなたの神は言われる。

 

 

 

マラキ書2・14−16

 

あなたたちは、なぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である。主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか。そのひとつのものが求めるのは、神の民の子孫ではないか。あなたたちは、自分の霊に気をつけるがよい。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。わたしは離婚を憎むとイスラエルの神、主は言われる。離婚する人は、不法でその上着を覆っていると万軍の主は言われる。あなたたちは自分の霊に気をつけるがよい。あなたたちは裏切ってはならない。

 

 

 

マタイ5・31−32

 

「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 

 

 

マタイ19・3−9

 

ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」

 

 

 

マタイ19・8−9

 

彼らに言ひ給ふ『モーセは汝らの心、無情(つれなさ)によりて妻を出(いだ)すことを許したり、然(さ)れど元始(はじめ)より然(さ)にはあらぬなり。われ汝らに告ぐ、おほよそ淫行の故ならで其(そ)の妻をいだし、他に娶(めと)る者は姦淫を行ふなり』

 

 

 

コリント1・7・27

 

妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。

 

 

 

コリント1・7・39−40

 

妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。

 

 

 

エフェソ5・22−33

 

妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。

わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」

この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。

 

 

 

 

2.善は連結させ、悪は分裂させる

 

 

天界の秘義4997

 

『神に向かって悪と罪を犯す』と言われているのは、悪は、また罪は、それ自身において観察されるときは、善から分離する事以外の何ものでもないためである。さらに悪そのものは分離[非結合]から成っている。このことは善から明らかである、なぜなら、善はすべて主に対する愛と隣人に対する愛のものであるため、善は連結であるからである。主に対する愛の善はその人間を主に連結させ、従って主から発出している善の凡てに連結させ、隣人に対する愛の善はかれを天界に連結させ、そこに在るいくたの社会に連結させるのであり、それゆえこの愛によりまた人間は主と連結するのである、なぜなら主は天界の凡ゆるものにおける凡ゆるものであられるため、元来天界と呼ばれている天界は主であるからである。

 

 

同4997[]

 

しかし悪の場合はその逆である。悪は自己への愛と世への愛のものである。自己への愛はその人間を主のみでなく、天界からも分離させるのである、なぜならかれはかれ自身をのぞいては何人も愛しないし、他の者は、かれがその他の者をかれ自身の中にみとめるかぎり、またその他の者がかれと一つのものとなっているかぎり、愛するにすぎないからである。そこからかれは凡ゆる者の注意をかれ自身に向けさせ、それを他の者たちからとくに主から外らせてしまうのであり、そして多くの者が一つに社会の中でそうしたことを行うときは、必然的に、凡ての者は分離してしまい、各々の者は心では他の者を敵視し、もしたれかがかれに不利なことを何か行うなら、かれはその者を憎悪して、その破滅を歓ぶのである。世への愛の悪もそれと異なっていない、なぜならこれは他の者の富と財産とをむさぼり求めて、その者にぞくしている凡ゆるものを所有しようと欲し、そこからまた敵意と憎悪とが生まれてくるが、しかしその度は(前の愛の場合よりは)低いのである。悪とは何であるかを知り、従って罪とは何であるかを知るには、自己と世への愛のいかようなものであるかを知ろうとつとめさえすればよいのである。そのことによりかれは悪の何であるかを知り、従って誤謬の何であるかを知り、またそのことから善の何であるかを知り、従って真理の何であるかを知るのである。

 

 

3.『はなれないこと』は愛と慈悲

 

天界の秘義3875

 

『はなれないこと』は仁慈であることは、仁慈は、またはそれと同一のことではあるが、相互愛は霊的な連結であるという事実から明白である、なぜならそれは意志の情愛の連結であり、またそこから生まれてくるところの理解のいくたの思考の一致であり、かくてそれは心が両方の部分の方面で連結することであるからである。その最高の意義では『はなれないこと』は愛と慈悲であることはそこから明らかである、なぜなら仁慈または霊的な愛について述べられるところの無限で永遠のものは慈悲であり、それはかくも大いなる悲惨の中に沈められている人類に対する神的愛[神の愛]であるからである。

 

 

 

4.結婚愛より

 

 

結婚愛251

 

(15)

「分離[別居]の原因もまた数多い。」寝床から分離することと家から分離することがある。寝床から分離する原因は数多い。同じく家から分離する理由も多い。しかしここでは正当な理由のみを取扱おう。分離[別居]の理由は蓄妾の理由と一致しているため―その蓄妾の理由は本章の後の部分にその題の下で取扱うであろう―読者はその理由を系統的に知るために、そこを参照されるように。分離[別居]の理由は以下に記すものである。

 

 

 

結婚愛252

(16)

「正当な分離[別居]の第一の原因は害われた心の状態である」。この理由は結婚愛は心の連結であるということである。それでもし一方の心が他方の心とは反対の方向に進むなら、連結は解消し、それとともに愛は去って行く。いかような害われた条件で分離[別居]するかは、それらを列挙することで明らかとなるであろう。それらは主として以下のものである、偏執、逆上、狂気、実際的な愚鈍と痴呆、記憶喪失、激しいヒステリー症状、善と真理とを何ら認めない極端な単純、義しい公正なものに服従することをあくまでも拒む頑迷、無意義な、軽薄な事のみを蝶々と話しまくることに対する無上の快楽、家庭の秘密を口外し、争い、打ち、復讐し、悪戯をし、くすね、嘘をつき、欺き、冒瀆する気ままな性向、幼児をかえりみないこと、浪費、贅沢、過度の放蕩、酔酒、汚穢、不謹慎、魔法と魔法に沈溺すること、不敬虔その他多くのものである。ここの正当な原因によって司法上の原因が意味されているのでなく、他方の配偶者にかかわる正当な原因が意味されている。家からの別居は事実裁判官により判決されることはまれである。

 

 

 

結婚愛253

(17)

「正当な分離の第二の理由は害われた身体の状態である」。身体の害われた状態により結婚している時の間に結婚した配偶者の何れか一方に降り掛かって、やがて過ぎ去って行く偶発的な病が意味されないで、過ぎ去って行かない、内在的な病的な状態が意味されている。病理学がその状態を教えている。それらは多様であって、例えば感染して致命的な結果を招くほどに全身を侵す病のようなものである。悪性の伝染病を持った熱病、癩病、性病、えそ、がん、その他それに類した病はこうしたものである。また全身を、共に生活して行くことが出来ないほどにも圧迫して、身体の表面からか、またはその内部からか、特に胃と肺臓から有害な臭気と有毒な発気を吐き出させる病気もそうしたものである。身体の表面には悪性の痘そう、いぼ、膿疱、壊血病の肺ろう、悪性のかいせんが在り―特に顔面がそれらにより汚されるならそうしたものとなる。胃からは、胸をむかむかさせる、不快な、悪臭の、不消化なおくびがおこり、肺臓からは有毒な悪臭が発して、それがのうよう、かいよう、のうしゅから、その中の腐敗した血液または腐敗した血液または腐敗したリンパ液から吐き出されている。これらの他にまた色々な名前の病気がある。例えば全身が衰弱し、力が喪失する憂鬱性精神病、運動に役立つ膜と靱帯が弛緩する中風、神経の緊張と弾力との喪失から、または体液の過度の濃度、粘着力、苛烈さから起る、ある慢性的な病気、てんかん、卒中から来る恒久的な衰弱、身体を消耗させる消耗病、吐糞病、腸腔病、脱腸、その他これに類した病のようなものである。

 

 

 

結婚愛254

(18)

「正当な分離の第三の原因は結婚以前の不能である」。これが分離の原因である理由は、結婚の目的は子孫の繁殖であって、それが不能のために不可能となるということである。そして彼らは事前にそのことを知っているため、その結婚した配偶者からその希望を、彼らの結婚愛を更に育て、強めもする希望を故意に奪い去るのである。

 

 

 

 

.姦淫は離縁の原因

 

結婚愛255

(19)

「姦淫は離縁の原因である」。これには多くの理由があって、それらは合理的な光の中にあるが、それでも現在は隠れている。結婚は聖いものであり、姦淫は汚れたものであり、結婚と姦淫とは互いに全く対立したものであり、そして対立したものが対立したものに会うと、一方は他方を、その生命[生活]の最後の火花にいたるまでも破壊してしまうことは合理的な光から認めることが出来よう。結婚した男が決意をもって、かくて確乎とした目的をもって姦通を行うとき、結婚愛にこうしたことが起る。天界と地獄について多少なりと知っている者たちはこうした考察は理性のさらに明澄な光に入ってくる、なぜなら彼らは、結婚は天界の中に在り、また天界から来ており、姦淫は地獄の中に在り、また地獄から来ており、この二つは、ちょうど天界が地獄に連結することができないように、連結することは出来ず、もしそれらが人間の中に共に集められるなら、天界はすぐに去って、地獄が入ってくることを知っているからである。それでこれが姦淫の理由である。それで主は言われている―

 たれでも姦通のためからでなくて、その妻を出し、他の者をめとる者に、姦淫を行うのである(マタイ19・9)。

 主が姦通の理由からでなくて、離別し、他の者と結婚する者は姦淫を行うと言われるのは、姦通の理由から離別することは、離縁と呼ばれる心の完全な分離であるが、しかし他の分離はすべて―それにはそれなりの理由があるが―前に取り扱ったばかりの分離であるためである。もしそれらの後で他の妻と結婚するなら、姦淫が行われる。しかし離縁の後ではそれは行われない。

 

 

 

 

5.マザー・テレサ

 

マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P41

 

親御さん方へ。私たちの世界の広大な領域が霊的な砂漠に覆われています。人として、自暴自棄になっている若者を、いたるところで見るでしょう。これは、彼らの心の奥深いところまで、影響を与えてしまうほどの、壊れた人間関係の結果です。たとえ若者たちが霊的な生活に渇いているとしても、彼らのほとんどは、猜疑心にさいなまれているのです。彼らは、神に自分たちの信頼を置くことができないし、また、信じることもできないでいるのです。

なぜなら、信用してきた人たちの生き方を信頼できなくなってしまったからです。両親の別れは、幼児期や思春期の子どもたちの純真な無邪気さに、傷をつけてしまうでしょう。その結果が、疑いと幻滅です。彼らはこのように感じています。生きている目的は一体なんだって言うんだ? 人生はまだ何か意味のあることだっていうのか?

 

 

 

 

6.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P110

 

野蛮なこの法律は、教会にとっては名誉毀損、私にとっては許すことのできない忌まわしいことである。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P222

 

「主よ、他の罰を与えるために私の状態を中断なさりたいのでしたら、私は容易にそれを承諾いたします。なぜなら、被造物がすべてにおいてあなたの聖なるご意志と一つになることは、正しいことだからです。けれども非常に重大な悪である離婚のことで、私のいけにえの状態が中断されることは受け入れることができません。むしろ、あなたの権能を私に施し、離婚法を望んでいる人たちの間に行かせてください。」

 

 

 

 

7.ヴァッスーラ

 

ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか―現代の預言者ヴァッスーラに聞く/P214

 

ヴァッスーラ:時折、夫婦の調和と一致に関するメッセージをいただくことがあります。今離婚が多いのは、家庭に神が不在だからです。家庭を築き上げている夫婦が神に結ばれ、神において結ばれていれば、別れたりはしないでしょう。なぜなら、不和は神からのものではないからです。ギリシャ語の「diable」という言葉は、分割する者を意味します。

神を中心にすえた家庭は、子供の宗教教育には理想的な環境です。それは理想の家庭でしょう。残念なことに、そううまくはゆかないものです。私自身の家庭でも、私が回心する前は、理想どおりにはゆきませんでした。今になって、わが家の家庭不和は、結局のところ神の不在のせいだったということに気が付きました。

 

 

 

 

8.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1993.11.23

 

 唯物論と快楽主義がどれほどこの大きな国を脅かしているかをごらんなさい。

 快楽、金銭、安易な生活、娯楽、不潔の追求が、多くの人にとって生活の唯一の“あこがれ”となっているのです。

 そのために、小さな人々は悪の道にさそわれ、青年たちは悪徳と麻薬のとりことなり、家庭は離婚と利己的な生命の拒絶によって破壊されています。

 迷ってしまったこの哀れなわたしの子らを、父の家に連れもどしなさい。このために、あなたたちは、イエズスがあなたたちに任せてくださったすべての秘跡、中でも罪の赦しの秘跡をもって、恵みと聖徳の忠実な奉仕者となりなさい。

 

 

 

 

9.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P186

 

 マリアが言われる。

「多くのことを語りません。私のことばは、すでに教訓だからです。けれども、妻たちに注意を促したいことが一つあります。あまりにも多くの婚姻の絆が、いつの間にか不和、分裂に至ることです。この多くは、夫に対しての思いやり、同情、慰めなどとなる愛を知らない妻たちの責任です。

男には、女にのしかかっている物理的な苦労はあまりありませんが、多くの精神的な苦労に圧倒されることがあります。仕事のこと、さまざまの決断、世間、または家族に対する責任・・・。おお、どれほどのことが男にのしかかっているか! 彼も慰めを、どれほど必要とするか! それなのに、疲れ切って幻滅を感じている。あるいは、落胆して心労に打ちのめされている夫に向かって、妻はむだな、時として正しくない愚痴や、不平の重荷を加えるのです。以上のことすべては、女が自己中心のエゴイストで、愛していないからです。

愛するとは、感情、または利益に自己満足を探すことではありません。愛するとは、感情と利益を超えて、愛する相手に満足を与え、希望と平和に生きるために必要な助けを与えることなのです。」

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷中P131/531・11

 

「そして、わたしは夫が望むままの奴隷でした。わたしに夫への反発を感じさせたのは何か、ご存知ですね?」。

 

「はい、知っています。あなたの体の中で魂が目覚め、女ではなく、一人の人間に戻ったからです」。

 

「そのとおりです。わたしは、自分の家を品位あるものにしたいと思いました・・・夫はアンティオキアの執政官になることを希望し、『ついて来るな』とわたしに言い、お気に入りの女奴隷たちを連れて行きました。おお! わたしは行きません! わたしには娘がいます。わたしにはすべてがあります」。

 

「いいえ。あなたはすべてを持っているわけではありません。一部だけです。あなたを有徳にするすべての中のほんの一部です。すべてです。あなたの娘は、あなたを不正に導くのではなく、すべてへの正義に導くべきです。娘のために、娘と共に、有徳な人になるのが、あなたの義務です」。

 

「わたしは、あなたをお慰めするために来ましたのに、あなたがわたしを慰めてくださっています。でも、ここへ来たのは、もう一つお尋ねしたいことがあるからです。この幼い娘を、救い主にふさわしい者に育てるには、どうしたらよいでしょう? わたしは改宗者になることを考えていましたが、娘もそうできたらと・・・」。

 

「あなたの夫は?」

 

「おお! あの人とは、すべて終わりました」。

 

「いいえ。すべては、今始まったばかりです。あなたはまだ、彼の妻です。夫を良くすることは、良い妻の務めです」。

 

「あの人は、わたしと離婚したがっています。きっと、そうするでしょう。ですから・・・」。

 

「そうするでしょう。でも、まだしていません。まだしていない限り、あなたはあなた方の法によっても、彼の妻です。ですから、その地位にあることが、あなたの務めです。家の中で、あなたの地位は夫に次ぐものですから、あなたの娘に関しても、使用人たちに関しても、世間に関しても第二位です。あなたは、夫が悪い手本を示していると考えています。それは本当です。だからと言って、あなたが立派な手本を示さなくてよいということにはなりません。夫は去りました。確かです。あなたは、娘と使用人たちに対して、第一位にならなければなりません。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷中P132/531・12

 

あなた方の習慣のすべてが非難に値するわけではありません。ローマが今ほど堕落していなかったころ、女性たちは貞淑で、勤勉でした。徳と信仰の生活で神に仕えていました。彼女たちは、異教徒という悪条件のもと、偽の神々に仕えていましたが、その理念(イデア)は立派でした。彼女たちは、宗教の理念に徳をささげました。宗教を尊重したいという思いにかられ、その真の名は知らないながらも、神話のとおりに、オリンポスに住む、淫らに堕落した神々よりも、もっと偉大なその方がおられることを感じていました。あなた方のオリンポスも、神々も存在しません。けれども、あなた方の古(いにしえ)の徳は、固い信念から生まれたものでした。その信念とは、神々に愛情深く見守られたいならば、徳ある人でなければならないというものでした。あなた方が礼拝する神々に対して、そうしなければならないと感じた結果でした。世間的な目には、とくに、わたしたちヘブライの世界では、存在しないものを崇めるあなた方は馬鹿げて見えました。けれども、永遠の真の正義、いと高き方、万物を創られた唯一全能の創造者の目に、これらの徳、これらの敬意、これらの義務は、むなしいものではありませんでした。善はつねに善です。信仰は、つねに価値があります。宗教は、その信仰者が真実であると確信して、従い、実践し、支持するなら、常に価値があります。

あなたに、古の貞淑で勤勉で忠実な女性を真似るように勧めます。あなたの地位に留まりなさい。あなたの家の柱であり、明かりでありなさい。あなたが一人だからと言って、使用人たちから尊敬されなくなると思ってはいけません。今まで、あなたは恐怖によって仕えられ、時には、憎悪や反感を隠されていました。これからは、愛によって仕えてくれるでしょう。不幸な人は不幸な人を愛します。あなたの奴隷たちは、悲しみを知っています。あなたの喜びは、彼らにとって辛い突き棒でした。あなたの苦しみ、最もひどい苦しみは、あなたから女主人の冷たい光をはぎ取って、哀れみという温かい光であなたを包むでしょう。ヴァレリア、あなたは愛されるでしょう、神から、あなたの娘から、あなたの使用人たちから、あなたが妻でなくなり、離婚した女になったとしても、覚えておきなさい(と、イエスは立ち上がり)、法的な別離は、結婚の誓いに忠実でなければならないという、女性の義務を失効させるものではありません。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷中P133/531・13

 

 わたしたちの宗教に入りたいと、あなたは言います。わたしたちの神の教えに、『女は夫の肉からの肉であるから、神が一つの体にしたものを、なにものも離すことはできない』とあります。わたしたちの世界でも離婚はあります。それは、人間の欲、原罪、人の堕落から来た、悪い結果です。神は言葉を変えておられません。神はアダムに言いました。そのときのアダムは、まだ罪によって知性が暗くされていない状態でした。『夫と妻は、ひとたび結ばれれば一体になる。死や病の災厄以外で、引き裂かれることはない』と。モーセの律法では、ひどい罪を避けるため、離婚において、女性にほとんど自由がありません。離婚した女は離婚したままであろうと、再婚しようと、人びとから低く見られます。神の目には、夫の悪意によって離婚した女性は、不幸な女性です。しかし、女が恥ずべき罪によって離婚し再婚するならば、その女は罪びとであり、姦通者です。でも、あなたはわたしに従うためにわたしたちの宗教に入りたいと言います。そこで、神の言葉であるわたしは、完全な宗教がもたらされるこの時に、多くの人びとに言うのと同じことをあなたに伝えます。神が一つにしたものを引き離すことは法に背きます。男であれ女であれ、配偶者がまだ生きているうちに再婚する人は、姦通者です。

 離婚とは、合法的売春です。男と女に好色の罪を犯させます。男と女に好色の罪を犯させます。離婚した女性が生きている男性の忠実な未亡人であり続けることは決してありません。男と女も、別の結び付きに移行するなら、人間から動物のレベルに落ちます。動物なら、肉欲次第で雌を変えることが許されます。家族にも祖国にも危険な合法的姦淫は、無垢の子供たちへの罪です。離婚した夫婦の子供たちは、親を裁くに違いありません。子供たちの裁きは厳しいです! 少なくとも、子供は片方の親を断罪します。子供たちは、親の利己心によって、愛情ある生活を奪われます。そして、離婚が家族に及ぼす影響として、子供たちは父か母を奪われるばかりでなく、子供たちが頼りにする親が離婚すれば、愛情ある生活はますます奪われます。再婚による新しい子供たちと愛を分け合うか、完全に愛を吸い取られてしまうからです。

 結婚して離婚した男女の再婚生活について話すことは、結婚の意味と実績を冒瀆します。再婚が正当化されるのは、配偶者の死によって寡婦または寡夫になった場合のみです。そうは言っても、人間の運命を支配される方の公正な判決に従うほうがよいでしょう。そして、死によって結婚生活が終わったとしても、貞淑であり続けるのがよいでしょう。子供たちのために尽くし、子供たちのうちに亡くなった伴侶を愛するのです。物質的なものをすべて奪われた、真の聖なる愛、かわいそうな子供たち! 家庭の崩壊や死の後に、継父や継母の厳しさを経験しなければならず、愛撫を血のつながらない兄弟と分け合わねばならず、苦しみます!

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷中P135/531・14

 

 いいえ。わたしの宗教に、離婚はありません。新しい結婚のために、民法によって離婚する人は、姦通者、罪びとになるでしょう。人間の法律が、わたしの掟を変えることはありません。わたしの宗教において、結婚は世俗的な結婚は、指名された証人の前で結ばれる契約で、死によって滅びる約束です。わたしは結婚を秘蹟として聖別し、分かつことのできない結びつきとして定め、固めます。あなたに分かるように言うなら、聖なる儀式です。わたしの聖別の力は、あらゆる結婚の義務を正しく遂行するのを助けるでしょう。でもそれは、その結び付きが解き難いことを宣言するものになるでしょう。

 これまでの結婚は、両性間の相互的、自然的、道徳的契約でした。わたしの掟が施行されるときには、二人の魂にまで及ぶことになります。すなわち、神の聖職者を通して神によって聖化される霊的契約になります。神に勝るものがないことを知っていますね。ですから、神が合わせたものを、どんな権威も、法も、人間の気まぐれも、引き離すことはできません。

『あなたとならば、どこへでも』という、あなた方の儀式は、わたしの儀式でも継続します。死は終わりではなく、夫は一時的に妻と別れるだけですから、愛の義務は死後も続きます。だから、わたしは、寡婦たちは貞淑であることが好ましいと言います。首を振ってはいけません。それが義務であり、わたしに従いたいと本当に望む人は、それを果たさなければいけません』。

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷中P136/531・15

 

「先生、今日は厳しいことをおっしゃいます」。

「いいえ。わたしは先生です。わたしの前には、恵みの生活において成長できる人がいます。あなたが、こういう人でなかったら、あなたにこれほど要求しないでしょう。けれども、あなたは性質が良く、苦しみによって、あなたはますます清く、強くされています。いつかあなたは、わたしがこう言ったことを思い出して、ありがたく思うでしょう」。

「夫はもう帰って来ないでしょう・・・」。

「では、あなたは進みなさい。無垢な子の手をしっかり握って、正義の道を進みなさい。憎まず、復讐せずに。むなしい期待をしたり、失ったものを惜しんだりしてはいけません」。

「では、わたしが夫を失ったことをご存知なのですね!」。

「はい。でも、あなたが失ったのではなく、夫があなたを失ったのです。彼はあなたにふさわしくない人でした。聞きなさい・・・つらいでしょう。分かります。あなたは、わたしを慰めるために、バラと無邪気な微笑みをもたらしてくれました・・・わたしは・・・わたしはあなたに、捨てられた妻たちのイバラの冠を整えることしかできません・・・でも、よく考えなさい。もしも、ファウスタが死にそうだったあの朝に戻れるとして、あなたは娘か夫かどちらかを選ばなければならず、どちらかを必ず失わなければならないとしたら、どちらを選びますか?・・・」。

 

 

 

 

 

 

隣人への愛において、あなたは孤独の憂鬱への対処を助けられるでしょう。

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷中P138/531・16

 

「わたしもまいります、先生。わたしの新しい生活には、あなたの言葉が必要です・・・」。

「心配せずに、行きなさい。神は、助けを求める人を助けなしに置かれることはありません」。

「信じます・・・おお! わたしたち異教徒の世界は、なんと悲しいのでしょう!」。

「神における真の生活がない所では、必ず悲しみがあります。イスラエルでも泣いている人がいます・・・もはや、神の掟に生きていないからです。さようなら。あなたに平安がありますように」。

 

 

 

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P195

 

 次に話すのは婚姻である。モーゼの律法では婚姻は契約であった。キリストの教えでは、婚姻は聖なる結びで解くことのできない事である。それに神の聖寵が降り、二人を人類を増やすための協力者にする。主においての信者同士の場合は、どんな理由があろうとも、神が結んだ者であるから解いてはならない。それにキリスト信者であって異邦人と結ばれている場合、私はその信者の一方には、自分の十字架と自分の信仰を守るために、たとえ死に至ったとしても、納得して選んだ配偶者から離れないで、忍耐と柔和と剛毅をもって計らうように勧める。

 婚姻については、より完全な生活のために、そしてキリスト教の発展によって、信者同士の結婚ができるまでの私の助言である。そうなれば結びは聖なるもの、解けないものとなる。だが人間の心の固さのために、古の旧約の時に起った事が新教でも繰り返されるならば、嘆かわしい事である。それはどんな事であったかと言えば、人間の肉欲によって生じた様々の躓きを避けるために、相手を排除し結びを解く事である。真に言うが、配偶者の一方が死ぬ前に新しい婚姻を結ぶ事は、許されてはいない。私があなたたちに与えた権威をゆがめる如何なる圧力も許されてはいない。だが、次の場合もある。腐敗している相手を教会に止めて、聖徳に背く事を許すよりも、一方が離れる事を許すべきであろう。なぜなら、そういう事を許す事は、謙遜な人々を躓かせ、教会の尊さを疑わせ、すべての真の価値を疑わせるに至るからである。婚姻は重大かつ聖なる行為である。私は、それを見せるために婚姻式に与り、そこで奇跡を行った。しかし、婚姻が邪欲と我儘に変わるならば、災いである。男と女の間で自然の契約であった婚姻は、今から霊的婚姻にあげられる。それによって二人は、互の愛で主に仕える事を誓い、その互いの愛は、主に子孫を与えて、その命令に従事する。

 

 

 

 

10.ナジュの聖母

 

レイモンド・スピース/韓国における聖母マリアから血と涙/P68

 

マリアさま。

おぉ、わが娘よ!ごらんなさい。

いま世界の罪悪はますます広がり、暗黒が攻撃してきます。多くの家庭が病にかかっているので、この世に平和があり得ないのです。夫婦はたがいに幸福に暮らすように結ばれたのに、愛の乏しさゆえに、互にゆるしあわないで憎んだり、ねたんだり、嫉妬したりして離れてしまいます。さぁ、娘よ、家庭の平和がどこまでつづくか見てごらん。

 わたしが目を開けられるようにしてください。わたしの目は、あらゆる冒涜から受ける打撃で充血しています。毎日流れるわたしの涙を拭ってください。

 

 

 

 

11.結婚した配偶者のみを愛して、永遠に彼女と共に住み、決して彼女を去らせてはならない

 

 

霊界日記6106

 

私は以下のように言った、地獄では淫行と姦淫を行うことは許されてはいるが、天界では許されてはおらず、ただ単にその結婚した配偶者のみを愛して、永遠に彼女と共に住み、決して彼女を去らせてはならないのである、と。

 

 

 

 

12.マーリン・キャロザース

 

 

マーリン・キャロザース/この世に天国を/P17

 

赦そうとしない人々に共通する特徴は、自分自身の過ちを見たがらないことです(もしかしたら、それができないという事かもしれませんが)。私たちの教会員の一人の婦人が次のような話をしてくれました。彼女の結婚生活は何年間もローラーコースターのように上がったり下がったりを繰り返していました。彼女とご主人は一度離婚を体験しており、別居生活も何度かしてきました。彼女はクリスチャンになり、私たちの教会にやって来ました。それというのも夫のために神に賛美する方法を学び、神に夫を変えていただきたいと思ったからでした。彼女は、夫の利己的で自分本位の態度が二人の間のすべての問題のもとになっていると考えました。

 

 しかし彼女が賛美しても目に見える効果は全くありませんでした。離婚することを再び考えた、3日間の別居生活の間、彼女は最後にもう一度だけ努力してみることを神のみ前で決心しました。「私は、自分自身と神に対して全く正直になり、自分をごまかすのは一切やめることにしたのです」と彼女は私に言いました。

 

彼女と夫は翌朝、教会にやって来ました。説教の間に、彼女は、自分自身が神の赦しを必要としているという強烈な思いに捕われました。祭壇にひざまずいて彼女は泣きに泣きました。そして自分の席に戻ると夫にも赦しを願いました。「突然、私の心は夫への感謝の気持ちで一杯になりました」と彼女はその時の気持ちを伝えています。

 

「おかしなことに、私はずっと、夫が悪いのだと思っていました。夫が私に赦しを請わないし、何事に対してもすまないと非を認めたこともないので私は怒っていました。でもとうとう、私の方がすべてをひっかき回していたことがわかりました。私の方こそ、赦されなければならない、利己的で自分本位の人間だったのです。」

 そして、愛と平安に満ちた彼女の心からは賛美がほとばしるようになりました。かつての憤りは完全に消え去っていました。