結婚
神が結び合わせてくださったものを、
人は離してはならない(マタイ19・6)
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.マリア・ワルトルタ
4.かれらは最初他生に入ってくると、実際会うには会うが、しかし間もなく離れてしまう
5.天界の結婚
6.奈落の結婚
7.地上の結婚
8.結婚と姦淫とにかかわる色々な特殊な事項について
9.ユダヤ民族が偶像崇拝の民族と結婚を禁じられた理由
10.人間は、教えられないでは、性的愛についても何ごとをも知らない
11.天界と教会は結婚と呼ばれ、それ故神の国は聖言には結婚に譬えられている
12.18歳の青年と15歳の娘
13.天界の結婚について(『結婚愛』より)
1.聖書
創世記2・24
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
マタイ19・3−6
ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
マタイ22・30
復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
マタイ24・38
洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
マルコ12・25
死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
ルカ17・26−27
ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。
ルカ20・34−36
イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って使者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義54
「彼らを男と女とに創造られた。」『男と女』の文字の意義は最古代教会には良く知られていたが、しかし聖言の内なる意義が彼らの子孫の間に失われてしまった時、このアルカナもまた滅んでしまったのである。彼らの結婚は幸福と歓喜の主要な源泉であり、結婚に比較することの出来る物をことごとく彼らはそれに譬えたが、それはそのことにより、その浄福を認めるためであった。彼らはまた内なる人であったため、内なる物のみを喜んだのである。外なる物は単に眼で眺めたに過ぎないで、そこに表象されているものを考えたのである。かくて多少なりと彼らにその思いを内なる物に向けさせ、内なる物から天的な物に向けさせ、かくして彼らの凡てである主に向けさせ、従って天界の結婚に向けさせる手段となり得る物を除いては外的な物は彼らには無価値なものであったのである―彼らは自分たちの結婚の幸福は天界の結婚から発していると認めたのである。それで彼らは霊的な人における理解を男と呼び、意志を女と呼び、これらが一つのものとして活動する時、それを結婚と読んだのである。その教会から慣習的なものとなった言葉の形式が生まれてきて、そのことにより教会そのものはその善を求める情愛から―『シオンの処女』『エルサレムの処女』といった―『娘』『処女』と呼ばれ、また『妻』とも呼ばれたのである。しかしこれらの主題については次章の23節、3章15節を参照されたい
天界の秘義718
いかようなものも、一種の結婚無しには決して存在しないし、また生み出されもしない。人間の有機的な形そのものの中には、その合成的なものの中にも、単一的なものの中にも、また最も単一的なものの中にさえも、受動的なものと能動的なものが在り、それが若し男と妻の結婚のような結婚におけるように結合していないなら、それはそこに存在することすら出来ず、まして何物をも生むことが出来ないのであり、このことは遍く自然全体について言われるのである。この不断の結婚はその源泉と起原を天界の結婚から得ており、それにより自然全体の凡ゆる物の上に、その生命を持った物の上にも、生命を持たない物の上にも、主の王国が印刻されているのである。
天界の秘義747
『二つづつ』は相応しているものを意味していることは、たれでもそれらが対になっていることから認めることが出来よう。それらは善と真理が、悪と誤謬が互に他に相応しているように、互に他に相応していない限り、対になることは出来ない。なぜなら理解は意志と結婚しているために、または理解のいくたのものが意志のいくたのものと結婚しているために、真理は善と、また悪は誤謬と結婚しているように、または結合しているように、凡ゆる物の中には結婚に、または結合に類似したものが在るからである。そして実に凡ゆる物はその結婚またはその結合を持っており、それがなくてはそれは到底存在することは出来ないのである。
天界の秘義5002
「彼女と共にならなかった」。これは、そのようにしてそれが結合しないように、を意味していることは、たれかと『共になること』の意義から明白であり、それは更に密接に連結することであり、または結合することである。『(共に)なること』は結合することを意味しているのは事物の存在そのものは善であり、善はすべて愛のものであり、愛は霊的な連結または合一であるためである。ここから主はその最高の意義では、主から愛または霊的な連結のものである善がことごとく発しているため、存在またはエホバと呼ばれ給うている。天界は主から発する愛を通し、またその愛を受けることを通して代って主を愛することを通し、相互的な愛を通して一つのものとなっているため、それでそれは結婚と呼ばれ、その結婚を通して、それは存在しているのである。教会も、もし愛と仁慈とがその教会の存在であるならば、同様になるであろう。それゆえ連結または結合がないところには、存在はないのである、なぜなら一つのものにする、または結合させるものがない限り分離し、消滅しなくてはならないからである。
天界の秘義7022
能動的なものと受動的なものとが存在しているところには結婚に似たものが存在しており、何らかのものが存在するようにならなくてはならないところには能動的なものと同時に受動的なものとが存在しなくてはならないのである、なぜならその二つのものが連結しなくては何一つ決して生み出されることは出来ないからである。凡ゆる物の中に結婚に似たものが存在しているのは、凡ゆる物は善と真理とに関連しており、かくて善と真理との結婚である天界の結婚に関連しており、天界の結婚は神的善と神的真理との結婚〔神の善と神の真理との結婚〕である神的な結婚〔神の結婚〕に関連しているためである。そして前に言ったように、能動的なものと受動的なものとが存在しない限り、かくて結婚に似たものが存在しない限り、何一つ存在し、生み出されることが出来ないため、信仰に属した真理は仁慈に属した善が無くてはいかようなものも生み出すことは出来ないし、仁慈に属した善も信仰に属した真理が無くてはいかようなものも生み出すことは出来ないのであり、果を生み出し、人間の中に天界の生命を作るためにはその両方のものが連結しなくてはならないことが非常に明白である。
黙示録講解710ハ[25]
ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。
イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」 そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。
だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」
イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。 言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。 イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。
結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
(マタイ19・3−12)
これは内的なアルカナを含んでいることは主が『凡ての者がこれらの言葉を受け入れるのではなく、そのことが与えられている者が受け入れるのです』と言われたことから認めることができよう。主により話されているこれらの言葉の中に含まれている内的なアルカナは、人間によりほとんど把握されてはいないが、しかし天界の凡ての天使により把握されているのは、かれらは主のこれらの言葉を霊的に認めているためであり、含まれているアルカナは霊的なものである。これらのアルカナは以下のものである、すなわち、諸天界には実に地上におけるように結婚が行われているが、しかし諸天界においては結婚は似た者が似た者と結婚するのである、なぜなら男は理解から行動するように生まれており
黙示録講解617ホ(31)
マタイ伝には―
代の終結においては洪水以前に在ったようになるであろう、即ち、食べ、飲み、結婚を約し、結婚において与えるであろう(マタイ24・38、ルカ17・20−28)。
『食べ、飲み、結婚を約し、結婚において与えること』はここには食べ飲むことを意味しないし、また結婚を約することも、結婚において与えることも意味してはいないし、『しかし食べること』は悪を己がものとすることを、『飲むこと』は誤謬を己がものとすることを意味し、『結婚を約し、結婚において与えること』は悪と誤謬を、誤謬と悪を連結させることを意味している、なぜならこれは、最後の審判が切迫している時は、教会の状態を取り扱っているからである。なぜならこのことが『代の終結〔結末、終局〕』により意味されるからである。明らかに悪い者と同じく善い者もその時食べ、飲みつつあるのである、なぜなら食べ、飲むことの中には悪は何一つ無く、このことを洪水以前に彼らもまた行ったからであり、彼らが死滅したのはそうした理由のためではなく、彼らが彼ら自身に悪と誤謬を所有し、彼ら自身の中にそれらを連結したためであり、それでこのことが『食べ、飲み、結婚を取り結び、結婚において与えること』により意味されているものである。
天界の秘義4334〔4〕
「食べ、飲み、娶り、嫁がせしていた」
は、悪と誤謬とを己がものとして、その結果、その悪と誤謬と連結する彼らの状態を意味している。『食べること』は善を己がものとすることを意味し、『飲むこと』は真理を己がものとすることを意味し(3168、3513、3596番を参照)、かくてその対立した意義では悪と誤謬とを己がものとすることを意味している。『娶る〔結婚する〕』は悪と連結することを、『嫁がせる』は誤謬と連結することを意味していることは、結婚と婚姻愛とについて言いもし、また示しもしたことから認めることが出来よう(686、2173、2618、2728、2729、2737−2739、2803、3132、3155番)。即ち、内意ではこれは善と真理との連結であるが、しかしここではその対立した意義における悪と誤謬との連結である。何であれ主が語られたことはことごとく神的なものであって、その内意は文字の意義とは同一ではないのである。かくて聖餐における食べることと飲むことは霊的な意義では食べることと飲むこととを意味しないで、主の神的な愛の善を己がものとすることを意味しているのである(2165、2177、2187、2343、2359、3464、3478、3735、4211、4217番)。婚姻は、それが教会と主の王国とについて述べられている時は、愛の善が信仰の真理と連結することであるため、それでこの連結から主の王国は聖言では天界の結婚と呼ばれているのである。
天界と地獄382
地上には婚姻は霊のみでなく、肉体の婚姻であるため、婚姻がある。が、天界では[そうした]婚姻はないため、そこに配偶者たちは夫と妻とは呼ばれておらず、二つの心が結合して一つのものになっているという天使たちの考えから、一方の配偶者は他方のものを自分自身のものといいう意味の名前で呼んでいて、それが相互に、また交互に行われている。こうした事柄から婚姻についての主の御言葉はいかように理解されねばならぬかを知ることができよう。(ルカ20・35,36)。
結婚愛308
結婚は祭司によって聖別されなくてはならない
天界の秘義2173
諸天界における主の王国にはこうした結婚があり、また地上における主の王国の中にも、すなわち、教会の中にもこうした結婚があり、人間各々の中にも、人間の単一なもの各々の中にも、いな、すべての中でも最も単一なものそのものの中にさえもこうした結婚があるのである。こうした結婚の中にいないものは生きてはいない。いな、かの神的な結婚から自然全体の中に、自然の個々のもの各々の中にもこうした結婚があるが、しかしそれは他の形と外観をもって存在しているのである、もしそうでないなら如何ようなものもそこには存続しないであろう。
天界と地獄366
天界は人類から発し、それゆえ天使たちは両性の天使たちであるため、また創造から女は男のために、男は女のためにおり、引いては一方は他方のものに属しているため、またこの愛は両方の中に生まれながらあるため、地上のみでなく、天界にも結婚のあることが生まれて来る。それでは天界の結婚はいかようなものであり、またそれは地上の結婚といかような点で相違し、またいかような点で一致しているかを今告げよう。
結婚愛41
霊的婚姻により主と連結することが意味されており、これは地上で行われ、そしてそれが地上に行われるとき、天界でも行われ、それで彼らは再び天界で娶り、嫁ぎはしない。そしてこれもまた『この代の子らは娶り、嫁ぎはするが他の代に至るにふさわしいと考えられる者は娶らないし、また嫁ぎもしない。彼らはまた主から婚姻の子と呼ばれており』(マタイ9・15、マルコ2・19)、ここでは天使、神の子、甦りの子と呼ばれているという御言葉によって意味している。結婚することは主と連結することであり、結婚に入ることは主により天界に受け入れられることであることは以下の記事から明白である―
天国は自分の息子のために婚礼を催し、僕たちを遣わして、婚姻に招いた王である人間に似ている(マタイ22・2−14)。
天国は花聟に会おうとして出て行った十人の処女に似ている。備えが出来ていたその中の五人は婚礼に入った(マタイ25・1以下)。
そこの13節により(そこには『目を覚ましていなさい、あなたらは人の子の来る日も時間も知らないからである』と言われているが)、主はここで御自身を意味されていることは明らかである。また「黙示録」からも明らかである―
小羊の結婚の時が来て、その妻は備えをした。小羊の結婚の宴に招かれた者は幸いである(黙示録19・7、9)。
結婚愛54[3]
しかし世で未婚のままに生活し、心を全く結婚から遠ざけてしまった者は、もしその者が霊的なものであるなら、ただ一人のままに止まるが、しかし自然的なものであるなら、娼婦漁りとなる。しかしその独身の状態で結婚を求めた者は異なっており、結婚を求めたが、それが成功しなかった者は更に異なっている、なぜならその時、もし彼らが霊的なものであるなら、祝福された結婚が与えられるからである―しかしそれは彼らが天界に入らない中は与えられない。
結婚愛54[4]
修道院にその生涯の終わりまで閉じ込められている者たちは、即ち、処女たちと男とは―それは死後もしばらくの間続きはするが―釈放されて、自由に振舞い、結婚生活に入ることを欲する、欲しないに拘らず、その願い求めている自由を得ることを許されている。もし彼らが結婚を願うなら、結婚をし、もし願わないなら、天界の脇で独身生活を送っている者たちのもとへ連れて行かれる。しかし禁じられた色情で燃えている者らは投げ落とされる。
結婚愛330
男たちがその主題を論じている間に、ある妻たちが来て言った、『私たちにも列席させてください。それはあなた方はあなた方の論じている主題を知識から教えられますが、私たちは経験から教えられるからです。それにあなた方はまた妻の愛については殆ど知らないと言っても良い程知ってはおられません。夫に対する愛を自分の胸の奥深くに、またはその心の間中に隠すことが妻の知恵の深慮であることをあなた方は知っておられますか』
結婚愛331
『どのような妻もその夫をその顔のために愛するのではなく、その職業と作法における理知のためにこれを愛します。それで妻は夫の理知に自分自身を結合させ、引いては夫に自分自身を結合させることを知ってください。それでもし夫が自分自身の理知のために自分自身を愛するなら、彼はその愛をその妻から自分自身へ移してしまし、そこから分離が生まれこそすれ、結合は生まれません。更に自分自身の理知を愛することは自分自身から賢明になることであり、これは狂うことであり、それで自分自身の狂気を愛することです』。
結婚愛353
そして男は各々生来自分自身を愛する性向があるため、自分自身に対する愛と自分自身の理知を誇る自負心のために滅びることのないように、この男の愛が妻に書き写され、それが彼女の中に生来植え付けられ、彼女はその夫の理知と知恵を愛し、それでその夫を愛し、そのことによって妻は夫の自分自身の理知を誇る誇りを妻自身に吸引して、夫のもとではそれを消滅させ、妻自身のもとではそれを活かし、かくしてそれを結婚愛に変え、それに測り知れない悦ばしさを満たすように創造から定められたのである。このことは以下の理由から定められたのである、即ち、自分自身の理知に対する愛である蛇から言われ、説得されたように、男が自分自身の理知を誇って、自分は自分自身から理知的になり、賢明になるのであって、それは主からではないと信じ、かくて善と悪とを知る知識の木の実を食べて、それにより自分が神のようなものであり、実に神であると信じる程にも狂わないためである、そうした理由から、そのため人間はそれを食べた後では楽園から追放されて、生命の木への道は天使により警戒されたのである』。楽園は、霊的には、理知であり、生命の木の実を食うことは、霊的には、主から理解し、知恵を得ることであり、善悪を知る知識の木の実を食うことは自己から理解し、賢明になることである。
結婚と姦淫について
霊界日記4405
霊界日記4406
霊界日記4407
結婚愛[婚姻愛]について
霊界日記4408
霊界日記4409
霊界日記6051(5)
人間は婚姻愛により内部にも外部にも信仰の形を受け入れ、姦淫により、地獄の形を受け入れるのであり、また天界の愛は専ら婚姻愛を通して植付けられる。
霊界日記6051(6)
婚姻愛は凡ゆる愛の中でも根元的な愛である、なぜなら、人間は愛の形となる時、彼は主の映像となり、もしそうでないと、その逆のことが生まれてくるからである。
霊界日記6051(7)
それで、婚姻愛の歓喜は、数においても、質においても、他の凡ゆる愛にまさっている。
霊界日記6051(9)
諸天界では、結婚により、智恵が増大しており、そこでは、その増大することが子供を生むことに代わっている。
霊界日記6051(12)
それで結婚した配偶者を愛することは、主の眼前で善を行うことである、なぜならそれはかくて、貞潔から、主を愛することであるからである。そのことは諸天界と交流し、天使たちの霊魂を、信じることも出来ないほどにも、歓ばせるのである。
霊界日記6051(13)
一種の性交もまた在り、それは貞潔から発出している時は、かの愛の結果であるからには、天界を最高度に歓ばせるのである。それに反し、それが姦淫から発しているに応じ、彼らを苦しめるのである。
霊界日記6106
私は以下のように言った、地獄では淫行と姦淫を行うことは許されてはいるが、天界では許されてはおらず、ただ単にその結婚した配偶者のみを愛して、永遠に彼女と共に住み、決して彼女を去らせてはならないのである、と。
結婚と姦淫とにかかわる色々な特殊な事項について(*)
*この項は将来スエデンボルグが執筆しようとする「結婚愛」の草案として記されたものであることは疑いを容れない。
霊界日記6110
いかような方法で、女性は無垢として、また男性もいかような方法で無垢として生まれているか。女性はいかようにして善の情愛[善と真理に対する情愛]となるか―そのことは彼女が結婚しようとするとき起るのではあるが―またいかようにして男性は真理の理解[真理を理解すること]となるか―そのこともまた、かれが女性を愛そうとするとき起るのである。
霊界日記6110(1)
いかようにしてこの次のものが、各々の者のもとで増大し、ついに結婚が起るか、またいかようにして真理の理解がそのとき真理の情愛[真理に対する情愛]を制御し、それらのものが結合するか。
霊界日記6110(2)
女性的なものは、また男性的なものは、内部ではいかようなものであるか。女性的なものは、内部では、夫を優しく愛することであるが、しかし彼女らは夫がそのことを知らないように願っている、かくて、夫は支配するが、そうしたことを行う能力を得ない者らは無能となる。天使たちの妻たちは私がそのことを明らかにしてはならない、と言ったが、しかし私はそれを明らかにしようと言った。そのことは彼女らがそれが彼女らの弱点である、と考えているためであったが、しかしそれは真理の善、善の真理そのものである。
霊界日記6110(3)
いかようにして二人の結婚した配偶者は婚姻愛を通して愛の一つの形となるか。二人の心が結合することを通して身体の形が生まれてくる。人間の形は、情愛と情愛から生まれてくる理解とに応じており、または愛の事柄とそこから生まれてくる智恵の事柄に応じている。っこれが神の映像であり、神に似た形である、創世記1・26。能力は増大し続けて、ついにそれは不断のものとなる。
霊界日記6110(4)
男は女が拒絶することを望んでいる多くの理由。或る者らのもとではそれは凌辱しようとする色情であり、或る者のもとではそのことにより能力を掻き立てることである。それは色々の原因から、特に精神的な原因から起っている。 彼らは終いには猫のようになる、猫は互に他を引き裂き合い、静止し、互に他を凝視し、悲しげにうなり声を立て、密かにそのことを行おうとするのである。女たちはそのことが明らかにされると狂ったように怒るのである、彼女らは、自分らはそれを望んではいないことを、恰も内的な意志が言明するようにも言明する。その理由はもし彼女がそうしたことをしないなら、能力が消滅してしまうためである。
姦淫は罪ではないという、心に抱かれる単なる結論は人間を姦通者としてしまう、そのことは「生命の教義」(*)の中でこの主題について言われた事柄から示されている。心における結論はことごとく身体の努力を構成し、努力は本質的な行為である。
私は、猫について、猫はなぜそうした性質を持っているのか、と尋ねた。以下のように述べられた、雌の猫のもとでは、先ず戦う快楽が掻き立てられ、そのことが雄の猫から観察され、そしてそのことが過ぎ去ると、交接が起こるのである、と。
*「生命の教義」は『生命』と題されて静思社から発刊されている。このことについては同書の63、74−77番を参照されたい。
霊界日記6110(6)
わたしは、天界では、不断の能力が在ることを姦通者らに話すと、かれらは、もし自分らはそのことを世で知ったら、決して淫行は犯しはしないで、かくて天界に入りもすることができるように、と言った。しかしわたしは、天界では、結婚した配偶者のみを愛することが許され、地獄では欲するままに淫行を犯すことが許されている、と言い、この場合あなたらは地獄にいたいですか、それとも天界にいたいですか、とたずねた、しかしわたしはかれらから答えをもぎとることはできなかった。
霊界日記6110(7)
もし男が、姦淫を罪として避けることにより、その妻にその愛を集中させるなら、その時は愛はその能力と共に日毎に増大するが、しかしもし男がその愛を殺(そ)いでしまって、それを娼婦のもとで使い果たすなら、婚姻愛はもみがらのようになって、死滅してしまう。
わたしは或る一人の女について、以下のように言った、彼女は、自分の妻のみを愛することは不可能です、それはありふれたものとなるからです、と言いました、と。しかしその天使たちは以下のように言ったのである、彼女は誤っている、愛が真に婚姻的なものであるときは、ありふれたことも、その中に楽しさが楽しさ自身を内部から、ばらの花のふしどの上に形作るようにも形作る面となるのであり、個々に離れたばらの花もことごとく、その中に内的な楽しさが形作られ、変化し、しかもそれが永遠にもいたる面ともなるのである、と。
霊界日記6110(9)
奈落の者らは、婚姻愛のスフィアを知覚するようになると、狂憤に燃え上がるのである、多くの経験から。
霊界日記6110(10)
結婚した配偶者らは、または婚姻愛は、神の映像、神に似た形そのものであり、姦淫はそれを破壊してしまうのである。
霊界日記6110(11)
地獄はそこにいる者らが婚姻愛のスフィアを認めるとき発狂したように激怒する―いわば、天界から与えられた経験から。
霊界日記6110(12)
姦淫は許されると考えられると、それは身体全体の中に努力となって存在する。
霊界日記6110(13)
人間は各々ことごとく何らかの情愛が形をとって存在しているものである。もしそれが仁慈であるなら、かれは天使の形となって存在し、そのときその抱いている種類の情愛は子羊であり、鳩である。
霊界日記6110(14)
結婚は、単一のものの凡てにおける、意志と理解の、または情愛と思考との結婚に似ている、なぜならそれは善と真理との結合であるからである。これらのものの「連結」または結婚は、音声と言葉により説明することができよう、その中にそれが明らかに認められることができよう。言葉が音声の形であるように、男は妻の形として記すことができ、かれらは一人の肉[人]であり、男はその妻に密着し、妻はその男の霊魂であり、生命であり、または、その男の心臓である、しかしその何れの者も、他方の者がその男のもの、または女のものであり、各々の者は相互に、交互に、他の一方のものであるとしか考えはしないのである。
霊界日記6110(15)
神経は女の中ではさらに柔軟である、血管はや々さらに広く、動脈は男よりもさらに強く、ヒップはさらに広い、なぜならヒップは婚姻愛を意味しているからである、「天界の秘義」参照。
霊界日記6110(16)
永遠または永遠の連結のことが考えられないなら、女は妻ではなく、妾であり、永遠の観念が欠けているため、婚姻愛は死滅してしまう。
霊界日記6110(17)
きずな[結びつけるもの]はこちら側にも、向こう側にも、また前方にも、後方にもなくてはならない、でないなら、婚姻愛はない。こちら側の、また向こう側のきずなは、妻の情愛がその男の理解の中に在り、男の理解がその妻の中に在るということである。にも拘わらず、それは永遠のものとはならない。もし天使的な霊たちの世界でこの二つのもののことを話すなら、地獄は動揺し、地獄と結ばれている者らは狂ったように激怒するのである。
霊界日記6110(18)
天界では、妻は霊的な熱であり、夫は霊的な光である。
美しい天的な、また霊的な女は美そのもの、または美と善との形である。主から、宇宙における創造された業のことごとくについては、処女にもまさって美しい物は何一つ無いことが明らかとなっている。
霊界日記6110(20)
いかようにして夫の生命が妻へ、ももを経て、愛により入っていくか。いかようにしてそのとき真理が善になり、または理解が妻の意志になるか、またいかようにして、ついには、夫の理解が妻の情愛の形となるか。かくて妻はアダムの肋骨から作られ、アダムが、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉と言ったことが、または、かれらは一つの肉となり、男はその妻に密着しなくてはならないことが、いかように理解されなくてはならないか。
霊界日記6110(21)
レイプの歓喜、その歓喜の中にいる者らの地獄は屍のようなものである、その理由。凌辱の歓喜、売淫の性質。多様なものの歓喜はいかような種類の歓喜であるか、その中にいる者らは雄のはつかねずみのようになる。他人の妻と姦淫を犯す快楽はいかようなものであり、またいかような種類のものであるか。妻を持っている男と密通する快楽はいかような種類のものであるか。結婚前に妾をもつ快楽、すなわち、それは許されている、いかように、またたれに。
霊界日記6110(22)
婚姻愛は無垢そのものである―アダムの場合から。それは貞潔そのものであり、純潔そのものである―その起原から、また相応から、子供のたわむれのようなそのたわむれから。虫が蝶になる折の、虫におけるその表象しているものから。
霊界日記6110(23)
離縁の律法、[1]売春[淫行][2]遺棄[病気]など。離縁になった女を、または不法に棄て去られた女をめとることは許されない理由。
霊界日記6110(24)
貞潔な婚姻愛から、妻と処女とは美を得、男は智恵を得る。
霊界日記6110(25)
婚姻愛には好色はない、なぜなら好色は不貞であるから、婚姻愛の中にいる者たちのもとにも同一の知覚が在る、従って、不潔なものは何一つなく、純潔なものが在る。不潔なものが在るかのようには見えるが、それでもそうしたものではない。その理由は、婚姻愛の内部には、その究極のものに至るまでも、天界が在り、姦淫の愛の内部には地獄が在るためであり、各々のものの究極的なものは、その歓喜の方面では、類似はしているものの、それでも類似はしていない。その相違は婚姻愛によらなくては認められない。
霊界日記6110(26)
古代人により以下のように言われた、同じように見える歓喜はケルベルスにより意味されたのであり、かれは入口に立って、天界的な愛の歓喜が地獄に下降しないように、監視しているのである。
霊界日記6110(27)
婚姻愛は二人が一人のものに、または一人の肉になることを絶えず注視している。もし婚姻愛がそのことを注視しないなら、その愛は姦淫の愛である。男と妻とは、益々、永遠に、一人のものとなることができるのである。
霊界日記6110(28)
男の子供は自然的な人における善から発した真理であり、この真理は自然的な人における霊的な人の善から生まれているが、しかしそれは霊的な人における善と真理との結婚から発している。ここから娘と息子とは自然的な人における善と真理である。(「啓示による黙示録解説」543番を参照。また「長子であることについて」を参照)。
霊界日記6110(29)
かれらの間では最も内なる友情はいかような種類のものであるか、について。友情の最も内なるものは不断のものであり、友であることの天界的な歓喜を構成している。その愛は連結の愛からは区別されている。その相違はいかような性質のものであるか。この相違は姦通者らには知られていない、すなわち、かれらは、妻がその夫を愛している、と言うときは、妻は連結をねがっている、と信じるのである。
霊界日記6110(30)
天界から以下のことが言われた、すなわち、天的なものであった最古代の人々は婚姻愛を凡ゆる愛の中でも首長の位置にあるもの、愛の歓喜そのものとも呼び、子供に対する愛はそこからその最も近い辺りから、流れ出ているものと言った。
霊界日記6110(31)
子供たちに対する愛―それは「溺愛」であって、悪い者らのもとにも在るが、それは―いかような性格のものであるか。かれらは子供たちの中にかれら自身を見ている、なぜなら父の霊魂はかれらの中に在るからである。この愛は結婚した配偶者たちを連結させている、しかしいかような方法で、またいかような相違をもって。
霊界日記6110(32)
死後も、女性は女性となり、男性は男性となり、相互の、また交互の愛は存続している。そうした理由からこの愛は存続している。そうした理由からこの愛は存続する以外のことは在りえない。
霊界日記6110(33)
愛の交互的なものが存在しているか、否かについて、時々、婚約に先立って、天使たちから調査が行われる。もしそのことがないなら、かれらはその事実をかれら自身で認めるのであり、そのことは主から発している。結婚が行われるとき、祝宴が催されるが、それは社会に従って相違している。
霊界日記6110(34)
男による、または女による、その何れかによる主権[支配権]は結婚においていかようなことを生み出すか。余りにも良心的であることが生まれてくる屈従はいかようなものであるか。かれにおける、または彼女における過度の単純さから生まれるものはいかようなものであるか、すなわち、売春[淫行]は罪ではないという信念または信仰はいかようなことを生み出すか。
霊界日記6110(35)
支配を求め、無神論者である者らのもとにおける奈落の結婚について、その男の側には致死的な[相手を殺そうとする]憎悪がある。しかし、それでも、かれは、妻の下僕と奴隷であり、かくてかれは彼女の意志に反しては敢えて不満を洩らしはしない、しかしこのことは彼女が、色々な手段によりその優越性を獲得したときに、見られる。その理由は、その男の理解は征服されるためである。
霊界日記6110(36)
これらの者は内的な徳と廉恥心とを何ら持たない、従って、こうした者は人間ではない。姦通者は不正でもあり、不信仰であり、不誠実であり、契約の邪悪な破棄者であり、虚言を弄(ろう)し、恥知らずである。かれは何ら内的な公正を、または内的な忠節を、内的な真実を、内的な恥辱感をもってはおらず、かくて何ら廉恥心を、また内的な徳も持ってはいない。こうしたものが内的にあるがままのものが、またこうした者が外的にあるがままのものがその人間である。
霊界日記6110(37)
真理は善から発し、善を通して教会が存在し、善は主から発している。そして、主は善を通して真理へ流入されるからには、天使たちは、また教会の人間は真理の中に、主の善を受けるのであり、ここから天使と人間の中に善と真理との結婚が生まれている。
霊界日記6110(38)
もし人間が姦淫は罪ではないと決定するなら、かれは姦淫を行う者である、なぜなら、その結論は意志と理解とが共になった状態から発しており、またその中には意図が在るからである。そこから内的な意志が生まれ、その意志とは努力であって、その人間全体を支配するのである。努力の性質。
主は人間の額を眺められ、人間は主を通して眺めまつるため、善と真理との連結が生まれる。額は意志の愛、または善であり、目は理解であり、従って真理である。人間が智恵の中に愛を受け入れる者であり、または真理の中に善を受け入れる者であることはこうした理由からである。天使たちはことごとく主に顔を向けている。支配している愛がそれ自身に凡てのものはそれに従うのである。
霊界日記6110(40)
人間の霊は性の抱擁の中に共に働くのである。なぜなら霊的なものの最初の起原が播種(はしゅ)されるからである。にもかかわらず、人間の霊は自然的なものへ流入するのである。人間の霊の中では最も内なるものは善と真理との連結であり、または善を模倣している歓喜の、また真理を模倣している公正の連結である。それで天使たちと霊たちとが抱擁するときも、それは同じように起るのである。かれらは愛と知恵とに属しているもの以外のものは何一つ生み出しはしないのである、なぜなら繁殖は、自然的なものを離れては起りはしないからである。
悪の凡ゆる淫欲は姦淫から発している、なぜなら姦淫がその淫欲の形そのものであるからである。姦通者はそれが許されていることにより確認を与えられており、そのことは、また、以下のことを生み出すのである、すなわち、かれは心の中に神を承認することはできず、主と連結することもできず、従って、天界とも連結することはできないのである、なぜならかれの歓喜は全く霊的な歓喜に対立しているからである。しまいにはかれは最高度に感覚的なものに、形体的なものに、物質的なものになってしまい、目に見え、耳に聞こえる物から―そうしたもののみをかれは記憶の中に貯えているのであるが、そうしたもののみから―考えもし、話しもするのである。
情愛は、ちょうど音声が言葉の凡てであるように、思考のすべてであり、このことから人間はその情愛のあるがままのものであることを知ることができよう。その唯一の規定から、思考はその本質と生命とにおいてはいかようなものであるかが、貞潔な思考はまた不貞な思考は、また不貞な思考はいかようなものであるかが、またそれは何処から発しているかが知ることが出来よう。
霊界日記6110(43)
音声の中何が淫欲のものであり、何が音声から発しているか。世では人間は音声の中に在るものをほとんど知りはしないが、天使たちは完全に知っている。
結婚した配偶者たちの愛は、姦通者共におけるように性的な抱擁から発しはしないで、性的な抱擁は配偶者の愛から発しており、それで配偶者の愛はかの器官の火に依存はしないで、その逆のことが行われているのである。配偶者の愛は性交には関係しないで、歓喜に満ちており、歓ばしい同棲である。性的な抱擁から分離したかの愛と性的な抱擁そのものとの間には、意志から人間が考えるもの―それは意図であるが、その意図―と行為、または言葉との間に決意[決定したもの]とが存在しているように、そうしたものが存在している。そうしたものの間には、決意が介在しており、それは何かを行うために心を、戸を開くようにも、開くことである。
霊界日記6110(45)
或る血縁関係の者の間には婚姻関係を結ぶことが許されていない理由。その刑罰はいかようなものであるか。レビ記から。
霊界日記6110(46)
次に、密通が結婚を解消してしまう理由。離婚した女と結婚することは正当なことではない理由。宗教を異にした者たちの間の結婚の実情はいかようなものであるか。
霊界日記6110(47)
法王派の者は独身と処女性とを婚姻よりもまさったものとしている。しかしそれは修道院の修道僧と修道尼のためである。それは有害である。
霊界日記6110(48)
婚姻愛の結果が存在している状態に先行した婚姻愛の状態について多くの事柄を記さなくてはならない。その前の状態が全く結婚に先行しなくてはならないのであり、そこから発する愛が、それに続いてくる状態を考えないで、先行しなくてはならない。そのときは、結婚は幸福で、持続するが、しかしそれが後在的な状態のみにあずかるなら、それに応じてそれは欠如してしまう。わたしは或る者たちが以下のように言うのを聞いた。すなわち、自分たちは後に続いてくる状態についてはいかようなことも知りはしなかったのであり、妻を欲し、妻を見たときも、そのことについては考えもしなかったのである、と。こうしたものが処女の状態である。こうしたものが貞潔な状態である。
霊界日記6110(52)
敬虔を吸引して一種の憂鬱な感情を抱いた処女たちは気難しい妻となり、天界では幸福な者たちの間にいることはできない―経験から。従って修道院に生活した者たちはその者たちの間にいることはできない。
霊界日記6110(52)
敬虔を吸引して一種の憂鬱な感情を抱いた処女たちは気難しい妻となり、天界では幸福な者たちの間にいることはできない―経験から。従って修道院に生活した者たちはその者たちの間にいることはできない。
霊界日記6110(54)
かれらは、愛から考えるとき・・・・単に手を、唇を触れるのみでいくたの歓喜と快楽とを享受する。かれらはその触れている、また共になっている状態を精妙に知覚する。こうしたことは情愛と思考との歓喜から、そうしたものの連結の歓喜から生まれており、その知覚はその連結が内的なものとなっているに応じて益々精妙なものとなっている。男性と女性との連結からこうした歓喜が在ることは善と真理との連結からそうしたものが存在するためである。外なる感覚、例えば、視覚の、聴覚の、臭覚の、とくに呼吸の連結には、さらに多くの歓喜が存在しており、その中には無数のものが隠れており、それらはとくに言葉の音声そのものの中に隠れているのである。
姦淫は許されることである、と確認することは、光は暗黒であり、暗黒は光である、と確認することにたとえることができよう。
霊界日記6110(59)
結婚は、神的な意義では、神における愛と智恵との結婚であり、それらは、愛は智恵のものであり、智恵は愛のものであるため、一つのものであったのである。ここから主と教会との結婚愛が発している、その愛は主の御言葉に従うと、相互的なものである。このことから善と真理との結婚が発している。いかようにしてかを示そう。結婚は相互的なものであるが、しかしそれは善に属しており、この結婚は、真に婚姻的な愛により連結している二人の者の結婚の中に、その映像として、それに似た形として存在している。
霊界日記6110(60)
男は真理となるように生まれ、妻は善となるように生まれている。かれは自らを向けるのである―その向けることについて。男がうまれたときの性質、女が生まれたときの性質、少年はいかようなものであるか、また少女はいかようなものであるか、について記そう。
霊界日記6110(61)
真に婚姻的な愛は、最初は、人間が改良され、後に再生することに似ている。それはそれ自身を逆転させるのであり、それがそれ自身を逆転させると、その男の愛は妻の愛から発出し、後のもののあるがままに、前のものがなるのである。善と真理との連結もその初まりにおいては、進行過程においては、終わりにおいては同じような情況におかれており、そのことは男がその妻に密着するためである。初めの状態では、また好色が存在している。後の状態の性質。
霊界日記6110(62)
凡ての者が自分らには力があり、自分らは尊重されており、また強いと信じられていることを誇りにしようとしている理由。とくに兵士。
霊界日記6110(63)
いかようにして種が身体を通して凡ゆる方向に分与され、身体全体の中に在り、かくて凡ゆる所の幾多の繊維と器官との中に在る霊魂により受け入れられ・・・・・妻に快楽を与え、歓喜で満たし、かくて彼女はその男の形へ作られるか。これが、わたしの骨と肉の骨と肉である。いかようにしてそれは彼の中に理知を生み出し、またいかように、それは懐妊を生み出すか。
霊界日記6110(64)
懐妊している妻を愛することは許されている。その理由は数多い。それを否定する論旨は弱い者に当てはまる、すなわち、無能の間に、また姦淫の場合に。
霊界日記6110(65)
キリスト教徒の霊らは男性と女性との霊的なスフィアに堪えることはできない。彼らは婚姻愛の霊的なスフィアに堪えることはできない、地獄は、それと同時に狂憤にかき立てられる。彼らは結婚した配偶者たちの間の裸身のスフィアに堪えることはできない、そうした時には、逃げ出してしまう。彼らは結婚した配偶者から発する愛のスフィアには、そのいかようなものにも、堪えることはできない。彼らはおきまりの性交にもたえることはできない、すなわち、妻との連結が日常のこととなり、または自由に許されるとき、それは吐き気を催させる。
霊界日記6110(66)
他人の妻との姦淫は夫と妻との間の生命の歓喜をことごとく破壊し、他方の者に対する嫌悪の念を生み出し、また子供たちに対する顧慮を破壊し、すなわち、母の、また父の顧慮を破壊し、同時に別居に至ってしまう。それは婚姻的なものを破壊してしまう。姦通者は、たれか或る姦通者が自分自身の妻を汚すなら、その妻について考えはしないかぎり、そのことを認めはしない。
悪霊らは、女性的な性質を考えることに、従って、その霊的なスフィアには、全く堪えることはできない。かれらは拷問にかけられるかのように大声をたてて、逃げて行く―経験から。しかしかれらは、それが姦淫のスフィアの下に、またはその考えの下にベールをかけられているときは、それに堪えることができるのである。
最も純潔な触感は種である内部を呼び出すのである。それは身体の最も内なるものの[最深部]へも進み、液体の中へも入り、動物精神の中へ入り、または霊的な部分そのものの中へさえも入り、そこから懐妊が発してくる。そのさい、最も内なるもの[最深部]と最も外なるもの[最外部]との交流が存在し、それは最初のものから最後のものを通して存在している。
霊界日記6110(69)
姦淫の興奮は、色情から、身体の触感から、とくに生殖部分の触感から発して、外なるものである。それは外なるものである。それは丁度たれかが友に鳥の一片の羽毛を触れて、これをくすぐるようなものである。それは外なるものであるのは羽毛の中には何ら感情はないためである。しかし婚姻愛の中にいる者たちのもとには、その愛の歓喜は伝達され、それが夫のものであるときは、妻のものである。妻の歓喜が夫の感情の中へ流れ入り、それで知覚と歓喜そのものとは相互にまた交互に伝えられるのである。かくて好色の愛は婚姻愛とは全く相違している。
以下の英国人―貴族―について、すなわち、かれらは他人の美しい妻を金によりかれら自身へ誘惑し、数カ月間これと共に住み、後で送り返すのである。こうした者らは他生でもそれと同じことを行う。他の者の妻を自らへ誘惑する者らはすぐにも摘発されて、苛烈に罰しられる。
霊界日記6110(72)
かれらは身体を引き裂かれる刑罰を受けるが、それは凡ての中でも最も苛烈なものである。かれらは言った、刑罰の後では、自分の手足が共にくっついているか、いないかはわからなくなり、自分らは長い間ベッドに臥し、また、思いとどまらないなら、地獄へ投げ込まれる、と。世でそうしたことを、それは罪であるため慎しんだ者らは、他生でも慎みはするが、他の理由から慎んだ者らは、慎みはしない。
霊界日記6110(73)
1765年[73歳]の4月29日、わたしは幾多の社会から幾多のの英国貴族らが移されるのを見た、かれらは、世では、他の者たちの美しい妻を誘惑して、その妻たちがもはや気にくわなくなるまでは、これと同棲したのである。おびただしい者らがいた。かれらはその幾多のの社会から引き離され、低地へ降らされて、かつて悔改めを行い、それが神の律法に反していることを信じたか、否かについて調べられたのである。
霊界日記6110(74)
割礼について。割礼は、自己愛である感覚的な、形体的な愛が遠ざけられなくてはならないことを表象するものであった。それが石のナイフで行われなくてはならなかった理由。なぜなら真理が悪を遠ざけるからである。それが廃止された理由。いかような理由のために、イスラエルの子孫は、霊的な教会を意味しているカナンの地へ入ったとき、再び割礼を受けたのである。
霊界日記6110(82)
もし美のみが連結させて、善が連結させはしないなら、それは姦淫である、これは、また美は善から発し、善が美の本質そのものであることが信じられないかぎり、人間的なものではない。善良なこともまた顔に現れていることは単なる自然的な科学[記憶知]からも知られている。純粋な結婚愛における、また純粋でないものにおける恐怖の性質。この二つのものにおける恐怖の性質。
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P269
主が弟子達に:
私の母は愛のために処女性を神にささげたが、いとも完全な女性であったので、心と体に母性を持っていました。なぜなら女は母となるためにできているので、この声に耳をふさぐ者は正道を踏みはずします。子孫への人間の愛、とりわけ女の愛は、神がアダムとエバに言われたことばに現されている。
神は遠い創造の日の六日目に『生めよ、ふえよ、地に満ちて、地を支配せよ』と言われた。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻下/357.10/P154
4.彼らは最初他生に入ってくると、実際会うには会うが、しかし間もなく離れてしまう
天界の秘義3815
霊界にはまたは天界の中には、主に対する愛と隣人に対する愛の、またはそれと同一のものではあるが、善の血縁関係と相似性以外の血縁関係と相似性は何ら存在しないことは、天界を構成していて、無数に存在している社会がことごとく愛の度と相違とに応じ、引いてはそこから派生している信仰の度と相違とに応じ完全に相互に区別されているという事実からわたしに明らかにされたのであり(685、917、2739、3612番を参照)、または彼らが互に他を認め合うのは身体の生命の中に存在したいかような関係からでもなくて、専ら善とそこから派生してくる真理から発しているという事実からも明らかにされたのである。彼らは類似した善の中にいない限り、父は息子を、または娘を認めはしないし、兄弟も兄弟をまたは姉妹をも認めはしないし、夫さえも妻を認めはしないのである。彼らは最初他生に入ってくると、実際会うには会うが、しかし間もなく離れてしまうのである、なぜなら善そのものが、または愛と仁慈とが人各々をその者自身の社会へ決定づけ、振り分けられるからである。血縁関係は各々の人物がいる社会の中で始まり、そこから他の関係が発して、円周にさえも達しているのである。
5.天界の結婚
結婚愛316
それで私はその主題について話している一人の賢人の言葉に耳を澄ましたが、私の聞いたことは、簡単に言うと、以下のようなものであった、
「天界では、結婚についての、また結婚における主の神的な摂理は、最も単一なものの中にさえも働いており、そこから最も全般的なものの中にさえも働いているのは、天界の福祉はすべて、甘美な水が泉の甘美な流れから流れ出るように、結婚愛の歓びから流れ出るからです。そしてその同じ理由から以下のように主が供えられています、即ち、結婚する一対の者が生まれて、結婚に向って絶えず教育されますが、少年も少女もそのことは知りません、そして時が満ちると、そのときは年頃の処女と、またそのときは年頃の青年とが何処かで恰も運命にでもよるかのように会って、互いに相手を見て、すぐに、何か本能にでもよるかのように、自分たちが夫婦であることを知り、一種の内なる指示から、その心の中で、青年は『彼女は私のものである』と考え、処女は『彼は私のものである』と考えるのです。このことが暫く二人の心の中にあった後で、彼らは慎重に互いに相手に話しかけて、婚約をします。恰も運命にでもよるかのように、また恰も本能にでもよるかのようにと言いますが、その意味は『神の摂理によって』ということであり、それは神の摂理が知られないときは、そうしたものに見えるからです」。
天界と地獄367
天界の結婚は二人の者が連結して一つの心となることである。この連結のいかようなものであるかを先ず説明しよう。心は二つの部分から成り、その一つは理解と呼ばれ、他は意志と呼ばれている。この二つの部分が一つのものとなる時、それらは一つの心と呼ばれる。そのとき夫は理解と呼ばれる部分を作り、妻は意志と呼ばれる部分を作る。内部の連結であるこの連結が彼らの身体に属したものの中へ降る時、それは愛として認められ、また感じられ、そしてこの愛が結婚愛である。そのことから結婚愛は二人の者が連結して一つになることから発していることが明らかである。このことは天界では共に住むことと呼ばれ、彼らは二人ではなくて、一人であると言われ、それで天界では二人の配偶者は二人の天使とは呼ばれないで、一人の天使と呼ばれている。
天界と地獄372
天使または人間の中に連結している善と真理とは二つのものではなくて、一つのものである、なぜならその時は善は真理に属し、真理は善に属しているから。この連結は人間がその意志する〔欲する〕ことを考え、またその考えることを意志する時に似ており、その時は思考〔考え〕と意志とは一つのものとなり、かくて一つの心となっている、なぜなら思考は、意志が意志する〔欲する〕ものを形作り、またはそれを形をもって示し、意志は思考に歓喜を与えるからである。従ってまた天界の二人の配偶者は二人の天使と呼ばれないで、一人の天使と呼ばれている。この事もまた主の御言葉により意味されているところである「初めから彼らを造られた方は、彼らを男と女とに造られた、それで男は父母を離れて、その妻に会い、二人は一人のものとなると言われたことをあなたらは読んでいないか。それで彼らは最早二人ではなくて一人のものである、それで神が共に合わされたものを、人間は引き離しではならない。凡ての者がこの言葉を受けることが出来る訳ではない、ただそれを与えられた者が受けることが出来るのである」(マタイ19・4−6、マルコ10・6−9、創世記2・24)。ここには天使たちの結婚愛が記されていると同時に、善と真理との結婚が記され、人間は神が共に合わされたものを引き離してはならないことにより、善が真理から分離されてはならないことが意味されているのである。
天界と地獄383
諸天界で結婚はいかようにして行われるかもまた私は見ることを許された。天界の何処でも互に似ている者は共に交わっており、似ていない者は分離しており、従って天界の社会各々は互に似ている者たちから成っている。似た者は似た者の方へ、自分自身からではなく、主から連れて行かれ(前の41、43、44以下を参照)、同じくその心が互に連結して一つになることの出来る配偶者はその配偶者のもとへ連れて行かれる。従って彼らは最初の一瞥で互に他を心の奥底から愛し合い、自分たち自身が配偶者であることを認めて、結婚に入り、かくて天界の結婚はすべて主のみから発している。彼らはまた結婚の祝宴を張るが、それは多くの者の列席の下に開かれる。しかし祝宴は社会が異なっているに応じて異なっている。
6.奈落の結婚
天界と地獄377
これらの事から、誤謬にいる者らは、特に悪から発した誤謬にいる者らは結婚愛にいないことが明白である。悪にいて、そこから誤謬にいる者のもとでは、心の内部もまた閉じており、それでその中には結婚愛の起原は与えられるはずはなく、その内部の下方に、即ち、内なる人から分離した外なる人、または自然的な人の中に、奈落の結婚と呼ばれるところの、誤ったものと悪いものとの連結が与えられている。奈落の結婚と呼ばれている悪の誤謬にいる者らの間の結婚の如何ようなものであるかを私は見ることを許されたが、彼らは色情から共に語り合い、また連結しているが、しかし内部は相互に相手に向って恐るべき憎悪の念で燃え上がり、その凄まじさは到底描写することは出来ない。
啓示による黙示録解説153・10
たれでもその仕事が終わった後では、歩き回ったり、話し合ったり、その後で眠ったりするのを許されている。そして彼はその洞窟の内部へ導き入れられるが、そこには娼婦らがいて、その者らの間から各々一人を自分の女として取ることを許されてはいるが、たれかれの見境もない淫行は刑罰の下に禁じられている、と。
天界と地獄586
ある地獄には火事で家や町が焼けた後のようなものが見られ、そこに奈落の霊らは隠れて住んでいる。それよりは穏やかな地獄には粗末な小屋のようなものが見られ、ときには、小路や街路のある町のように、互に隣接しており、その家の中には奈落の霊がいて、絶えず口争いし、憎み、打ち合い、いがみ合っており、街路と小路には強奪、掠奪が行われている。地獄のあるものの中には売春宿のみがあって、見るも吐気をもよおさせ、凡ゆる種類の汚物と排泄物とに満ちている。
7.地上の結婚
結婚愛320
しかし内的に連結した結婚には地上では辛うじて入ることしか出来ないことを知らなくてはならない。それは内なる似たものを選ぶことは天界のようにここでは主によって供えられることは出来ないためである。なぜなら彼らはその住んでいる国、都、村の中で、多くの点で、例えば地位と境遇とが平等であることに制限されており、そこでは大部分外なる物が彼らを結びつけるのに役立っており、それでそれは内なるものではないからである。この内なるものは結婚後しばらく時が経過して現れない限り現れはしないのであって、そしてそれが外なるものの中に現れる時にのみ知られるのである。
霊界日記6110
天界の秘義4444
(出エジプト34・16)、(申命記7・3,4)。
この律法は偶像崇拝の諸民族と結婚することによりイスラエルの子孫が真に表象的な礼拝から外れることのないように、偶像崇拝の諸民族に関連して与えられたのである、なぜならかれらが偶像崇拝者となると、かれらはもはや主の王国の天的な霊的な事柄を表象することができなくなり、地獄的なものであるところの、それに対立したものを表象することができたからである、なぜならそのときはかれらは地獄から或る一人の悪魔を呼び出して、これを拝し、これにその神的な表象的なものを適用したからであり、それで『かれらの神々に従って淫行を犯さないためである』と言われているのである。この律法はまた以下の付加的な理由からも与えられたのである、すなわち『諸民族』により悪と誤謬とが意味され、これとイスラエルの子孫により表象されている善と真理とが混入してはならなかったのであり、従って、悪魔的な奈落的な事柄は天界的な霊的な事柄と混入してはならなかったのである(3024番)。
10.人間は、教えられないでは、性的愛についても何ごとをも知らない
真の基督教48
研究家たちは人間は、教えられないでは、性的愛についても何ごとをも知らない。娘たちも、青年たちも、他の人々から教えられない間は、このことについては何らの知識をも持っていないと語った。
11.天界と教会は結婚と呼ばれ、それ故神の国は聖言には結婚に譬えられている
神の摂理21[9]
「主の神的摂理は悪と誤謬を均衡、関係、浄化に役立たせ、他の者における善と真理の結合に役立たせる」。主に神的摂理は人間の真理と善、善と真理の結合へ向って絶えず働くことはすでに述べられたことにより明白であるに違いない。なぜなら、この結合は教会を形成し、また天界を形成するからである。それはこの結合は主の中に在り、また主から発する凡てのものに在るためである。この理由から天界と教会は結婚と呼ばれ、それ故神の国は聖言には結婚に譬えられている。イスラエル教会では安息日は最も聖い宗教的な法令であった。なぜならそれはその結合を意味したからである。また同じ理由から聖言には、その各部に、善と真理との結婚が存在している。これについては「新エルサレムの聖書の教義」(80−90)を参照されよ。善と真理の結婚は主と教会との結婚から起り、そしてこれは主の中に愛と知恵の結婚から起っている。なぜなら善は愛から、真理は知恵から発しているから。かく考察することにより、神の摂理の不断の目的は人間の中に善を真理に、真理を善に結合させることにあることが理解出来よう。なぜなら人間はこのようにして主と結合するからである。
結婚愛444(P532)
私は幼い頃死んだ者は天界で成長し、18歳でこの世の青年の、15歳でこの世の娘の背丈に達すると、永久にその年齢に止まり、それから結婚が主から彼らに供えられることを確実なこととして主張することが出来る。また結婚前も結婚後も、彼らは姦淫の何であるかを、またはそれがありうることも全然知りはしないのである。
13.天界の結婚について
結婚愛27
天界に結婚があることは、人間は死後霊魂または霊であると考え、霊魂と霊を微妙なエーテルまたは一息の空気のようにも考えて、人間は最後の審判の日の後までは人間として生きはしないと信じ、全般的に天使と霊の住んでいる霊界については何事も知らず、それで何処に天界と地獄とが在るかを知らない者たちには信じられることは出来ない。そしてかの世界は今まで知られず、天界の天使は完全な形をもった人間であることが―地獄の霊もまた人間ではあるが、しかし不完全な形をもっていることが―全く知られなかったため、こうした理由からそこの結婚については何事も啓示されることが出来なかったのである。なぜなら(もしそれが啓示されたにしても)人間は『いかにして霊魂は霊魂に、または一息の空気が一息の空気に、地上の配偶者に連結するように連結することが出来ようか』と語ったであろうし、またそうしたことが言われるとすぐに、そこの結婚を信じる信仰を奪い去って、消散させてしまう他の多くの事柄を語ったであろうから。しかし今や多くの事柄がかの世界について啓示され、それが如何ようなものであるかは、『天界と地獄』を取り扱った著作の中に、また『啓示された黙示録』の中に記されているため、そこに結婚があることは、以下の提言を通して理性に問われる考察によってすら確認することが出来よう。
(1)人間は死後も人間として生きる。
(2)そのとき男性は男性であり、女性は女性である。
(3)人各々のもとにその者自身の愛は死後も存続している。
(4)特に性愛は存続しており、地上で霊的なものとなる人々であるところの、天界に入る人々のもとには結婚愛が存続している。
(5)これらの事柄は実際目で見られたことにより充分に確認されている。
(6)従って天界には結婚が存在している。
(7)復活の後は人は嫁がないという主の御言葉により霊的な婚姻が意味されている。
以上の提言を今順を追って説明しよう。
結婚愛28
「人間は死後も人間として生きる」。今しがた前に述べた理由から人間は死後も人間として生きることは世に今まで知られていなかったのであり、異常なことには、聖言が存在して、そこから永遠の生命のことが明らかにされている基督教世界においてさえ、そのことが知られていないのである。聖言の中に主は、
死んだ者は凡て甦る。神は死んだ者の神ではなくて、生きた者の神である(マタイ22・31−32、ルカ20・37、38)。
と教えられており、更に、人間はその心の情愛と思考の方面では、天使たちと霊たちの最中にいて、もし彼らから引き離されるなら、死んでしまうほどにも彼らと交わっているのである。そして亡くなった者は凡て、最初の創造から、その者自身の者たちのもとへ来ており、現在も来ており、または聖言の中に言われているように、その者の父祖のもとへ集められており、現在も集められていることが考察されるとき、このことが知られていないことは更に異常なことである。更に人間は天界からその心の内部に注いでいる流入と同一の共通の認識を持っており、これにより彼は真理を彼自身の中に内的に認識して、恰もそれを見ており、特に人間は死後も人間として、もし善良な生活をしたならば、幸いに生き、もし悪い生活をしたならば不幸に生きるというこの真理を認識しているのである。なぜならその心を少しくその身体の上へ高揚させ、またその感覚に最も近い思考から遠ざけている間に、そのことを考えない者があろうか。人はその心の中で神を拝しているとき、今にも死のうとして床に臥し、最後を期待しているとき、同じく死んだ者について、またその運命について聞くとき、その真理を認めるのである。(中略)未だたれ一人『彼らはまだその墓から甦っていないからである。彼らはその間は空気の息にすぎない霊魂ではないか。彼らはプーか、または何処かにいるのではないか』と言うのを一度も聞いたことがないのである。私は今までそうしたことがたれからも言われるのを聞いてはいないのである。このことから私は人は各々死後も人間として生きることをその内部に認めていると結論することが出来るのである。その妻を、その幼児を、その子供を愛した者であって、その者たちが死にかかっているとき、または死んだとき、もしその者の思いが身体の感覚的な物の上に高められているならば、その者たちは神の御手の中にあって、自分は彼らに自分自身が死んだ後に再び会って、愛と喜びとの生活の中に彼らと再び結ばれるであろうと、心の中で語らない者があろうか。