神が結び合わせてくださったものを、

人は離してはならない(マタイ19・6)

結婚

 

離婚司祭

結婚は人類の、また天界の天使たちの苗床

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

4.かれらは最初他生に入ってくると、実際会うには会うが、しかし間もなく離れてしまう

5.天界の結婚

6.地上の結婚

7.結婚と姦淫とにかかわる色々な特殊な事項について

8.ユダヤ民族が偶像崇拝の民族と結婚を禁じられた理由

9.人間は、教えられないでは、性的愛についても何ごとをも知らない

 

 

 

 

1.聖書

 

 

創世記2・24

 

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

 

 

 

マタイ19・3−6

 

ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

 

 

 

マタイ22・30

 

復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。

 

 

 

マタイ24・38

 

洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。

 

 

 

マルコ12・25

 

死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。

 

 

 

ルカ17・26−27

 

ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。

 

 

 

ルカ20・34−36

 

イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って使者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義54

 

「彼らを男と女とに創造られた。」『男と女』の文字の意義は最古代教会には良く知られていたが、しかし聖言の内なる意義が彼らの子孫の間に失われてしまった時、このアルカナもまた滅んでしまったのである。彼らの結婚は幸福と歓喜の主要な源泉であり、結婚に比較することの出来る物をことごとく彼らはそれに譬えたが、それはそのことにより、その浄福を認めるためであった。彼らはまた内なる人であったため、内なる物のみを喜んだのである。外なる物は単に眼で眺めたに過ぎないで、そこに表象されているものを考えたのである。かくて多少なりと彼らにその思いを内なる物に向けさせ、内なる物から天的な物に向けさせ、かくして彼らの凡てである主に向けさせ、従って天界の結婚に向けさせる手段となり得る物を除いては外的な物は彼らには無価値なものであったのである―彼らは自分たちの結婚の幸福は天界の結婚から発していると認めたのである。それで彼らは霊的な人における理解を男と呼び、意志を女と呼び、これらが一つのものとして活動する時、それを結婚と読んだのである。その教会から慣習的なものとなった言葉の形式が生まれてきて、そのことにより教会そのものはその善を求める情愛から―『シオンの処女』『エルサレムの処女』といった―『娘』『処女』と呼ばれ、また『妻』とも呼ばれたのである。しかしこれらの主題については次章の23節、3章15節を参照されたい

 

 

 

 

 

天界の秘義718

 

 いかようなものも、一種の結婚無しには決して存在しないし、また生み出されもしない。人間の有機的な形そのものの中には、その合成的なものの中にも、単一的なものの中にも、また最も単一的なものの中にさえも、受動的なものと能動的なものが在り、それが若し男と妻の結婚のような結婚におけるように結合していないなら、それはそこに存在することすら出来ず、まして何物をも生むことが出来ないのであり、このことは遍く自然全体について言われるのである。この不断の結婚はその源泉と起原を天界の結婚から得ており、それにより自然全体の凡ゆる物の上に、その生命を持った物の上にも、生命を持たない物の上にも、主の王国が印刻されているのである。

 

 

 

天界の秘義747

 

 『二つづつ』は相応しているものを意味していることは、たれでもそれらが対になっていることから認めることが出来よう。それらは善と真理が、悪と誤謬が互に他に相応しているように、互に他に相応していない限り、対になることは出来ない。なぜなら理解は意志と結婚しているために、または理解のいくたのものが意志のいくたのものと結婚しているために、真理は善と、また悪は誤謬と結婚しているように、または結合しているように、凡ゆる物の中には結婚に、または結合に類似したものが在るからである。そして実に凡ゆる物はその結婚またはその結合を持っており、それがなくてはそれは到底存在することは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義5002

 

「彼女と共にならなかった」。これは、そのようにしてそれが結合しないように、を意味していることは、たれかと『共になること』の意義から明白であり、それは更に密接に連結することであり、または結合することである。『(共に)なること』は結合することを意味しているのは事物の存在そのものは善であり、善はすべて愛のものであり、愛は霊的な連結または合一であるためである。ここから主はその最高の意義では、主から愛または霊的な連結のものである善がことごとく発しているため、存在またはエホバと呼ばれ給うている。天界は主から発する愛を通し、またその愛を受けることを通して代って主を愛することを通し、相互的な愛を通して一つのものとなっているため、それでそれは結婚と呼ばれ、その結婚を通して、それは存在しているのである。教会も、もし愛と仁慈とがその教会の存在であるならば、同様になるであろう。それゆえ連結または結合がないところには、存在はないのである、なぜなら一つのものにする、または結合させるものがない限り分離し、消滅しなくてはならないからである。

 

 

 

天界の秘義7022

 

能動的なものと受動的なものとが存在しているところには結婚に似たものが存在しており、何らかのものが存在するようにならなくてはならないところには能動的なものと同時に受動的なものとが存在しなくてはならないのである、なぜならその二つのものが連結しなくては何一つ決して生み出されることは出来ないからである。凡ゆる物の中に結婚に似たものが存在しているのは、凡ゆる物は善と真理とに関連しており、かくて善と真理との結婚である天界の結婚に関連しており、天界の結婚は神的善と神的真理との結婚〔神の善と神の真理との結婚〕である神的な結婚〔神の結婚〕に関連しているためである。そして前に言ったように、能動的なものと受動的なものとが存在しない限り、かくて結婚に似たものが存在しない限り、何一つ存在し、生み出されることが出来ないため、信仰に属した真理は仁慈に属した善が無くてはいかようなものも生み出すことは出来ないし、仁慈に属した善も信仰に属した真理が無くてはいかようなものも生み出すことは出来ないのであり、果を生み出し、人間の中に天界の生命を作るためにはその両方のものが連結しかくてはならないことが非常に明白である。

 

 

 

黙示録講解710ハ[25]

 

ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。 イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」 そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。 だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。 言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」 弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。 イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。 結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」 (マタイ19・3−12)

 

これは内的なアルカナを含んでいることは主が『凡ての者がこれらの言葉を受け入れるのではなく、そのことが与えられている者が受け入れるのです』と言われたことから認めることができよう。主により話されているこれらの言葉の中に含まれている内的なアルカナは、人間によりほとんど把握されてはいないが、しかし天界の凡ての天使により把握されているのは、かれらは主のこれらの言葉を霊的に認めているためであり、含まれているアルカナは霊的なものである。これらのアルカナは以下のものである、すなわち、諸天界には実に地上におけるように結婚が行われているが、しかし諸天界においては結婚は似た者が似た者と結婚するのである、なぜなら男は理解から行動するように生まれており

 

 

 

黙示録講解617ホ(31)

 

マタイ伝には―

 

代の終結においては洪水以前に在ったようになるであろう、即ち、食べ、飲み、結婚を約し、結婚において与えるであろう(マタイ24・38、ルカ17・20−28)。

 

『食べ、飲み、結婚を約し、結婚において与えること』はここには食べ飲むことを意味しないし、また結婚を約することも、結婚において与えることも意味してはいないし、『しかし食べること』は悪を己がものとすることを、『飲むこと』は誤謬を己がものとすることを意味し、『結婚を約し、結婚において与えること』は悪と誤謬を、誤謬と悪を連結させることを意味している、なぜならこれは、最後の審判が切迫している時は、教会の状態を取り扱っているからである。なぜならこのことが『代の終結〔結末、終局〕』により意味されるからである。明らかに悪い者と同じく善い者もその時食べ、飲みつつあるのである、なぜなら食べ、飲むことの中には悪は何一つ無く、このことを洪水以前に彼らもまた行ったからであり、彼らが死滅したのはそうした理由のためではなく、彼らが彼ら自身に悪と誤謬を所有し、彼ら自身の中にそれらを連結したためであり、それでこのことが『食べ、飲み、結婚を取り結び、結婚において与えること』により意味されているものである。

 

 

 

天界の秘義4334〔4〕

 

「食べ、飲み、娶り、嫁がせしていた」

は、悪と誤謬とを己がものとして、その結果、その悪と誤謬と連結する彼らの状態を意味している。『食べること』は善を己がものとすることを意味し、『飲むこと』は真理を己がものとすることを意味し(3168、3513、3596番を参照)、かくてその対立した意義では悪と誤謬とを己がものとすることを意味している。『娶る〔結婚する〕』は悪と連結することを、『嫁がせる』は誤謬と連結することを意味していることは、結婚と婚姻愛とについて言いもし、また示しもしたことから認めることが出来よう(686、2173、2618、2728、2729、2737−2739、2803、3132、3155番)。即ち、内意ではこれは善と真理との連結であるが、しかしここではその対立した意義における悪と誤謬との連結である。何であれ主が語られたことはことごとく神的なものであって、その内意は文字の意義とは同一ではないのである。かくて聖餐における食べることと飲むことは霊的な意義では食べることと飲むこととを意味しないで、主の神的な愛の善を己がものとすることを意味しているのである(2165、2177、2187、2343、2359、3464、3478、3735、4211、4217番)。婚姻は、それが教会と主の王国とについて述べられている時は、愛の善が信仰の真理と連結することであるため、それでこの連結から主の王国は聖言では天界の結婚と呼ばれているのである。

 

 

 

天界と地獄382

 

地上には婚姻は霊のみでなく、肉体の婚姻であるため、婚姻がある。が、天界では[そうした]婚姻はないため、そこに配偶者たちは夫と妻とは呼ばれておらず、二つの心が結合して一つのものになっているという天使たちの考えから、一方の配偶者は他方のものを自分自身のものといいう意味の名前で呼んでいて、それが相互に、また交互に行われている。こうした事柄から婚姻についての主の御言葉はいかように理解されねばならぬかを知ることができよう。(ルカ20・35,36)。

 

 

 

結婚愛308

 

結婚は祭司によって聖別されなくてはならない

 

 

 

天界の秘義2173

 

 諸天界における主の王国にはこうした結婚があり、また地上における主の王国の中にも、すなわち、教会の中にもこうした結婚があり、人間各々の中にも、人間の単一なもの各々の中にも、いな、すべての中でも最も単一なものそのものの中にさえもこうした結婚があるのである。こうした結婚の中にいないものは生きてはいない。いな、かの神的な結婚から自然全体の中に、自然の個々のもの各々の中にもこうした結婚があるが、しかしそれは他の形と外観をもって存在しているのである、もしそうでないなら如何ようなものもそこには存続しないであろう。

 

 

 

天界と地獄366

 

 天界は人類から発し、それゆえ天使たちは両性の天使たちであるため、また創造から女は男のために、男は女のためにおり、引いては一方は他方のものに属しているため、またこの愛は両方の中に生まれながらあるため、地上のみでなく、天界にも結婚のあることが生まれて来る。それでは天界の結婚はいかようなものであり、またそれは地上の結婚といかような点で相違し、またいかような点で一致しているかを今告げよう。

 

 

 

結婚愛54[]

 

しかし世で未婚のままに生活し、心を全く結婚から遠ざけてしまった者は、もしその者が霊的なものであるなら、ただ一人のままに止まるが、しかし自然的なものであるなら、娼婦漁りとなる。しかしその独身の状態で結婚を求めた者は異なっており、結婚を求めたが、それが成功しなかった者は更に異なっている、なぜならその時、もし彼らが霊的なものであるなら、祝福された結婚が与えられるからである―しかしそれは彼らが天界に入らない中は与えられない。

 

 

 

結婚愛54[]

 

修道院にその生涯の終わりまで閉じ込められている者たちは、即ち、処女たちと男とは―それは死後もしばらくの間続きはするが―釈放されて、自由に振舞い、結婚生活に入ることを欲する、欲しないに拘らず、その願い求めている自由を得ることを許されている。もし彼らが結婚を願うなら、結婚をし、もし願わないなら、天界の脇で独身生活を送っている者たちのもとへ連れて行かれる。しかし禁じられた色情で燃えている者らは投げ落とされる。

 

 

 

結婚愛330

 

 男たちがその主題を論じている間に、ある妻たちが来て言った、『私たちにも列席させてください。それはあなた方はあなた方の論じている主題を知識から教えられますが、私たちは経験から教えられるからです。それにあなた方はまた妻の愛については殆ど知らないと言っても良い程知ってはおられません。夫に対する愛を自分の胸の奥深くに、またはその心の間中に隠すことが妻の知恵の深慮であることをあなた方は知っておられますか』

 

 

 

 

結婚愛331

 

『どのような妻もその夫をその顔のために愛するのではなく、その職業と作法における理知のためにこれを愛します。それで妻は夫の理知に自分自身を結合させ、引いては夫に自分自身を結合させることを知ってください。それでもし夫が自分自身の理知のために自分自身を愛するなら、彼はその愛をその妻から自分自身へ移してしまし、そこから分離が生まれこそすれ、結合は生まれません。更に自分自身の理知を愛することは自分自身から賢明になることであり、これは狂うことであり、それで自分自身の狂気を愛することです』。

 

 

 

結婚愛353

 

そして男は各々生来自分自身を愛する性向があるため、自分自身に対する愛と自分自身の理知を誇る自負心のために滅びることのないように、この男の愛が妻に書き写され、それが彼女の中に生来植え付けられ、彼女はその夫の理知と知恵を愛し、それでその夫を愛し、そのことによって妻は夫の自分自身の理知を誇る誇りを妻自身に吸引して、夫のもとではそれを消滅させ、妻自身のもとではそれを活かし、かくしてそれを結婚愛に変え、それに測り知れない悦ばしさを満たすように創造から定められたのである。このことは以下の理由から定められたのである、即ち、自分自身の理知に対する愛である蛇から言われ、説得されたように、男が自分自身の理知を誇って、自分は自分自身から理知的になり、賢明になるのであって、それは主からではないと信じ、かくて善と悪とを知る知識の木の実を食べて、それにより自分が神のようなものであり、実に神であると信じる程にも狂わないためである、そうした理由から、そのため人間はそれを食べた後では楽園から追放されて、生命の木への道は天使により警戒されたのである』。楽園は、霊的には、理知であり、生命の木の実を食うことは、霊的には、主から理解し、知恵を得ることであり、善悪を知る知識の木の実を食うことは自己から理解し、賢明になることである。

 

 

 

結婚と姦淫について

霊界日記4405

 

 

霊界日記4406

 

 

霊界日記4407

 

 

 

結婚愛[婚姻愛]について

霊界日記4408

 

 

霊界日記4409

 

 

霊界日記6051(5)

 

 人間は婚姻愛により内部にも外部にも信仰の形を受け入れ、姦淫により、地獄の形を受け入れるのであり、また天界の愛は専ら婚姻愛を通して植付けられる。

 

 

 

霊界日記6051(6)

 

 婚姻愛は凡ゆる愛の中でも根元的な愛である、なぜなら、人間は愛の形となる時、彼は主の映像となり、もしそうでないと、その逆のことが生まれてくるからである。

 

 

 

霊界日記6051(7)

 

 それで、婚姻愛の歓喜は、数においても、質においても、他の凡ゆる愛にまさっている。

 

 

 

霊界日記6051(9)

 

 諸天界では、結婚により、智恵が増大しており、そこでは、その増大することが子供を生むことに代わっている。

 

 

 

 

霊界日記6051(12)

 

 それで結婚した配偶者を愛することは、主の眼前で善を行うことである、なぜならそれはかくて、貞潔から、主を愛することであるからである。そのことは諸天界と交流し、天使たちの霊魂を、信じることも出来ないほどにも、歓ばせるのである。

 

 

 

霊界日記6051(13)

 

 一種の性交もまた在り、それは貞潔から発出している時は、かの愛の結果であるからには、天界を最高度に歓ばせるのである。それに反し、それが姦淫から発しているに応じ、彼らを苦しめるのである。

 

 

 

霊界日記6106

 

私は以下のように言った、地獄では淫行と姦淫を行うことは許されてはいるが、天界では許されてはおらず、ただ単にその結婚した配偶者のみを愛して、永遠に彼女と共に住み、決して彼女を去らせてはならないのである、と。

 

 

 

霊界日記6110(2)

 

 女性的なものは、また男性的なものは、内部ではいかようなものであるか。女性的なものは、内部では、夫を優しく愛することであるが、しかし彼女らは夫がそのことを知らないように願っている、かくて、夫は支配するが、そうしたことを行う能力を得ない者らは無能となる。天使たちの妻たちは私がそのことを明らかにしてはならない、と言ったが、しかし私はそれを明らかにしようと言った。そのことは彼女らがそれが彼女らの弱点である、と考えているためであったが、しかしそれは真理の善、善の真理そのものである。

 

 

 

霊界日記6110(4)

 

 男は女が拒絶することを望んでいる多くの理由。或る者らのもとではそれは凌辱しようとする色情であり、或る者のもとではそのことにより能力を掻き立てることである。それは色々の原因から、特に精神的な原因から起っている。 彼らは終いには猫のようになる、猫は互に他を引き裂き合い、静止し、互に他を凝視し、悲しげにうなり声を立て、密かにそのことを行おうとするのである。女たちはそのことが明らかにされると狂ったように怒るのである、彼女らは、自分らはそれを望んではいないことを、恰も内的な意志が言明するようにも言明する。その理由はもし彼女がそうしたことをしないなら、能力が消滅してしまうためである。

 

 

 

霊界日記6110(7)

 

 もし男が、姦淫を罪として避けることにより、その妻にその愛を集中させるなら、その時は愛はその能力と共に日毎に増大するが、しかしもし男がその愛を殺(そ)いでしまって、それを娼婦のもとで使い果たすなら、婚姻愛はもみがらのようになって、死滅してしまう。

 

 

 

結婚愛41

 

霊的婚姻により主と連結することが意味されており、これは地上で行われ、そしてそれが地上に行われるとき、天界でも行われ、それで彼らは再び天界で娶り、嫁ぎはしない。そしてこれもまた『この代の子らは娶り、嫁ぎはするが他の代に至るにふさわしいと考えられる者は娶らないし、また嫁ぎもしない。彼らはまた主から婚姻の子と呼ばれており』(マタイ9・15、マルコ2・19)、ここでは天使、神の子、甦りの子と呼ばれているという御言葉によって意味している。結婚することは主と連結することであり、結婚に入ることは主により天界に受け入れられることであることは以下の記事から明白である―

 

 天国は自分の息子のために婚礼を催し、僕たちを遣わして、婚姻に招いた王である人間に似ている(マタイ22・2−14)。

 天国は花聟に会おうとして出て行った十人の処女に似ている。備えが出来ていたその中の五人は婚礼に入った(マタイ25・1以下)。

 

 そこの13節により(そこには『目を覚ましていなさい、あなたらは人の子の来る日も時間も知らないからである』と言われているが)、主はここで御自身を意味されていることは明らかである。また「黙示録」からも明らかである―

 

 小羊の結婚の時が来て、その妻は備えをした。小羊の結婚の宴に招かれた者は幸いである(黙示録19・7、9)。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P269

 

主が弟子達に:

私の母は愛のために処女性を神にささげたが、いとも完全な女性であったので、心と体に母性を持っていました。なぜなら女は母となるためにできているので、この声に耳をふさぐ者は正道を踏みはずします。子孫への人間の愛、とりわけ女の愛は、神がアダムとエバに言われたことばに現されている。

神は遠い創造の日の六日目に『生めよ、ふえよ、地に満ちて、地を支配せよ』と言われた。

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻下/357.10/P154

 

 

 

 

4.彼らは最初他生に入ってくると、実際会うには会うが、しかし間もなく離れてしまう

 

 

天界の秘義3815

 

霊界にはまたは天界の中には、主に対する愛と隣人に対する愛の、またはそれと同一のものではあるが、善の血縁関係と相似性以外の血縁関係と相似性は何ら存在しないことは、天界を構成していて、無数に存在している社会がことごとく愛の度と相違とに応じ、引いてはそこから派生している信仰の度と相違とに応じ完全に相互に区別されているという事実からわたしに明らかにされたのであり(685、917、2739、3612番を参照)、または彼らが互に他を認め合うのは身体の生命の中に存在したいかような関係からでもなくて、専ら善とそこから派生してくる真理から発しているという事実からも明らかにされたのである。彼らは類似した善の中にいない限り、父は息子を、または娘を認めはしないし、兄弟も兄弟をまたは姉妹をも認めはしないし、夫さえも妻を認めはしないのである。彼らは最初他生に入ってくると、実際会うには会うが、しかし間もなく離れてしまうのである、なぜなら善そのものが、または愛と仁慈とが人各々をその者自身の社会へ決定づけ、振り分けられるからである。血縁関係は各々の人物がいる社会の中で始まり、そこから他の関係が発して、円周にさえも達しているのである。

 

 

 

結婚愛54

 

結婚した夫婦の死後の状態についてこれまで述べられたことに、以下のことを附加しなくてはならない。[1]単に自然的なものである結婚した夫婦はすべて死後引き離される、それは結婚愛は彼らのもとに冷ややかになって、姦通愛が温かになるという理由からである。しかも離別後彼らは時として他の者を配偶者としてこれと交わる。しかししばらくたつと互いに別れる。このことが再三再四ひんぱんに繰り返され、遂に男はある娼婦に、女はある姦淫者に惑溺するようになる、このことは地獄の牢獄の中で行なわれるが、そこでは相手かまわぬ姦通は、男にも女にも、刑罰の下に禁じられている。この主題については「啓示された黙示録」の153(10)を参照されたい。

 

 

 

結婚愛54[2]

 

その一人は霊的なものであり、他の一人は自然的なものであるところの、結婚した夫婦もまた死後引き離され、霊的な者には霊的な配偶者が与えられるが、しかし自然的な者は淫欲の巣窟の中のその者に似た者のもとへ送られる。

 

 

 

結婚愛54[]

 

しかし世で未婚のままに生活し、心を全く結婚から遠ざけてしまった者は、もしその者が霊的なものであるなら、ただ一人のままに止まるが、しかし自然的なものであるなら、娼婦漁りとなる。しかしその独身の状態で結婚を求めた者は異なっており、結婚を求めたが、それが成功しなかった者は更に異なっている、なぜならその時、もし彼らが霊的なものであるなら、祝福された結婚が与えられるからである―しかしそれは彼らが天界に入らない中は与えられない。

 

 

 

結婚愛54[]

 

修道院にその生涯の終わりまで閉じ込められている者たちは、即ち、処女たちと男とは―それは死後もしばらくの間続きはするが―釈放されて、自由に振舞い、結婚生活に入ることを欲する、欲しないに拘らず、その願い求めている自由を得ることを許されている。もし彼らが結婚を願うなら、結婚をし、もし願わないなら、天界の脇で独身生活を送っている者たちのもとへ連れて行かれる。しかし禁じられた色情で燃えている者らは投げ落とされる。

 

 

 

 

5.天界の結婚

 

 

結婚愛316

 

それで私はその主題について話している一人の賢人の言葉に耳を澄ましたが、私の聞いたことは、簡単に言うと、以下のようなものであった、

「天界では、結婚についての、また結婚における主の神的な摂理は、最も単一なものの中にさえも働いており、そこから最も全般的なものの中にさえも働いているのは、天界の福祉はすべて、甘美な水が泉の甘美な流れから流れ出るように、結婚愛の歓びから流れ出るからです。そしてその同じ理由から以下のように主が供えられています、即ち、結婚する一対の者が生まれて、結婚に向って絶えず教育されますが、少年も少女もそのことは知りません、そして時が満ちると、そのときは年頃の処女と、またそのときは年頃の青年とが何処かで恰も運命にでもよるかのように会って、互いに相手を見て、すぐに、何か本能にでもよるかのように、自分たちが夫婦であることを知り、一種の内なる指示から、その心の中で、青年は『彼女は私のものである』と考え、処女は『彼は私のものである』と考えるのです。このことが暫く二人の心の中にあった後で、彼らは慎重に互いに相手に話しかけて、婚約をします。恰も運命にでもよるかのように、また恰も本能にでもよるかのようにと言いますが、その意味は『神の摂理によって』ということであり、それは神の摂理が知られないときは、そうしたものに見えるからです」。

 

 

 

天界と地獄367

 

 天界の結婚は二人の者が連結して一つの心となることである。この連結のいかようなものであるかを先ず説明しよう。心は二つの部分から成り、その一つは理解と呼ばれ、他は意志と呼ばれている。この二つの部分が一つのものとなる時、それらは一つの心と呼ばれる。そのとき夫は理解と呼ばれる部分を作り、妻は意志と呼ばれる部分を作る。内部の連結であるこの連結が彼らの身体に属したものの中へ降る時、それは愛として認められ、また感じられ、そしてこの愛が結婚愛である。そのことから結婚愛は二人の者が連結して一つになることから発していることが明らかである。このことは天界では共に住むことと呼ばれ、彼らは二人ではなくて、一人であると言われ、それで天界では二人の配偶者は二人の天使とは呼ばれないで、一人の天使と呼ばれている。

 

 

 

天界と地獄372

 

 天使または人間の中に連結している善と真理とは二つのものではなくて、一つのものである、なぜならその時は善は真理に属し、真理は善に属しているから。この連結は人間がその意志する〔欲する〕ことを考え、またその考えることを意志する時に似ており、その時は思考〔考え〕と意志とは一つのものとなり、かくて一つの心となっている、なぜなら思考は、意志が意志する〔欲する〕ものを形作り、またはそれを形をもって示し、意志は思考に歓喜を与えるからである。従ってまた天界の二人の配偶者は二人の天使と呼ばれないで、一人の天使と呼ばれている。この事もまた主の御言葉により意味されているところである「初めから彼らを造られた方は、彼らを男と女とに造られた、それで男は父母を離れて、その妻に会い、二人は一人のものとなると言われたことをあなたらは読んでいないか。それで彼らは最早二人ではなくて一人のものである、それで神が共に合わされたものを、人間は引き離しではならない。凡ての者がこの言葉を受けることが出来る訳ではない、ただそれを与えられた者が受けることが出来るのである」(マタイ19・4−6、マルコ10・6−9、創世記2・24)。ここには天使たちの結婚愛が記されていると同時に、善と真理との結婚が記され、人間は神が共に合わされたものを引き離してはならないことにより、善が真理から分離されてはならないことが意味されているのである。

 

 

 

天界と地獄383

 

 諸天界で結婚はいかようにして行われるかもまた私は見ることを許された。天界の何処でも互に似ている者は共に交わっており、似ていない者は分離しており、従って天界の社会各々は互に似ている者たちから成っている。似た者は似た者の方へ、自分自身からではなく、主から連れて行かれ(前の41、43、44以下を参照)、同じくその心が互に連結して一つになることの出来る配偶者はその配偶者のもとへ連れて行かれる。従って彼らは最初の一瞥で互に他を心の奥底から愛し合い、自分たち自身が配偶者であることを認めて、結婚に入り、かくて天界の結婚はすべて主のみから発している。彼らはまた結婚の祝宴を張るが、それは多くの者の列席の下に開かれる。しかし祝宴は社会が異なっているに応じて異なっている。

 

 

 

 

6.地上の結婚

 

 

結婚愛320

 

しかし内的に連結した結婚には地上では辛うじて入ることしか出来ないことを知らなくてはならない。それは内なる似たものを選ぶことは天界のようにここでは主によって供えられることは出来ないためである。なぜなら彼らはその住んでいる国、都、村の中で、多くの点で、例えば地位と境遇とが平等であることに制限されており、そこでは大部分外なる物が彼らを結びつけるのに役立っており、それでそれは内なるものではないからである。この内なるものは結婚後しばらく時が経過して現れない限り現れはしないのであって、そしてそれが外なるものの中に現れる時にのみ知られるのである。

 

 

 

 

7.結婚と姦淫とにかかわる色々な特殊な事項について

 

 

結婚と姦淫とにかかわる色々な特殊な事項について

霊界日記6110

 

 

 

 

8.ユダヤ民族が偶像崇拝の民族と結婚を禁じられた理由

 

 

天界の秘義4444

 

(出エジプト34・16)、(申命記7・3,4)。

この律法は偶像崇拝の諸民族と結婚することによりイスラエルの子孫が真に表象的な礼拝から外れることのないように、偶像崇拝の諸民族に関連して与えられたのである、なぜならかれらが偶像崇拝者となると、かれらはもはや主の王国の天的な霊的な事柄を表象することができなくなり、地獄的なものであるところの、それに対立したものを表象することができたからである、なぜならそのときはかれらは地獄から或る一人の悪魔を呼び出して、これを拝し、これにその神的な表象的なものを適用したからであり、それで『かれらの神々に従って淫行を犯さないためである』と言われているのである。この律法はまた以下の付加的な理由からも与えられたのである、すなわち『諸民族』により悪と誤謬とが意味され、これとイスラエルの子孫により表象されている善と真理とが混入してはならなかったのであり、従って、悪魔的な奈落的な事柄は天界的な霊的な事柄と混入してはならなかったのである(3024番)。

 

 

 

 

9.人間は、教えられないでは、性的愛についても何ごとをも知らない

 

 

真の基督教48

 

研究家たちは人間は、教えられないでは、性的愛についても何ごとをも知らない。娘たちも、青年たちも、他の人々から教えられない間は、このことについては何らの知識をも持っていないと語った。