司祭

 

 

祭司メルキゼデク表象司祭のために祈りなさい

 

報酬結婚

 

 

 

1.ミサ聖祭で犠牲を捧げることが司祭の召命の中で行うべき最も重要な仕事

. 司祭の権能

3.表象するものにあっては人物は問題とされない

4.聖なる司祭

5.心に聖言の聖さと主の神性を否定する者たち

6.イエズス会

7.司祭職の制定

8.司祭的なやさしさ

9.結婚は祭司によって聖別されなくてはならない

10.説教する女たちについて

11.主はヴァッスーラを司祭と呼ばれる

12.祭司の務めは『戦い』

13.仁慈の善

14.シルワン

15.聖母から司祭へ

16.最後の時のキリスト者は司祭以上でなければならない、司祭の服しか持たない地獄の蛇

17.司祭の独身

18.聖母マリアの父ヨアキムは司祭として、マリアを最も甘美な称号“汚れのない者”に聖別した

19.使徒職の報酬

20.司祭とは、愛(カリタ)の欲求によって、自らを捧げる霊魂のこと

21.司祭の品格

22.主は永遠の司祭

 

 

 

 

                             

イザヤ61・6

 

あなたたちは主の祭司と呼ばれ

わたしたちの神に仕える者とされ

国々の富を享受し

彼らの栄光を自分のものとする。

 

 

 

 

1.ミサ聖祭で犠牲を捧げることが司祭の召命の中で行うべき最も重要な仕事

 

 

天使館/天使のパン16号P42

『信仰は従順より偉大である』ドレックス教授への救い主の御言葉 

1973年9月7日早朝の主の御言葉

 

 わが唯一真の教会においては、司祭であろうが、信徒であろうが、永遠の審判の前では超自然的な重い責任を持っている。審判において最も重要視されるものは御聖体に反する罪であり、御聖体の犠牲の持つ尊厳と神性と恵みに反する罪である。

 多くの司祭たちにとって、ミサでの聖なる犠牲は単なる習慣となっている。彼らは内なる信仰を持たずに、また崇敬の気持ちも持たずに、更に贖い主である私への愛を持たずに祭壇に近づく。ミサ聖祭で犠牲を捧げることが司祭の召命の中で行うべき最も重要な仕事であるにも拘らず、信者は司祭が聖なる犠牲を捧げているかどうかを気にも留めようとしていない!

 

 

 

天使館/天使のパン16号P30

『信仰は従順より偉大である』ドレックス教授への救い主の御言葉 

1972年12月1日早朝の主の御言葉

 

 大きな試練と苦悩がわがユダヤ人いるの真の教会に近づいてきている。荒れ狂う攻撃的な霊たちが教会の内部および信者たちの間に破壊を引き起こしている。多くの処で神のまします場所は名ばかりとなり、空っぽの状態になっている。そのため、心の温かさや霊的糧を求めても満たされなくなっている。至聖所で私の現存の神秘と秘跡を行うために神に奉献された司祭たちや侍者たちの心は空っぽで冷たくなっている。このような者たちは私の聖心への奉献も愛も軽々しく忘れ去り、まさに私との関係を断とうとしているかのようである。彼らはその心を世俗に売ってしまったのである。そのため、聖母の聖心への奉献は意味を失い、聖母をも捨てることになったのである。彼らは聖母の代わりにこの世の女性を求めている。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて4・5・2

 

 自分に注意し、司教の按手によってどういう職務があなたに授けられたかを、よくよく考えて見よ。

 見よ、あなたが司祭とされ、聖別されたのは、ミサを行うためである。(中略)

司祭たる者はあらゆる善徳に飾られ、他人に善良な生活の亀鑑(かがみ)を示すべきである。

その言行(おこない)も野卑でなく、普通一般(よのつね)の人々のようでなく、天上の天使がたや地上の完全な人々のようでなければならない。

 

 

 

ブリージ・マッケナ/「祈り―恵みの泉―」P190

 

私は司祭たちに、イエスを私たちの祭壇に連れてくることは、彼らの出来る一番美しいことですと言います。(中略)マリアのように、彼はイエスを生むのだということを自覚しなければなりません。彼が私たちにイエスをもたらすことの出来る唯一の道は、御聖体をとおしてです。

 

 

 

 

2.司祭の権能

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて4・5・1

 

 偉大なるかな、この秘跡(ミサ聖祭)。また偉大なるかな、司祭の位。司祭には諸天使にさえ許されていないものが与えられているのである。

 なんとなれば、教会で正式に叙階された司祭たちだけ、ミサを行い、キリストのおんからだを聖別する権を有しているからである。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P104

‘89・1・17        

 

♡ 今日、我が唇は愛に渇き、あなた方の愛を求めている、私は愛に飢え渇く、愛に飢え渇く・・・我が聖心はどれほど私を愛するのを 学ぶようにと願っているか! いつの日か愛の頂きに達し あなたが「お父さま(アッバ)!」と叫ぶのを 聞きたいと願っている! その時・・・その時初めて、我が傷は癒えはじめるであろう・・・我が司祭たちが、無限の愛から汲み上げ、自らの心を満たすようにどれほど願うか! 彼らに対する我が愛は大きい、どれほど大きいかは 天国に入るまで、十分理解はできないであろう ♡ 熱心を旗印、忠実を松明、清さを礼装、そして愛を紋章としなさい。 子羊たちが彼らのうちに私を認め 我が象りを はっきりと見出だせるように ♡ 羊飼いたちは、清くあってほしい、その清さのうちに 彼らの実が 無傷であるように。 我が聖心を歓喜させ 掟を完全に守りなさい、愛することは、掟に従うこと。 互いに愛し合いなさい ♡ ああ 我が光の子たちよ、みことばを生きるように、みことばを生きるように・・・

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P42

 

キリストの英雄、天の英雄。皇帝たちの権勢は、おまえたちの尊い司祭職と比べれば、ちりにすぎない。ガリラヤの貧しい漁師であるおまえたち、知られざるユダヤ人のおまえたち、今、存在する人間の中での小さい数にすぎないおまえたちは、この世にある、または未来にあるであろう皇帝、すべての皇帝たちよりもっと知られ、もっと慕われて尊敬されるであろう。近い未来、そして最も遠い遠い時代、世の終わりまで知られ祝福されるだろう。

 私は、おまえたちをこの崇高な運命に招く、正しい意志を持っているから。そして、その使命にふさわしく生きられるように、使徒としての、おまえたちの条件の主なる輪郭をここに知らせよう。

 まず、絶えず警戒してどんなことにも覚悟して、腰には、いつも帯をつけているようにせよ。そしておまえたちの灯りは、今すぐでも出発でき、あるいはやってくる人を迎えられるように火をつけておけ。そして、実際おまえたちは死によって止められるまで、さまよっている人を探す、疲れを知らない旅人であれ。死がそれを消すまで、キリストの柵に向かって、さまよっている人々に道を示すためにおまえたちの灯りは高く挙げて燃えているものでなければならない。おまえたちをこの奉仕に選んだ主人に対して忠実であるべきである。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P82

 

このことによって私は二つのことを理解いたしました。一つは、私に正気を取り戻させてくれることができるのは、ただその聖性のみではなく、特に神からその執行者として司祭に与えられた権能によるものであるということ。第二番目に分かったことは、神の代行者にたいして主観の網にとらわれていた私を、神のご計画がそれを認識させてくれたということです。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P84

 

それから司祭たちを通じてわたしの事業を世にあらわすのはわたしのやり方の常であるということを知って下さい。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P133

 

さて、常に愛する私のイエスがそのお苦しみに私を参加させるために、私に見せて下さった悲痛な場面のいくつかを、簡単に書き表すように従順によって説得され実行いたしましたからには、あの私の心をうばった慰め深い場面について黙って通り過ごすことはできません。イエスはまた、私どもの教会の聖なる秘跡の式典を、まことの謙遜の精神をもって熱心に執り行なっているよい司祭がたをも私に見せて下さり、なんともいえない素晴らしい甘美さを私に味わわせて下さいました。このような方たちが約三十分間の短いあいだに深い潜心でこの貴重な式に臨んでおられるのを見て、私はたびたびイエスに向って愛情でいっぱいになり、嘆声を上げて申したい気持ちになるのでした。「司祭職とはなんと気高く、偉大で、秀でた、崇高なものなのでしょうか! それはこれほど近くからイエスよ、あなたに接するという特別の尊厳を与えられたのみでなく、さらに愛と平和の贖いの犠牲として、あなたの永遠の御父に向ってあなたを生けにえとして捧げることができるとは!」ある一人の聖なる司祭がミサを挙げられる時、イエスは彼とともにおられ、彼のうちに変身されて、まるで両者はただ一人の人であるかのように見えます。このような事実を感嘆の心をもって何度も眺めることができるとは、なんと慰め深いことだったことでしょう! 神聖な犠牲の式典をつかさどるのは、もはやその司祭ではなく、イエスご自身であるのを見るのでしたが、ときにはミサをつかさどっておられるのはイエスご自身であることを私に分からせるために、その神父様を完全にご自分の中に隠しておしまいになるほどでした。イエスがあれほどの注油のお恵みをもって、あの祈りの言葉のかずかずを唱えられるのを聞いたり、あの聖なる式典の動作を一つ一つ行なうために高い品位をもって振る舞われるのを見るのは、まことに感動深いもので、私のうちにこのまことに聖なる気高い聖職の、もっとも秀でた素晴らしさを感じさせてくれるのでした。深い崇敬と聖なる注意の心をもって捧げられるミサを見ることができた時には、なんとたくさんのお恵みを受けたことでしょう。今このことについて私は沈黙を守りますが、これらのミサからなんと多くの神の光と特典について理解したことでしょう。

 

 

 

 

3.表象するものにあっては人物は問題とされない

 

 

天界の秘義665

 

同じく祭司長と祭司も、その性格は如何ようなものであっても、邪悪な者でさえも、天界的な、いとも聖い祭司性を表象することができたのである。表象するものにあっては人物は問題とされないで、表象されるものが問題とされるのである。かくてイスラエルとユダの王は凡て、その最悪の者さえも、主の王者性を表象し、またヨセフをエジプト全土を統べる司としたパロすらもそれを表象したのである。

 

 

 

天界の秘義1361[2]

 

例えば、ユダとイスラエルでは実にエジプトとその他の場所においてさえも、王はことごとくその者はいかようなものであったにしても、主を表象することができたのである。彼らの王者性そのものが表象するものなのである。それで凡ゆる王の中で最悪な者でさえも、例えばヨセフを立ててエジプト全土を統べさせたパロ、バビロンのネブカドネザル(ダニエル書2・37、38)、サウロ、ユダとイスラエルの他の王らは、その性格は如何ようであったにしても、表象することが出来たのである。塗油それ自身が―そのことからかれらはエホバに油注がれた者と呼ばれたのであるが―このことを含んでいた。同様に祭司もことごとく、彼らは除如何ほど多くいようと、主を表象したのであって、祭司の任務それ自身が表象的なものであり、また同様に悪い不潔な祭司も主を表象したのである、なぜなら表象するものにあっては、その人物は、その性質については何ら顧慮されないからである。

 

 

 

天界の秘義2010[]

 

 しかしながら表象している物にあっては人間の性質はいかようなものであるかは問題とはされないのである、なぜなら表象している物にあってはその人物には何ら注意が払われないのであって、その人物が表象している事柄に注意が払われることを知らなくてはならない(このことは前の665、1097番の終り、1361番に言いもし、また示しもしたのである)。

 

 

 

天界の秘義3670

 

表象している人間が善いものであるかまたは悪いものであるかについて、その人間の性質はいかようなものであるかは重要なことではなく、悪い人間も善い人間と等しく主の神的なものを表象することができ、また表象もしたことは前に見ることができよう(665、1097、1361番)。

 

 

 

天界の秘義3670〔2〕

 

そのことは今日までも存在している表象的なものから認めることが出来よう、なぜなら王はことごとく、その者はたれであろうとも、またいかような性質を持っていようとも、その王に属している王者性そのものによって主を表象しており、同じく祭司もことごとく、その者はたれであろうとまたいかような性質を持っていようとも、その祭司としての務めそのものにより主を表象しているからである。(中略)そしてまたこのことから、いかような王もその王者性〔王権〕に属している神聖さを些かも自分自身のために決して要求することは出来ないし、またいかような祭司もその祭司職に属している神聖さを些かも自分自身のために要求出来ないことが明白である。その何れかが自分自身にその何ものかを要求したり、またはそれを自分自身に帰するに応じて、益々彼は自分自身に霊的な盗人の性格を、または霊的な窃盗の印を焼き続けるのであり、また彼が悪を行うに応じて、すなわち公正で公平な事に反し、また善で真であることに反して行動するに応じて益々王は聖い王者性を表象するものを脱ぎ去り、祭司は聖い祭司職を表象するものを脱ぎ去って、それに対立したものを身に着けるのである。こうした理由から表象的なユダヤ教会では、祭司が特にその務めに携っている間守らねばならない聖さについて非常に多くの律法が命じられたのであり、この主題については、主の神的慈悲の下に、更に多くのことを以下に言うことにしよう。

 

 

 

天界の秘義3881[10]

 

 これらの、またここに省略された多くの記事から、『ユダ』により聖言に意味されていることを認めることが出来よう、またそれがユダヤ民族でないことも認めることが出来よう、なぜならこの民族は天的な教会であるどころか、または主の天的な王国であるどころか、主に対する愛と隣人に対する仁慈については、また信仰については凡ゆる国民の中でも最悪のものであって、しかもそれは彼らの最初の父祖たちであるヤコブの息子たちの時代から現在の時までも変わらないからである。(にもかかわらずこのような人物が主の王国の天的な事柄と霊的な事柄とを表象することが出来たことは、前の3479−3481番に見ることが出来よう、なぜなら表象するものにおいては人物は省みられはしないで、ただ表象される事柄のみが省みられるからである、665、1097、1361、3147、3670番)。

 

 

 

天界の秘義6914〔3〕

 

 しかし彼らがいかようにして悪を公然と為すことを抑えられたかもまた私は知ることが出来たのである。彼らは外なる束縛の中に即ち、名誉と名声とを失う恐怖の中に、天界のその領域の中で財産を失って、地獄へ投げ込まれる恐怖の中に留めおかれ、またその時彼らに単純な善良な霊たちが結合していたのである、このことは、世の人間の場合にも当てはまるのであり、彼らは内部では悪魔ではあるものの、それでもそうした外なる拘束によって尊い公正なものを装うことの中に、また善行の中に留め置かれているのであり、彼らはそのように留め置かれるためには、単純な善の中にいる霊たちが彼らに結合しているのである。それが主が来られる以前天界の低い領域の中にいた悪い者の実態であり、その時彼らもまた彼ら自身の愛から真理を語り、善を為すように強制されることが出来たのである、そのことは悪い祭司、実に最悪の祭司の場合とも異なってはいないのである、即ち、彼らは内部では悪魔ではあり、彼らの聴聞者の心を感動させて敬虔の念を掻き立てる程の熱烈さと熱意を装って彼ら自身の教会の教義的な事柄を説くことは出来るものの、それと同時に自己と世とを求める愛の中にいるのである。なぜなら名誉と利得を求める思いが彼らの内部をあまねく支配しているものであって、その火から彼らは焚き付けられて説教をしているからである。彼らと共にいる者らは悪霊であり、また彼らと同じような愛の中におり、それで彼らと同じような考えの中にいて、彼らを導いている者らは悪霊どもであり、これらの者に単純な善良な霊が結合しているのである。この凡てから主が来られる以前天界の状態のいかようなものであったかを認めることが出来よう。

 

 

 

 

ブリージ・マッケナ/「祈り―恵みの泉―」P168

 

ミサ聖祭の中で司祭が何を代表し、何を行なっているかを見るために自分自身や司祭の人間性を越えた向こう側を見なければなりません。カトリック信者として、ご聖体において、自分とイエスとの間に司祭を入れてはいけないのです。

 

 

 

 

4.聖なる司祭

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P201

 

イエズスがアンドレアに:

 

 「私は、おまえが何も言わずに他人よりもよく働いているのも知っています。十二人の中には、仕事をするのに騒々しく音を立てる者もいれば、仕事はしないが音を立てる者、仕事だけする者がいます。大事だが地味でだれも気づかない仕事・・・他人には何もしていないように見えるが、すべてを見ている人は知っています。おまえたちはまだ完全ではないので、こういうふうな違いがあるし、また、天使が“時が終わった”と声を響かせるその瞬間まで、将来ずっとおまえたちに続く弟子たちの中にも常にそういう人たちはいます。いつも勤勉だが、世間の注目を引くことのないキリストの奉仕者“先生たち”がいます。

 

そして残念ですが、音だけ立て、大向うの受けをねらって、大げさな態度をとる偽りの牧者も常にいます・・・彼らは司祭だろうか。いいえ、“芸人”以上の何者でもありません。司祭を作るのは、大げさな身ぶりでもなければ服でもない。人間を司祭にするのは、世間的な学問や知識、力関係ではない。大切なのは、その人の心と霊魂だけです。肉体を消すほどの大きな霊魂、私の夢見る司祭は霊だけです。未来の私の“聖なる司祭”は、このようなものです。霊には声もなく、悲劇役者の気どりもない。霊であるがために荘厳な衣装も仮面もつけない。司祭とは霊、炎、光、愛であるもの、それが司祭です。霊魂たちに話すまなざし、業、ことばの清さを持っています。

 

 人間は自分と同じような他人を見ますが、相手の肉体の他に何を見ているのですか。何かが、人のあわただしい歩みを止めさせ、考えさせます。“私に似ているこの人は、姿は人間だがその霊魂は天使のようなものです”そして信仰のない人が、このような人によって神があること、天があることを信じることもあり得ます。そして淫乱な人は“この私に似ている人には、天の目がある。その目を汚さないよう、私の肉欲を抑えよう”と考え、けちな人は“富に執着しないあの人を模範として、貪欲を捨てよう”と決心する。そして、短気で残酷な人は、柔和な人を前にして平和で静かな人に変わる。このようなことができるのは聖なる司祭だけです。

 

 信じてもらいたいが、聖なる司祭たちの中には、神と隣人への愛に死さえ選び、一生涯完徳を実行しつつ、世間がその存在すら気づかないほど、すべてを何げなく行う人々がいます。世間が将来遊女家と偶像崇拝の世界に変わらないとすれば、それはこのような“沈黙と忠実な英雄たちの活躍”によるものです。この人たち、そう、アンドレア、おまえのように清らかで控えめな笑顔を持つ人たちは常にいます。神の恵みによって、この世の幸運のために!」

 

 

 

 

5.心に聖言の聖さと主の神性を否定する者たち

 

 

真の基督教147

 

人間の心は最高の領域―これは最内部の領域とも呼ばれる―中間の霊的領域、最低の自然的領域の三領域に分かたれている。聖言の聖さと主の神性とを否定する凡ての者の心は、最低の領域に於いて考えているが、しかし、幼児の頃から教会の霊的な真理を教えられている故、それを受け入れてはいるものの、これを種々の感覚的な、政治的な、公民的道徳的な事柄である自然的な物の下に置いている。しかして、霊的な事柄は、言語に最も近い心の最低の位置を占めるため、彼らは教会とその集会では霊的に語り、しかも奇妙なことに、自分達は真面目な信仰から語り、考えていると実際考えるのである。にも拘らず、彼らは家に在る時のように自由になると同時に、その内的な心を閉じていた扉は開かれ、かくて彼らは自分の公の演説を時として嘲笑し、その心の内に宗教とは鳩を捕らえる尤もらしい罠であると語るのである。

 

 

 

 

6.イエズス会

 

 

真の基督教146

 

しかし彼らは、多くの者が教えを述べている際、よって以って生気を与えられる熱意は、その心の中の神的な活動であると、確信し過ぎてはならない。何故なら、それと同様の、否、それよりも更に激しい熱意が狂信者達を動かし、極端に誤った教義を抱いている者達を動かしており、実に神の言を軽率に評価し、神の代わりに自然を礼拝し、信仰と仁慈を、いわば、袋に詰め込み、これを背負って歩き、説教または教訓を与える際、一種の反芻胃のように、これを自らの顔前にかかげ、そこから聴衆の糧として役立つと考える物を引き出し、吐き出す者たちを動かしているからである。何故なら、熱意は実は自然的な人間の激情であるからである。もしその中に真理の愛があるならば、その時それは使徒たちの上に降り、使徒行伝に以下のように録されている聖火に似ているのである。

 

「火の如きもの舌のように現れ、分かれて各々の上に、彼らみな聖霊にて満たされぬ。」(2・3,4)

 

 しかし、虚偽の愛がその熱意あるいは激情の中に隠れているならば、その時それは木に閉じ込められ、爆発して、家を焼き尽くす火のようなものである。それ故、聖言の聖さと主の神性とを否定する方々は、願わくば前述した袋を背中から取り下ろし、それを家に在って自由に開かれるように開かれんことを。さすれば明らかになるであろう。イザヤ書の暁の明星によって意味され、而してバビロンに属しているところの者が、特に自らをイエスの会の会員と呼ぶ者達が、教会に入る時、更に講壇に登る時、しばしば地獄的な愛から発する熱意によって力づけられ、天界的な愛によって熱意を与えられる者達よりも更に激烈に、論じ、更に深い呻き声を立てることを私は非常によく知っているのである。

 

 

 

 

7.司祭職の制定

 

 

聖母から司祭へ1988.3.31

 

 わたしの最愛の司祭たちよ、今日は、あなたたちの祝いの日です。

 今日のこの祝日は、イエルザレムの高間における最後の晩餐、ご聖体と新しい司祭職の制定を記念する日です。あなたたちの祝日です。なぜなら、キリストの奉仕的司祭職にあずかっているあなたたちも、その時、霊的に高間にいたからです。わたしは、司祭であるあなたたちの母です。なぜなら、イエズスが、あなたたちの兄弟ヨハネの家に、特別な方法でわたしをまかせられたからです。

 今日あなたたちは、わたしの汚れなき心の高間に入りなさい。

 あなたたちの司祭としての家の扉を開きなさい。わたしが、あなたたちを愛し、養成し、導いていく母としてはいることができるためです。(中略)

 

 わたしは、あなたたちを、イエズスの憐れみ深い神的み心にかなう司祭となるように導きます。

 ―そして、すなおで、自発的で、わたしと深い親密な生活のうちに、成長することができるようにしてあげます。それはすなわち、わたしが使徒ヨハネの家で生活したように、あなたたちの司祭としての生活の住まいの中で生きることができるためです。 

 

 小さな子どもたちが母に導かれるままになり、そのいいつけに従い、教えをきき、何でも母に期待しているのをごらんなさい。あなたたちも、これと同じようにしなさい。

 何でも、わたしと共にすることになれなさい。起きるとき、祈るとき、ミサ聖祭を捧げるとき、教会の祈りをとなえるとき、使徒的活躍の力のかぎりする時に。

 

 お聖堂をより美しくするときも、新しいことをするときにも、わたしと共にしなさい。

 孝心にみちた心と、習慣的に従う心をもって。

 そうすれば、どんな事も、あなたたちの心の平和を乱さないでしょう。

 

 もし、わたしの敵が、あなたたちの心を乱そうとして全力をつくしても、突き刺すことのできない鎧をあなたたちが着ているのを見るでしょう。あなたたちは、その時、誰も乱すことのできない平和に包まれ、内的おちつきと観想生活の、もっとも高い頂きに導かれるでしょう。(中略)

 

(中略)

 

 こうするときイエズスは、あなたちの小さな心をお取りになって、これを開き、拡げ、ご自分の愛でみたしてくださいます。イエズスは、あなたのうちに愛し、あなたたちも、かれのうちに愛するようになり、イエズスの完全な神的愛のすばらしい渦の中に、ますます深く沈められるでしょう。

 

 そのとき、人間として、おん体のうちに生きておられるイエズスと深い親密な関係をもつように召された愛弟子ヨハネのようにあなたたちも新しいヨハネとなって、ご自分の光栄あるおん体とご生活に対して、親密な関係をもつようにと、イエズスは、あなたたちを召されます。

 

 イエズスは、地上のすべての聖ひつの中に、聖別されたパンの外観のもとに、隠れていて、犠牲として、実際に現存しておられるのです。

 

 

 

 

8.司祭的なやさしさ

 

聖母から司祭へ1992.1.1

 

世間と自分自身を軽蔑する道、けんそんと、自分がいやしい者にすぎないとへりくだる道、愛と潔白の道を歩みなさい。こうするなら、あなたたちは、こん日、これほど苦しんでいる教会にとって、よきサマリア人となるでしょう。

いつも愛し、誰もさばかないでください。

あなたたちの司祭的なやさしさをもって、すべての人を助けなさい。

 

 

聖母から司祭へ1995.11.15

 

誰をも裁いてはいけません。わたしの汚れなき心の鼓動に合わせて皆を愛しなさい。

 

 

9.結婚は祭司によって聖別されなくてはならない

 

結婚愛308

 

 

10.説教する女たちについて

女教師

 

テモテ1・2・9−12

 

同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ静かにしているべきです。

 

 

 

霊界日記5936

 

宗教問題について男が考えるように考え、そのことについて大いに話す女たちは、ましてや集会で説教する女たちは、情愛的なものである女としての性質を破棄してしまうのであり―そのため女たちは結婚した男と共にいなくてはならないのであるが―彼らはまた物質的なものとなり、かくて情愛は死滅し、その内部は閉じられてしまうのである。彼らはまた、その思考の方面で、発狂する傾向を助長させ始めるが、そのことは、情愛がその際破壊されてしまって、そのため知的なものが狂うようになるため、起るのである。実に外なる形では、依然彼らは他の女のように現れることが出来るのではあるが。約言すると、彼らは最後の度における感覚的なものとなるのである。「女は家庭に属しており」、説教に携るところでは異なった性質のものとなってしまうのである。

 

 

 

11.主はヴァッスーラを司祭と呼ばれる

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P128

‘88・1・30

 

♡ ああ 愛する者よ(*) 私のメッセージがいかに失われた霊魂を癒し 回心させるかをジェームズ神父に思い出させなさい、ヴァッスーラ 私のメッセージが本物である証しとして 何が一番大きな奇跡か?

 *イエスでした

 

回心?

 

♡♡ そうだ、我がヴァッスーラ、私の司祭よ、これで分かったであろう、私の最大の奇跡は 娘(こ)よ 回心なのだ ♡ 終わりには 娘よ、私どもの心が勝利するであろう

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P168

‘88・3・24

 

♡ ヴァッスーラ 私です、私を見なさい 霊魂よ、彼らには聖さが見出せない。

 

(イエスよ、今日のあなたの御わざを否定する人たちにですか?)

 

そうだ、全然見当たらない、十字架から叫ぶごとに、それはその瞬間 私自身の者がサタンに負けたのを見るからだ、ヴァッスーラ、私自身の者、私の司祭よ、愛している、

 

イエス、女性の司祭が許されていないときになぜ私を司祭とお呼びになるのですか?

 

霊魂よ 私はあなたを聖化した、私があなたを選んだ 霊魂よ、私の目はあなたの霊魂を見ているのだと分かってほしい、私の心はあなたの霊魂を感じている、あなたの霊魂は身体の中にあるが、私は身体ではなくあなたの霊魂を愛している ♡ みことばを悟るように努力し、神なる私があなたの霊魂を見ているように あなたも霊魂を見なさい ♡

 

神にとって意味があるのは霊魂なのです。死後は天国に行って女性とか男性という区別がなく、すべての霊魂は天使と同じようになります。イエスはそれを担っているからだではなく、霊魂をご覧になるのです、そこで主の選ばれた者たちの間に区別をなさいません。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P210

‘91・9・26

 

その時、はじめて、我が司祭よ、私のわざが崇高なものであり、栄光と荘厳に満ちたものだと分かろう。 その時はじめて、我が教え子よ、謙遜そのものがなぜ 恥を受け、歪められ、軽蔑され 刺し貫かれ 多くを贖うためにいのちを与えるほどに身を許したかを 私が望むように理解しよう。 ― 私はあなたの愛をかき立て 呼び覚まそうとして訪れた、分かったであろう? そこで痛みからも 辱めからも肉を守ろうとはしないように。 霊魂と同様 肉にも救い主の印を受け入れ 全き変容をあなたのうちにもたらしなさい、その時は自然に嫌悪し 拒み 蔑んでいたすべてが 神聖なものとして映ろう ♡

 

主よ、お言葉通りに、すべてが行われますように、お恵み下さい。 ― 私の頭を低くし、私も低め 私の声も低くして下さい。み前にからの手で立ちたくありません。そうです。み前に出た時、からの手で立ちたくありません。そして私の性質から自然に出てくる人間的な考えを抜き取り、一つ一つを燃やして下さい。

 

霊魂を私にすっかり捧げ あなたに降りかかってくる前に我が掟を思いめぐらしなさい。 あなたの性質がいかに あなたを荒廃した地、砂漠にしたかを忘れないように。 我が栄光のために もし許してくれるなら あなたの人間的な思いを取り払い 私の思いに置き換えよう。 我が敵に顔を向け その矛盾に抵抗する勇敢な心を、我が小さな者よ、あなたに与える。雄弁に話し、私の迫害者でもあるあなたの迫害者たちの脅威に耐え 抵抗できるようにしよう。 確信して立つ勇気を与える。 あなたは私の種子 そして収穫がととのい、穀物を刈り取る用意ができたゆえ、気がついたであろうが 私は待たずにそれを行う。 死の瀬戸際にある多くを養いながら 私は刈り取っている。 そこで、まこと愛する者よ、「あなたも鎌を入れて刈り取りなさい。 刈り入れの時が来た。 地の穀物はよく実っている(*)。」

 *黙示録14・15。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P262

‘91・11・25

 

我が司祭よ! 死骸は穴に放りこまれ、うずもれて忘れ去られよう。 エジプトから呼び出した娘よ、平安を受けなさい。 あなたを 生ける者たちの地においた。 私を見据え あなたに抱く愛と友情を 確信しなさい。 痛みのあまり 涙を流させないでほしい、どうして見捨てようか? しかし悪霊は 私自身の与えた富をすべて根こそぎにしようと 必死にもがいている。 私はあなたを穴底から引き上げたが 悪霊はあなたを穴底に引き戻し 葬りたがっている。 娘よ、私に信頼しなさい、あなたを孤児にはしない。 私の約束を受け入れなさい、娘よ。 決して見捨てたりしない! 聞いてほしい: 安心するように、あなたのしたことは 無駄ではなかった(*)。

 

私は動揺し、主が背を向けてしまわれたと思い込んだのです。

*誘惑する者がやって来て、私が主のために十分していないと、そしてイギリスとアイルランドの集会は全くの「失敗」で、話した言葉は皆無駄だったと言うのです。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P83

‘92・6・5

 

与えたものの真実を 証ししているため 世は、我が司祭よ、あなたを拒むであろう ♡

 

 

 

その他

 

黙示録20・6

 

わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P178

‘88・3・31

 

♡ 私の教会は元気を取り戻す必要がある、道から逸れその結果 仔羊たちに与えるもののない司祭、司教や、枢機卿のために祈りなさい。 彼らは今までも 今も働いていない 自分の利益を求め 私の利益を求めようとはしないで、心を荒廃させ自らもそれを知っている、荒れ地に惹かれる仔羊はいない、当然羊もさまよい出て、自分たちを導き、愛し 護り 養う羊飼いがいないから道を逸れてしまう ♡

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P104

‘89・1・17        

 

♡ 今日、我が唇は愛に渇き、あなた方の愛を求めている、私は愛に飢え渇く、愛に飢え渇く・・・我が聖心はどれほど私を愛するのを 学ぶようにと願っているか! いつの日か愛の頂きに達し あなたが「お父さま(アッバ)!」と叫ぶのを 聞きたいと願っている! その時・・・その時初めて、我が傷は癒えはじめるであろう・・・我が司祭たちが、無限の愛から汲み上げ、自らの心を満たすようにどれほど願うか! 彼らに対する我が愛は大きい、どれほど大きいかは 天国に入るまで、十分理解はできないであろう ♡ 熱心を旗印、忠実を松明、清さを礼装、そして愛を紋章としなさい。 子羊たちが彼らのうちに私を認め 我が象りを はっきりと見出だせるように ♡ 羊飼いたちは、清くあってほしい、その清さのうちに 彼らの実が 無傷であるように。 我が聖心を歓喜させ 掟を完全に守りなさい、愛することは、掟に従うこと。 互いに愛し合いなさい ♡ ああ 我が光の子たちよ、みことばを生きるように、みことばを生きるように・・・

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P247

‘91・10・29

 

まことに言うが 間もなく私は愛の輪となるようにすべての国たみを集め 我が霊は あなた方のうちに宿って 見えない者たちに見える視力を与える、与えられる光とは: 我が卓越した光だからです。 しかし自分たちの霊に富を蓄えた者たちにとって 我が光に入って来るのはなんと難しいか! 知者が光の中まで浸透し その深淵を見い出すのはなんと難しいか! 彼らにとって我が王国に入るのはなんと難しいか! はっきり言う、あなた方の社会に拒まれた者たち そしてあなた方にふさわしくないと呼ばれる者たちのほうが 彼らより先に入って来よう。 そう! 善と悪の区別がつかない、左手と右手の区別もわきまえない者たちが! 私と食事をともにするようにと 今までも 今でもずっと皆を招きつづけている、しかし多くは私の招きに応えないで、その寛大な呼びかけを嘲笑(あざわら)ってはねつけた そして来たいと望んだほかの人も、その教えによってつまずかせた ♡ このすべてを 結婚披露のたとえ話に比べてみるとよい(マタイ福音書22・1−14)

             私は戻って来る(*)

 

  第二の聖霊降臨。霊の流れ。ヨエル書3。

 

そして彼らは震え上がろう。 この長い歳月 誰を拒んでいたかを悟ったなら 彼らは震え上がろう。 彼らは我が霊を否認して 自分自身の霊に導かれるのを自らに許した、我が光を否認して 自分たちの光に従った、英知が与えた天来の知識を否認して 二流の哲学と自分たちの合理的知識を選んだ。

           ― 彼らは背教している ―

我が霊、光と知識を 拒んだがゆえ。 彼らからは我が王国を取り上げ その実をみのらせる民に与えよう。 そして私自身の者たちとしてこの民を迎え入れ ともに来て同じ家に住まうようにと求めよう。 事実この時はもう来ている。 私はそばに いかがわしい者たち、どの街角にもたむろする、ふさわしくない、無の中の無でしかない、みじめな者たち、そして私の名を聞いたことない者たちを 引き寄せようと決めた。 私を愛したことないみじめな者たちのほうに行き 彼らを 愛の国たみ、聖なる国たみとする、そして彼らは私の誉れとなろう ♡ 彼らは生ける神の司祭、アーメンの司祭と呼ばれ、この司祭職の上に 我が教会を建て直そう、これらの心のうちに あなた方皆を一致させ、こうして我がからだは憩う ♡ 時が訪れた、そして誰も この我が聖霊の時を 止められない。 世界が足元から崩れて行き、王国が倒れ 町々が塵の山と化してゆくのが左手に見え、山々が崩れ去るのを右手に見るなら、それは我が聖霊の 油注ぎが始まった徴だと 知りなさい。 私自身の手で形造った教え子たちが、我が名によって 恐れなく宣教するのを見たなら、自分たちの誘惑に打ち勝って、彼らを引き裂かないように、むしろその足音を 識別しなさい、私はこれらの聖徒たちを遣わしつづけ その道すじで 我が分断されたからだの部分を集めさせよう、そして誰も、不潔の霊たちさえも 彼らを妨げられないであろう、むしろアーメンがその師であると知って その前に打ち伏そう ♡

 

 

12.祭司の務めは『戦い』

 

天界の秘義1664[7]

 

祭司たちは主を表象しており、主のみが人間のために戦われるため、祭司の務めは『戦い』と呼ばれている(民数記4・23、35、39、43、47)。

 

 

天界の秘義1664[8]

 

たとえ人間にはそのようには見えないにしても、エホバのみが、すなわち、主のみが、人間が試練の争闘の中にいるとき、人間のもとにいる悪魔と戦われて、これを征服されるということは不変の真理である、なぜなら最も小さな事柄でさえも、許されないかぎりは、悪霊により人間のもとへもたらされることはできないし、また何一つ、それがいかほど小さいものであっても主によらなくては、天使たちによってわきへそらされることもできないし、それで凡ゆる争闘を支えて、征服される方は主のみであられるからであり、そのことはまたイスラエルの子孫がいくたの国民と交えた戦争により凡ゆるところで表象されているのである。それは主のみであることもまたモーセの書に言明されているのである―

 

  あなたらの前に歩まれるあなたらの神、エホバ、その方があなたらのために戦われる(申命記1・30)。

 

 さらに―

 

  あなたらの神、エホバはあなたらとともに歩まれ、あなたらの敵に向ってあなたらのために戦われ、あなたらを救われる方である(申命記20・4、ヨシュア記にもまたそのように言明されているのである、例えば23章3・5)。

 

 

13.仁慈の善

 

天界の秘義2015[]

 

  エホバはその怒りの憤りの中に王と祭司とをさげすまれた、シオンの門は地の中に沈んでしまった、かれはそのかんぬきをこぼたれ、くだかれた、その王とその君たちとは国民の間にいる、律法は存在しない(哀歌2・6、9)。

 

ここの『王』は信仰の真理を、『祭司』は仁慈の善を、『シオン』は、破壊されつつあり、またそのかんぬきを砕かれてしまった教会を意味しており、そこから『王とその君たちとはいくたの国民の間にいる』のであり、すなわち、真理と真理にぞくしたものとは『律法』が存在しなくなるほどに、すなわち、信仰の教義が何一つ存在しなくなるほどにも放逐されてしまうのである。

 

 

14.シルワン

 

シルワンの手記/P36

 

 最初に、私たちにとって霊的指導者が必要です。なぜなら、聖霊の恵みを受けないうちに、心はサタンに対して一層はげしく戦い、一人の力だけで、そのいざないに対抗することができないからです。

 

 霊的指導司祭なしに、祈りの生活を始めてはならない。書物の助けだけで、一人で間に合うなどと高慢心を起こすな。このように考える人は誘惑に負ける。いや、もう負けたのだ。しかし、謙遜な人は神の助けを受ける。豊かな体験をもつスタレツを見つけることができなかったら、自分の聴罪司祭―どんな司祭であろうと―と相談しなくてはならない。そうすれば、主ご自身はあなたの謙遜さのゆえに、あなたを守ってくださる。

 

 

 

 

15.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1973.11.27

 

 ところで私にとって必要なのは、この司祭たちが絶えずますます私のものとなってゆくことです。沈黙、祈り、謙遜、心の均衡のうちに・・・。彼らが私について話すのは美しいことですが、私を生きるのは、もっと私の心を喜ばせます。

 私の子どもたちの中に母として戻るため、私の司祭たちのうつにもう一度生きたいと願っています。彼らは素直で、謙遜で、すべての人、特に神から離れてしまった人や、迷っている人、失望している人に対して、やさしい司祭であってください。

 彼らに私の心をあげたいと思います。そのため、母なる私の心の中で生きる習慣をつけてください。何も心配してはいけません。そのあとのことは、残るすべてを私が自分で考えましょう。

 愛のわが偉大な計画の成就されるために。

 

 

 

聖母から司祭へ1973.12.1

 

 淫猥な悪魔は何でも汚します。可哀想な子供たち・・・ どれほどそれに打たれて、その病気にかかっていることでしょう!

 神への反逆の精神が人類をそそのかしました。無神論がたくさんの人の心に入って、信仰と愛の光を残らず消してしまいました。

 聖書に描かれている赤い龍とはこれです。ああ、子供たち、聖書を読んでください。今はその実現の時です! 私の子供たちの中には、今やこのサタンの誤謬の犠牲者となった人が、どれほどいることでしょう。私の司祭のうちにさえ、もう信仰を持ってはいない人があります。それにも拘らず、私の教会の中に残っていますが、彼らは羊の衣をつけた真の狼で、数えきれないほど多くの霊魂を滅ぼしているのです!

 

 

 

聖母から司祭へP786

 

 イエズスは、こん日、孤独です。この孤独は特に、あなたたち司祭がもたらすものです。

 というのは、しばしばイエズスとは無関係なことばかりし、役に立たない活躍のための活躍をし、第二義的で重要でないことにだけあこがれ、司祭としての、あなたたちの一日の中心であるべきものを忘れてしまうのです。

 あなたたちの中心は、ここです、すなわちイエズスが現存し、特別にあなたたちのために安置されている聖櫃の前です。

 

 

 

聖母から司祭へ1994.3.31

 

 最愛の子らよ、あなたたちが、イエズスに選ばれて司祭となったのは、あらゆる所で、新しい永遠の契約であるイエズスのいけにえを新たにするためです。

 

 

 

 

16.最後の時のキリスト者は司祭以上でなければならない、司祭の服しか持たない地獄の蛇

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P197

 

最後の時のキリスト者は司祭以上でなければならない、反キリストの蛮族の迫害は残酷であろうから。主の傍らにいられる人は、聖なる麻を着ている人々で、彼らは苦労をいとわない。自分たちの完全さで残った僅かの信者の霊魂にタウをしるす。地獄の炎がそのしるしを消せないように、司祭たちか、否、天使たちであるべきである。空気をサタンの悪臭から清めるため、自分たちの徳の香であふれている香炉を振る天使たち、そして私であるべきです。最後の時の信者たちが最後まで、徳の道を続けられるように。以上の事を、私はあなたたちに話したかった。だが未来の善と悪とは現在に根を張っており、雪崩は雪の一粒の結晶から始まる。信仰のない、誠実のない、味わいのない、相応しくない、異端者の司祭は、同じような罪を犯している一般の信者の十倍の悪をする。それに多くの人を悪に引っ張る司祭職での堕落の不浄の教えは、利己心、貪欲を生む。司祭職においての貪欲は、どこに達するかと言えば、神殺しに達する。未来においては、神の子はもう殺される事はないが、神に対しての信仰はそのようになると考えている。そのために、尚更ただされない神殺しが行なわれるであろう。それには復活はない。おお! それは行い得る。私は見ている。未来の世紀のあまりにも多いケリオットのユダのために行われ得る恐ろしい事! 私の教会の司祭たちは根こそぎにされる。神の教会では、悪魔の誘いによって、あるいは人間の弱さにより、世紀にわたって、イエズスの裏切り者の使徒ユダに従う司祭たちや修道者が無くなる事はない。彼らが作る悪は、権力とスキャンダルの理由で、非常に重いものである。だが、神と信者の前で、私に忠実な司祭たち、修道者たちによって補われる事であろう。私の生贄によって救われ支えられているにもかかわらず、彼らは司祭の心がなく、司祭の服しか持たない地獄の蛇によって動かされ、波のうねりを煽り立てる。

 

 

 

 

17.司祭の独身

 

 

コリント1・7・8−9

 

未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。 しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。

 

 

 

コリント1・7・32−37

 

思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。 もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。 しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。 要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。

 

 

 

コリント1・9・5

 

わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。

 

 

 

聖母から司祭へ1989.10.13

 

司祭たちが、独身生活を細心の注意を払って守り、修道者は貞潔の誓願を忠実にきびしく守るように、わたしは願います。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3/P208

 

 私に従う人に、人間的な悩みがあってはなりません。

 

 

 

 

 

18.聖母マリアの父ヨアキムは司祭として、マリアを最も甘美な称号“汚れのない者”に聖別した

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P272

 

「それなら、神がマリアをあらかじめ救ったとヨアキムはどうして言えるのですか。このことばは、罪に対してマリアが受けた特権を暗示しているではないですか」

「そのとおり、暗示しています。しかし、ヨアキムはすべての預言者たちと同じように、神の口を通して話していました。ヨアキムも聖霊が自分の口に言わせた超自然の崇高な真理は分りませんでした。というのは、ヨアキムはマリアの父となるにふさわしい義人で、謙虚な人だったからなのです。実際、傲慢のあるところに“義”はあり得ません。ヨアキムは義人で謙虚で、父の愛をもって娘を慰めました。神の聖櫃の後見人でしたから、司祭の知恵をもって娘を教えました。また、司祭として、マリアを最も甘美な称号“汚れのない者”に聖別しました。いつの日か、もう一人の白髪の大司祭が、全世界に『マリアは汚れのない者として懐胎された』と告げるはずです。このことによって、異端と悪徳との霧の中にずぶずぶと沈んでいくその時代の世界に、神の最も美しいもの、星の冠をいただき月光をまとうマリアを、信仰の世界に反駁できないまことを与えました」

「では、ヨアキムは予言者だったのですか」

「義人でした。ヨアキムが、神に愛されていた魂に、神が現わしたことをこだまのように伝えたのです」

 

 

 

 

19.使徒職の報酬

 

 

ルカ10・7

 

その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。

 

 

 

コリント1・9・13−14

 

あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。 同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。

 

 

 

 

20.司祭とは、愛(カリタ)の欲求によって、自らを捧げる霊魂のこと

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/10卷上P123/606・15

 

霊魂が進化すればするほど、あなた方はを知ることになるでしょう。を知るとは、を愛し、に仕えることです。そして、自分のためにも、人のためにも祈ることができるようになります。地上から兄弟たちのために祈ることができる司祭になるのです。聖別された人は司祭です。だが、確信と愛と忠誠をもって信じる人も司祭です。とりわけ、司祭とは、愛(カリタ)の欲求によって、自らを捧げる霊魂のことです。

 

 

 

 

21.司祭の品格

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/10卷中P164/629・7

 

友よ、司祭としてのあなた方の品格をよく考えなさい。

かつてわたしは、人びとの中にいて、裁いたり、赦したりしました。今、わたしは御父の所へ向かいます。

 

 

 

 

22.主は永遠の司祭

 

 

天使館/増補『主の祈り』/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/P19

1945年6月28日

 

天にましますわれらの父よ

 

わたしは神を『』と呼びます。御言葉であり、御託身です。もしあなたたちがわたしに留まるなら、あなたたちはわたしと一つなのだから、あなたたちに神をこのように父と呼んでほしいのです。人間が恐怖と不安に震えながら「よ!」と請い願うために地に額を擦り付けねばならない時代がありました。わたしとわたしの言葉を信じない人はまだこの麻痺した恐怖の戦慄の中にいます・・・神殿の内部をよく見なさい。だけではなく、を記念するものですらも信者たちの目には三重のヴェールによって背後に隠されています。距離による隔て、ヴェールによる隔てによってすべては祈る者に『お前は泥だ。だ。お前は卑しい者だ。聖なるお方だ。お前は奴隷だ。神は主だ』と言うように分けられていました。

しかし、今は!・・・皆立ち上がりなさい! わたしに近づきなさい! わたしは永遠の司祭です。わたしはあなたたちの手を取り、『来なさい』と言うことが出来ます。わたしはヴェールをつかんで引き下(おろ)し、今まで閉じられて近寄れない場所を開け放つことが出来ます。閉じられていた? なぜ? そうです。原罪のために閉じられていたのです。しかしそれは人間たちの屈辱的な考えによって更にもっと閉じられていました。もしであるなら、もしであるなら、なぜ閉じられているのでしょうか? わたしはあなたたちを塵埃(じんあい)の中にではなく青空の中に、遠くではなく近くに、奴隷の身分にではなく、のみ胸近くの子の身分に連れて行くことが出来るし、連れて行かねばなりません。また連れて行きたいのです。