メルキゼデク
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.主は永遠の司祭
1.聖書
いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。
詩篇110・4
主は誓い、思い返されることはない。
「わたしの言葉に従って
あなたはとこしえの祭司
メルキゼデク(わたしの正しい王)。」
ヘブライ5・8−10
キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
ヘブライ6・20
イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。
ヘブライ7・1−4
このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義1725
「メルキゼデク」。これは主における内的な人の天的なものを意味していることは、間もなく説明することになっている『メルキゼデク』の名の意義から、また前後の事柄からも認めることが出来よう。
天界の秘義1725[2]
内的な人の天的なものは前にしばしば言ったように、天的な愛に属した凡てのものである。主の内的な人におけるこれらの天的なものはまたはこれらの天的なものの方面の主の内的な人が『メルキゼデク』と呼ばれているのである。主における内なる人はエホバ御自身であった。その内的な人は、それが幾多の試練の争闘の後で、浄められた時、また神的なものにされ、エホバとされたのであり、外なる人もまた同じように神的なものにエホバにされたのである、しかし今、内的な人が試練の幾多の争闘の状態の中にあって、また諸々の試練の争闘によりあまり浄められていなかった時は、それはその天的なものの方面で『メルキゼデク』、すなわち『聖い、義しい王』と呼ばれているのである。
天界の秘義1726
「サレムの王」。これは内的なまたは合理的なものの方面の平安の状態を意味していることは『サレム』の意義から明白である。原語では『サレム』は『平安』を、また『完成』を意味しており、かくてそれは平安の状態と完成の状態とを意味している。平安の状態は主の王国の状態であり、その状態の中では主の天的な霊的なものはその朝の中に、その春の中に存在しているように存在している、なぜなら平安は早朝の暁に、春時の春に似ているからである。暁と春とはそのとき感覚にふれる凡ゆるものを喜びと歓喜とに満ち満ちるようにするのであり、各々のものは情愛を暁と春時の全般的なものから汲み出している。主の王国の平安の状態も同様であり、その平安の状態にあっては天的な霊的なものは凡ていわばその朝のまたは春の花と微笑の中にあり、すなわち、その幸福そのものの中にあるのである。そのように平安の状態は凡ゆるものを感動させている、なぜなら主は平安そのものであられるからである。
天界の秘義1727
「パンとぶどう酒とをもってきた」。『パンをもってくる』ことは天的なものとそこから発してくる爽快さとを意味し、『ぶどう酒をもってくる』ことは霊的なものとそこから発してくる爽快さとを意味していることは、『パン』の意義が(276、680番に語られた)天的なものであり、『ぶどう酒』の、また『ぶどう』と『ぶどう園』の意義が(1069、1071番に説明された)霊的なものであることから明白である。そして『パン』は天的なものを、『ぶどう酒』は霊的なものを意味しているため、それらはまた聖さんにおけるシンボルとされたのである。メルキゼデクがパンとぶどう酒とをもってきたこともここに類似の意義をもっているのである、なぜなら古代教会ではパンは天的なものの凡てを表象するものであり、ぶどう酒は霊的なものの凡てを表象するものであって、かくてここでは主御自身を表象するものであったからである、なぜなら主から凡て天的なものと凡て霊的なものとが発しているからである。
天界の秘義1728
「彼(メルキゼデク)は祭司であった」(創世記14・18)。これは愛の聖いものを意味していることは聖言における『祭司』の意義から明白である。主の属性としてあげられるものには二つのものがあり、即ち、主は王であられ、また祭司であられるのである。王または王者性は真である聖いものを意味し、祭司または祭司職は善である聖いものを意味しており、前のものは神的な霊的なものであり、後のものは神的な天的なものである。主は王として神的な真理から宇宙における各々のものをまた凡ゆるものを統治されており、祭司として、神的な善からそれらを統治されている。神的な真理は主の王国全体の秩序そのものであり、秩序そのものの法則はことごとく真理であり、または永遠の真実である。神的な善は秩序の本質そのものであり、その凡ゆるものは慈悲に属している。この二つのものが共に主に属性づけられている。もし神的な真理のみが主のものであるならば、たれ一人救われることは出来ないのである、なぜなら真理は人間をことごとく地獄に断罪するからである、しかし慈悲に属した神的な善が地獄から天界へ引き上げるのである。これらがユダヤ教会の中で王と祭司とが表象したものであり、同じくこれらのものをメルキゼデクがサレムの王としてまたいと高い神の祭司として表象したのである。
天界の秘義1732
『アブラム』により、前に言ったように、内なる人にまたはエホバに結合しなくてはならない内的な人がまたは合理的な人が意味されており、しかもその結合は試練と勝利とによらなくてはならないのである、なぜなら内的な人における実情は以下のようなものであるからである、即ち、内的な人は、前に言ったように、内なる人と外なる人との間の媒介的なものであって、その内なる人を外なる人へ流入させているのである、なぜなら内的な人が無いなら伝達[交流]は存在しないからである。そのようにして天的なものが、また霊的なものが伝達されているのである。天的なものが伝達されたとき、その内的な人は『メルキゼデク』と呼ばれたが、しかし霊的なものが伝達されたときは、それは『ヘブル人アブラム』と呼ばれるのである。
天界の秘義2015[10]
『王』は真理を意味しているため、主が王ともまた祭司とも呼ばれ給うている時、その内意に意味されていることを認めることが出来よう、また主の中に王により表象されたものは何であったか、祭司により表象されるものは何であったかも認めることが出来よう。王は主の神的な真理を、祭司は主の神的な善を表象したのである。主が王として宇宙を支配されている手段である秩序の法則はことごとく真理であるが、しかし主が祭司として宇宙を支配されている手段であり、また真理それ自身を支配されている手段である法則はことごとく善である、なぜなら真理のみから統治[支配]することは凡ゆる者を罪に定めて地獄に落とすが、善が統治[支配]することは凡ゆる者を地獄から引き上げて、天界の中へ上げるからである(1728番参照)。主の場合にはこの二つのものは連結しているため、それらは古代祭司職に連結した王者性により表象されたのである、たとえばメルキゼデクの場合がそれであり―かれはサレムの王であると同時にいとも高い方、神の祭司であったのである(創世記14・18)―後にはユダヤ人の場合がそれであり、かれらの間に表象的な教会が教会自身の形をもって審き人[士師]と祭司により、後には王により設立されたのである。
天界の秘義6148[3]
古代の表象的教会では祭司性と王者性とは一人の人物の中に共に結合していたが、それは主から発している善と真理とは結合しており、天使たちのもとにもまた共に結合しているためである。
天界の秘義6148[3]
古代教会におけるこの二つのものがその中に共に結合していた人物は『メルキゼデク』または『美しい王』と呼ばれたが、このことはアブラハムのもとへ来たメルキゼデクから認めることが出来よう。
天界の秘義6148[5]
それでもその後この二つの任務はエリとサムエルの場合のように、一人の人物の中に共に結合されたのである。しかしその民は、その民の間に広がった偶像崇拝の気質のために、表象的な教会が彼らの間に設立されることが出来ないで、単に教会を表象するもののみが設立されることの出来る性格を持っていたため、その二つの任務は分離され、主の神的真理は王により表象され、その神的善は祭司により表象されることが許されたのである。このことは民の意志により為されはしたが、主が望まれることではなかったことは、サムエルに対するエホバの御言葉から明らかである―
民があなたに言う凡てのことでその民の声に従いなさい、なぜならかれらはあなたを斥けはしないが、わたしを斥け、わたしにかれらを支配させはしないからである。で、あなたはかれらに王の権利を示さなくてはならない(サムエル記前8・7から終わりまで。12・19、20)。
天界の秘義6148[6]
この二つの任務が分離してはならなかった理由は、神的善から分離した神的真理は凡ゆる者を罪に定めるが、これに反し神的善に結合した神的真理は救うということである。な神的真理からは人間は地獄に定められはするが、しかし神的善からはそこから連れ出されて天界に挙げられるからである。救いは慈悲のものであり、かくて神的善から発しているが、しかし堕地獄は人間が慈悲を拒絶し、かくて自分自身から神的善を斥けるとき起きるのであり、それでかれは真理から審判に委ねられるのである。
天界の秘義9809[5]
天使館/増補『主の祈り』/マリア・ヴァルトルタの「手記」より/P19
1945年6月28日
天にましますわれらの父よ
わたしは神を『父』と呼びます。御言葉の父であり、御託身の父です。もしあなたたちがわたしに留まるなら、あなたたちはわたしと一つなのだから、あなたたちに神をこのように父と呼んでほしいのです。人間が恐怖と不安に震えながら「神よ!」と請い願うために地に額を擦り付けねばならない時代がありました。わたしとわたしの言葉を信じない人はまだこの麻痺した恐怖の戦慄の中にいます・・・神殿の内部をよく見なさい。神だけではなく、神を記念するものですらも信者たちの目には三重のヴェールによって背後に隠されています。距離による隔て、ヴェールによる隔てによってすべては祈る者に『お前は泥だ。神は光だ。お前は卑しい者だ。神は聖なるお方だ。お前は奴隷だ。神は主だ』と言うように分けられていました。
しかし、今は!・・・皆立ち上がりなさい! わたしに近づきなさい! わたしは永遠の司祭です。わたしはあなたたちの手を取り、『来なさい』と言うことが出来ます。わたしはヴェールをつかんで引き下(おろ)し、今まで閉じられて近寄れない場所を開け放つことが出来ます。閉じられていた? なぜ? そうです。原罪のために閉じられていたのです。しかしそれは人間たちの屈辱的な考えによって更にもっと閉じられていました。もし神が愛であるなら、もし神が父であるなら、なぜ閉じられているのでしょうか? わたしはあなたたちを塵埃(じんあい)の中にではなく青空の中に、遠くではなく近くに、奴隷の身分にではなく、神のみ胸近くの子の身分に連れて行くことが出来るし、連れて行かねばなりません。また連れて行きたいのです。