司祭のために祈りなさい
1.聖母
2.ヴァッスーラ
3.ルイザ・ピッカレータ
4.マリア・ワルトルタ
5.ブリージ・マッケナ
6.スウェーデンボルグ・・・表象するものにあっては人物は問題とされない
1.聖母
メデュゴーリエの丘から祈りと平和のメッセージが!/P219
聖母:こんにち、信仰に忠実であることは、司祭にとって非常に難しくなっています。あなたたちは、司祭のために祈り、かれらを助けなければなりません。かれらを裁くことは、必要ではありません、かれらに、必要なのは、あなたたちの祈りと愛です。
2.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P18
‘89・10・10
今日我が家が荒廃し 無神論が多くの心を支配している(***)とすれば それはあなた方の世代が心に私の場所をつくるのを拒んでいるからです、来てみると 愛も、信仰も希望(のぞみ)もなかった、我が家は荒廃し、合理主義、不従順と虚栄によって瓦礫と化し、我が聖所の中に入り込んだ大棄教のために、かつての栄光に輝く牧場は今や不毛の地である。 従順が見当たらない、再臨の時まで仔羊たちの道を案内するように 私は羊飼いの杖をすっかりペトロに任せてある、しかし彼らは邪悪で 私のではなく自分たちの利益のために 羊飼いの杖を半分に折り、次に砕いてしまった・・・兄弟の絆は断たれ、忠誠は粉砕し、愛、平和と一致の泉、かつての泉の傍には、私の群れが山となって死にたえている、私はペトロに背を向けるこの羊飼いたちには頭を下げて自身の誤りを認めるようにとだけ求める、彼らに備えられた安息の場に辿りついてもらいたい、次々と星のように落ちてほしくない。今日霊の語っていることに彼らが耳を傾けさえするなら、棄教も受けている傷も思い出させはしない ♡ この司祭たちのために祈りなさい、彼らを熱く愛おしんでいるが 今日私に与えている悲しみも大きい、彼らが屈んで 互いの足を謙遜と愛をもって洗い合うように ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/7巻P149
どうしようもなく弱いあなた方の司祭たちのために 祈りなさい。 彼らは見ても見えず 耳をすましても聞こえない、 こうした中でその精神は堕落し、それゆえ、このメッセージが分らない。 そこであなた方のおおかたに不信を抱き みことばに異を唱えようとも 驚かないように。 私はあなた方と同様に彼らがいとおしい そしてあなた方皆を愛していると同じように 愛している。 彼らを敬い 祈ってあげなさい。
ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P231
‘99・1・1
聴いて書きなさい:私に仕える多くの聖職者たちは 我が葡萄畑を荒廃させ 羊たちを散らしてしまった。彼らの多くは 我が家を荒れるにまかせ、廃墟にした・・・・それを自分たちも知っている。彼らの間には平和がなく それも知っている。彼らは落胆しているがゆえ 私の声は聞きたがらない。彼らの誓いは 自らの罪を取り除くであろうか?
いいえ、わが主よ、そうは思えません。罪は罪ですから。
私のやり方を守り 悔い改めねばならない。そのときは、ミルラの香のような芳香が立ちのぼって 我が家を香で満たそう。私は、そのときは、我が子たち(*)を耕し その見事な収穫を楽しみに待とう。私(*1)に仕える者たちを あなたに任せる・・・・造り主は あなたの祈りを聞こう。彼らのために 執り成すように。忍耐深い御父に 彼らの赦しを願いなさい。今すぐに・・・・御父が あなたの幼子のようなたわごともお聞き下さり 慈悲深く応えられるのを知っていよう? どれほどのご好意に あなたは与ってきたか。 どうしようもなく弱いという利点 まさにあなたの悲惨そのものが 御父をみ座より屈ませている。
*使える者たち、言い換えると羊飼いたち。
*1主は急に私のほうを向かれ、「私に仕える者たちをあなたに任せる・・・」:と仰ったときは、担っている教会全体を下ろして私の肩にのせられた感じがしました。
主よ、私の意志を そして
み名にいっそうの栄光となるすべてをお捧げします。
あなたは 私の王的な宴。
貧しい者たちのもとに 食物を運び与えるのを 私どもは悦んでいる。我が心のそば近くにいてその鼓動に聞き入りなさい・・・・ic
3.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国1.P234
彼の出発後、別の司祭が呼ばれ彼女を祝別したが、司祭自身と同席している全ての人びとの驚きのうちに、彼女はその通常の状態を取り戻した。この事実はルイザのうちに、全ての司祭は聖人であるという確信を生み出した。しかしある日、主は彼女に言われた。
「皆が聖人だからではない。ああ、もしそうであったなら! 彼らは司祭であるので、皆このような権能を有している。そして全ての信徒たちは、わたしから望まれ、つくられた彼らの司祭的権威のもとに服しているのである。あなたは常に彼らの司祭としての権威に服し、いつも従い、決して彼らの意志に反対してはいけない。なぜなら、彼らはこの世におけるわたしの司祭職の承継者たちであるから。ある人びとの価値のなさによって、その司祭職が無効になることはない。」
4.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ31・7/天使館1巻P265
しかし―これがあなたに注目させたい第二の点です―わたしは彼の知識にではなく、祭司という彼の地位に敬意を払いました。
祭司は一般的に、常に神に照らされています。わたしは『一般的に』と言いました。それは、その祭司が真の祭司であるときに、ということです。人を聖別するのは魂であって祭服ではないのです。ある人が真の祭司であるかどうかを見分けるには、彼の霊魂から出るものを見分ける必要があります。わたしにイエズスが言ったように、人を聖化するものにしろ、あるいは汚すものにしろ、個人の生きざまをすべて知らせるものは、魂から出るのです。そこで、ある人が真の祭司であるとき、一般的に、常に神に導かれています。そうでない他の祭司たちに対しては超自然的な愛徳を持つ必要があり、彼らのために祈らなければなりません。
しかし、わたしの息子はすでにあなたをこの贖いの奉仕に付けたので、わたしはこれ以上何も言いません。真の祭司たちが増加するために、あなたは苦しむことを喜びとしなさい。そしてあなたを指導する者の言葉に安んじなさい。その勧めを信じ、それに従いなさい。従順することは常に救いとなります。たとえ受ける勧めが常に完全ではないにしても。
あなたも見ての通り、わたしたちは従順しました。それはよかったのです。ヘロデが幼子たちを殺戮させるに当って、ベツレヘムとその周辺に限ったのは事実です。しかしサタンはこの恨みの波状攻撃をさらに推し進め、広げ、ユダヤ人の未来の王を亡き者にするためにパレスチナ全土の権力者に同じ犯罪を犯すよう説得出来なかったでしょうか?おそらく出来たでしょう。それは、民衆の注目を引き、権力者たちの目を覚まさせ、不思議が繰り返し起きたキリストの幼少期に起きたでしょう。もしそうなっていたら、わたしたちは遠いナザレから、迫害されるヘブライ人を受け入れてくれるエジプトまで、荒れ狂う迫害下、幼子を連れて避難するのに、パレスチナ全土を縦断することが、どうして出来たでしょうか?受ける苦しみに変わりはなくても、ベツレヘムからの避難行の方がずっと楽です。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P223
聖母:
従順は、いつも救いをもたらします。これをよく胆に銘じておきなさい。それに司祭に対しての尊敬は、いつもキリスト的なよい心のしるしです。
イエズスが言われたとおり、使徒的熱心さを失う司祭たちにろくなことはない! けれども同じように、彼らを軽蔑してもよいと考える人々も、ただではすまないでしょう。司祭たちは、天から下るまことのパンを聖別し、分配するからです。そのパンにさわることによって、彼らは自ら聖なる者でなくても、聖別された杯のように、聖とされるからです。しかし、言うまでもなく彼らは、神のみ前に、それだけの責任を負っています。あなたたちは、彼らをそのように見なし、これ以上のことを気にしてはなりません。彼らのことばによって天から下り、その彼らの手に挙げられるわれらの主イエズス・キリストよりもきびしくしてはいけない。そういう司祭が、盲目で耳も聞こえず、心が麻痺し、考えが病気で、自分たちの使命とあまりにも対立する罪の癩病に冒されて、墓の中のラザロのようであっても、彼らを治してよみがえらせるように、イエズスを呼びなさい。
なお、生贄となっている霊魂たちよ、あなたたちの祈りと苦しみとをもって、イエズスを呼びなさい。一人の霊魂を救うことは、前もって自分の霊魂を救うことですが、一人の司祭の霊魂を救うことは、多くの霊魂たちを救うに等しいのです。なぜなら“聖”であるすべての司祭は、霊魂たちを神へと引く網だからです。一人の司祭を救うことは、その人を“新たに聖別すること”で、今、言った神秘的な網を作ることです。その網にかかる獲物は、全てあなたたちの永遠の冠に加えられる光です。
平和に行きなさい。
マリア・ワルトルタ31・10/天使館1巻P266
従順は常に救います。それを肝に銘じなさい。祭司に対する尊敬の念は、常にキリスト教的成長の徴です。禍なるかな―とイエズスは言われた―使徒としての熱意を失う祭司は! しかし、祭司たちを当然なことのように軽蔑する者もまた禍です! なぜなら祭司たちは、天から降るまことのパンを聖別し、人びとに分配するからです。その接触によって彼らは、聖杯のように聖なる者となります。彼ら自身は聖人でなくても。彼らはそれだけの責任を神に対して負うでしょう。あなたたちはそのような者と彼らを見做し、それ以外のことは気にかけないように。
祭司たちの命じる言葉によって天を後にし、彼らの手によって奉挙されるために降られるあなたたちの主イエズスよりも、彼らに対して強硬で、頑固であってはなりません。イエズスから習いなさい。もし彼ら祭司たちが、魂の麻痺と病む思念によって目が見えず、耳が聞こえず、彼らの使命とはあまりにも対立する罪によって癩者となり、墓の中のラザロたちであるなら、彼らを癒し、生き返らせてくださるようイエズスを呼びなさい。
生贄である魂たちよ、あなたたちの祈りで、あなたたちの苦しみをもってキリストを呼びなさい。一人の霊魂を救うことは、自分の救霊を予定することです。しかし一人の祭司の霊魂を救うことは数多くの霊魂を救うことになります。聖なるすべての祭司は、霊魂を漁る網であり、かかった多くの獲物を神のみもとに送るからです。一人の祭司を救う事は、すなわち彼を聖別し、さらに聖別することはこの神秘な網を作ることです。その網にかかる獲物は、あなたたちの永遠の冠に光を一つ添えるのです。
平安のうちに行きなさい。
5.ブリージ・マッケナ
ブリージ・マッケナ/「祈り―恵みの泉―」/聖母文庫・聖母の騎士社/P167
退屈な司祭だとか、司祭が聖霊による刷新された人でないとか、うるさい人だとか、臆病だとか、私たちは司祭のことをいろいろ言うのですが、自分の信仰が足りないのに司祭を非難することなどできるでしょうか。本当は、司祭が問題ではないのです。本当の問題は自分の信仰にあるのです。もし、司祭が強い信仰をもっていれば、意味ある礼拝に向かう大きなステップだということは事実です。私の司祭への奉仕において、私はいつでも司祭たちに、さらに大きい信仰へとチャレンジするのはそのためです。
ミサ聖祭の中で司祭が何を代表し、何を行なっているかを見るために自分自身や司祭の人間性を越えた向こう側を見なければなりません。カトリック信者として、ご聖体において、自分とイエスとの間に司祭を入れてはいけないのです。
教会は私たちにミサ聖祭にあずかることを義務づけています。それはイエスが私たちを必要としているためではありません。イエスご自身が言われたように、イエスを憎んでいるがゆえに私たちを憎んでいるこの世の中で生きるため、教会は、すべての良い母親と同じように、私たちには命のパンが必要だということを知っているからです。
私たちはその旅路を歩むために、力づけられる必要があります。魂のための食物と体のための食物、これがミサ聖祭の中でイエスが私たちにくださるものです。
6.スウェーデンボルグ・・・表象するものにあっては人物は問題とされない
天界の秘義665
同じく祭司長と祭司も、その性格は如何ようなものであっても、邪悪な者でさえも、天界的な、いとも聖い祭司性を表象することができたのである。表象するものにあっては人物は問題とされないで、表象されるものが問題とされるのである。かくてイスラエルとユダの王は凡て、その最悪の者さえも、主の王者性を表象し、またヨセフをエジプト全土を統べる司としたパロすらもそれを表象したのである。
天界の秘義1361[2]
例えば、ユダとイスラエルでは実にエジプトとその他の場所においてさえも、王はことごとくその者はいかようなものであったにしても、主を表象することができたのである。彼らの王者性そのものが表象するものなのである。それで凡ゆる王の中で最悪な者でさえも、例えばヨセフを立ててエジプト全土を統べさせたパロ、バビロンのネブカドネザル(ダニエル書2・37、38)、サウロ、ユダとイスラエルの他の王らは、その性格は如何ようであったにしても、表象することが出来たのである。塗油それ自身が―そのことからかれらはエホバに油注がれた者と呼ばれたのであるが―このことを含んでいた。同様に祭司もことごとく、彼らは除如何ほど多くいようと、主を表象したのであって、祭司の任務それ自身が表象的なものであり、また同様に悪い不潔な祭司も主を表象したのである、なぜなら表象するものにあっては、その人物は、その性質については何ら顧慮されないからである。
天界の秘義2010[2]
しかしながら表象している物にあっては人間の性質はいかようなものであるかは問題とはされないのである、なぜなら表象している物にあってはその人物には何ら注意が払われないのであって、その人物が表象している事柄に注意が払われることを知らなくてはならない(このことは前の665、1097番の終り、1361番に言いもし、また示しもしたのである)。
天界の秘義3670
表象している人間が善いものであるかまたは悪いものであるかについて、その人間の性質はいかようなものであるかは重要なことではなく、悪い人間も善い人間と等しく主の神的なものを表象することができ、また表象もしたことは前に見ることができよう(665、1097、1361番)。
天界の秘義3670〔2〕
そのことは今日までも存在している表象的なものから認めることが出来よう、なぜなら王はことごとく、その者はたれであろうとも、またいかような性質を持っていようとも、その王に属している王者性そのものによって主を表象しており、同じく祭司もことごとく、その者はたれであろうとまたいかような性質を持っていようとも、その祭司としての務めそのものにより主を表象しているからである。(中略)そしてまたこのことから、いかような王もその王者性〔王権〕に属している神聖さを些かも自分自身のために決して要求することは出来ないし、またいかような祭司もその祭司職に属している神聖さを些かも自分自身のために要求出来ないことが明白である。その何れかが自分自身にその何ものかを要求したり、またはそれを自分自身に帰するに応じて、益々彼は自分自身に霊的な盗人の性格を、または霊的な窃盗の印を焼き続けるのであり、また彼が悪を行うに応じて、すなわち公正で公平な事に反し、また善で真であることに反して行動するに応じて益々王は聖い王者性を表象するものを脱ぎ去り、祭司は聖い祭司職を表象するものを脱ぎ去って、それに対立したものを身に着けるのである。こうした理由から表象的なユダヤ教会では、祭司が特にその務めに携っている間守らねばならない聖さについて非常に多くの律法が命じられたのであり、この主題については、主の神的慈悲の下に、更に多くのことを以下に言うことにしよう。
天界の秘義3881[10]
これらの、またここに省略された多くの記事から、『ユダ』により聖言に意味されていることを認めることが出来よう、またそれがユダヤ民族でないことも認めることが出来よう、なぜならこの民族は天的な教会であるどころか、または主の天的な王国であるどころか、主に対する愛と隣人に対する仁慈については、また信仰については凡ゆる国民の中でも最悪のものであって、しかもそれは彼らの最初の父祖たちであるヤコブの息子たちの時代から現在の時までも変わらないからである。(にもかかわらずこのような人物が主の王国の天的な事柄と霊的な事柄とを表象することが出来たことは、前の3479−3481番に見ることが出来よう、なぜなら表象するものにおいては人物は省みられはしないで、ただ表象される事柄のみが省みられるからである、665、1097、1361、3147、3670番)。