表象
1.聖書には表象があること
3.ケルビム
4.表象の王国・劇場
5.相応の持つ力
6.相応の科学
7.表象するものにあっては人物は問題とされない
8.歴史的な事件も表象的なもの
9.善と真理とはそれらのものを中に宿している主体に従って述べられている
10.聖言では一人の人物が互いに他に継続している多くの状態を表象することは普通の事柄
11.ルイザ・ピッカレータ
12.表象するものと相応について
13.マリア・ワルトルタ
1. 聖書には表象があること
マタイ13・34−35
イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群集に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言いわれていたことが実現するためであった。
「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
マルコ4・11
そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々にはすべてがたとえで示される。それは、『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」
マルコ4・13,14
また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」
マルコ4・33−34
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P118
あなたたちは頭を下げ、礼拝せよ。人類の存在がなくなる前、キリスト以前とキリスト以後の預言、または創世の書の最初のことばから始まる聖書の象徴するところが知られるべきであるので、私はまだ説明されていないところについて説明する。この贈物を快く迎え、豊かな実となるようにせよ。私が人間の中にいた時に、私の訓戒に対して心を閉じ、超自然の奥義と真理とについて、私と肩を並べることができなかったために、私のことを悪魔憑き、冒涜者と言ったあのユダヤ人のようになるな。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P293
イエズス「はい、ラビ。私は書いてあることばと、そのことばにひそんでいることばも読めます」
「と言うと?何を言いたいのか」
イエズス「私は、比喩と、ことばの裏にひそんでいる象徴も分る、という意味です。ちょうど、閉じている醜い貝の中に隠れている真珠を探るのと同じように」
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P296
イエズス「“聖なることば”には、ほとんどいつも、何かの象徴があります。ただ、私たちは、それを見る、また応用するのを知らないだけです。」
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P152
ガマリエルの弟子・バルナバ:
「・・・それはその通りです。彼(ガマリエル)は他のどんなラビよりも古くからのことを知っています。けれども、あなたは違います。あなたには新しい言葉、春の木々の樹液のように新鮮な生命にあふれた言葉があります。実は、そう語ったのは、ラビ・ガマリエル自身でした。すでに何世紀もの埃をかぶって死滅したかに見える色々な知恵も、あなたの説明を受けると、生き生きと光りに満ちたものに甦ります。私は、彼にあなたのお言葉を伝えたいのです。」
マリア・ワルトルタ132・2
主:
イスラエル史上のあらゆる言葉は、選民のものとして霊的な意味を含むものであるから、この物語を考察し、適用しましょう。人生は常に教えです。イスラエルの人生は、地上での日々のためのみならず、永遠の日々を征服するための教えです。
聖母から司祭へ1979.11.21
神殿のなかでは、私の魂は、しだいに、聖霊の光に開かれていきました。そして、聖霊は、私が愛とみことばを理解するように、みちびいてくださいました。それで、私は心のなかで、いちばん深い奥義にあずかるように導かれ、それに従って、聖書のほんとうの意味が、ますます明らかになってきました。
聖母から司祭へ1980.3.25
私には聖書のほんとうの意味がわかっていました。
聖母から司祭へ1980.4.24
私は、私の母としての胎内で肉体となった“みことば”の奥義を、あなたがたの魂に示してあげましょう。
私は、あなたがたが、聖書を完全に理解できるようにみちびいてあげます。
あなたがたの住んでいる今の時代は、聖書の最後の書物のなかのある数ページにあたります。それで、いまここに、その数ページをよんであげましょう。というのは、この数ページのなかにこそ、すでに全部のことが予言されているからです。これから起きようとしていることまでも、そのなかには含まれています。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P115
主:みことばは象徴的である。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち8巻P30
たとえ話 ことわざやこの時代の預言に隠された意味合いを 我が聖霊が解き明かして下さるように求めなさい。
スウェーデンボルグ/天界の秘義3708(11)
「鉄」は自然的な真理を意味(425,426)。
「鉄は、北から出た鉄は、また青銅は砕かれるであろう」(エレミア記15・12)。
「鉄」は自然的な真理を意味し(425,426)、「銅[真ちゅう]」は自然的な善を意味している(425,1551)。これらのものは「北から」出ていると言われているのは、それらは自然的なものから発していて、自然的なものには相対的には不明なものと終結したものとが在るためである。この予言が鉄と銅とは北から出ることを意味していないことは、解説の要もなく明白である。なぜなら鉄と銅とがそこから出るということがその意味であるなら、そこに神的なもののいかようなものが在ることができようか、また前後の記事に調和しているいかようなものがあることができようか。
スウェーデンボルグ/真の基督教196
これらの語の意味するものは、何人も聖言の霊的意義によらなくては理解することが出来ない。そして何人も聖言の霊的意義を、相応に関する智識に由らなくては、理解することは出来ない。何故なら上述の語は凡て相応であり、そのうちの一つとして意義のないものはないからである。
天界の秘義2179[2]
霊たちの世界には色々な表象的なものが目に示されており、さらに動物もしばしばそこの霊たちの目の前に示されている、たとえば色々な飾りをつけた馬、雄牛、羊、子羊といったものが他の色々な種類の動物とともに示され、ときには地上では決して見られないたんに表象的なものであるに過ぎない動物も示されている。聖言に記されているような動物もまた予言者により見られたのであるが、それらは同じ源泉から発していたのである。霊たちの世界に現われる動物は善と真理の情愛を表象し、また悪と誤謬の情愛を表象しているのである。善良な霊たちはその動物が意味していることを完全に良く知っており、かくてまたその動物から天使たちがどのようなことを話し合っているかを推測するのである、なぜなら天使たちの言葉は、霊たちの世界へ降下すると、ときとしてこのように示されるからである。たとえば、馬が現われると、かれは天使たちは理解の事柄について話していることを知り、雄牛と雄牛の子が現われると、自然的な善について語っていることを知り、羊が現われると、合理的な善と廉潔[正直]について話していることを知り、子羊が現われると、さらに内なる善についてまた無垢について話していることを知るというようになっている。
天界の秘義2179[3]
最古代教会の人たちは霊たちと天使たちと交流していて、絶えず予言者たちが持っていたような幻をまた夢を持っていたため、その結果彼らは何かの獣を見ると必ずその獣が意味していることが彼らに考えられたのである。表象的なものと有意的なものとはこのようにして起ったのであって、彼らの時代以後も長く存続し、ついにはその古代性のために尊ばれて、人びとは単に表象的なもののみによって書くほどにもなり、そのように記されていない書物は何ら尊ばれないで、実に教会の中で書かれた本でも何ら神聖なものではなかったのである。こうした、また他の隠れた理由から―このことについては主の神的慈悲の下に他の所に記すことにするが―聖言の書もまたそのように記されたのである。
天界の秘義8989[11]
『戸』により交流[伝達]が意味されていることは隠喩的な言い方に似ており、または比喩に似てはいるが、しかし聖言には隠喩的な表現とか、比喩のようなものはなくて真の相応が在るのである。その中の比喩さえもが相応している事柄から作られていることは、戸について言われたことから認めることができよう、すなわち、戸は実際天界で天使たちと霊たちのもとに現れており、彼らが(それを)開いたり、閉じたりすることは、その交流[伝達]に応じているのである。他の凡てのものにあっても同じである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・21・6
信仰の厚い人は、沈黙と静さのうちに進歩し、聖書の深い意味を悟るのである。
そこでかれは涙を流し、それで毎夜自分を洗いすすぐ。それは世間のさわがしさをはなれればはなれるほど、ますます自分の創造主と親しくなるためである。
3.ケルビム
真の基督教260
聖言の文字的な意義はその内にある純粋な真理を危害から守るのである。何故なら、読者はその霊的な意義に危害あるいは暴行を加えること無しに、己が理解に応じて聖言を解釈し、説明し得るからである。文字の意義が異なった人々によって異なった風に理解されることは何らの害を与えないが、神的真理に相反している虚偽がもたらされるとき、害が生まれ、これは虚偽を確認した者によってのみ行われる。かくして、聖言は暴行を受けるが、宗教的な虚偽に取り憑かれてはいるものの、これを確認しない者たちからは何らの暴行をも受けない。此処に、その文字的な意義は全き警備者となっている。この警備者はアダムとその妻がエデンの園から追放された後、その入口に置かれたケルビムによって意味されており、また我々は神エホバは「その人を追い出し、エデンの園の東方にケルビムと、自らまわる焔の剣を置いて生命の樹の道を守り給う」ことを読むのである(創世記3・23,24)。
4.表象の王国・劇場
天界の秘義1361
表象する物は世の中に、または地上にある人物かまたは事物であり、約言すると、感覚の対象である凡ての物であり、かくて表象するものとなり得ない物はほとんど何一つ存在しないのである。しかし表象するところの人物または物は何ら顧慮されないで、ただ表象される事柄そのもののみが顧慮されるということが表象の全般的な法則である。
天界の秘義1632
私は天使たちと表象について語って、地上の植物界には何らかの点で主の王国を表象していないものは一つとして存在しないという意味のことを言った。彼らは言った、植物界の美しい優雅なものはことごとく天界を経て主からその起源を得ており、主の天的な霊的なものが自然界に流れ入るとき、こうしたものが実際に存在するようになるのであり、そのことが植物の霊魂[精髄]または生命の根源である。そこから表象的なもの[霊的な、天的なものを表象するもの]が生まれているのである。そしてこのことは世では知られていないため、それは天界の秘密と呼ばれたのである、と。
天界の秘義1807
「言われた、今天の方を眺めなさい」(創世記15・5)。これは宇宙の心的視野の中で主の王国を表象するものを意味していることは『天』の意義から認めることが出来よう。聖言では『天[空]』は、その内意では、目に現われている諸天を意味していないで、主の王国を普遍的にまた個別的に意味している。外なるものから内なるものを眺めている人間が天[空]を見るとき、彼は星空を些かも考えないで、天使たちの天界を考えるのであり、太陽を見るときは、太陽を考えないで、天界の太陽であられる主を考えるのである。また月を、また星を考えるときも同じであり、空の無辺を見るときは、その空の無辺を考えはしないで、主の測り知れない無限の力を考えるのである。他の凡てのものを見るときも同様である、なぜなら表象的なものでないものは何一つ存在しないからである。
天界の秘義1807[2]
地上の事物についても同様である、例えば彼は日が明け初めてくるのを見るとき、その明け初めてくるのを考えはしないで、凡ゆるものが主から起って、知恵の昼に向って進んで行くのを考えるのである。そのように庭園、木立、花床を眺めるときも、彼の目は如何ような木にも、その花にも、葉にも、果実にも止まらないで、そうしたものが表象している天界的なものに止まり、またいかような花にも、その美と愉しさにも止まらないで、それらのものが他生で表象しているものに止まるのである。なぜなら空には、または地上には、何らかの点で主の王国を表象していないものは一つもないからである(このことについては1632番に言われていることを参照されたい)。これが宇宙の心的視野における主の王国を表象するものを意味している『天の方を眺めること』である。
天界の秘義1807 [3]
空と地上における凡ゆるものが表象的なものである理由はそれらのものは主が天界を通して流入されることから発生してきたのであり、また絶えず発生しており、すなわち、存続しているということである。これらのものも人間の身体と変わりがなく、人間の身体も霊魂により発生し、存続しており、そうした理由から身体の凡ゆるものは全般的にも個別的にも霊魂を表象しているのである。霊魂は用と目的の中に存在しているが、身体はその用と目的とを遂行するものである。結果はすべて、それが如何ようなものであっても、同じように原因である用を表象しているものであり、用は第一原理に属している目的を表象するものである。
天界の秘義1807 [4]
神的な観念の中にいる者たちは外なる視覚の対象の中に決して止まってはいないで、それらのものから、またそれらのものの中に内なるものを絶えず見ているのである。真に内なるものそのものは主の王国に属しているものであり、かくて真の目的そのものの中に存在しているものである。主の聖言も同一であり、神的なものの中にいる者は主の聖言を文字からは決して認めないで、文字と文字の意義を教会と主の王国との天的な霊的な事柄を表象し、意味しているものとして認めるのである。彼にとっては文字の意義は単にこれらのものについて考える媒介的手段に過ぎないのである。主の視覚もそうしたものであった。
天界の秘義2758
純粋な結婚愛は天界であることは自然の幾多の物界に表象されているのである。なぜなら自然界はその起原をことごとく霊界から得ているからには、何らかの方法で主の王国を全般的に表象していない物は自然界の凡ての中に一つとして存在していないからである。そのもの自体に先在している起原を持たないものは存在しないのである。原因に関連を持っていない、それで目的にも関連を持っていないものは一つとして存在しないのである。関連を持たないものは一瞬にして崩壊し去り、無となってしまうのである。それ故ここから自然界の中で主の王国を表象しているものが発しているのである。結婚愛が天界であることは、小さな虫がニンフとさなぎに変形し、かくて翼を持った昆虫に変形することから明白である。なぜなら彼らの婚姻の時が来ると―それは彼らがその地的な形をまたは虫のような形を脱ぎ去り、翼で身を飾って、飛ぶ生物となる時のことであるが―彼らはその時彼らの天界である空中へ挙げられ、そこで互いに戯れ、結婚の儀式を全うし、卵を生みつけ、花汁を吸って、自らを養うのである。その時また彼らはその美の中にもいるのである。なぜなら彼らは金色の、銀色の、その他優雅な模様を帯びた色彩で飾られた翼を持つからである。このような結婚の原理はこのようなものを卑賤な小さな虫の間にも生み出しているのである。
天界の秘義3483
宇宙の何処でもそこに見られるものは何であれことごとく主の王国を表象しており、かくて大気と星の宇宙には、または地球とその三物界の中にはそれなりに、それを表象していないものは何一つないほどにもなっているのである。神的なものから善に属している天的なものが発し、天的なものから真理に属している霊的なものが発し、天的なものと霊的なもののその両方のものから自然的なものが発しているからには、自然の凡ゆる物は、全般的にもまた個別的にも、究極的な映像である。このことから、凡ての物を自然そのものよりも先に存在している流入から、または有効原因から分離した、またはそれを除外した自然に帰する人間の理知は如何に粗雑なものであるか、否、地的なものであるか、また転倒したものであるかが明白である。更にそのように考えもし、また語る者は、即ち、凡ゆる物を自然に帰することにより、自分は他の者よりも賢明であるように自分自身に思われているが、それでもそれに反した天使の理知は何物をも自然に帰しはしないで、凡ての物をまた個々の物を主の神的なものに帰し、かくて生命に帰し、死んだいかような物にも帰しはしないことに在るのである。学者は存続は絶えず発生することであることを知ってはいるが、依然、自然は主の神的なものから最初存在するにいたったように、その神的なものから絶えず存続していると言うことは誤謬の情愛に反し、かくて学問上の名声にも有害なのである。それで各々のまた凡ゆる物は神的なものから存続し、即ち、絶えず発生しており、そこから派生している各々のまた凡ゆる物も、それらの物が存在するようになった手段であるそれらのものを必然的に表象しないわけにはいかないからには、目に見える宇宙は主の王国を表象する劇場以外の何ものでもなく、またこの王国も主を表象する劇場であることが推論されるのである。
天界の秘義4939
このことから自然的な物は足のようなものであって、その上に高いものが基礎づけられている[静止している]ことが明白である。自然はまたその中に霊界と天界とが終結しているものである。ここから自然全体は主の王国を表象している劇場であり、その中の凡ての物は表象的なものであり(2758、3483番)、自然はこの秩序に従った流入から存続しており、このような流入がないなら、一瞬も存続することは出来ないのである。
天界の秘義7384
「蛙をエジプトの地に上らせよ」(出エジプト記8・1)。これは幾多の誤謬そのものから発生している理論を意味していることはすでに示したものから明白である(7351、7352番)。蛙もまた誤謬から発した理論に相応しているのである、なぜなら自然界の一切の物は霊界に存在している物と相応しているからであるが、そのことは自然的なものは霊的なものを通して発生しているためである。それで自然全体は霊界を表象している劇場である(2758、3483、4939番)。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国2.P10
それにしても私は口ごもって、何も言うことができません。それでもなんとか人間の言語を用いてもう少しよく説明するならば、この天地に私たちが目にするものはすべて、神の影なのです。なぜなら神は宇宙にご自身の美しさの影を映されたからです。香しさ、または太陽のような光を。太陽には特に神の特別な影があります。太陽はこの自然界の中の他のすべての惑星の王なのです。太陽とは何かしら?それは一つの炎の球なのでしょう。球は一つなのに光線は無数にあります。球が王様なら、その光線はすべて神様のものなのです。
太陽は炎で、同時に光と熱なのです。聖三位一体は、太陽に例えられます。炎は父、光は子、熱は聖霊。太陽は一つなのに。炎から光と熱を切り離せないように、父と子と聖霊の力は一体で、分けられません。(中略)
ああ、神の本質はなんと巧みに太陽になぞらえられるのでしょう。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P216
おお、真理を探している人々よ、私は、おまえたちにヨブの言葉を繰り返す。
“獣に尋ねてみよ、あなたに教えてくれる。
空の鳥にも聞け、告げてくれる。
地をはうものも教え、
海の魚たちも説くだろう“(ヨブ12・7〜8)
そうだ、緑にあふれる花の咲くこの地が、木の上でふくらんで熟する果物、繁殖しつづける鳥たち、雲を運ぶ風の流れ、何世紀前から、何万年前からその出を間違わない太陽などは、すべて神について話し、すべて神を説明し、すべて神を現すものである。
5.相応の持つ力
相応には力そのものがあり、相応に従って地上で行われることは天界でも用を果たしているのである、それは相応は神的なものから発しているためである。愛の善と信仰の善の中にいる者たちは相応の中におり、神的なものは彼らに属している凡ゆるものを為されるのである、なぜなら神的なものから愛の善と信仰の善とが発生するからである。聖言に記されている奇蹟はすべて相応により行われたのである。聖言はその中にある事項がことごとくその最も微細な点までも天界に存在する物に相応するように記されているのである。従って聖言には神的な力があり、それは天界を地に連結させているのである、なぜなら聖言が地上で読まれるとき、天界の天使たちはその内意に含まれている聖いものに感動するからである。このことは聖言の幾多の表現の凡ての相応により行われている。
6.相応の科学
真の基督教846
スウェーデンボルグが天使に:
「何故ならそれは実にヨブの時代からこの方数千年隠されていたのです。その当時とその以前に生活していた人々にとっては相応の科学は科学中の科学であり、彼らはそこから天界と教会の霊的な事柄に関する知恵と知識とを取得致しました。しかし相応の科学は偶像崇拝に堕落したため、主の神的摂理によりそれは如何なる痕跡を見出すことが出来ないまでに抹殺されました。しかし教会の会員達が主と結合し、天使たちと繋がるために、それは再び主によって啓示されたのです。これは聖言によって行われたのであり、その聖言の凡ての物は全般的にまた個別的に相応であります。」
7.表象するものにあっては人物は問題とされない
天界の秘義665
同じく祭司長と祭司も、その性格は如何ようなものであっても、邪悪な者でさえも、天界的な、いとも聖い祭司性を表象することができたのである。表象するものにあっては人物は問題とされないで、表象されるものが問題とされるのである。かくてイスラエルとユダの王は凡て、その最悪の者さえも、主の王者性を表象し、またヨセフをエジプト全土を統べる司としたパロすらもそれを表象したのである。
天界の秘義1361[2]
例えば、ユダとイスラエルでは実にエジプトとその他の場所においてさえも、王はことごとくその者はいかようなものであったにしても、主を表象することができたのである。彼らの王者性そのものが表象するものなのである。それで凡ゆる王の中で最悪な者でさえも、例えばヨセフを立ててエジプト全土を統べさせたパロ、バビロンのネブカドネザル(ダニエル書2・37、38)、サウロ、ユダとイスラエルの他の王らは、その性格は如何ようであったにしても、表象することが出来たのである。塗油それ自身が―そのことからかれらはエホバに油注がれた者と呼ばれたのであるが―このことを含んでいた。同様に祭司もことごとく、彼らは除如何ほど多くいようと、主を表象したのであって、祭司の任務それ自身が表象的なものであり、また同様に悪い不潔な祭司も主を表象したのである、なぜなら表象するものにあっては、その人物は、その性質については何ら顧慮されないからである。
天界の秘義2010[2]
しかしながら表象している物にあっては人間の性質はいかようなものであるかは問題とはされないのである、なぜなら表象している物にあってはその人物には何ら注意が払われないのであって、その人物が表象している事柄に注意が払われることを知らなくてはならない(このことは前の665、1097番の終り、1361番に言いもし、また示しもしたのである)。
天界の秘義3670
表象している人間が善いものであるかまたは悪いものであるかについて、その人間の性質はいかようなものであるかは重要なことではなく、悪い人間も善い人間と等しく主の神的なものを表象することができ、また表象もしたことは前に見ることができよう(665、1097、1361番)。
天界の秘義3670〔2〕
そのことは今日までも存在している表象的なものから認めることが出来よう、なぜなら王はことごとく、その者はたれであろうとも、またいかような性質を持っていようとも、その王に属している王者性そのものによって主を表象しており、同じく祭司もことごとく、その者はたれであろうとまたいかような性質を持っていようとも、その祭司としての務めそのものにより主を表象しているからである。(中略)そしてまたこのことから、いかような王もその王者性〔王権〕に属している神聖さを些かも自分自身のために決して要求することは出来ないし、またいかような祭司もその祭司職に属している神聖さを些かも自分自身のために要求出来ないことが明白である。その何れかが自分自身にその何ものかを要求したり、またはそれを自分自身に帰するに応じて、益々彼は自分自身に霊的な盗人の性格を、または霊的な窃盗の印を焼き続けるのであり、また彼が悪を行うに応じて、すなわち公正で公平な事に反し、また善で真であることに反して行動するに応じて益々王は聖い王者性を表象するものを脱ぎ去り、祭司は聖い祭司職を表象するものを脱ぎ去って、それに対立したものを身に着けるのである。こうした理由から表象的なユダヤ教会では、祭司が特にその務めに携っている間守らねばならない聖さについて非常に多くの律法が命じられたのであり、この主題については、主の神的慈悲の下に、更に多くのことを以下に言うことにしよう。
天界の秘義3881[10]
これらの、またここに省略された多くの記事から、『ユダ』により聖言に意味されていることを認めることができよう、またそれがユダヤ民族でないことも認めることができよう、なぜならこの民族は天的な教会であるどころか、または主の天的な王国であるどころか、主に対する愛と隣人に対する仁慈については、また信仰については凡ゆる国民の中でも最悪のものであって、しかもそれはかれらの最初の父祖たちであるヤコブの息子たちの時代から現在の時までも変わらないからである。(にもかかわらずこのような人物が主の王国の天的な事柄と霊的な事柄とを表象することができたことは、前の3479−3481番に見ることができよう、なぜなら表象するものにおいては人物はかえりみられはしないで、ただ表象される事柄のみがかえりみられるからである、665、1097、1361、3147、3670番)。
天界の秘義9806〔5〕
アロンが選ばれて、祭司の務めに携わり、かくしていとも聖い事柄を司ったという事実からユダヤ教会の表象の実態のいかようなものであったかを把握することが出来よう、即ち、それは表象する人物を問題とはしないで、表象される事柄を問題としたのであり、かくて聖い事柄が、否、極めて聖い事柄さえも、その内部が不潔で、偶像崇拝的でさえもあった人物により、もしその人物が礼拝している間にその外なるものが聖いものに傾いてさえいるなら、表象されることが出来たのである。アロンの性質はモーセの書の以下の言葉から認めることが出来よう―
アロンはイスラエルの子孫の手から金を取り、彫刻に用いる道具でそれを形作り、それを鋳像の子牛とした。アロンはその前に祭壇を作り、布れて、言った、明日エホバに祭りを行おう(出エジプト記32・4、5、25)。
エホバはアロンを甚だしく怒られて、彼を亡ぼそうとされた、しかしわたしはまたその時アロンのために祈った(申命記9・20)。
(イスラエルとユダ国民のもとで教会を表象した物は人物を問題としないで、事柄そのものを問題としたことについては、9229番に引用した所を参照されたい。)
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P223
聖母マリア:
従順は、いつも救いをもたらします。これをよく胆に銘じておきなさい。それに司祭に対しての尊敬は、いつもキリスト的なよい心のしるしです。
イエズスが言われたとおり、使徒的熱心さを失う司祭たちにろくなことはない! けれども同じように、彼らを軽蔑してもよいと考える人々も、ただではすまないでしょう。司祭たちは、天から下るまことのパンを聖別し、分配するからです。そのパンにさわることによって、彼らは自ら聖なる者でなくても、聖別された杯のように、聖とされるからです。
しかし、言うまでもなく彼らは、神のみ前に、それだけの責任を負っています。あなたたちは、彼らをそのように見なし、これ以上のことを気にしてはなりません。彼らのことばによって天から下り、その彼らの手に挙げられるわれらの主イエズス・キリストよりもきびしくしてはいけない。
そういう司祭が、盲目で耳も聞こえず、心が麻痺し、考えが病気で、自分たちの使命とあまりにも対立する罪のらい病に冒されて、墓の中のラザロのようであっても、彼らを治してよみがえらせるように、イエズスを呼びなさい。
なお、生贄となっている霊魂たちよ、あなたたちの祈りと苦しみとをもって、イエズスを呼びなさい。一人の霊魂を救うことは、前もって自分の霊魂を救うことですが、一人の司祭の霊魂を救うことは、多くの霊魂たちを救うに等しいのです。なぜなら“聖”であるすべての司祭は、霊魂たちを神へと引く網だからです。一人の司祭を救うことは、その人を“新たに聖別すること”で、今、言った神秘的な網を作ることです。その網にかかる獲物は、全てあなたたちの永遠の冠に加えられる光です。
平和に行きなさい。
8.歴史的な事件も表象的なもの
天界の秘義755[4]
そこでは歴史的な事件も表象的なものであって、それは実際記されているままに起ったのであるが、
9.善と真理とはそれらのものを中に宿している主体に従って述べられている
天界の秘義1259
見よ、わたしはかれをその民に証人として、その民に君として、立法者として与えた。見よ、あなたはあなたが知らなかった国民を呼び、あなたを知らなかった国民があなたのもとへ走ってくるであろう(イザヤ書55・4、5)。
これは主の王国について言われており、『民』は真理を、『国民』は善を意味している。教会の中で仁慈の善を与えられている者たちは『国民』であり、信仰の諸真理を与えられている者たちは『民』である、なぜなら善と真理とはそれらのものを中に宿している主体に従って述べられているからであります。
10.聖言では一人の人物が互いに他に継続している多くの状態を表象することは普通の事柄
天界の秘義2324
「ロトはソドムの門に座っていた」。これは仁慈の善の中にいるが、しかし外なる礼拝の中にいる者を、すなわち、ここでは『ロト』であり、悪い者の間にいるが、しかし悪い者からは離れている者を―そのことが『ソドムの門に座る』ことであるが―意味していることは、『ロト』の表象から、『門』の意義から、また『ソドム』の意義からも認めることができよう。すなわち、ロトはアブラハムとともにいたときは主の感覚的な部分を表象し、かくて主の外なる人を表象したのである(このことは第一部1428、1434、1547番に示した)。しかしここでは、ロトはアブラハムから離れているときは、もはや主を表象するものを保有しないで、主とともにいる者たちを、すなわち、教会の外なる人を、すなわち、仁慈の善の中にはいるが、しかし外なる礼拝の中にいる者を表象しており、
[2]いな、本章では、ロトは教会の外なる人を、またはそれと同一の、外なる教会の初期の状態を表象しているのみでなく、その外なる教会が進行して行くさいの、またそれがその終わりに至ったさいのその状態を表象しているのである。『モアブ』と『アンモンの息子』により意味されているものはその教会の終わりであって、そのことは主の神的慈悲の下に以下に連続して記される事柄から明らかとなるであろう。聖言では一人の人物が互いに他に継続している多くの状態を表象することは普通の事柄であり、その状態はその者の生命[生活]の行為の継続により示されるのである。
11.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P143
多くの装身具がそのうちに秘めている意味に関しては、それぞれが別々にそれを有していましたが、あれから長い時が過ぎたためによく覚えておりませんので、黙することをお許し下さい。ただイエスが私の頭から足までおおって下さったベールは、悪魔にとっての恐怖でありました。彼らはといえば、イエスが私になさっていることを注意深く見守っていましたが、私があの被いで包まれるのを見るやいなや、非常に恐れおののき、あえて私に近づかないだけでなく、すっかり大胆さも無鉄砲さも失って、もう私を悩ませるどころか、すっかり驚いて逃げ去ってしまいました。
12.表象するものと相応について
天界の秘義2987−3003
天界の秘義3213−3227
天界の秘義3337−3552
天界の秘義3472−3485
天界の秘義3213
霊たちの世界には無数の、殆ど絶え間の無い表象的なものが現れるが、それらは霊的な天的な、現実に存在しているものの形であって、世に在るものに似ていなくはないのである。これらのものは何処から来るかは、わたしは霊たちと天使たちと日々交わることにより知ることが出来たのである。それらのものは天界から流れ入って来るのであって、そこにいる天使たちの幾多の観念と言葉から流れ入って来るのである、なぜなら天使たちの観念とそこから派生して来る言葉とは、霊たちのもとに降って来ると、色々な方法で表象的に示されるからである。これらの表象物[表象している物]から正しい良い気質の霊たちは天使たちがその天使たち自身の間で話している事柄を知ることが出来るのである、なぜならその表象している物の中にはその内部に何か天的なものが在って、それが情愛をかきたてる力を持っている結果、その性質すらも認識されるからである。天使たちの観念と言葉とはそれ以外のいかような方法によっても示されることは出来ない、なぜなら天使の観念は霊の観念に比較されるなら、それは無限の物を含んでいて、それが表象的な形作られて表象的に示されない限り、かくて映像により目に見えるように示されない限り、その内容については殆どいかようなことも霊は理解しないからである、なぜならその内容の大半は表現することも不可能なものであるからである。しかし観念が形により表象されると、そのときは全般的な事柄に関連している限り、それらは霊に把握されるようになるのである。そして言うも驚嘆すべきことではあるが、表象されているものの中のいかほど小さいものであっても、その表象的なものが下降してくる源泉となっている天使たちの社会の観念の中に存在している霊的な天的なものを表現しないものはないのである。
天界の秘義3216
天使たちが仁慈と信仰との教義的な事柄について語っていると、そのときそれに相応している霊たちの社会が存在している低いスフィア[領域]の中に時折、一つの都またはいくたの都の形またはパターンが現れてくるが、その中には色々な相をした家は言わずもがな、宮殿があって、それは建築の点で技術そのものがそこにその生まれた家の中にいると言われるほどにも驚嘆すべき技能を示しているのであり、言うも驚嘆すべきことではあるが、すべてこれらのものの中には全般的にも個別的にも、最小の点でも、または目に見える粒子でも、何か天使の観念と言葉を表象していないものはないのであり、それでこれらのものの中にはいか程無数のものが含まれているかが明白であり、また聖言の予言者により見られた都により何が意味されているか、同様に聖い都または新しいエルサレムにより何が意味されているか、予言的な聖言における都によって何が意味されているかが明白であり、すなわち、仁慈と信仰との教義的な事柄が意味されていることが明白なのである。
天界の秘義3217
天使たちが理解に関係している事柄について話していると、そのときは天使たちの下に在る霊たちの世界には、またはかれらに相応している社会には馬が現れてきて、しかもこの馬はその天使たちが理解について抱いているいくたの考えに順応したサイズを、形を、色を、姿勢をとり、また種々の馬具をつけているのである。またやや右手よりのやや深い所に理知的な者の住所と呼ばれている所が在って、そこには絶えず馬が現れているが、これはそこにいる者たちが理解にぞくしている事柄について考えているという理由のためであり、この主題について話し合っている天使たちがかれらの思いの中に流れ入ると、そこに馬が表象されてくるのである。このことは予言者たちの見た馬により、また聖言の他の所に記されている馬により意味されたことを、すなわち、理解に属している事柄を示しているのである。
天界の秘義3218
その天使たちが情愛の中にいると同時にその情愛について話し合っていると、そのときは霊たちの間の陽口スフィアの中にこのような事柄はそれを表象している色々な種類の動物の中へ落ち込むのである。善い情愛について話されていると、ユダヤ教会の表象的な神礼拝に生けにえに用いられたような美しいおとなしい有益な動物が示されるのである、例えば小羊、羊、小山羊、雌山羊、雄羊、子牛、若牛、雄牛が示され、またそのとき何であれその動物の植えに現れるものはことごとくかれらの思いの何らかの映像を示しており、正しい善良な気質の霊たちはそれを認めることができるのである。このことはユダヤ教会の祭儀に用いられた動物により意味されたことを、また聖言に記されているその動物により意味されていることを、すなわち、情愛を示しているのである(1823、2179、2180番)。しかし悪い情愛について交わされる天使たちの談話は、虎とか、熊とか、狼とか、蛇とか、二十日鼠とかそういった嫌忌すべき、凶暴な、無益な獣により表象されており、これらの情愛もまた聖言の同じ獣により意味されているのである。
天界の秘義3219
天使たちが知識について、観念(考え)について、流入について語り合っていると、そのときはその談話の主題に順応して形作られたところの鳥のようなものが霊たちの世界に現われるのである。ここから聖言には『鳥』は合理的な事柄を、または思考にぞくしている事柄を説明している(40,745、776、991番を参照)。
天界の秘義3219[2]
このことによりわたしは思考と流入とにかかわる天界の談話は鳥により表象され、誤謬の中にいる者らのそれは黒い、醜い鳥により表象されはするが、真理の中にいる者たちのそれは高貴な、美しい鳥により表象されることを知ることができたのである。
天界の秘義3220
天使たちが理知と知恵との事柄について、また認識と知識とについて語り合っていると、それに相応している霊たちの社会へ注ぐ彼らからの流入は植物界に在るようなものの表象に落ち込むのであり、例えば楽園、ぶどう園、花が咲いている牧場に、人間のいかような想像をも絶した多くの可憐な形の中へ落ち込むのである。ここから知恵と理知に属している事は聖言には楽園、ぶどう園、森、牧場により記入されており、これらのものが記されている所ではこのような事柄が意味されているのである。
天界の秘義3221
天使たちの談話は時々雲により、その形、色、動き、変化により表象されており、真理を肯定する事柄は輝いて上昇して行く雲により、それを否定する事柄は暗い下降して行く雲により、誤謬を肯定するものは薄暗い、また黒い雲により、同意と不同意とは雲の色々な集合と分離とにより表象されており、この後のものは夜の天の空のような空の中で表象されている。
天界の秘義9272〔2〕
天界の状態の実情のいかようなものであるかを知らない者は、聖言のこうした表現は比喩であり、譬えであるとしか信じていない。しかしそれらは真に相応したものである。なぜなら天使たちが人間が主により信仰の諸真理と仁慈の諸善とを通して再生することについて話し合っていると、その時下の霊たちの世界の中に畠、作物、休閑地、また収穫物が現れるのであり、そのことはそれらのものが(そのことに)相応していることによって起るからである。このことを知っている者はまた世におけるこうした物も相応に従って創造されていることを知ることが出来るのである、なぜなら自然全体は(即ち、太陽、月、星のある空と三物界の物を持った地は)霊界に
他生の表象物は世では現実のものであることについて
霊界日記1390〜1392
霊界日記1392
世では、植物界の凡ゆる物といった主を表象するものの凡ても、そうした事柄を意味しているため、現実のものとなっている、例えば人間もまた、天界全体がそうした現実の人間であるため、そうした肢体〔器官〕を供えられているということにおいて、現実のものとなっているのである。1748年〔60歳〕3月15日。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/9卷中P146/582・9
「いえ! 教えてくれたのは、蜂たちです・・・それと、あなたの言葉。本当は、あなたの言葉からです。そして、蜂たちを見て分りました。すべてのものに、声があります。理解できなくても。(後略)」。