報酬
1.聖書
1.聖書
申命記25・4
脱穀している牛に口籠(くつこ)を掛けてはならない。
ルカ10・7
その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。
コリント1・9・1−18
わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。
他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。
わたしを批判する人たちには、こう弁明します。わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。 わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。 あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。 そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。
モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。
それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。
わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。
しかし、わたしたちはこの権利を用いません でした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。
あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。
同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。 しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。
もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。
自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。 では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
テサロニケU3・6−12
兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。
あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。
また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。
実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。 ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
天界の秘義1789
「あなたの大きな報い」。これは勝利の目的と目標とを意味していることは『報い』の意義から明白であり、それは試練の争闘の後の賞品であり、ここでは主は御自身に対しては如何ような勝利の賞品をも決して求められはしなかったため、勝利の目的と目標である。主の勝利の賞品は全人類の救いであったのであり、主が戦い給うたのは全人類に対する愛から発していたのである。この愛から戦う者は自分自身に対して如何ような賞品をも求めない、それはこの愛は他の者に自分自身のものをことごとく与え、移譲し、自分自身のためには何ものも得ようとは欲しないものであるためであり、それでここに『報い』により意味されているものは全人類の救いである。
天界の秘義2077
主の情愛または愛は全人類に対するものであって、それは神的なものであり、主はその人間的な本質をその神的な本質に結合されることによって全人類を御自身に完全に接合させ、永遠に彼らを救おうと望まれたのである(この愛については1735を参照されたい。この愛から主は幾多の地獄と絶えず戦われた、1690,1789,1812、また主はその人間的なものをその神的なものに結合されたことにおいて、神的なものを人類と連結させること以外には何ごとをも顧みられなかったのである。主が抱かれた愛は人間の理解を全く超越しており、またそれは天使たちが抱いている天界的な愛のいかようなものであるかを知らない者らには、最高度に信じがたいものである。一つの霊魂を地獄から救うためには天使たちは死さえも何ら顧みはしない。否、出来ることなら、彼らはその霊魂のためには地獄の責苦も厭いはしないのである。ここから死んだ者たちから甦りつつある者を天界に連れて行くことは彼らの喜びの最も深いもの[最も内なるもの]となっている。しかし彼らはこの愛はその一かけらも彼ら自身からは発しておらず、そのすべてのものは全般的にも個別的にも主のみから発していると告白しており、否、もし誰かがそのように考えはしないなら、明らかにいらいらした感情を示すのである。
天界の秘義2715[2]
ここから、霊的な者は、天的な者のようには、主に対する愛を持ってはおらず、従って、凡ゆる礼拝における本質的なものであり、また善が主から流れ入ることの出来る手段となっている卑下を持ってはいないのである。なぜなら高ぶっている心は些かもそれを受けはしないのであって、ただ砕けた心のみがそれを受けるからである。霊的な者はまた、天的な者のようには、隣人に対する愛を持ってはいないのである。なぜなら自己と世を求める愛が彼らの意志の部分から絶えず流れ入っており、その愛の善を明確でないものにしているからである。このことはまたたれにでも、もしその者が以下のことを考察することにより反省するならば、明白になるに相違ない。即ち、その者がたれかに善を為す時は、それは世の目的から発しており、それで、例えその者は意識してそのように為してはいないものの、それでも報酬を考えており、即ち、その者が善を行うその相手の者から受ける報酬かそれとも他生で主から受ける報酬かその何れかを考えており、かくて彼の善は功績の観念により汚されているのである。同じくまたその者が何らかの善を行った時も、その者がそれを知らせ、かくして自らを他の者の上に挙げることが出来るならば、その者はその生命の歓喜の中にいるのである。
天界の秘義3816
「あなたは私にただで仕えてよかろうか。何をあなたの報酬にしましょうか、私に言って下さい」。これは連結の手段が存在しなくてはならないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『ただで仕えること』の意義は何らの責務を持たないことであり、『報酬』の意義は連結の手段である。『報酬』は時折聖言に記されていて、それは内意では連結の手段以外のものを意味してはいない。その理由は天使たちは報酬についてはそれは自分たちの中にある何かのためのものであるとして、いかようなことも全く聞こうとはしないということであり、否、彼らは何かの善または良い活動に対する報酬の考えには全く嫌忌を覚えているということである、なぜなら彼らは以下のことを知っているからである、即ち、たれのもとでもその者自身のものであるものは悪以外の何ものでもなく、それで彼らが彼ら自身のものから為すものは何であれ報酬に反しているものを伴っており、善はことごとく主から発して、流れ入っており、それはひとえに慈悲から起っており、かくて彼らが報酬に価していると考えるものは彼ら自身からは発していないということである。事実善それ自身は、そのもののことで報酬が考えられると善ではなくなるのである、なぜならその時利己的な目的が直ぐ様それ自身を接合させるのであり、そのことが現実になるに比例して、それは善は主から発し、慈悲から発していることを否定させる思いを生じさせ、従って流入を遠ざけてしまい、勿論それ自身から善とその情愛の中に存在している天界と祝福とを遠ざけてしまうからである。善の情愛、即ち、主に対する愛と隣人に対する愛はその中に祝福と幸福を持っており、それらは情愛と愛そのものの中に存在しているのである。情愛とその祝福から何かを行うと同時に報酬のためにそれを行うことは相互に全く対立している事柄である。ここから『報酬』が聖言に言われていると、天使たちは報酬を全く認めないで、主から無料にまた慈悲から与えられるものを認めるのである。
天界の秘義3816[2]
にもかかわらず報酬は、未だ導き入れられていない者たちには連結の手段として役立っている、なぜなら未だ善とその情愛の中に導き入れられていない者たち(即ち、未だ充分に再生していない者たち)は報酬について考えない訳にはいかないからである、なぜなら彼らはその行う善を善の情愛から行わないで、自己のために祝福と幸福とを求める情愛から、また同時に地獄を恐れる恐怖から行うからである。しかし人間が再生しつつある時は、これが転倒して、善の情愛となり、その時は彼は最早報酬を目当てとはしないのである。
天界の秘義3816[3]
このことは公民生活に怒ることにより説明出来よう、即ち、自分の国を愛して、善い意志からその国の善を増進させることに楽しさを感じる程にそれに情愛を抱いている者は、もしそのことが彼に拒否されるなら、嘆き悲しんで、その国に善を行う機会が与えられるように懇願するであろう、なぜならそれが彼の情愛の目的であり、従って彼の楽しさと祝福との源泉であるからである。このような者はまた尊ばれて、高貴な地位に挙げられるのである、なぜなら彼らにはその地位は報酬と呼ばれはするが、それはその者の国に仕える手段であるからである。しかし自分の国に何らの情愛も持ってはいないで、単に自己と世を求める情愛を持っているに過ぎない者は名誉と富を求めて行動するように心を動かされ、その名誉と富をまた目的として認めているのである。このような人物は自分自身を自分の国の前に置き(即ち、自分自身の善を共通の善の前に置いており)、相対的には卑しいものであり、しかも自分たちはその行っていることを誠実な愛から行っているように見せかけようと他の者たち以上に望んでいるのである。しかし彼らはそのことについて秘かに考える時は、たれかがそのようなことを行うとは考えないのであり、またたれかがそれを行うことが出来ることを不思議がるのである。自分の国、または公共の善について身体の生命の中でこのようなものである者らは他生でもまた主の王国についてはそのようなものとなるのである、なぜなら情愛または愛は人各々の生命であるため、人各々の情愛または生命はその者の後からついて行くからである。
天界の秘義3887
天界または巨大人の中には二つの王国が存在しており、その一つは天的な王国と呼ばれ、他の一つは霊的な王国と呼ばれている。天的な王国は天的なものと呼ばれている天使たちから成っており、これらの者は主に対する愛の中にいて、そこから知恵そのものの中にいる者たちである、なぜなら彼らは主の中にいて、そのことにより他に一際すぐれて平安と無垢の状態の中にいるからである。彼らは他の者には小さな子供たちのように見えるのである、なぜなら平安と無垢の状態はこうした外観を示すからである。そこの凡ゆるものは彼らの前には恰も生きているかのようなものとなっている、なぜなら何であれ主から直接に来ているものは生きているからである。こうしたものが天的な王国である。他の王国は霊的な王国と呼ばれている。それは霊的なものと呼ばれている天使たちから成っており、これらの者は隣人に対する仁慈の善の中にいた者たちである。彼らは自分たちが他の者に報酬無しに善を為すことが出来るという事実に彼らの生命の歓喜を成立させており、彼らには他の者たちに善を為すことを許されることが充分な報酬なのである。彼らがこのことを意志し、欲するに比例し、益々理知と幸福を与えられるのである。なぜなら他生ではたれでもその者が意志の情愛から遂行する用に順応して主から理知と幸福とを与えられるからである。こうしたものが霊的な王国である。
天界の秘義3956
「レアは言った、神は私が下婢[女中]を私の男に与えたため、私に報いを与えられた」。これはその最高の意義では神的な真理の善と善の真理であり、内意では、天的な結婚愛であり、外なる意義では相互愛を意味していることは、『報酬[報い]』の意義から認めることが出来よう。『報酬』は聖言に頻繁に言われているが、しかしそれがそこで意味していることは僅かな者しか知ってはいない。人間が行う善によっては人間は何ものにも価することは出来ないことは教会に知られている、なぜなら善は人間のものではなくて主のものであるからである、また価することはまたは功績は人間を注視しており、かくてそれはそれ自身を自己を求める愛に連結させ、他の者よりも一際卓越する思いに連結させ、従って他の者に対する軽蔑に連結させることも知られている。そうした理由から報酬を求めて為された善は純粋な泉から、すなわち、隣人に対する仁慈から発していないため、それはそれ自身では善ではない。隣人に対する仁慈は自分自身と同じように隣人も良くなるようにとの願いをその中に持っており、天使にあっては自分自身よりも隣人が更に良くなるようにとの願いをその中に持っているのである。こうしたものがまた仁慈の情愛であり、それでそれは自己功績そのものに反感を持っており、従って報酬を目指す善を為すことそのものに反感を持っている。仁慈の中にいる者たちには、報酬は親切を示すことが出来ることの中に、親切を為すことを許されることの中に、親切が受け入れられることの中に在るのである。そのことが仁慈の情愛の中にいる者たちにより楽しまれる歓びであり、否、祝福そのものである。このことから聖言に言われているかの報酬[報い]のいかようなものであるかが明白である、即ち、それは仁慈の情愛の歓喜と祝福であり、または、それと同一のものではあるが、相互愛の歓喜と祝福である(3816番)、なぜなら仁慈の情愛と相互愛とは同一のものであるからである(1110、1111、1774、1835、1877、2027、2273、2340、2373、2400番を参照)。この凡てから『報酬』によりその外なる意義ではここでは相互愛が意味されていることが明白である。
天界の秘義3956[2]
更に高い意義では、または内意では、『報酬[報い]』により天的な結婚愛が意味されていることは天界的結婚について前に言われた事柄から認めることが出来よう(2618、2739、2741、2803、3024、3132、3952番)、即ち、それは善と真理との結婚であり、相互愛はこの連結から、またはこの結婚から発しているのである(2737、2738番)、このことから『報い』は内意では天的な結婚愛であることが明白である。
天界の秘義3994
[3]
こうしたものが無垢である自分自身のものであって、それがヤコブが自分自身のために選んだ「子羊の間の黒いもの」によりここに意味されているのであるが、しかし子羊の白いものは善に置かれている自己功績である。(「白い」は功績であることは前の3993に示されたところである。)それは無垢に反しているため、それはヤコブは選ばなかったのである。なぜなら善に自己功績を置く者は善はすべて自分自身から発していることを承認し、信じているからであるが、それは彼はその行う善の中に自分自身を顧慮していて、主を顧慮していない。従ってその功績のために報酬を要求するためである。それでこのような者は自分自身に較べて他の者を軽蔑し、彼らを非難さえもし、従ってそれに正比例して天界的な秩序から即ち善と真理から遠ざかるのである。この凡てから、隣人に対する仁慈と主に対する愛とは、その中に無垢が存在しない限り在り得ないのであり、従ってたれ一人その者の中に無垢が存在しない限り、天界へ入れないことが今や明白である。そのことは主の御言葉に従っている―
まことにわたしはあなたたちに言う、たれでも小さな子供となって神の国を受け入れない者はことごとく神の国に入りはしない(マルコ10・15、ルカ18・17)
聖言のここと他の所の「小さな子供」により無垢が意味されているのである。
天界の秘義4788
教会の人々は二種類に、即ち善の中にいる者と真理の中にいる者とに分けられる。善の中にいる者たちは天的なものと呼ばれるが、しかし真理の中にいる者たちは霊的なものと呼ばれている。この二つの種類の間には非常な相違がある。善の中にいる者たちは善のために、また他から報酬を受けないで善を為すことを求める情愛の中にいるのである。なぜなら彼らは善を為すことにおいて喜びを認めるからには、善を為すことを許されることが彼らには報酬であるからである。しかし真理の中にいる者たちは、善を善それ自身のためではなくてそれがそのように命じられているためにそれを為そうとする情愛の中におり、彼らの大半の者は報酬を考えており、その楽しさは報酬から発しており、また誇ることから発しているのである。
天界の秘義6392
現今では極めて僅かな者しか、報酬の目的なしに善を為すことに天界の幸福が在ることを知ってはいないことを知られたい。なぜなら彼らは名誉を与えられること、他から仕えられること、富に溢れること、快楽の中に生きること以外に何らかの幸福が在ることを知らないからである。これらのものの上方に、人間の内部を感動させる幸福が在り、かくて天界的幸福が在り、この幸福は純粋な仁慈の幸福であることを彼らは全く知らないのである。現今の賢人たちにこれが天界の幸福であることを知っておられるか、否かと尋ねてみられよ。ここからまた多くの者は、たれ一人良い業を自己功績を顧みること無しに行う筈はないと信じて、それを斥けているのである。なぜなら彼らは主によって導かれる者は、善い業ほどに為そうと願う物はなく、またその業による功績ほどに考えない物はないことを知らないからである。これは再生しつつある者に主から与えられる新しい意志の中に存在しているのである。なぜならこの意志はその人間の中にある主の意志であるからである。
天界の秘義8002〔8〕
善いことを為す者たちは『天にその報いを得る』であろうと主から再三言われていることは(例えばマタイ5・11、12、6・1、2、16、10・41、42、20・1−16、マルコ9・41、ルカ6・23、35、14・14、ヨハネ4・36)、人間は再生しない中は報酬を考えないわけにはゆかないためである、しかし彼が再生すると、(事態は)異なって来るのである、彼はその時もしたれかが彼は報酬のために隣人に益を与えているのであると考えるなら、立腹するのである、なぜなら彼は益を与えることに歓喜と祝福とを感じて、報酬にはそれを感じはしないからである。内意では『報酬』は仁慈の情愛の歓喜を意味していることについては、3816、3956、6388、6478番を参照)。
マリア・ワルトルタ天使館2巻79・3
主がイサクに
「いま、あなたはわたしが派遣するであろう町や村に行かねばなりません。あなたにはお金が要ります。働く者には、たとえ霊魂に関わる者であっても、報酬を受ける権利があります・・・養うべき肉体がまだあるからです。主人を助ける子ろばのようにね。」
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P356
私も霊魂の儲けをしに来たのだから、そのために相手に愛があろうが、軽蔑と頑なさに突き当たろうが、それは気にしません。商売の盛んな町では、売買しても何時でも儲かるわけではありません。しかし相手といい商売ができたら、その旅行は無駄ではなかったと分かり、後でまた戻って来ます。もし最初のときに何も得られなかったとしても、三回、七回、百回も行けば、何か儲けがあります。私も天の儲けを考えて、あなたたちの売買と同じことをします。大きな儲け、小さな儲けも気にしません。一人の霊魂だけでも救えば、それだけでも大きなことで、私の苦労の充分な報いです。霊魂の王として、一人でも得たなら、旅も苦労も無駄であったとは言えません。私は嘲りも、侮辱も、非難も、聖なる愛すべきものだと考えています。岩のような固い邪魔があって尻ごみするなら、よい討伐者とは言えません・・・
(中略)
私も同じように固い心の石をだれよりも多く、何回も何回も打ちます。世の終わりまで私が送る後継者によって一筋の道が開かれ、そこに私の律法は太陽の光線のように入るでしょう。
(中略)
正義のために、あるいは興味のために歓迎してくれる望みのある所だけを選んだら、私の仕事は不完全でしょう。なぜなら、働きに変わりはありませんが、苦労はほとんどなく、その代わり自己満足を得ただけでしょう。愛が豊かで、刻むべき霊魂の柔らかい所で働くのは、つらいことではありませんが、苦労がないなら、功徳もなく儲けも少ない。正義に生きている人々にだけ呼びかけるなら、儲けは少ない。まず、すべての人を真理へ導き、それから聖寵をもって贖わないなら、もう私の存在は必要がなくなります。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P171
‘92・11・10
我が足跡をたどり 名誉も名声も求めないように。 世にペテン師と見なされても 自分は本物だと知りなさい、まずはじめに世は私をペテン師と見なした。 愛しなさい! そして許しなさい! 聖霊にたいして驚くべき企てをたくらむ者たちのために祈りなさい そして裁いてはならない 彼らにとって死に連なるものが、あなたにとっても致命的とならないように。 私が彼らを正すにまかせなさい。 あなたのなすすべては 愛に根づいたものであるように。 私があなたを養い 慰めで満たす。 最後には 私のからだの刺すべてが取り除かれよう。 愛が 勝利する。
サンダー・シング/『聖なる導きインド永遠の書』P24
「今日、チベットに旅立ちます。危険と困難は十分承知していますが、義務を果たすため最善のことをせねばなりません。神の御恵みの福音を証せよとの主イエスから命じられた使命を全うし、わが生涯を終える歓びに較べれば、わが命は何の価値もありません。6月末にはチベット人クリスチャンを従えて戻ることができればと思っております。」1929.4.18