イサカル
報酬/
天界の秘義3956
「レアは言った、神はわたしが下婢[女中]をわたしの男に与えたため、わたしに報いを与えられた」。これはその最高の意義では神的な真理の善と善の真理であり、内意では、天的な結婚愛であり、外なる意義では相互愛を意味していることは、『報酬[報い]』の意義から認めることができよう。『報酬』は聖言にひんぱんに言われているが、しかしそれがそこで意味していることは僅かな者しか知ってはいない。人間が行う善によっては人間は何ものにも価することはできないことは教会に知られている、なぜなら善は人間のものではなくて主のものであるからである、また価することはまたは功績は人間を注視しており、かくてそれはそれ自身を自己を求める愛に連結させ、他の者よりもひときわ卓越する思いに連結させ、従って他の者に対する軽蔑に連結させることも知られている。そうした理由から報酬を求めて為された善は純粋な泉から、すなわち、隣人に対する仁慈から発していないため、それはそれ自身では善ではない。隣人に対する仁慈は自分自身と同じように隣人も良くなるようにとの願いをその中にもっており、天使にあっては自分自身よりも隣人がさらに良くなるようにとの願いをその中に持っているのである。こうしたものがまた仁慈の情愛であり、それでそれは自己功績そのものに反感をもっており、従って報酬を目指す善を為すことそのものに反感をもっている。仁慈の中にいる者たちには、報酬は親切を示すことができることの中に、親切を為すことを許されることの中に、親切が受け入れられることの中に在るのである。そのことが仁慈の情愛の中にいる者たちにより楽しまれる歓びであり、いな、祝福そのものである。このことから聖言に言われているかの報酬[報い]のいかようなものであるかが明白である、すなわち、それは仁慈の情愛の歓喜と祝福であり、または、それと同一のものではあるが、相互愛の歓喜と祝福である(3816番)、なぜなら仁慈の情愛と相互愛とは同一のものであるからである(1110、1111、1774、1835、1877、2027、2273、2340、2373、2400番を参照)。この凡てから『報酬』によりその外なる意義ではここでは相互愛が意味されていることが明白である。
天界の秘義3957
「彼女はかれの名をイッサカルと呼んだ」、これはその性質を意味していることは『名を呼ぶこと』の意義から明白であり、それは性質である(3923、3935番)、なぜならイッサカルは『報酬[報い]』から名づけられ、そこからその名前は、報いについて前に言われたことがらを含んでいると同時にレアの言葉の残りのものにより意味されていることをも含んでいるからである。『イッサカル』により『報い』が意味されているため、外なる意義では『報い』は相互愛であり、内なる意義では善と真理との連結であるため、キリスト教界では現今極めて僅かな者しか『報い』にはこうした意義のあることを以下の理由から知ってはいないことを述べておいてよいであろう、すなわち、かれらは相互愛とは何であるかを知らないのであり、まして人間は天界的な結婚の中にいるためには善は真理に連結しなくてはならないことを知らないのである。
天界の秘義6388
「イッサカル」。これは業から得る報酬を意味していることは、イッサカルの表象から明白であり、それは相互愛であり、相互愛は『賃金』または報酬であり(3956、3957番)、ここでは、イッサカルについて言われているこの予言の内意における細目から明らかなように、業から得る報酬である。更に原語では『イッサカル』は『賃金』を意味しているのである。ここの『イッサカル』は業から得る報酬を意味し、前には相互愛を意味しているのは、『イッサカル』によりここでは一種の相互愛、即ち、隣人に対する仁慈の中に、またその外観の中にいて、自分が行う善い業に対して報酬を受けようと欲している者が意味されているためである。このようにして彼らは純粋な相互愛を、または仁慈を汚すのみでなく、また歪めもするのである。なぜなら純粋な相互愛の中にいる者たちは隣人に益を与えている時はその歓喜と満足の中にいるからである、なぜなら彼らはそれ以上には何ごとも求めはしないからである。この歓喜と祝福とが聖言の『賃金』により意味されるものである、なぜならその歓喜と満足とがそれ自身において報酬であって、他生ではこれが天界に存在する喜びと幸福になり、かくてそれが彼らには天界となるからである。なぜならこの愛の中にいる者たちが用を遂行し、他の者たちに善を行う時、彼らはその時初めて自分が天界にいるように自分自身に思われる程の喜びと幸福の中に置かれるからであり、それが彼ら各々にその行う用に応じて主から与えられるのである。しかしその幸福は彼らが報酬を考え始めるや否や消滅してしまうのである、なぜなら報酬そのものの中にいると、報酬のことを考えるため、その愛は不純なものになって、歪められるからであるが、その理由は、彼らはその時彼ら自身のことを考えて、隣人のことを考えないし、即ち、自分自身を幸福にすることを考えて、他の者を幸福にすることを、そのことが自分自身に関係無い限りは、考えはしないということである。かくて彼らは隣人に対する愛を彼ら自身に対する愛に変えてしまうのであり、彼らはそのことを行うに応じて、天界から喜びと幸福とは彼らに伝えることは出来ないのである、なぜなら彼らは天界から注がれる幸福の流入を彼ら自身に集中させて、それを他の者に伝えはしないからであり、かくて光線を伝えはしないで、それを吸収してしまう物体のようなものとなるからである。光線を伝える物体は光の中に現れ、閃きはするが、それを吸収する物は不透明なものとして現れて、些かも閃きはしないのであり、それでこうした性質の者は、天界とは何物も共有しない者のように、天使たちの社会から分離されてしまうのである。これらの者が『イッサカル』の名の下にここに記されている者らである。
天界の秘義6392
現今では極めて僅かな者しか、報酬の目的なしに善を為すことに天界の幸福が在ることを知ってはいないことを知られたい。なぜならかれらは名誉を与えられること、他から仕えられること、富に溢れること、快楽の中に生きること以外に何らかの幸福が在ることを知らないからである。これらのものの上方に、人間の内部を感動させる幸福が在り、かくて天界的幸福が在り、この幸福は純粋な仁慈の幸福であることをかれらは全く知らないのである。現今の賢人たちにこれが天界の幸福であることを知っておられるか、否かとたずねてみられよ。ここからまた多くの者は、たれ一人良い業を自己功績をかえりみることなしに行うはずはないと信じて、それを斥けているのである。なぜならかれらは主によって導かれる者は、善い業ほどに為そうと願う物はなく、またその業による功績ほどに考えない物はないことを知らないからである。これは再生しつつある者に主から与えられる新しい意志の中に存在しているのである。なぜならこの意志はその人間の中にある主の意志であるからである。