雇い人

 

報酬功績シレネのシモン

 

 

 

 

天界の秘義8002〔7〕

 

 しかし『雇われ人〔雇人〕』によりまた意味されているところの、他生の報酬のために善いことを行う者らは、天界における生活と幸福とをその目的としていることにおいて、今述べた者らとは異なっているのである。しかしその目的は彼らの神礼拝を主から彼ら自身へ決定づけ、転換させ、従って彼らは彼ら自身にのみ良かれと願い、他の者に対しては、その者が彼らに良かれと願ってくれる時にのみ、良かれと願い、従って自己愛が凡ゆる細々としたことの中にも潜んでいて、隣人愛が潜んではいないため、彼らは純粋な仁慈を持ってはいないのである。これらの者も天使たちとは共に交わることは出来ないのである、なぜなら天使たちは報酬または償いという言葉にも考えにも極度の嫌悪を覚えるからである。恩恵は報酬の目的を持たずに与えられなくてはならないことを主はルカ伝に教えられている―

 

 あなたらの敵を愛し、恩恵を与えなさい、何ら返礼を望まないで貸しなさい。その時はあなたらの報酬は大きく、あなたたちは至高者の子となるでしょう(ルカ6・32−35、また14・12−14)。

(功績的な善とその性質とについては、1110、1111、1774、1835、1877、2027、2273、2340、2373、2400、3816、4007、4174、4943、6388−6390、6392、6393、6478番を参照)。

 

 

天界の秘義8002〔8〕

 

 善いことを為す者たちは『天にその報いを得る』であろうと主から再三言われていることは(例えばマタイ5・11、12、6・1、2、16、10・41、42、20・1−16、マルコ9・41、ルカ6・23、35、14・14、ヨハネ4・36)、人間は再生しない中は報酬を考えないわけにはゆかないためである、しかし彼が再生すると、(事態は)異なって来るのである、彼はその時もしたれかが彼は報酬のために隣人に益を与えているのであると考えるなら、立腹するのである、なぜなら彼は益を与えることに歓喜と祝福とを感じて、報酬にはそれを感じはしないからである。内意では『報酬』は仁慈の情愛の歓喜を意味していることについては、3816、3956、6388、6478番を参照)。

 

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・11・3

 

ああ、自分のためを計り自分を愛する心の少しもまじらぬ、イエズスに対する清い愛があったら、どれほど多くのことができるだろう?

 いつも慰めばかり求める者は、すべて雇い人と呼ぶべきではないか?

 いつも自分の都合や利益ばかりを計る者は、キリストよりもむしろ自分を愛していることを証拠だてているのではないか?