シレネのシモン

 

雇い人

 

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P496

 

“重い十字架を担ってカルワリオに行くわたしを眺めよ。わたしのあとからわたしを助けて十字架を担ってくるシモンをみて、二つのことを考えるがよい。

 この男は善意のある人だが、この場合はやとわれ人であった。わたしに従って十字架の荷を半分負ってくれたのは雇われたからである。だから疲れはてると、わたしの肩に荷の重みをかけたので、わたしは再び途中で倒れた。

この男はわたしの十字架を全部担ってくれたのでなく、只一部分だけであった。

 この二つの事実が示す意味を考えてみよう。

 

このようにわたしの後について来る人は多い。勿論、わたしの十字架を助けたいとでこれを受けるのである。しかし慰めや休息のことを考える・・・多くの者がわたしに従いたいといって修道生活に入るのである。しかし多くの場合、自分自身のためになることを第一に配慮することを捨てきれない。それ故にぐらつき、もし十字架があまり重くなるとおろしてしまう。(中略)

これに反して、己が救霊の念に駆られ、なおまた、もっとわたしが彼らのために忍んだ苦しみを思い、わたしに近づく。わたしの後からついてカルワリオへ歩もうと決心するものも多くある。この人々は修道生活に入りわたしへの奉仕に身を捧げ、わたしを喜ばせようとのみつとめる。報いを思わず功徳になるなどとは考えず、また疲れも苦しみもかわまず、わたしを休ませ、わたしの聖心(こころ)を慰めることのみが唯一の目的である。

 十字架が病気の形でさし出されても、自分の嗜好に反するかまた不適当な仕事を与えられても、また、長上からなおざりにされるように見えても、周囲から反対される姿で現れても、わたしの十字架として認めて、どんなものでもできる限り心からこれを受けるのである。