功績

 

 

 

天界の秘義1712

 

 「かれはかれらにむかって夜かれ自身を分けた」。これはその外観的な諸善と諸真理とがその中にあった蔭[物陰]を意味していることは『夜』の異議が陰の状態であることから明白である。その善と真理とが外観的なもの[外面的なもの]であるが、それとも純粋なものであるか、が判然としないときは陰の状態があると言われている。たれでも外観的な善と真理との中にいるときは、かれはそれらのものが純粋な善と真理であると考えており、外観的な善と真理との中に存在している悪と誤謬とは陰を生み出すものであって、それらのものが純粋なものであるように外観的に見せるのである。無知の中にいる者たちは、その者たちが行う善はその者たち自身のものであり、その者たちの考える真理もその者たち自身のものであるとしか考えていないのであり、それは自分の行う善を自分自身に帰して、その中に功績をおき、そうした場合はそれは善のように外観的に見えはするものの、それは善ではないことを知っておらず、その者たちがその中においているその者たち自身のものと自己功績とはあいまいにし、暗くする悪と誤謬であることを知っていない者たちの場合も同じである。

 

[2]その中にかくれている悪と誤謬との種類と大きさとは身体の生命の中では他生におけるほどよくは到底認められることはできないのであって、他生ではそれらは明るい光の中にあるように目に示されているのである。しかしもしこのことが確認されていない無知から為されているなら事情は異なってくるのである、なぜならそうした場合それらの悪と誤謬とは容易に消散するからである。しかしもし人々が自分たちは自分たち自身の力により善を行って、悪に抵抗することができるのであり、かくして自分たちは救いに価しているという信念を確認するならば、そうした場合こうした考えが付着していて、そのためその善は悪となり、その真理も誤謬となるのである。しかしそれでも人間が自分自身から善を行うものとして善を行うことが秩序に順応しているのであり、それゆえ『もしわたしはわたし自身から善を何一つ行うことができないなら、わたしは直接的な流入を待っていなくてはならない』と考えて、手をゆるめてはならないのである、なぜならそれは秩序に反するからであって、かれはかれ自身から善を行うものとして善を行わなくてはならないのである、それでも、かれはかれが行うところの、または行ったところの善を反省するときは、かれは主がかれの中にその業を行われたことを考え、承認し、また信じもしなくてはならないのである。

 

[3]もしかれが今言ったように考えて、その手をゆるめるなら、そのときはかれは主がその中へ働きかけられることができる主体ではなくなるのである。主は力がその中へ注ぎこまれることができるものをことごとく自分自身から剥ぎとってしまう者のもとへは流入されることはできないのである。それは恰も人がその者自身に啓示がなくては何ごとも学ぼうとはしないものであり、または人がその者の中へ(他の者を)教える言葉が入れられないかぎり、何一つ教えようとはしないようなものであり、または人が意志をもたないものとして活動するようにしむけられないかぎり何ごとも試みようとはしないようなものである。しかしもしこうした事柄が行われるなら、かれは自分が生きていないもののようなものであるということにさらに憤慨することであろう。それでも人間の中に主により生かされているものは恰もそれがその人間自身から発しているかのように外観的には見えるのである。かくて人間は人間自身から生きてはいないものの、もし人間が人間自身から生きているように見えないなら、人間は全く生きることはできないということが永遠の真理なのである。

 

 

天界の秘義1774

 

 聖言の内的なものについてはいかようなことも聞こうとしない霊がいて、かれらはそれをたとえ理解するにしても、依然それを欲しないのである。かれらは主として業に功績を置いていて、それで自己を求める愛から善を行った者であり、かくて主の王国のためには善を行わなかった者である。他生ではこうした者は他の者にもまさって天界へ入ろうと欲しているが、しかしその外側に止まっている。なぜならかれらはすすんで真理の知識に浸透し、かくして善に感動しようとはしないからである。かれらは自分の思いつきに従って文字から聖言の意味を解釈し、また自分の欲念を甘やかすものをすべてその文字に同意させてもち出すことによってそれを解釈しているのである。

 

 

天界の秘義1877

 

 霊たちの世界にいる霊魂たちまたは霊たちは、とくに邪悪な者らは、身体の生命の中で得たものを、すなわち、地的な、形体的な、世的なものを最初保有しており、またそれとともにかれらが取り上げた原理を保有している。これらの霊らの間には聖言の内意についてはいかようなことも聞こうとはしないで、只文字の意義についてのみ聞こうと欲し、その文字の意義に固守するあまり、十二使徒は十二の王座に坐って、イスラエルの十二の種族を審くはずであり、また貧しい者、悲惨な者、迫害を受けた者以外には何人も天界に入ることはできないと信じている者がいるが、しかし主の中に仁慈と信仰に生きた富んだ者も権力者も天界にいるのである。そうした人物は自分の功績のために天界を自分自身のために要求しているため、わたしはかれらがあちらこちらと走りまわっているのを見たのであるが、かれらはその行く先々で、聖言の内意にぞくした事柄を以下のような理由から嘲ったのである、すなわち、それはかれらは天界に価して、他のあらゆる者にまさって栄誉へ上げられることをねがっているのに、内意にぞくしたものはこのかれらの信念と欲念とに反しているということである。しかしかれらは血液に流れ入って静脈と動脈とに拡がって、血の大部分を不潔なものにしてしまう腐敗した有害なものに似ているのである。

 

 

天界の秘義1936[3]

 

もし人が善行に功績を置くならば、またはそれを利得、名誉、名声のために行うならば、たれ一人その善行のために他生では決して報われはしないということは、またたれ一人悪い行為のためには、もしその者が真に善良な目的から行動しているならば、決して罰せられはしない、その目的からその行為が顧慮されるということは神的な真理である。このこともまた合理的なものによっては信じられることはできないのである、しかしそれは真であるため、合理的なものを信じてはならないのである、なぜならそれは内なるものからその結論を作りはしないで、外なるものからそれを作っているからである。

 

 

天界の秘義1947[6]

 

 『苦悶』はダビデの書に以下のように語られている―

 

  エホバよ、あなたの天幕の中にたれが宿るでしょう。あなたの聖い山にたれが住むでしょう。正しく歩んで、義を行う者、誓って自分自身を苦しめて、変わらない者、(その者がそれであります)(詩篇15・・1,2,4)。

 

『[苦悶]苦しめること』が、外なる人から発生して合理的なものの中へ入ってくるところの悪と誤謬とを支配して、それを征服することを意味していることは、これまで言ったことから認めることができよう。かくて『苦悶[苦しめること]』はわたしたちがわたしたち自身を貧乏と悲惨とに突きおとさなくてはならないということを、またはわたしたちは身体の歓びをことごとく放棄しなくてはならないということを意味してはいないのである、なぜならをうした方法によっては悪は支配されはしないし、征服されはしないし、さらに他の何かの悪がかき立てられもし、すなわち、そうした放棄のために功績の意識がかき立てられもして、さらに人間の自由も―その中にのみ、信仰の善と真理とが、それを土地として、播種されることができるのであるが―害われるからである。(『苦しめること』が試練をまた意味していることについては、前の1846番を参照)。

 

 

天界の秘義2027

 

『あなたの後のあなたの裔に』は、主は主を信じるにちがいない者たちにこれらのすべてのものを与えられるであろうということを意味していることは、『裔[種]』の意義から明白であり、それは信仰であり(1025、1447、1610番参照)、事実仁慈の信仰である(379、389、654、724、809、916、1017、1162、1176、1258番参照)。自分の生活の行為に功績をおいている者らは仁慈の信仰を持っておらず、それでここに意味されている裔ではない、なぜならかれらはそのことにより、主の義によらないで、自分自身のものによって救われようと欲しているからである。かれらの中には仁慈の信仰は、すなわち、仁慈が何ら存在していないことは以下の事実から明白である、すなわち、かれらはかれら自身を他の者の前に置き、かくてかれら自身を顧慮して、他の者を、その者がかれらに役立たない限り顧慮しないし、かれらに進んで仕えようとしない者を軽蔑するか、または憎むかするのである。かくて自己への愛によりかれらは分離して、決してともにはならず、かくして天界的なものを、すなわち、天界にその恒久性を与えている相互愛を破壊してしまうのである、なぜなら天界そのものはその相互愛の中にあり、その連合と一致とはことごとくその中に存続し、またそこから成っているからである、なぜなら他生では何であれ一致をこぼつものはことごとく天界の秩序そのものに反しており、かくて全体を破壊するようになるからである。こうしたものが己が生活の活動に功績を置いて、自分自身のために義を要求する者らである。他生にはこうした者が多いのである。

 

[]かれらはときとしてその顔は小さなたいまつのように輝くが、しかしそれは自己義認から発している幻想[妄想]の火から発しており、事実はかれらは冷ややかである。かれらは時折走りまわって、聖言の文字の意義から自己の功績を確認しているのを見られる、なぜならかれらは内意にぞくしている真理を憎悪しているからである(1877番)。かれらのスフィアは自己顧慮のスフィア[霊気]であり、かくて自己を一種の神性者として認めない観念をことごとく破壊するのである。こうした種類の多くの者のスフィアはともになると、そこには敵意と憎悪以外には何ものも存在しないほどにも互に反発し合うのである、なぜならたれもが同一のことを、すなわち、仕えられようと欲するときは、かれは他の者を心の中で殺してしまうからである。

 

[]かれらのある者は、自分たちは主のぶどう園に働いたとは言っているが、事実は働きつつも絶えず利得のみでなく自分自身の優越性を、光栄を、名誉を心に抱いており、自分らは天界において最大の者となって、天使たちからも侍かれるであろうと言いさえもし、他の者を自分自身に比較して心で軽蔑し、かくて天界を構成している相互愛に浸透しないで、自己愛に浸透し、その自己愛に天界を置いている者らの仲間となっている、なぜならかれらは天界とは何であるかを知らないからである。(このような者については、前の450‐52、1594、1769番を参照されたい)。これらの者は最初のものとなろうとして、最後のものになる者にぞくしており(マタイ19・30、20・16、マルコ1−10・31)、主の御名により予言し、多くの驚くべき事柄を行いはしたものの『わたしはおまえたちを知らない』と言われている者にぞくしている(マタイ7・22,23)。

 

[4]単純な心から自分は天界に価していると信じ、仁慈に生きた者たちの場合は非常に異なっている。これらの者は天界に価することを約束された事柄として眺めていたのであって、それが主の慈悲によるものであることを容易に承認するのである、なぜなら真の仁慈は真理そのものを愛しているため、仁慈の生命にはこのことが伴っているからである。

 

 

 

天界の秘義3994

 

 善が善であるためには、その善の凡ての中に無垢が存在しなくてはならない。無垢のない仁慈は仁慈ではなく、まして無垢がないなら主に対する愛はあり得ないのである。そうした理由から無垢は愛と仁慈の本質的なものそのものであり、従って善の本質的なものである。無垢である自分自身のものとは、悪以外には何ものも自分の自己からは発していない、善はすべて主から発している、それで人間自身のものは悪いもの以外の何ものでもないことを、すなわち、悪であるところの自分の意志の自分自身のもののみでなく、誤謬であるところの自分の理解の自分自身のものを、口ではなくて心で知り、承認し、信じることである。人間が心からそのことを告白し、信じるとき、主は善と真理とをもって流れ入られて、かれの中へ、白い、光り輝いている天界の自分自身のものを(徐々にひそかに)注ぎ入れられるのである。たれ一人心からそのことを承認し、信じない限り、決して真の卑下の中にいることはできない。なぜなら人間は心からそれを承認し信じる時、自己を絶滅させ、否、自己を嫌悪し、かくして自己から遠ざかり、そうした方法によりそのとき主の神的なものを受け入れることができる状態の中にいるからである。主がへり下った、砕かれた心の中へ善をもって流れ入られるのはこうした手段によっているのである。

 

[3]こうしたものが無垢である自分自身のものであって、それがヤコブが自分自身のためにえらんだ「子羊の間の黒いもの」によりここに意味されているのであるが、しかし子羊の白いものは善におかれている自己功績である。(「白い」は功績であることは前の3993に示されたところである。)それは無垢に反しているため、それはヤコブはえらばなかったのである。なぜなら善に自己功績を置く者は善はすべて自分自身から発していることを承認し、信じているからであるが、それはかれはその行う善の中に自分自身を顧慮していて、主を顧慮していない。従ってその功績のために報酬を要求するためである。それでこのような者は自分自身に較べて他の者を軽蔑し、かれらを非難さえもし、従ってそれに正比例して天界的な秩序からすなわち善と真理から遠ざかるのである。この凡てから、隣人に対する仁慈と主に対する愛とは、その中に無垢が存在しない限りあり得ないのであり、従ってたれ一人その者の中に無垢が存在しない限り、天界へ入れないことが今や明白である。そのことは主の御言葉に従っている―

 

まことにわたしはあなたたちに言う、たれでも小さな子供となって神の国を受け入れない者はことごとく神の国に入りはしない(マルコ10・15、ルカ18・17)

 

聖言のここと他の所の「小さな子供」により無垢が意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義2273

 

わたしは人間はもし試練に何らかの功績を置くならば、その者はその試練のために救われはしないとすら言いたいのである、なぜならもしかれがそうしたことを行うならば[もしかれが試練に功績をおくなら]それは以下の点で自己愛から発しているからである、すなわち、かれはその試練のために自分自身を祝って、自分は他の者以上に天界に価しているものであると信じると同時に他の者を自分に比較して軽蔑することにより自分自身が他の者よりも遥かに卓越しているものと考えるのであるが、こうしたことのすべては相互愛に反しており、それで天界の祝福にも反しているのである。

 

[]人間が試練の中におかれて征服するさい、その試練には他の者はすべて自分自身よりも価値があり、自分は天界的なものであるよりはむしろ奈落的なものであるという信念が伴っているのである、なぜなら試練におかれている間にはこうした観念[考え]がかれに示されるからである、それで試練の後でかれがこうした考えに反した考えを持つようになるときは、それはその者が勝利を得てはいない[征服してはいない]ことを示しているのである、なぜならその人間が試練の中でもった思考「考え」は、その思考[考え]に向って、その人間が試練の後で持つ思考[考え]がわためられることができるものであり、もし試練の後の思考が試練の中の思考に向ってたわめられることができないなら、その人間はその試練の中で敗北したか、または再びそれに類似した試練に入れられ、ときとしてはそれよりもさらに甚しい試練に入れられて、ついには自分は何物にも価してはいないことを信じるといったまともな考えを抱かせられるか、その何れかであるからである。ここから『四十人』によりここでは試練によりその者のもとで善が真理に連結している者たちが意味されていることが明白である。

 

 

 

天界の秘義3463[2]

 

なぜなら専ら信仰の教義的な事柄の中にいて、その教義に従った生命の中にいる者たちは、一種の連結を持ってはいるが、しかしそれは遠い[軽微な]連結であるが、それは以下の理由によっているからである、すなわち、かれらは隣人に対する仁慈の何であるかをいかような情愛からも知ってはおらず、ましてや主に対する愛の何であるかを知ってはおらず、たんにそのことを信仰の或る一種の観念からのみ知っているにすぎず、かくてかれらはまた何ら善を認識もしないで、かれらの教義的なものを確認するときは、かれらは真のものであるものの中にいると等しく誤っているものの中にもいる可能性があるのである、なぜなら善を除いては何ものも人間に真理の何であるかについては確認させはしないからである。真理は実に善の何であるかを教えはするが、しかしそれを認識させはしないに反し、善は真理の何であるかを認識から教えるからである。

 

 

[3]たれでもこうしたことはいかようになっているか、またその相違の性質と特質とはいかようなものであるかを、たんに以下の仁慈にかかわる普通の教えからでも知ることができよう―

 

何であれ、あなたたちが人が自分にしてくれるように願うことはことごとく、あなたたちもそのように人にしてやりなさい(マタイ7・12)。

 

 この教えから行動する者は他人に善いことを実際為しはするが、しかしそれはそのように命じられているからであり、かくてそれは心の情愛から発しているのではない、かれはそれを行うときは常に、自分自身から始め、また善を為すにさいし、功績を考えているが、これに反し教訓から行動しないで、仁慈から、すなわち、情愛から行動する者は、心から行動するのであり、かくて自由から行動しており、かれが行動する時は常に、善いことを真に意志することから始めるのであり、かくてそれが自分に歓ばしいという理由から始めるのであり、かれはその歓びの中に報酬を得ているため、功績を考えはしないのである。

 

 

[4]それでこのことから信仰から善を行うことと仁慈から善を行うことの間の相違のいかようなものであるかが認められることができるのであり、また、信仰から善を行う者は仁慈から善を為す者よりも主である善そのものから遠ざかっていることが認められることができるのであり、前の者はまた真理の中には極めて僅かしかいないため、仁慈の認識するほどにその中へは容易に導き入れられることもできないのである、なぜならたれ一人真でないものが先ず根絶されない限り、この善へ導き入れられることはできないからであり、そのことはこのようなものが[真でないものが]根を下ろして確信されてさえいる間はありえないからである。