善に対する情愛

 

真理に対する情愛

主は各々の者をその者のいくたの情愛により導かれる

感動只一つの情愛の中にもその人間全体が存在している

喜び・楽しさ報酬

 

 

 

1.『兄』は善の情愛

2.自然的な人における善の情愛は承認するところのもの

3.人間は再生すると、善の情愛[善に対する情愛]から行動する

4.善の情愛[善に対する情愛]は仁慈と呼ばれている

5.善の中にいる者たちは善のために、また他から報酬を受けないで善を為すことを求める情愛の中にいる

6.きずな

7.それに応じて主は流れ入られて、善いことを為す情愛を、すなわち、隣人に仁慈を実践する情愛を生み出される

8.神の聖言を守り、または実行する者たちの持っている善の情愛

9.生命の善

11.善に対する情愛の中にいる者のみが自由

12.主に対する愛のものである善の情愛[善に対する情愛]は人間には全く表現することの出来ないもの

13.善の情愛、即ち、主に対する愛と隣人に対する愛

14.真理の情愛[真理に対する情愛]はひとえに善から発生している

 

 

 

 

 

1.『兄』は善の情愛

 

 

天界の秘義3129

 

「レベカには兄があった」。これは自然的な人における善の情愛[善に対する愛]を意味していることは、聖言の『兄』と『妹』の意義から明白である、すなわち、『兄』は善の情愛であり、『妹』は真理の情愛である(367、2360、2508、2524番を参照)。なぜなら自然的な人の中にも、合理的な人におけるように、血縁関係が在り、またその中に凡ゆる物の相似性が在るからである(2556、2739番を参照)。そして心が、その合理的なものも、その自然的なものも、『家(または家族)』と呼ばれて、そこに両親、兄弟、姉妹、血縁、その他の親類が秩序をもって存在していることもまたこのことから発しているのである。

 

 

 

天界の秘義3160

 

これらの言葉にはアルカナが含まれていることは、ここに兄であったラバンが答え、次に父であったベトエルが答えたが、しかし父と母とは答えないで、処女も後になるまでは答えなかった事実から明白である。このことの理由は兄としてのラバンにより自然的な人における善に対する情愛が表象され(3129、3130番を参照)、ベトエルにより善に対する情愛の起源が表象されているということである。自然的な人における善の情愛と真理の情愛とは兄と妹のようなものであり、自然的な人から呼び出されて合理的な人の中へ入り、そこに善と連結する真理の情愛は結婚した婦人のようなものである。

 

 

 

2.自然的な人における善の情愛は承認するところのもの

 

 

天界の秘義3160[2]

 

 ラバンとベトエルが答えた、すなわち、兄が先ず、次に父が答えた秘められた理由は、以下のごとくである、すなわち、合理的な人から善が自然的な人の中へ流れ入ってくるさい、それはそこの真理へ直接に流れ入りはしないで、そこに在る善へ流れ入り、その善を通して真理へ流れ入るのであり、このような流入が存在しない限り、真理に対する情愛は現実に存在するようにはなることはできないのである。自然的な人における善の情愛は承認するところのものであって、かくて先ず同意するものである、なぜなら合理的な善と自然的な善との間には直接的な交流はあるが、合理的な善と自然的な真理との間にはそれはないからである(これらのものの類似については前の1831、1832番を参照)。

 

 

 

3.人間は再生すると、善の情愛[善に対する情愛]から行動する

 

 

天界の秘義3324[9]

 

人間は真理の情愛[真理に対する情愛]により再生する、かれは再生すると、善の情愛[善に対する情愛]から行動する(1904番)。

 

 

 

天界の秘義3816[2]

 

 にもかかわらず報酬は、未だ導き入れられていない者たちには連結の手段として役立っている、なぜなら未だ善とその情愛の中に導き入れられていない者たち(すなわち、未だ充分に再生していない者たち)は報酬について考えないわけにはいかないからである、なぜならかれらはその行う善を善の情愛から行わないで、自己のために祝福と幸福とを求める情愛から、また同時に地獄を恐れる恐怖から行うからである。しかし人間が再生しつつあるときは、これが転倒して、善の情愛となり、そのときはかれはもはや報酬を目当てとはしないのである。

 

 

 

天界の秘義4245

 

「わたしはわたしの主に告げるために、あなたの目の中にめぐみを得るために、使いの者を遣わします」。これは主の状態について知らせることとまた真理が善の前に立ってへりくだり、自らを卑下することを意味されていることは、『告げるために(使いの者を)つかわすこと』の意義から明白であり、それは自分の状態について知らせることである。そのとき真理が善の前に立ってへりくだり、自らを卑下することが続いて起ることは明らかである、なぜならヤコブはかれを自分の『主』と呼んで、『あなたの前にめぐみを得るために』と言っており、それはへりくだった、また自分を卑下した言葉であるからである。ここには転倒が行なわれつつあるときの、すなわち、真理が善に服従するようにされつつあるときの、または真理に対する情愛の中にいた者たちが善に対する情愛の中に存在しはじめつつあるときの状態の性質が記されているのである。

 

 

 

4.善の情愛[善に対する情愛]は仁慈と呼ばれている

 

 

天界の秘義3768[3]

 

 同じように聖言を持たない者は、善はことごとく主から発しており、それは人間のもとへ流れ入って、善の情愛[善に対する情愛]を生み、この情愛が仁慈と呼ばれていることを知ることはできないし、また聖言を持っていない者は宇宙の神は誰であるかを知ることもできないのであり、神が主であられることはかれらから隠れているが、それでも情愛の、または仁慈の最も内なるものは、従って善の最も内なるものは主を注視していなくてはならないのである。このことから霊的な善とは何であるかが明白であり、またそれは聖言から知られなくては知られることができないことも明白である。異邦人については、かれらは世にいる限り、実際このことを知りはしないが、それでもかれらが互に相互的な仁慈に生きている間に、そのことから、他生でこのような事柄について教えられることができるような能力を取得し、また容易にそれらを受け入れてそれらに浸透されるのである(2589‐2604番参照)。

 

 

 

天界の秘義3776[2]

 

 この間の実情は以下のようである、即ちその外なる形では仁慈として見える仁慈は内なる形では必ずしも仁慈ではないのである。その性質とその源泉とはその目的から知られるのである。その内なる形では利己的なまたは世的な目的から発している仁慈は仁慈ではなく、またそれは仁慈と呼ばれてもならないのである、しかし隣人を、全般的な善を、天界を、かくて主をその目的として注視している仁慈は真の仁慈であり、その中には心から善を行うことを求める情愛を持っており、またそこから派生してくる生命の歓喜をもっていて、その歓喜は他生では祝福となるのである。人間が主の王国はそれ自身ではいかようなものであるかを知るためには、そのことを知ることが最も大切なことである。この仁慈について、またはそれと同一のことではあるが、そのことを知ることが最も大切なことである。この仁慈について、またはそれと同一のことではあるが、この善について探求することが今これらの節にとり扱われており、ここに先ずそこに在る仁慈がいかような起原から発しているかが尋ねられており、そのことが『兄弟たちよ、何処からあなた方は来ましたか』により意味されているのである。

 

 

 

5.善の中にいる者たちは善のために、また他から報酬を受けないで善を為すことを求める情愛の中にいる

 

 

天界の秘義4788

 

 教会の人々は二種類に、すなわち善の中にいる者と真理の中にいる者とに分けられる。善の中にいる者たちは天的なものと呼ばれるが、しかし真理の中にいる者たちは霊的なものと呼ばれている。この二つの種類のあいだには非常な相違がある。善の中にいる者たちは善のために、また他から報酬を受けないで善を為すことを求める情愛の中にいるのである。なぜならかれらは善を為すことにおいて喜びを認めるからには、善を為すことを許されることがかれらには報酬であるからである。しかし真理の中にいる者たちは、善を善それ自身のためではなくてそれがそのように命じられているためにそれを為そうとする情愛の中におり、かれらの大半の者は報酬を考えており、その楽しさは報酬から発しており、また誇ることから発しているのである。

 

 

 

6.きずな

 

 

天界の秘義3835

 

しかし乍ら内なる情愛は内なるきずな[拘束物]と呼ばれ、真理の情愛と善の情愛は良心のきずな[拘束物]と呼ばれている。

 

 

 

7.それに応じて主は流れ入られて、善いことを為す情愛を、すなわち、隣人に仁慈を実践する情愛を生み出される

 

 

天界の秘義5461

 

このかんの実情は、意志における信仰が、または信仰の真理を行う意志が教会の諸真理の中にいる者たちから分離されると、そのときは神的なものとのつながりはほとんど承認以上のものではないほどにも微かなものになるということである、なぜなら再生した人間のもとで主から神的なものが流入するのは善へ流入し、善から真理へ流入するのであり、またはそれと同一のことではあるが、意志へ流入し、意志から理解へ流入するからである。それで信仰の諸真理の中にいる人間が主から善を受けるに応じて、主はかれらの知的な部分の中に新しい意志を形作られるのであり(それが知的な部分の中に在ることは前の927、1023、1043、1044、2256、4328、4493、5113番に見ることができよう)、またそれに応じて主は流れ入られて、善いことを為す情愛を、すなわち、隣人に仁慈を実践する情愛を生み出されるのである。

 

 

 

8.神の聖言を守り、または実行する者たちの持っている善の情愛

 

 

天界の秘義6432[8]

 

 ルカ伝には―

 

 ある一人の女が人々の中からその声を上げて、イエスについて言った、あなたを生んだ胎とあなたが吸った胸とは何と祝福されていることでしょう。が、イエスは言われた、否、むしろ、神の聖言を聞いて、それを守る者は何と祝福されていることでしょう(11・27、28)。

 

 主の答えから『祝福された胎』により、また『胸』により意味されていることが明らかである、すなわち、神の聖言を聞いて、それを守る人たちが意味されており、かくて神の聖言を聞く者たちの持っている真理の情愛と、それを守り、または実行する者たちの持っている善の情愛が意味されているのである。

 

 

 

9.生命の善

 

 

天界の秘義3336[3]

 

 真理の教義的な事柄もまた同じように記憶へ入ってくるのであり、最初それを導入するものは、前に言ったように(3330番)、色々な愛の情愛である。仁慈の善に属している純粋は情愛は、その時認められはしないが、しかしそれでもそれはそこに現存しているのであり、そしてそれがそこに現存していることが出来る限り、それは主により真理の教義的な事柄に接合され、また接合されて止まるのである。それでその人間が再生することが出来る時が来ると、主は善の情愛を吹き込まれ、それを通して、主によりこの情愛に接合されていた事柄をも掻き立てられるのであり[喚起されるのであり]―この事柄は聖言に『残りのもの』と呼ばれている―次に、この情愛により(即ち、善の情愛により)、継続的な段階によって主は他の愛の情愛を遠ざけられ、従ってまたその情愛に関連しているものをも遠ざけられるのである。かくして善の情愛が、または生命の善が主権を持ち始めるのである。それは実際前には主権を持っていたのであるが、しかしそのことは人間に明らかになることは出来なかったのである。なぜなら人間は自己への、また世への愛の中にいる限り、純粋な愛に属している善は現れないからである。このことからエソウとヤコブについて歴史的に述べられている事柄によりその内意に意味されていることが今や認められよう。

 

 

 

10.仁慈の生命は他の人のことを親切に考えて、その者に良かれと願うこと

 

 

天界の秘義2284[]

 

仁慈の生命は他の人のことを親切に考えて、その者に良かれと願うことに在り、また他の人もまた救われるという事実から自分の中に喜びを認めることに在るのである。しかし自分が信じているように信じる者以外にはたれ一人救われないことを欲する者らは仁慈の生命を持ってはいないのであって、特にそれがそうではないことに激怒する者らは仁慈の生命は持ってはいないのである。このことは、基督教徒よりも異邦人が多く救われているという事実のみからでも認めることが出来よう、なぜなら自分の隣人のことを親切に考えて、これに善かれと願った異邦人は、他生では基督教徒と呼ばれる者よりも良く信仰の諸真理を受け入れて、主を基督教徒よりも良く承認するからである。なぜなら天使たちには地上から他生に入って来る者に教えることに優って歓ばしい、また祝福されたものは一つとして無いからである。

 

 

 

11.善に対する情愛の中にいる者のみが自由

 

 

天界の秘義9096〔2〕

 

この凡てから何度も述べた内なる拘束物と外なる拘束物により意味していることを知ることが出来よう。しかし拘束するものと呼ばれている拘束するものはそれに対立したものと関連を持った時にのみ拘束するものであり、その時以外の時は拘束はしないのである。なぜなら善の愛に属した情愛から何ごとかを行う者は自由から行ってはいるが、しかし悪の愛に属した情愛から行う者はその者自身には自由から行動しているように見えはするが、自由から行動しているのではないからである、なぜなら彼は地獄から発している欲念から行動しているからである。

 

善に対する情愛の中にいる者のみが自由である、なぜなら彼は主から導かれているからである。このことを主はまたヨハネ伝に教えられている―

 

もしあなたらがわたしの言葉の中に止まっているなら、あなたらはまことにわたしの弟子である。そしてあなたらは真理を知り、真理があなたらを自由にするでしょう。罪を犯す者はことごとく罪の僕である。もし子があなたらを自由にするなら、あなたらは実に自由になるでしょう(ヨハネ8・31、32、34、36)。

 

主から導かれることは自由であり、地獄から発している欲念により導かれることは奴隷の状態であることについては、892、905、2870−2893、6205、6477、8209番を参照されたい、なぜなら主は善に対する情愛と悪に対する嫌悪とを植え付けるからである。このことからその人間は善を為すことには自由を持ってはいるが、悪を為すことには全くの奴隷状態におかれているのである。基督教の自由はそれよりも更に遠く拡がっていると信じている者は非常に誤っているのである。

 

 

 

12.主に対する愛のものである善の情愛[善に対する情愛]は人間には全く表現することの出来ないもの

 

天界の秘義3839[2]

 

 天使たちの前に聖言から輝き出てくる情愛には主として二種類のものがあり、即ち、真理の情愛[真理に対する情愛]と善の情愛[善に対する情愛]があり―霊的な天使たちの前には真理の情愛があり、天的な天使たちの前には善の情愛があるのである。主に対する愛のものである善の情愛[善に対する情愛]は人間には全く表現することの出来ないものであり、それで把握することの出来ないものであるが、しかし相互愛のものである真理の情愛[真理に対する情愛]はその極めて全般的なものの方面ではある程度把握されることが出来ようが、それでも純粋な相互愛の中にいる者たちによってのみ把握されるのであり、しかもそれは何らかの内なる認識から把握されるのではなくて、明確でないようなものから把握されるのである。

 

 

 

 

13.善の情愛、即ち、主に対する愛と隣人に対する愛

 

 

天界の秘義3816

 

「あなたは私にただで仕えてよかろうか。何をあなたの報酬にしましょうか、私に言って下さい」。これは連結の手段が存在しなくてはならないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『ただで仕えること』の意義は何らの責務を持たないことであり、『報酬』の意義は連結の手段である。『報酬』は時折聖言に記されていて、それは内意では連結の手段以外のものを意味してはいない。その理由は天使たちは報酬についてはそれは自分たちの中にある何かのためのものであるとして、いかようなことも全く聞こうとはしないということであり、否、彼らは何かの善または良い活動に対する報酬の考えには全く嫌忌を覚えているということである、なぜなら彼らは以下のことを知っているからである、即ち、たれのもとでもその者自身のものであるものは悪以外の何ものでもなく、それで彼らが彼ら自身のものから為すものは何であれ報酬に反しているものを伴っており、善はことごとく主から発して、流れ入っており、それはひとえに慈悲から起っており、かくて彼らが報酬に価していると考えるものは彼ら自身からは発していないということである。事実善それ自身は、そのもののことで報酬が考えられると善ではなくなるのである、なぜならその時利己的な目的が直ぐ様それ自身を接合させるのであり、そのことが現実になるに比例して、それは善は主から発し、慈悲から発していることを否定させる思いを生じさせ、従って流入を遠ざけてしまい、勿論それ自身から善とその情愛の中に存在している天界と祝福とを遠ざけてしまうからである。善の情愛、即ち、主に対する愛と隣人に対する愛はその中に祝福と幸福を持っており、それらは情愛と愛そのものの中に存在しているのである。情愛とその祝福から何かを行うと同時に報酬のためにそれを行うことは相互に全く対立している事柄である。ここから『報酬』が聖言に言われていると、天使たちは報酬を全く認めないで、主から無料にまた慈悲から与えられるものを認めるのである。

 

 

 

 

14.真理の情愛[真理に対する情愛]はひとえに善から発生している

 

 

天界の秘義4368[2]

 

なぜなら天界的なものである二つの情愛が存在しており、すなわち善の情愛と真理の情愛とが存在しているからである(そのことについてはすでに時折取り扱ったのである)。真理の情愛[真理に対する情愛]はひとえに善から発生している。情愛そのものはこの源泉から来ている、なぜなら真理は真理自身からは生命を得ないで、善から生命を受けており、それで人間が真理により感動する時は、そのことは真理から来ているのではなくて、その真理に流れ入って、その情愛そのものを生み出しているところの善から発しているのである。このことがここに『情愛が導入されるための情愛の相互的なもの』により意味されているものである。教会の内には主の聖言に感動して、非常に苦労しながらそれを読んでいる多くの者のいることは知られているが、それでも真理を教えられることを目的としている者は僅かしかいないのである、なぜなら大半の者はその者自身の教理に止まっていて、その教理を聖言から確認することが彼らの唯一の目的となっているからである。これらの者は真理の情愛[真理に対する情愛]の中にいるように見えはするが、しかしその中にはいないのである、なぜなら真理について教えられることを、即ち、真理とは何であるかを知ることを愛し、その目的から聖書を研究することを愛する者のみが真理の情愛の中にいるからである。善の中にいる人間、即ち、隣人に対する仁慈の中にいる者を除いては、まして主に対する愛の中にいる者を除いてはたれ一人この情愛の中にはいないのである。これらの者のもとには善そのものが真理へ流れ入っていて、その情愛を生み出しているのである、なぜなら主はこの善の中に現存されているからである。このことは以下の例により説明することが出来よう。