只一つの情愛の中にもその人間全体が存在している

 

 

 

天界の秘義803

 

人間はこの凡てが信念の中に在ることを知らないで、誤ったものの原理は、または信念は単に一つの事柄にすぎない、または一つの全般的なものにすぎないと信じているが、しかしかれは非常に誤っている、なぜなら事実は非常に異なっているからである。人間の只一つの情愛もことごとくその者の理解の事柄から、また同時にその意志の事柄からもその存在と性質を得ており、かくてその人間全体が、理解の凡ゆる物のみでなく、意志の凡ゆる物が、その情愛の各々の中に存在しており、その情愛の最も単一的なものの中にさえ、またはその最も小さいものの中にさえ存在しているのである。

 

 

天界の秘義803[2]

 

このことは多くの経験からわたしに明らかにされたのである。例えば(只一つの例をあげてみると)霊の性質は他生ではその思考の只一つの観念[考え]によっても知られることができるのである。実に天使たちはたれかを眺めるのみで、その性格のいかようなものであるかを直ぐに知る力を主から得ており、いかような誤りも亦ないのである。それ故人間の只一つの観念でさえも、只一つの情愛でさえもことごとく、その情愛の最小のものでさえもことごとく彼を映している像であり、また彼に似た形である、すなわち、その中には彼の凡ての理解と彼の凡ての意志から発した何かが近くまた遠く現存していることが明白である。それでそのように洪水以前の人々の恐るべき信念が記されているのである、すなわち、彼らの中には誤ったものを求めるいくたの情愛と悪いものを求める情愛が在り、または欲念が在り、また快楽が在り、最後に形体的な地的なものが在ったのである。こうした凡てのものがこのような信念の中に存在しており、単に全般的にその信念の中に在るのみでなく、その信念の中でも最も単一的なものの中にも、またはその最小のものの中にさえも在って、そのものを形体的な地的な物が支配しているのである。もし人が誤ったものの一つの原理と一つの信念の中にさえいかに多くのものが存在しているかを仮にも知ったとするなら、かれは戦慄するであろう。それは一種の地獄の映像である。しかしそれが無垢または無知から発しているなら、その中に在る諸々の誤謬も容易に払いのけられるのである。

 

 

天界の秘義2209[2]

 

合理的なものは、以下のことを、もしその合理的なものに諮るなら、信じることができようか、すなわち聖言には内意があり、この内意はすでに示したように文字の意義からは極めて遠ざかっており、それで聖言は天界を地に連結するものであり、すなわち、諸天界の主の王国を地上の主の王国に連結するものである(ということを信じることができようか)。霊魂は死後言葉を話さなくても極めて明確に互に他と話しており、しかもそれが人間が一時間も語って表現するものよりもさらに多くのものを一分以内で表現するほどにも豊かなものであり、また天使たちも同じように話し合ってはいるが、しかしそれにはさらに完全な言葉が、霊たちによっては認められない言葉が用いられていることを合理的なものは信じることができようか、また霊魂はことごとく他生に入ってくると、そのように話すことを何ら教えられはしないものの、そのように話す方法を知っているということを信じることができようか。人間の一つの情愛の中にさえも、いなその一つの溜息の中にさえも、決して表現することもできないような、それでも天使たちによっては認識されている無数のものが存在しており、人間の情愛はことごとく、否、その思考の観念はことごとくその人間の映像となっていて、それはその中にその人間の生涯のあらゆるものが驚嘆すべき方法で含まれているものとなっていることを合理的なものは信じることができようか。巨億の数にのぼるこうしたものは言わずもがなとしよう。