喜び・楽しさ

 

歓喜感謝讃美

不平不満不機嫌

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.サンダー・シング

4.シルワン

5.マーリン・キャロザース

6.ヨゼファ・メネンデス

 

 

 

1.聖書

 

 

詩篇2・11

 

畏れ敬って、主に仕え

おののきつつ、喜び躍れ。

 

 

 

詩篇27・6

 

群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。

わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ

主に向かって賛美の歌をうたう。

 

 

 

詩篇32・11

 

神に従う人よ、主によって喜び躍れ。

すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。

 

 

詩篇33・1−3

 

主に従う人よ、主によって喜び歌え。

主を賛美することは正しい人にふさわしい。
琴を奏でて主に感謝をささげ

十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。
新しい歌を主に向かってうたい

美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。

 

 

 

ルカ15・4−7

 

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 

 

 

ルカ15・8−10

 

「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

 

 

 

ヨハネ14・27−28

 

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。

 

 

 

ヨハネ15・11


これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

 

 

 

ヨハネ16・1−33

 

これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。

しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」

 

「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 

 

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

 

「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。

父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 

 

 

ヨハネ17・1−7

 

イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。

 

 

 

ヨハネ17・13

 

しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

 

 

 

Tテサロニケ5・16−18

 

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義2348

 

 エルサレムの街路にはなお老人と老婆とが住み、都の街路はその街路にたわむれる少年と少女で満ちるであろう(ゼカリア8・4,5)。

 

 ここには『エルサレム』は主の王国と教会とを意味し(402、2117番)、『街路』はその中の真理を意味し(2336番)、かくて『老人』は確認された真理を、『老婆[年とった女]』は確認された善を、『街路に遊ぶ少年』は未だ新しい真理を、『少女』は未だ新しい善とその情愛とまたそこから派生している喜びを意味している。

 

 

 

 

天界の秘義3118

 

『喜び』という言葉が、また『楽しさ』という言葉が用いられているのは、聖言では『喜び』は真理に、『楽しさ』は善について述べられているという理由によっている。さらに喜びは容貌[顔]のものであり、楽しさは心のものであり、またはそれと同一のことではあるが、喜びは霊的な情愛のものであり、または真理のものであるが、しかし楽しさは天的な情愛のものであり、または善のものであり、かくて身をまげることが平伏することよりも度においては劣っているように、喜びは度においては楽しさよりも劣っているのであり、そのことはまた霊的な教会の人は単に主の前に身を曲げて恩寵を求めるに反し、天的な教会の人は主の前に平伏して慈悲を懇願するという事実からもまた明白である(598、981、2423番を参照)。

 

 

 

天界の秘義4137

 

『喜び』と『歌』は真理について述べられるからである。

 

 

 

天界の秘義4137[2]

 

聖言には時折『喜び』と『楽しさ』が言われ、時にはそれらがともに言われているが、しかし『喜び』はとり扱われている主題が真理と真理の情愛であるとき言われ、楽しさはそれが善と善の情愛であるとき言われているのである、

 

 

 

天界と地獄500

 

意志と思考と言われる時は、また情愛と愛とが意味され、同じく情愛と愛から生まれる楽しさと快さとの凡てが意味されている、なぜならそれらはその主体としての意志に関係づけられているから―それは人間はその意志する〔欲する〕ものを愛し、楽しい、快いものとして感じ、また他方では愛し、快いものとして感じるものを、意志するためである。

 

 

 

神の愛と知恵278

 

例えば、心の第一の度である意志の愛は、心の第二の度である理解の知恵の中には、問題を考える際の或る楽しさによらない限り、

 

 

 

聖書87

 

『楽しさ』と『喜び』が記されている理由は『楽しさ』は善から生まれ、『喜び』は真理から生まれ、または『楽しさ』は愛から生まれ、『喜び』は知恵から生まれるということである。なぜなら楽しさは心から、喜びは霊魂から生まれ、または楽しさは意志から生まれ、喜びは理解から生まれるからである。

 

 

 

 

3.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P312

 

主の御恵みによって、わたしたちは豊かな生命を受けるのです。歓びを受けるのです。歓びこそ、わたしたちが豊かな生命を受けている証です。クリスチャンの多くは、生命はあっても、病にかかっています。病人は健康ではないため、生命があっても歓びがありません。「豊かな生命」の中にしか、健康はないのです。死ねば天国に行けると思っている不幸なクリスチャンが多くいます。しかし、天国はこの地上において始まります。霊魂が神にふれ、主の臨在を実感するときに、わたしたちは天国とは霊魂の完全な平和のことであり、そこにこそ地上天国があることを理解するのです。

 イエス・キリストの中にあるこのような平和を得た人は、罪を犯したいとは思わなくなります。新生を得ていない人々は、このような平和を得ることはできません。彼らは、神の聖心に逆らうありとあらゆる罪を犯して、平和を見つけようとします。

 

 

 

4.シルワン

 

 

シルワンの手記/P37

 

 主は私たちを愛して下さる。しかし、私たちが謙遜になり、自分たちの無力さを認めるように、主は苦しみを与えてくださる。貧困や病気のため苦しむ人が、謙虚にその苦しみを耐えないなら、いたずらに苦しむだけである。けれども謙虚な人は神が彼の宝と喜びであるために、常に喜びに満たされる。

 

 

 

5.マーリン・キャロザース

 

 

マーリン・キャロザース/この世に天国を/P78

 

 神が今のままのあなたを理由があって造られたことを信じますか。そしてあなたが今いるところに、神に望まれて置かれたことも。このことについてちょっと考えてみてください。もしあなたが、私や私の知っている皆と同様なら、あなたは様々な環境に取り囲まれており、それらに対して二つのうちのどちらかの仕方で反応しているはずです。それらをうれしく思っていないなら、あなたは落ち込んでいきます。うれしく思っているなら、あなたの気分は上向きのはずです。さて、あなたは今、上昇中ですか、それとも下降中ですか。

 

 

 

マーリン・キャロザース/この世に天国を/P101

 

祖母は、私の知る最も幸せな人々の一人でした。祖母が死に直面したとき、両足は壊疽(えそ)のために真っ黒になっており、部屋には悪臭が漂うほどでした。人々は哀れに思ってやって来ましたが、祖母の口から出る喜びの言葉に驚嘆して帰っていきました。祖母が考えていたことは、間もなく、愛するイエスにお会いできるということだけだったのです。人間的な見方をすれば、祖母の状況は悲惨なものでしたが、彼女の心は何年間もキリストに向けられていたので、喜びは彼女の人生そのものとなっていたのです。

 

 

 

マーリン・キャロザース/この世に天国を/P111

 

 あなたの喜びは、いやされることで生じるわけではありません。それがすばらしいことであるとしても、祈りがかなえられることで生じるわけでもありません。それがすばらしいことであるとしても。喜びは、神を愛することから生じるのです。

 

 

 

マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P276

 

 神に完全に赦されたと信じた時、心の内に生じたあの喜びを、私は決して忘れません。

 

 

 

 

6.ヨゼファ・メネンデス

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P189

 

“わたしはおまえが小さく謙遜で、常に微笑んでいることを望む。そうだ、わたしはおまえが喜びのうちに生きることを欲する。己を処するに厳しくあって。

 たびたび自分にとってつらいことを選びながらも、快活で喜びにみちていなければならない。わたしの聖心に一番光栄を帰すのは、平和と喜びのうちに、わたしに仕えることなのだ・・・。