歓喜

 

 

 

 

 

天界の秘義3938[4]

 

 しかしここに意味されているものは永遠の生命の幸福に相応しているところの真理と善との情愛の歓喜[真理と善とに対する情愛の歓喜]である。情愛にはすべて歓喜が在るが、しかし情愛の如何に、歓喜が応じている。悪と誤謬との情愛[悪と誤謬に対する情愛]にもまた歓喜があり、人間が再生し、主から真理と善の幾多の情愛を受けはじめる以前では、これらの歓喜は唯一の歓喜であるように見え、それで人間は他に歓喜は何ら存在しないと信じ、従ってもしそれを奪われるなら、自分は全く死滅すると信じるほどにもなっているのである。しかし主から真理と善との情愛の歓喜を受けている者たちは、以前唯一の歓喜であると信じていた自分たちの前の生命の歓喜の性質を、それは比較的卑賤なものであり、実に汚れたものであることを徐々に見、また認めるのである。そして人間は真理と善との情愛の歓喜の中に進むにつれ、益々悪と誤謬との歓喜を卑賤なものとして認め、ついにはそれを嫌悪しはじめるのである。

 

 

 

 

神の摂理73

 

自由は凡て愛に属し、それ故愛と自由は一つのものであり、愛は人間の生命であるゆえ、自由もまたその生命から発することを先ず知らなくてはならない、なぜなら人間の経験する歓喜は凡て彼の愛から生まれ、それ以外の源泉から生まれる歓喜はなく、愛の歓喜から行動することが自由に行動することであるから。なぜなら歓喜は流れがその上に浮かんでいる物を流し去るように人間を拉し去るからである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・10・1

 

世間のあらゆる楽しみはむなしいか、そうでなければ汚らわしい。しかし霊魂の喜びばかりは楽しく正しい。というのは、それは善徳から生じ、神によって清い霊魂に注ぎこまれるからである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・12・4

 

ああ、これらの楽しみは、すべていかにはかなく、むなしく、放縦(ふしだら)で、恥ずべきものだろう!