愛
1.愛
2.愛は連結させる
3.愛は武器
4.人間の心を変えるのは愛
5.人を救うことは最高の愛
6.排他的な愛は利己心
7.神の本性は愛
8.愛は眠らない
9.最も偉大な贈り物
10.愛は形なくしては存在し得ない
11.溺愛、偏愛
12.愛の自然的なものは共に交わることと連結との歓喜
13.愛は愛されようと欲している
14.人間は全くその愛のあるがままのものであること
15.愛は相互的
16.愛は愛の対象が自分と等しくなることを求める
17.愛の本質はその愛する他の者にそれ自身の凡ての善を伝えること
18.愛は英知であり、光
19.愛される物がないならば、事実、愛は何であろう、愛されるものは用、用は知恵と愛との容器
20.霊的な愛の本質は自己のためでなくて他の者のためにその他の者に善を為すこと
21.たれ一人愛とは何であるかを殆ど知ってはいない
コリント1・13・1−13
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
1.愛
スウェーデンボルグ/啓示による黙示録解説1
感動することを特性としている愛と考えることを特性としている知恵
スウェーデンボルグ/真の基督教39
火には二つの特質、燃焼と光輝があり、燃焼は熱を生み、光輝は光を与える。同様に愛には二つの特質があり、一つは火の燃焼する特質に相応し、人間の意志を最も深く動かし、他は火の輝きに相応し、人間の理解を最も深く動かすのである。
真の基督教36
愛の本質はそれ自ら以外の他の者達を愛し、彼らと一つになることを欲し、彼らをそれ自らによって幸福にさせることである。
天界の秘義1013
[2]二人の者を恰も一人の者にすることが愛と仁慈との本質である。一人の者がその者自身のように他の者を愛する時、かれはその他の者をかれ自身の中に見、かれ自身をその他の者の中に見るのである。このことはたれにでももしその者が愛に注意さえするならば、または互に愛し合っている者たちに注意さえするなら知られることができよう、すなわち、その一人の者の意志は他の一人の者の意志となっていて、かれらは内的には、いわば結合されており、只身体のみが互に他から分離しているに過ぎないのである。
[3]主に対する愛が人間を主と一つのものにしている。すなわち、主に似た形のものとしている。仁慈も、または隣人に対する愛も同じく人を主と一つのものにするが、然し映像として一つのものにするのである。映像は似た物ではなく、似た物に従っており、またそれに応じている(est ad similitudinem)。愛から生まれてくるこの一つのものを主はヨハネ伝に言われている―
[4]かくて天界は天使と同数の主に似た形のものから成っていて、このことはひとえに相互愛から― 一人の者が他の者を自分自身にもまさって愛すること―から発しているのである(548、549番)。
霊界日記3530
<天界における相互愛は隣人を自己にまさって愛することであることについて>
このことは以下のことにおいて真の婚姻愛からかすか乍も認めることができよう、すなわち、夫は自分自身よりもその配偶者を愛しており、かれは彼女のためには死をさえ甘受し、彼女にその全財産を費やしもし、自分自身に取るよりもさらに多くを彼女に与えようとするのである。同じくまた己が子供たちに対する両親の愛からも認めることができよう、なぜなら、母はその幼児が食べる物がなくなるよりは自分自身を飢えさせようとすることはだれにでも知られているからである。同様に、獣と鳥も、その子供たちのことを自分自身のことよりも気にかけるのである。同様にまた人がそのためには死にもして、自分に可能な凡ゆる方法で友に仕えようとする折の、真の友情からも認めることができよう、同様にそのことはありふれた礼儀からも認めることができるのであり、それもその起原をこの源泉から得ており、その際相互愛は、他の者にはさらに善い分け前を、皿を与え、自分には劣ったものを取ることにより外的に示されているのである。さらに、そのことは預かったものや借りたものからも認めることができるのであり、すなわち、正直な者たちはその隣人に属しているものを、自分自身のものよりもさらに注意して守り、保管するのである。1748年[60歳]10月10日。
そのことは愛の性質からも明らかであり、それはそれ自身を他の者に与えようとし、他の者に仕えて、それ自身には仕えないことがその喜びとなっている、といったものであり、こうした者が多くいるとき、そこに相互に相互愛が存在するのである、なぜなら同じことが相互に行われるからである。しかし自分自身を他にもまさって愛する者、または金銭をむさぼる者らは、ましてどん欲な者らはその相互愛を受けることはできはしないのである。このようにして主の愛は映し出されているのである。これらの事柄は霊たちの目の辺りで言われたのである。
天界の秘義2023
「あなたの後のあなたの裔」。これは、主を信じている者たちのもとにあるところの、そこから派生した神的なものを意味していることは、『裔』の意義が仁慈の信仰であることから明白であり(1025、1447、1610番参照)、また『あなたの後の』の意義が(直ぐ前の2019番に説明した)主に従うことであることから明白である。主を信じている者たちのもとにある神的なものは愛と仁慈である。愛により主に対する愛が意味され、仁慈により、隣人に対する愛が意味されている。主に対する愛は隣人に対する愛とは決して分離されることはできない、なぜなら主の愛は全人類に対する愛であり、主はその中の一人も滅びないように、全人類を救って、御自身に全的に接合させようと望まれているからである。それゆえ主に対する愛を持っている者は主の愛を持っており、そのことによってその隣人を愛さないわけにはいかないのである。
[2]しかし隣人への愛にある者はすべてが隣人を愛しているという理由から主に対する愛の中にいるわけでない、例えば気質の善良な異邦人は(第一部1032、1059番に示したように)主については無知ではあるが、それでも主はその者のもとに仁慈の中に現存されているのであり、また教会内の他の者にも(そのことが言われるのである)。なぜなら主に対する愛はそれよりは度が高いからである。主に対する愛を持っている者たちは天的な人であるが、しかし隣人に対する愛をまたは仁慈をもっている者たちは霊的な人である。洪水以前にいて、天的なものであった最古代教会は主に対する愛の中にいたが、しかし洪水後にいて、霊的なものであった古代教会は隣人に対する愛の中にまたは仁慈の中にいたのである。愛と仁慈とのこうした区別についてはそれらが今後記されるとき述べることにしよう。
天界の秘義3803
血縁関係を作り連結させるものは善である。なぜなら善は愛のものであって、愛は霊的に連結させるものであるからである。
天界の秘義6872〔2〕
愛から神的なものを認識し、承認することの何であるかを話さなくてはならない。人間各々の性質はその愛から知られるのである、なぜなら愛は各々の者の生命の存在であり、そこから生命そのものが発出しているからであり、それで人間の愛の如何にその人間が応じているのである。もし自己と世を求める愛があり、従って復讐、憎悪、残酷、姦淫といったものを求める愛があるなら、その人間は、その外の形ではいかように見えても、その霊の方面では、または死後生きる内的な人の方面では悪魔である。しかし人間のもとに神を愛する愛と隣人を愛する愛があり、従って善と真理とを求める愛があり、また公正で尊いものを愛する愛があるなら、その時はその人間は、その外なる形ではいかように見えても、死後生きるその霊の方面では天使である。しかし主のもとにのみ存在した神的な愛〔神の愛〕がそのもとに存在した方は神であられ、かくて主が、その生命の存在であるその父の愛をその人間的なものの中に受け入れられた時、その人間的なものは神的なものとされたのである。この凡てから愛から神的なものを認識し、承認することにより意味されていることを認めることが出来よう。
神の愛と知恵47
自己を愛しないで、他を愛し、愛により他と結合することが愛の本質的なものである。さらに他の者により愛されることが愛の本質的なものである。なぜならそのようにして結合が生まれるから。凡ての愛の本質は結合に在る。事実、それがその生命であって、それは享楽、快楽、歓喜、甘美、祝福、幸福、満足と呼ばれる。愛は自分自身のものが他の者のものになるということに在り、他の者の喜びを自分の喜びとして感じること、それが愛することである。しかし他の者の中に自分の喜びを感じ、自分の中に他の者の喜びを感じないことは愛することではない、なぜならこれは自己を愛することであるから。が、これに反し前者は隣人を愛することである。この二種類の愛は互に正反対のものである。その何れもが連結することは事実であり、そして他の者の中に自分自身のものを、すなわち自分自身を愛することは分離することのようには見えないが、しかしそれは事実上分離することであるため、人はこのように他の者を愛するに応じて、後にはその者を憎むのである。なぜならこのような連結はそれ自身の活動により次第に緩められ、引いてはそれに応じて、愛は憎悪に変化するからである。
デボラ/生ける神より明かされた英知1巻下P34
「愛」を愛するということは、自分の兄弟への日常の献身を意味しており、それは愛徳の行いのうちに具体化される。
デボラ/生ける神より明かされた英知1巻下P37
あなたの限りない愛をまだ知らない人と、無神論者の上にも、どうかその祝福がくだりますように。
デボラ/生ける神より明かされた英知1巻下P47
イエズス:「常に私の神聖な意志を優先させなさい。苦しみの王である私が、あなたのそれを慰めるであろう。あなたは私の受難の友である、愛する幼子よ。あなたの心の中に私の聖なる平和を保ちなさい。天が、苦しみの中にいるあなたを導く。こうして憎しみと無関心の鎖を引きちぎることができるのだ。私の苦悩のうちに入りなさい。」
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P133
「(前略)先生、どうしても必要な徳は、どんな徳であるかを教えてくださいませんか」
「それは愛の徳と言い、もし愛することを知っているなら、聖人となるはずです。それはいと高き御者に対する愛、そして隣人に対する愛であり、そこからすべての徳と善業が生まれます」
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P336
私が来るまで、人間は間に合わせの捧げものを捧げて神をなだめていました。愛が知られていなかったからです。これからは、その愛が知られます。そして私は愛を知るための聖寵を与えましょう。愛を知る人間は冬眠から抜け出して、思い出し、理解し、生きる愛と償いの生贄となります。今まで、罰であった苦しみは、完全な愛に変わり、愛をもって苦しみに耐える者は幸せでしょう。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P344
ああ、民よ、憎悪の壁によって分かれていることが、どんな役に立ちましたか。そのためにもっと偉大な者になれましたか。もっと豊かに、もっと幸せになれましたか?憎みや妬みは役に立ちません。孤立した人は強くなく、愛を知らない人は、愛されることもありません。詩篇が言っているように、豊かで幸せになるために、早朝から起き出して働いても役に立ちません。苦しい生活の慰めとして適当に休みなさい。なぜなら眠りは神の賜物であり、光りをはじめ人間が恵まれている他のすべてのことも神の恵みです。眠りのときも目覚めているときも、愛に伴われているなら、その人の仕事は繁栄し、家族も財産も殖え、何よりも心が豊かになります。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P347
その上、愛することです。善意を持つことです。そうすれば、木の皮は自ら割れるでしょう。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・5
[7]愛は敏捷、誠実、敬虔、仁慈、快活、剛健、忍耐、忠実、慎重、堅忍、勇猛で、決して自分のためを計らない。自分のためを計れば、たちまち愛を失うからである。
愛は用心深く、謙遜、率直で、柔弱でなく、軽率でなく、むなしい物事を思わず、謹直、貞潔、強固、沈着で、すべてを慎む。
愛は従順で長上者(めうえ)に従い、自分を卑しめ軽んじ、神に対しては敬虔で感謝の心を抱き、神に楽しさが感じられない時でも、つねにこれを頼みとして、希望を失わない。愛に生きる者は苦しみなしには居られないからである。
[8]百難を忍び、お愛しする者のみ意(こころ)に従おうと覚悟しない人は、愛する者とよばれる値打がない。
愛する者は、相手のためいかなる患難辛苦をも甘んじて受け、どんな禍に会ってもこれを捨ててはならないのである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・6・2
愛するに思慮深い者は、愛する人の賜物よりも、むしろ与える人の愛に重きをおく。
かれは賜物の値打ちよりも、相手の愛情を重んじ、あらゆる賜物にまさって、自分の愛している相手を大切に思うのである。
気高い愛を有する者は、賜物に心を留めず、いっさいの賜物を超えて、わたしに安んずる。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P166
♡ ああ 愛する者たちよ、この暗やみのただ中で これほど無残にも身に負った、あなた方の苦痛、傷と弱さを癒しに来た、そうではない、愛する者たちよ。 その苦痛は癒せないほどでない、その負傷は癒し得る、私は―あなたと―ともに―いて こんなそばにいる、そこで愛をこめて来なさい、愛をもって求めるなら 得るであろう、愛を込めて呼びかけるなら 聞いている、あなたを懐に抱き上げ あやして、慰めよう、平和と愛を叫ぶ我が声を聞くように。 愛があなた方を愛している、愛はいのちの木の根源、そこで心より発するものは愛であるように。 悪のあるところに愛が姿を顕すなら、すべての邪悪さは愛に消し去られ、太陽の最初の温かな光明で霧が消え去るように
消えてなくなる ♡
2.愛は連結させる
善/
天界の秘義343
『羊を牧う者』は仁慈の善を行う者であることは何人にも明白であるに相違ない。なぜならこれは旧新約聖書の聖言の親しい象徴であるからである。導いて、教える者は『羊飼い』と呼ばれ、導かれ、教えられる者は『羊』と呼ばれている。仁慈の善へ導かないし、またそのことを教えない者は真の羊飼いではないし、善に導かれないし、また善いことを学びもしない者は羊の一匹ではない。(中略)
イザヤ書には―
アラビヤの羊の群はことごとくあなたのもとに集められ、ネバイオテの雄羊はあなたに仕えるでしょう(60・7)。
羊の群を仁慈の善へ導く者は『羊の群を集める者』であるが、これを仁慈の善に導かない者は『羊の群を追い散らす』のである。なぜなら凡て共に集まり、一つになることは仁慈から生まれ、追い散らして一つにならないことは仁慈の欠如から発するからである。
天界の秘義389
『凡てかれを見つける者はかれを殺すであろう』は悪と誤謬のことごとくがかれを破滅させるであろうということを意味することは既に述べたことから生まれている。なぜなら事実は以下のようであるから、すなわち、人間は自分自身から仁慈を剥ぎとる時自分自身を主から引き離すのである、それは人間を主に連結するものはひとえに仁慈であり、すなわち、隣人に対する愛、慈悲であるからである。仁慈がない時、分離が起り、分離が起る時、人間は自分自身にまたは自分自身のものに委ねられ、かくて凡てその考えるものは誤りとなり、凡てその意志する所は悪となる。これが人間を殺し、または人間に生命を些かも残さなくなるものである。
天界の秘義1577[4]
愛と仁慈のみが、または善のみが結合するものであり、主から発しなくてはいかような愛も仁慈も決して存在しないのであり、即ちいかような善も決して存在しないのである。
天界の秘義3803
血縁関係を作り連結させるものは善である。なぜなら善は愛のものであって、愛は霊的に連結させるものであるからである。
天界の秘義5807[2]
愛が連結であることについては、それは二人の者の心の、または二人の者の思考と意志との連結であるため、霊的な連結であることを知らなくてはならない。このことから、愛は、それ自身において観察されるなら、純粋に霊的なものであり、その愛の自然的なものは共に交わることと連結との歓喜であることが明白である。愛はその本質においては人間の心を構成しているいくたの形または原質における状態の変化と変動から生まれてくる和合(ハーモニー)である。この和合は、もしそれが天界的な形から発しているなら、天界的な愛である。それで愛は主から発している神的愛[神の愛]そのもの以外のいかような起原ももつことは出来ないし、かくて愛は、幾多の形に流れ入って、その幾多の形をその形の状態の変化と変動とが天界の和合をもって存在するように処理する神的なものであることが明白である。
天界の秘義9841
愛は霊的に連結させるものであって、その愛が存在するところに主をも存在させるためである、なぜなら愛は愛される者を愛自身の中に現存させるからである。
天界の秘義9864
それで凡ゆる真理が目指している目標でもある一つの善が存在すると、その時はこの一つの善は凡てのものを連結するからである。
天界と地獄14
天界を作る天界の神的なものは愛であるのは、愛は霊的な連結させるものであるためである。それは主に天使たちを連結させ、天使たちを相互に連結させ、また天使たちが凡て主の眼前には一人の人間のようなものとなるように天使たちを結合している。
新エルサレムの教義2
なぜなら霊界では愛は連結させるものであるから。
新しいエルサレムの教義35
愛は霊界では連結させるものである(1594、2057、3939、4018、5807、6195、6196、7081、7086、7501、10130番)。
新エルサレムの教義62
愛は霊的に連結させるものである(1594、2057,3939、4018、5807、6195、6196、7081−7086、7501、10130)。
真の基督教36
愛の本質はそれ自ら以外の他の者達を愛し、彼らと一つになることを欲し、彼らをそれ自らによって幸福にさせることである。
真の基督教37
愛は凡ての物を形成する本質であるのみでなく、それらを結合し、連結し、かくてそれらを絶えず相関係させている。
結婚愛37
愛はそれ自身において観察されるならば、連結を求める願いとそこから発してくる努力以外の何ものでもなく、結婚愛は連結して一つのものになろうと求める願いとそこから発してくる努力以外の何ものでもない。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P261
主がヨハネに:
あなたの愛を与えるのです。母に対して、もう一人の子供になると考えなさい。彼女はあなたを愛し、あなたは彼女を愛しています。
二人を一つに結ぶ唯一の愛があります。それは私への愛です。
3.愛は武器
聖母マリアの詩下P392
ヨハネ:
「先生が人間に与えるようにと私にくださった神のみことばをまくこと、愛を教えること、人間がその愛と力とを信じるように。愛である神が、人間のために何を行ったかを知らせよう。その生贄と秘蹟と永久に続く儀式とを。これにより、私たちは御聖体のイエズス・キリストと全く一致して、命令されたとおりにその儀式と生贄とを繰り返す。すべて、完全な愛の賜物である!愛を愛させること、私たちがかつて信じ、今も信じているとおりに他の人たちも信じるように。主のために収穫と漁が豊かであるように、愛の種を蒔くこと。
これは、マリアが最後の時に私を愛する人と呼んで言われたことである。愛する人である私は、この世で先生とその母とを愛することはもうないので、万民の中に愛をまきに行く。愛は私の武器と教えである。私は愛によって悪魔とありとあらゆる邪教に打ち勝ち、多くの人々をキリストに導くことが出来るに違いない。こうして、この世で完全な愛であったイエズスとマリアとを継続する。」
4.人間の心を変えるのは愛
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P64
おまえたちの伝道旅行で悪人に出会ったなら、ファリサイ人のような態度は取らないように。ファリサイ人たちはすぐに皆を軽蔑するが、まず心が腐っている自己を軽蔑するようなことはしない。悪人でも大きな愛をもって迎えなさい。“限りない愛をもって”と言いたいほどです。(中略)
“人間の心を変えるのは、おまえたちがどのように話しているかではなく、どのように愛しているかによって決まります”罪人たちに会う時は、この人たちを愛しなさい。迷った弟子たちのことで苦しむこともあるでしょう。愛をもってこの人たちを救うよう努め、迷える羊のたとえを思い出しなさい(おお、これは何世紀にもわたって罪人に聞かせる実に優しい呼びかけとなるはずです)。
(中略)
どのように愛すべきか、私が模範となります。おまえたち、また、おまえたちの後に続くすべての人は、私のとおりにすべきです。新しい時代がやってきます。愛の時代が。私は、この灯を人間の心にともすために来ました。
5.人を救うことは最高の愛
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P89
どうして死んでいる人々をよみがえらせようとしないのですか。そうすることに真の愛があります。最高の愛です。土に帰った亡がらを悲しむのは愚かなことです。むしろ、最も愛している人の死んだ霊魂を悲しむべきです。この人々をよみがえらせるために全力をつくすべきです。愛する人にとりわけ大きな力をもつあなた方、ご婦人たちによく聞いてもらいたいのです。
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P179
愛を知る者は、主に光栄を与えるために喜んで他の人を教え導く人です。
6.排他的な愛は利己心
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P239
排他的な愛は利己心ではないかとよく注意しなさい。
7.神の本性は愛
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P40
あの時“いとも高き御者”は稲妻の中に現れた。それは御父で創造主である神の恐れおおい後光だった。皆は神の真の顔を知りません。もし、その御心を知れば、神の本性は“あわれみと愛”であると分かるに違いありません。
8.愛は眠らない
霊界日記3166
愛は決して眠ることができない
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・5・5
愛は用心し、眠っている間でさえ眠らない。
9.最も偉大な贈り物
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P95
愛は、キリストご自身がご自分の死で示してくださったように、この世で最も偉大な贈り物なのです。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P171
‘89・5・12
イエス?
♡ 私です、私を感じ 観想しなさい。 私は愛 そして聖なる者。 私を愛し 聖となりなさい、教える、私は知恵、来なさい 御母もあなたを愛しておられ、メッセージを今書いて下さる。
(‘89・5・19のマルティニの集いのためのメッセージ)
♡ 我が子よ、私 あなたの聖なる母が、祝福を与えます。 これが私のメッセージです: あなた方皆に平和、私は皆を愛し 祝福します。 耳を澄まして 今日私たちの与えている呼びかけに注意を向けて下さい、いかに時が迫っているかを悟って下さい。 イエスと私は昼夜となく改心を呼びかけています。 改心を呼びかける私たちの声は今や世界中に及び 何倍にも増え続けるでしょう。 時が迫っています 我が子たちよ。 この呼びかけの緊急性を あなた方の非常に多くが理解していないようなので 今日私の心は痛むのです。 黙想して自らを調べるようにお願いします、改心し 神の道を歩んでいるかどうか 自分を分析してみて下さい。 まことに愛する子たちよ、神を信じ 祈るだけではありません、改心するとは神と和睦し 魂をこめて神を愛することです、イエスが注いで下さる愛を思って下さい。 キリストのうちに生き、自らを清め イエスが癒して下さるよう 完全に心を開きなさい。 改心するとは神とともにいたいと願い、心から神に恋い焦がれることです。 最大の霊的賜物は愛であることを 多くの人は忘れています ♡ イエスの掟を再び思い出させましょう: 私が愛するように 互いに愛し合いなさい。 私を喜ばせて私たちのメッセージを生きて下さい、私どもの小さな代弁者となり 周り中に私たちの種子を蒔いて下さい、耳ある者は聞くように。 私どものメッセージの緊急性に気づいて下さい ♡ 皆が一緒に今夜ここに集まっているのを見て 喜んでいます。 お持ちの聖具をすべて祝福します。 今夜は徹底して霊魂を糾明し、特別な黙想の夕べとしましょう。 イエスと私は扶けようとして いつもあなたの前にいます、ですから心を込めて話しかけて下さい そうしたら聞きましょう ♡ 皆を父と子と聖霊の御名によって祝福します、アーメン。
10.愛は形なくしては存在し得ない
真の基督教37
愛はその形の中に、またその形によって働く故、形なくしては存在し得ないことを悟らなかった
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/1卷P463/121・10
わたしたちは皆兄弟です。また、愛は言葉ではなく、行為で証すものです。
ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P487
行きなさい、おまえたちからは償いと愛とを期待している。愛は行いによって表われる。それだからおまえのすべての行為は、おまえの愛を示すものとしなさい。大きなことにも小さいことにも、愛の使者となるのだ。愛のためにすべてをなし、愛によって暮しなさい。
11.溺愛、偏愛
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P16
‘87・10・22
ああ 娘よ! 我が魂に祝福され、我が心に祝福された者よ、私の中からも 苦しみが吹き出している ♡ しかしヴァッスーラ 人類の中にとどまり その中に溶け込むようにとあなたを創造した ♡ 言い尽くせないほど愛している 溺愛が過ぎて愚かさに至るほどに ♡♡ ヴァッスーラ、言いようもなくみじめな者よ、自らを生けにえとし 愛する者よ 神を忘れた人びとの間に身をおいて、我が網となりなさい ♡ 捕えた物で 聖なる御父を喜ばせ、霊魂たちを我がもとに引き寄せて、このたびは喜びで私の心を満たすように ♡♡♡ 涙はとっておくがよい 我が母に対して言われている不名誉な言葉を あなたの耳で聞くまで、その時は涙が枯れてしまうほどであろうから!
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P61
‘88・10・25
わが主よ?
私です ♡ 娘よ! 歓びなさい!あなたの理解をはるかに越える愛をもって 永遠の昔から 愛してきた! 偏愛をもって。 あなたを創造したのは あなたの愛で我が霊を悦ばせ 我が心を満たすため、あなたの涙によって我が怒りをなだめ 傷を和らげるため。 あなたを創造したのは 疲れた時の 憩い 忘れられた時の 話し相手として。 夢中であなたを愛している! 愛する者よ、 我が聖心の望みを知ってもらい、我が持てるすべてを分かち合うために あなたを選んだ。 我が光の子となりなさい。 私はあなたを最も愛する者 最も祝福する者。 私があなたに抱く嫉妬深い愛は その小さな心を燃え上がらせ 光の松明とし、ほかの心をも私を愛するように 燃え立たせるであろう。 私の愛が点る 祭壇となり、この炎を広げ 石の心をも生き生きとさせて 私の熱心な弟子にさせなさい。 肌の色や教義で区別しないように、あなた方は皆 私の似姿につくられ 私の十字架は 全てのくに民のために捧げられた。 我が聖なる名のもとに 一つとなりなさい。 被造物よ 私は 夢中で愛している! 生き返りなさい 被造物! あなた方のさ中に 私が現存すると信じて、皆を癒すことができるよう あなた方の心に入らせてほしい。
花よ、私を望みなさい、我が掟を重んじ 私を喜ばせなさい、私を第一におき 全てのものに優先させなさい。 地上的なものはすべて 嫌悪するように、この世でなされた すべての悪を埋め合わせるには 莫大な償いを必要とする、他の人びとに代って償うように、ヴァッスーラ、決して見捨てない。私の教えに導かれて あなたは我がもとに来た、私とあなた、あなたと私は、代々終わりなく結ばれている、私の平和を受けなさい ♡ 来なさい ♡
12.愛の自然的なものは共に交わることと連結との歓喜
天界の秘義5807[2]
愛が連結であることについては、それは二人の者の心の、または二人の者の思考と意志との連結であるため、霊的な連結であることを知らなくてはならない。このことから、愛は、それ自身において観察されるなら、純粋に霊的なものであり、その愛の自然的なものは共に交わることと連結との歓喜であることが明白である。愛はその本質においては人間の心を構成しているいくたの形または原質における状態の変化と変動から生まれてくる和合(ハーモニー)である。この和合は、もしそれが天界的な形から発しているなら、天界的な愛である。それで愛は主から発している神的愛[神の愛]そのもの以外のいかような起原ももつことはできないし、かくて愛は、いくたの形に流れ入って、そのいくたの形をその形の状態の変化と変動とが天界の和合をもって存在するように処理する神的なものであることが明白である。
13.愛は愛されようと欲している
神の摂理92[6]
さらに愛は愛されようと欲していて、そのことはその愛の中に植え付けられており、それが愛の返礼を受けるとき、その完全な生命と幸福とを楽しむのである。これらの考察から、もし主が人間を愛されるが、代って人間から愛されないなら、主は近づかれるが、人間は退き、かくて主は人間に来て、人間に入ろうと絶えず望まれるが、人間は後退りして離れてしまうことが明らかである。
14.人間は全くその愛のあるがままのものであること
天界の秘義6872〔3〕
人間は全くその愛のあるがままのものであることは不変の真理であり、そのことは他生の天使たちから明らかである、なぜなら彼らは(他から)眺められる時愛の形として現れており、愛そのものが単に輝き出ているのみではなく、また彼らから放出されており、かくて彼らは全く愛以外の何ものでもないと言われるからである。その理由は、天使の内部は、人間の内部と同じく、生命を受容する器以外の何ものでもなく、それは生命を受容する形であるため、愛を受容する形であるということである、なぜなら愛が人間の生命を作っているからである。それで流入してくる愛とそれを受容する形とが調和している時、天使、または人間はその愛のあるがままになることが生れ、そのことは単にその頭脳の中にあるその最初の有機体の中にある中に行われるのみでなく、また身体全体の中にも行われているのである、なぜなら身体はその最初のものから派生している器官以外の何ものでもないからである。
天界の秘義6872〔4〕
15.愛は相互的
天界と地獄350
愛は相互的なものであるため、主から愛されることはまた主を愛することである、なぜなら愛される者に主は愛することを与えられるからである。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P231
17.愛の本質はその愛する他の者にそれ自身の凡ての善を伝えること
結婚愛335
この凡ての幸福が真の結婚愛にいる者たちに初めから供えられたのは、主の中には無限の凡ゆる幸福が在り、主御自身は神的愛であり、そして愛の本質はその愛する他の者にそれ自身の凡ての善を伝えることであり、それで主は人間とともにこの愛を創造られて、これらの幸福を受け、認める能力をその上に印刻されたためである。与えられることの出来る凡ゆる祝福、満足、歓喜を主から与えられている或る愛が存在していることを認めることが出来ないまでに心の鈍い、理性を欠いた者があろうか。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7卷中P81/462・6
わたしの教えは、愛に基づいています。愛は決して難しいものではありません。わたしの教えが説くものは? 真の神への信仰、隣人への愛です。永遠の子供である人間は、暗がりを恐れ、愛を知らないために妄想に従います。愛は英知であり、光です。それは、教えるために降る英知です。照らすために来る光です。光があるところでは、暗がりが消え、英知があるところでは、妄想は消えます。
19.愛される物がないならば、事実、愛は何であろう、愛されるものは用、用は知恵と愛との容器
神の愛と知恵297
多少明るくされて考える者は凡て、愛は用を目的として、それを意図し、知恵により、それを生じさせることを認めることが出来る、なぜなら愛は愛自身によって用を生じさせることは出来ず、ただ知恵を媒介としてのみそれを生じさせることが出来るからである。愛される物がないならば、事実、愛は何であろう。その愛される物とは用である、用は愛されるものであって、知恵により生まれるため、用は知恵と愛との容器であることが推論される。愛、知恵、用のこの三つのものは、縦の度に応じ秩序を以て続き、最も外の度は先在的な度の合成体、容器、基底であることはすでに示されたところである(209−216その他)。この凡てから愛の神的なもの、知恵の神的なもの、用の神的なもののこの三つのものは主の中に在って、その本質は主であることを認めることが出来よう。。
20.霊的な愛の本質は自己のためでなくて他の者のためにその他の者に善を為すこと
神の愛と知恵335
霊的な愛の本質は自己のためでなくて他の者のためにその他の者に善を為すことであって、神的愛の本質はそれが無限大になったものである。それは親が自分のためでなく、その子のために、愛からその子に善を為すという、親の子に対する愛に似ている。それは母のその子に対する愛の中に特に明らかである。
結婚愛34
(3)「人各々のもとにその者自身の愛は死後も存続している」。人間は愛の存在していることは知っているが、しかし愛とは何であるか知ってはいない。普通の言葉の中に、この人は私を愛する、王はその家来を愛する、家来はその王を愛する、夫はその妻を愛する、母はその子を愛すると言われ、またその反対のことも言われ、またこの人、かの人はその国家を、同胞を、隣人を愛すると言われていることから、愛の在ることは知っている。同じく人から離れている物についても人はこれを、またはそれを愛すると言われている。しかし愛は言葉の中にかくも遍く用いられてはいるものの、しかもたれ一人愛とは何であるかを殆ど知ってはいない。彼はそれを反省するが、それについて思考のいかような観念も形作ることが出来ない、それで(それは光の物ではなくて、熱の物であるという理由から)それを理解の光の中に置くことは出来ないため、人はそれは何ら実在性を持たないものであると言うか、またはそれは見ること、聞くこと、話すことから流れ入って、心を動かすものである、と言っている。それは人間の生命それ自身であり、その身体全体の共通の生命であり、その凡ての思考の共通の生命であるのみでなく、その個々の凡てのものの生命でさえあることは全く彼には知られていない。が、賢い人は以下のように考えることによってそれを認めることが出来よう、即ち、もしあなたが愛の情愛を取り去るなら、あなたは何かを考えることが出来ようか。思考、言葉、活動も冷ややかになりはしないか。それが温かになるに応じて、それらも温かになりはしないか。それで愛は人間の生命の熱であり、またその生命的な熱である。血液の熱とその赤いこともまたそれ以外の源泉からは発してはいないのである。純粋な愛である天使たちの太陽の火がそれを生み出しているのである。