感動

 

無垢情愛

善に対する情愛真理に対する情愛

 

 

 

1.感動

2.主御自身に感動し、また主御自身を歓ぶ

3.人間が真理のために真理により感動するとき―そのことは人間が真理に従って生きることを愛するとき行われる

4.善から聖言の諸真理を知ろうと欲している者たちを秘かな方法で感動させる

5.これらの者は、真理のための真理に感動しているため、真理を確認する以前に、それを見ている

6.神により明るくされる

7.霊的な熱と霊的な光とは人間がそれを受ける器となるに応じて流れ入って、これに感動を与える

8.真理に感動する

 

 

 

 

 

1.感動

 

 

聖書19

 

聖言には天的な意義と呼ばれているさらに内的な意義があって、そのことについては前に少しく述べておいたが(6番)、しかしこの意義は理解の思考よりはむしろ意志の情愛へ入るため、明らかにするのは容易ではない。

 

 

 

天界と地獄238

 

 天使たちの言語は愛から生まれる情愛に相応し、そして天界の愛は主に対する愛と隣人に対する愛であるため(まえの13から19までを参照)、彼らの言葉はいかに気品があり、また楽しいものであるかは明白である、なぜならそれは聞く者たちの耳のみでなく、その心の内部をも感動させるからである。ある一人の心の頑なな霊がいて、これと一人の天使が話したが、遂には彼はその言葉に感動するあまりに涙を流し、私はそれに抵抗することは出来ない、それは愛が語っているものであると語り、また自分は以前には一度なりとも涙を流したことなどはないとも言ったのである。

 

 

 

天界と地獄282

 

無垢は天界の凡ゆる善における最も内なるものであるため、それを感じる者は非常な感動を受け―それは最内部の天界の天使が近づいてくるとき起ることではあるが―自分が最早自分自身のものではないように自分に思われ、そこから、世のいかような歓喜もそれに較べるとき、取るに足らぬもののようにも思われる歓喜を感じ、その歓喜に恰も我と我が身を忘れるようにも思われるのである。

 

 

 

天界と地獄283

 

無垢の善にいる者は凡て無垢に感動し、たれでもその善にいるに応じて、感動するが、無垢の善にいない者らは感動はしない。そうした理由から地獄の凡ての者は無垢に全く対立しており、また彼らはその何であるかを知りもしない、彼らはたれかが無垢であるに応じて、益々その者に危害を加えようと燃え立つ程にもそれに対立しており、そこから幼児を見るに耐えることが出来ない、彼らは幼児を見るや否やこれに危害を加えようとの残酷な欲望に燃え上がるのである。そこから、人間自身のものと、引いては自己への愛は無垢に反したものであることが明白になったのである、なぜなら地獄にいる者は凡てそのもの自身のものにおり、それゆえ自己愛にいるからである。

 

 

 

天界の秘義1904

 

「アブラムの妻サライは取った。」これは真理の情愛を意味し、真理の情愛はその純粋な意義では『妻のサライ』であることは以下から明白である(このことは前の915、1468番に説明した)。相互に区別されている二つの情愛が存在している、即ち、善の情愛と真理の情愛である。人間が再生しつつある時は、真理の情愛が先に立っている、なぜなら人間は善のために真理に感動するからであるが、しかし再生した時は善の情愛が先に立ち、善から真理に感動するのである。善の情愛は意志に属しており、真理の情愛は理解に属している。この二つの情愛の間に最古代の人々は結婚のようなものを設定したのである。善をまたは善の愛を彼らは夫としての人間と呼び、真理をまたは真理の愛を妻としての人間と呼んだのである。善と真理とが結婚に比較されたことはその起原を天界の結婚の中に持っているのである。

 

 

 

天界の秘義2231 []

 

このことはまた、愛と仁慈とは天的な焔であり、信仰はそこから発している光であるという事実からも知ることができよう。そのようにまたそれらは他生で認識されもし、見られもしているのである、なぜならそこでは主の天的なものは太陽の焔となって燃えている輝きのようなものによりそれ自身を天使たちの前に明らかにしており、主の霊的なものはその輝きから発している光によりそれ自らを明らかにしていて、それによりまた天使たちと霊たちはその者たちにぞくした愛と仁慈との生命に順応して、その内部に感動を受けているのである。これがそのあらゆる多様性をもった喜びと幸福との他生における源泉である。そしてこのすべては信仰のみが救うという見解はいかなるものであるかを示しているのである。

 

 

 

天界の秘義2363[2]

 

 にも拘らずあらゆる祝福と幸福とは愛と仁慈に属した善の情愛の中にあり、また信仰に属した真理の情愛の中に即ち、その真理の情愛が善の情愛へ導いて行くに比例してその情愛の中にあることは以下の事実から認めることが出来よう、即ち、天界は(即ち、天使の生命は)この祝福の中にあって、それは主から最も内なるもの[最内部]を通して流れ入っているため、それを受け入れる者たちを、その最内部から感動させているのである(540、541番参照)。その時また知恵と理知とが心の最も内なる奥所に入ってそれを満たし、善を天界の焔で燃やし、真理を天界の光で燃やし、しかもそれにはただそれらは表現を絶したものであるとしか描写できない祝福と幸福の認識が伴っているのである。この状態の中にいる者たちは自己を、また世を求める愛の幾多の悪の中にいる者たちの生命はいかに死んだものであるか、いかに悲しいものであるか、いかに嘆かわしいものであるかを認めている。

 

 

 

天界の秘義5826

 

 もし教会のものである霊的な善が存在するなら、内なる善と真理とが存在するというこのことについては、実情は以下の如くである。イスラエルが表象している霊的な善は真理の善であり、即ち、意志における、また行為における真理である。この真理が、またはこの真理の善が人を教会であるようにするのである。真理が意志の中に植え付けられると(そのことはその人間が真理に従って生きようとの目的から真理に感動するという事実から認められるのであるが)、そのとき内なる善と真理とが存在するのである。人間がこの善と真理の中にいると、その時主の王国は彼の中に在り、従って彼は教会であり、彼に似た他の者と共になって全般的な教会を作るのである。

 

 

 

天界の秘義3485

 

それで他生にいる者たちは時折以下のように言ったのである、すなわち自分たちがそこに見る物は真実のものであるが、人間の見る物はそれに比較すると真実のものではない、なぜなら前の物は生きていて、直接に彼らの生命に感動を与えているが、他方後の物は生きてはおらず、直接に彼らの生命に感動を与えはしない、ただこの世の光のものであるところの、彼らの心の中に在る物がそれ自らを天界の光のものに適当に、また相応するように連結させるに応じ、また連結させる様式においてのみ生き、また感動を与えるのである、と。

 

 

 

天界の秘義3876

 

「私は彼に三人の息子を生んだからである」。これは継続しているものを意味していることは前に言われたことから明白である(3871番)。『三人の息子』によりここに意味されている継続的な状態は仁慈が今や到来するということである、なぜなら人間が再生しつつある間では、即ち、教会にされつつある間では、最初の事柄はその者が信仰の真理とは何であるかを知り、理解することでなくてはならず、第二の事柄はそれを意志し[欲し]、行うことでなくてはならず、第三の事柄はそれに感動することでなくてはならないからである。そして人間が真理に感動する時、即ち、真理に従って行動することの中に歓喜と祝福とを認めると、その時は彼は仁慈または相互愛の中にいるのである。こうした継続がここに『私は彼に三人の息子を生んだ』により意味されているものである。

 

 

 

天界の秘義9127

 

天界の主から発出している真理の神的なものはその最内部に無垢を持っている。なぜならそれは無垢の中にいる者にのみ感動を与えるからである(2526、2780、3111、3183、3494、3994、4797、6013、6107、6765、7836、7840、7877、7902番)。

 

 

 

啓示による黙示録解説245

 

『子牛の翼』により、心を感動させる力が意味されている、なぜなら聖言の神的真理はそれを聖いものとして読む者たちを感動させるからである。

 

 

 

 

2.主御自身に感動し、また主御自身を歓ぶ

 

 

天界と地獄347

 

天界の理知は内的な理知であって、世における栄誉を何ら求めず、また天界における栄誉も何ら求めず、ただ真理自身を求めて、真理を愛する愛から発しており、この真理にその心の最内部が感動し、また歓んでいる。真理そのものに感動し、またそれを歓ぶ者たちは天界の光に感動し、またそれを歓ぶのであり、天界の光に感動し、それを歓ぶ者はまた神的真理に感動し、それを歓び、実に主御自身に感動し、また主御自身を歓ぶのである、なぜなら天界の光は神的真理であり、神的真理は天界の主であるから(前の126−140参照)。この光は心の内部以外のものには入らない、なぜなら心の内部はその光を受けるように形作られているからであり、そしてその光は、その内部に入る際に、その内部を感動させ、また歓ばせる、なぜなら凡て天界から流れ入って、受け入れられるものは、その中に歓ばしい、また楽しいものを持っているからである。そこから真理に対する純粋な情愛が発し、それは真理のために真理を求める情愛である。この情愛にいる者たちは、またそれと同一のことではあるが、この愛にいる者たちは、天界の理知にいて、天界では大空の輝いているようにも輝くのである。彼らがそのように輝くのは神的真理は、それが天界の何処にあっても、光を与えるためであり(前の132を参照)、天界の拡がり、または大空は、天界の光の中にあるところの、人間の内的理解のみでなく、天使たちの内的理解を、相応から意味している。しかし世の栄誉か、または天界の栄誉か、その何れかを求めて、真理を愛している者らは、天界では輝くことは出来ない、それは彼らは天界の光そのものを歓ばず、またそれに感動しないで、世の光を歓び、またそれに感動し、そしてこの光は天界の光がないならば、天界ではただ暗闇にしかすぎないからである(*1)。なぜなら自己の栄誉が求められている目的であって、その栄誉が目的となるとき、その人間は、主として自分自身を省み、自分の栄誉に仕える真理をただその目的に対する手段としてのみ、役立つ器具としてのみ認めるため、自己の栄誉がその人間を支配するからである。なぜなら自分自身の栄誉のために神的諸真理を愛する者は神的真理の中に自分自身を求めて、主を求めないからである。そうした理由から、彼は理解と信仰とに属する視覚を、天界から世に、主から自分自身に向けている。従ってこうした者は世の光の中にいて、天界の光の中にはいない。これらの者は、外なる形では、引いては人間の前では、天界の光の中にいる者たちのように、理知があり、また学問もあるように見える、なぜなら彼らは、自己愛により焚き付けられ、天界の情愛を佯り装うことを教えられているため、同じように語ってみせ、ときとしては外観では更に賢明にも語ってみせるからではあるが、その内なる形では―この形をもって彼らは天使たちの前に現れるのであるが―全く異なった性格を持っているのである。これらの事柄から、天界で大空のように輝くように輝く理知ある者により意味されている者は誰であるかはある程度明らかになるであろう。しかし星のように輝くところの、多くの者を義とする者により誰が意味されているかは今述べよう。

 

 

*1 世の光は外なる人のためのものであり、天界の光は内なる人のためのものである、3223、3224、3327。天界の光は自然的な光の中へ流れ入り、自然的な人は、天界の光を受け入れるに応じて賢明となる、4302、4408。自然的な光と呼ばれている世の光からは、天界の光の中に在る物は見られることは出来ないが、その反対に天界の光から自然的な光の中に在る物は見られることが出来る、9755。それゆえ世の光の中にのみいる者らは天界の光の中に在る物を認めることは出来ない、3108。世の光は天使たちには暗闇である、1521、1783、1880。

 

 

 

天界と地獄55

 

 凡ての者は己が中に在る天界の性質に応じて己が外に在る天界を受けるため、同じように彼らは主を受ける、それは主の神的なものが天界を作っているためである。ここから、主は何らかの社会の中で御自身を示される時は、主はその社会の持つ善の性質に従ってそこに見られ、かくて社会が異なるに従って異なったふうに見られている。この相違は主の中に在るのではなく、主を自分自身の善から見、かくてその善に応じて見る者の中に在る。彼らはまた己が愛の性質に応じて主を見る時感動を覚える。主を最も深く愛する者は最も深く感動し、それほど愛しない者は、それほど感動はしないが、天界の外にいる悪い者は主の前では責め苛まれる。主は一つの社会の中に見られる時は、天使として見られるが、しかし主から輝き出ている神的なものにより他の者から区別されている。

 

 

 

 

3.人間が真理のために真理により感動するとき―そのことは人間が真理に従って生きることを愛するとき行われる

 

黙示録講解820イ[]

 

ペテロが使徒たちの中で最初の者であったのは、善から発した真理は教会の最初のものであるためである、なぜなら世からは人間は天界と地獄についてはいかようなことも知らず、死後の生命についても、神についてすらも何ごとも知らないからである。

人間の自然的な光は目を通して入ったものを除いては何ごとも教えないし、かくて世と自己とに関係していることを除いては何ごとも教えないのであり、これらのものから人間の生命が発しており、人間がこれらのものの中にのみいる限りは、人間は地獄におり、それゆえ人間がこれらのものから引き出されて、天界へ導かれるためには、是非とも真理を学ばなくてはならないのであり、真理は神がおられることを、天界と地獄とがあることを、死後の生命があることを教えるのみでなく、天界への道を教えるのである。

しかしそれは善から発した真理でなくてはならないのである、なぜなら善を欠いた真理は事柄はそうしたものであるという単なる知識にすぎないからであり、単なる知識は人間を教会となることができるものとすることを除いては何ごとも行わないのであるが、しかしこのことは[教会となることは]人間が知識に従って生きる迄は遂行されはしないのである。

そのときには真理は善に連結し、人間は教会へ導き入れられるのである。さらに真理は人間はいかように生きなくてはならないかを教えるのであり、人間が真理のために真理により感動するとき―そのことは人間が真理に従って生きることを愛するとき行われるのであるが―人間は主により導かれて、天界との連結が人間に与えられるのであり、人間は霊的なものとなり、死後天界の天使となるのである。それにも拘らずこうした結果を生み出すものは真理ではなく、真理を通して働く善であることを知らなくてはならず、善は主から発するのである。主から発しているところの善から発した真理が教会の最初のものであるため、ペテロは最初に呼ばれたのであり、使徒たちの中で最初の者であったのであり、かれはまた主により『ケパ』と名づけられたのであり、それはペトラ(岩)を意味しているが、しかしそれが人物の名となるために、彼はペトルス(ペテロ)と呼ばれているのである。

最高の意味においては『岩』は善から発している真理であり、善から発している真理は主から発しており、同じようなことがペテロにより意味されている。(『岩』はこうした意義をもっていることについては前の411番を参照されたい。しかし『ヨナの子シモン』が意味していることについてもまた前の443番イを参照されたい。)

 

 

 

 

4.善から聖言の諸真理を知ろうと欲している者たちを秘かな方法で感動させる

 

 

天界の秘義5202[4]

 

 さらにこれらのことは人間の理解の光の中へは容易には入らない性質のものである、なぜならそれらは再生の秘められた事柄であって、それらについては、(それらは)それら自身においては無数のものであるが、人間はほとんど何ごとも知ってはいないからである。善の中にいる人間は、その幼少期の初期から世におけるその生命の最後までも、その後永遠にいたるまでも、その内部の方面のみではなく、外部の方面でも、各瞬間再び生まれつつあるのであり、しかもそれは驚くべき過程により行われているのである。表現を絶しており、耳で聞いたこともなく、目で見たこともなく、また人間の思いに入ったこともないようなものを含んでいると言われている天使の知恵の大半を構成しているものは、これらの経過である。聖言の内意はこのような事柄をとり扱っており、かくてそれは天使の知恵に適応しており、それがこの知恵から文字の意義へ流れ入ると、人間の知恵に適応したものとなり、そのことにより、善から聖言の諸真理を知ろうと欲している者たちを秘かな方法で感動させるのである。

 

 

 

 

5.これらの者は、真理のための真理に感動しているため、真理を確認する以前に、それを見ている

 

 

天界と地獄352

 

似而非なる理知と知恵とは、内から真で良いものを見、また認め、そこから誤った悪いものを見、認めるのではなくて、単に他の者から真で善いものであると言われ、また誤った悪いものであると言われているものを、真で善いものである、誤った悪いものであると信じ、そこからそれを確認することである。これらの者は真理を真理から見ないで、他の者から見るため、真理のみでなく誤謬も取り上げて、信じ、またそれをそれが真のものであるように見えるまでも確認する、なぜなら何であれ確認されたものは真理の外観を着けるのであり、そして、確認されることの出来ない物は一つとしてないからである。これらの者の内部はただ下からのみ開いているが、しかしその外部は彼らが自分自身に確認させた度に応じて開かれている。こうした理由から彼らが物を見る源泉である光は天界の光ではなくて、自然的な光(ルーメン)と呼ばれる世の光である。この光の中では誤謬も真理のように輝き、実に、それは確認されると、光輝を発しはするものの、しかし天界の光の中ではそのようなことはない。こうした種類の者の中では、自分自身に強く確認させた者が余り理知的で賢明でない者であり、自分自身にそれほど強くは確認させなかった者が理知的で、賢明な者である。これらの事から似而非なる理知と知恵とのいかようなものであるかが明らかである。しかし、子供の頃教師連から聞いたことは真であると考えた者が、成熟期に達して、自分自身の理解から考えるときに、その中に止まらないで、真理を求め、求めるところから、それを探し、それを見つけると、内的に感動するならば、その者は今述べた種類の者ではない、これらの者は、真理のための真理に感動しているため、真理を確認する以前に、それを見ているのである。

 

 

 

信仰3

 

 しかし一般的には霊的な、または神学的な問題は超自然的なものであるため、たれにもそれは把握出来ないと言われている。しかしながら霊的な真理も自然的な真理と全く同じように充分に把握されることが出来るものであって、たとえそれが明らかに把握されないにしても、それでもそれを聞くとすぐに、それは真であるか、真でないかを認めることが出来るのである。このことは特に真理に感動する情愛の持主に言われるのである。(中略)

 

 

 

 

6.神により明るくされる

 

 

神の愛と知恵148

 

神的なものそれ自身は霊的な熱と光とによって天使と人間の中に現存しているため、神的な知恵の諸真理と神的な愛の諸善にいる者たちは、これらのものにより感動するとき、またこれらのもの(*)から、これらのものについて情愛から考えるとき、「神により熱する」と言われ、それは説教家が熱意から語る時のように、時々認知され、感じられるほどにも明らかとなっている。この当人たちはまた、主がその発出する神的なものにより意志を霊的な熱で燃やされるのみでなく、理解を霊的な光で明るくされる故、「神により明るくされる」と言われている。

 

 

*これらのもの・・・霊的な熱と霊的な光。霊的な熱は神的愛の諸善であり、霊的な光は神的知恵の諸真理である。

 

 

 

 

7.霊的な熱と霊的な光とは人間がそれを受ける器となるに応じて流れ入って、これに感動を与える

 

 

神の愛と知恵5

 

 しかし、これが理解されるためには、主は愛の本質そのものにおける愛、即ち、神的愛であるゆえ、天界の天使たちの前には太陽として現れ、その太陽からは熱と光が発し、そこから発する熱はその本質においては愛であり、そこから発する光はその本質においては知恵であり、そして天使はその霊的な熱とその霊的な光とを受ける器となるに応じて、愛と知恵となり、その愛と知恵とは彼ら自身から発するものでなく、主から発するものであることを我々は進んで知らなくてはならない。その霊的な熱と霊的な光とは天使に流れ入って、これに感動を与えるのみでなく、人間にもまた、ちょうど人間がそれを受ける器となるに応じて、流れ入って、これに感動を与え、彼らは主に対するその愛と隣人に対する愛の度に比例して受容する器となるのである。

 

 

 

 

8.真理に感動する

 

 

啓示による黙示録解説153・4

 

 もし彼が真理に感動するなら、彼は悪い社会から連れ出されて、善い社会へ導き入れられ、それも色々な善い社会へ入れられて、遂にはその者自身の自然的な情愛に相応した社会の中へ入り、そこでその情愛に一致している善を楽しむようになり、しかもそれは彼がその自然的な情愛を脱ぎ棄てて、霊的な情愛を身につけ、かくて天界へ挙げられるまでに至るのである。しかしこれは世で仁慈の生活を送り、かくてまた信仰の生活を送った者たちに起るのである、信仰の生活とは主を信じて、悪を罪として避けることに在る。