情愛

 

善に対する情愛真理に対する情愛目的

善と真理との連結

 

 

 

1.何かの情愛が無い限り、何一つ人間の中には増大しないし、増えもしない

2.二つの情愛が存在している、即ち、善の情愛と真理の情愛である

3.情愛を離れて考えることは不可能

4.善に真理が連結することはことごとく情愛により遂行される

5.真理に対する情愛から真理が発している

6.情愛はその者が現在あるがままの人間全体である

7.情愛は動物によって表象される

8.情愛が無ければ記憶に止まらない、記憶が帰ってくる時、その情愛も再現される

9.主は善の情愛を吹き込まれ『残りのもの』を掻き立てられる

10.情愛は人間を拘束する、真理の情愛と善の情愛は良心のきずな

11.聖言の内意には情愛が貯えられている

12.主に対する愛のものである善の情愛[善に対する情愛]は人間には全く表現することの出来ないもの

13.憤怒の情愛、熱意

14.天使たちは聖言の中にある事柄の情愛[事柄に対する情愛]の中にいる

15.目的は愛または情愛以外の何ものでもない

14.情愛とは愛の連続しているもの

15.最も外なる情愛は身体のそれであり

16.生命の状態は全般的に人間の年齢に応じて、特にその者の凡ゆる種類の情愛に応じて変化している

17.自発的なまたは自由なものは情愛または愛のものである

18.聖いあこがれ

19.たれ一人真理によっては決して教えられはしないのであり、ただ真理に対する情愛によって教えられる

20.人間はその思考を見るが、その情愛を見ることが出来ない

21.神的なものは情愛のものである事柄の中にのみ流れ入る

22.情愛の破壊・・・剥奪

 

 

 

1.何かの情愛が無い限り、何一つ人間の中には増大しないし、増えもしない

 

天界の秘義1016

 

 「豊かに地に生みなさい、その中に増えなさい」。

 

これは地である外なる人における善と真理との増大を意味しており、『豊かに生む』ことは善について、『増えること』は真理について述べられていることは、今言ったことから明白であり、また『地』の意義が外なる人であることからも明白である。地の意義については本章の一節に言われ、示されたことを参照されたい(983番)。『豊かに生みなさい。その中に増えなさい』と言われていることについては、実情は以下のものである、即ち、何一つ再生した人間の外なる人の中には仁慈から生まれない限り、増大はしないのである。即ち、善と真理とは仁慈から生まれない限り、何一つ増大はしないのである。仁慈は草や植物や木を成長させるところの春か夏の頃の熱のようなものである。仁慈が無くては、または霊的な熱が無くては、何一つ成長しないのであり、こうした理由からここに先ず『豊かに[おびただしく]地に生みなさい』と言われて、これは仁慈に属した諸善について述べられているが、仁慈により善と真理とが増大するのである。たれでもどうしてこうしたことが生まれるかを理解することが出来よう。なぜなら何かの情愛が無い限り、何一つ人間の中には増大しないし、増えもしないからである。なぜなら何かに根を張らせるのみでなく、その何かを増大させるものは情愛の歓喜であり、凡ゆるものは情愛の影響力に懸かっているからである。人間はその愛しているものを進んで学び、留め、慈しんででおり、かくて情愛に有利なものをことごとく学び、留め、慈しむのである。有利でないものは、その人間は些かもかえりみないし、無意味なものとみなし、斥けさえもするのである。しかし情愛の如何に増大は応じている。再生した人間のもとでは、その情愛は主により与えられた仁慈から発した善と真理の情愛[善と真理を求める情愛]である。それ故彼は凡て仁慈の情愛に有利な物はことごとく学び、留め、慈しみ、かくして諸善と諸真理とを確認するのである。これが『豊かに地に生みなさい。その中に増えなさい』により意味されている。

 

 

 

天界の秘義3849

 

外的な情愛は内なる情愛に仕えている自然的な情愛である。これらの外的な情愛が真理が善と連結することに役立つ手段である理由は、教義のものであるものは何一つ、実に記憶知のものであるものも何一つ情愛によらない限り人間の中へ入ることが出来ないということである、なぜなら情愛の中には生命が存在しているが、情愛の無い教義の真理と記憶知の真理には生命は存在しないからである。これが実情であることは極めて明らかである、なぜなら人間は情愛が無いなら考えることすら出来ないし、音節一つを発することさえも出来ないからである。その事に注意を払う者は情愛の無い声は自動人形の声のようなものであり、かくて生命のない音に過ぎないものであり、その中に存在している情愛の量と質とに、その中の生命の量と質とが正比例していることを認めるであろう。このことは真理は善が無くてはいかようなものであるかを示しており、また情愛は善から真理の中に存在していることを示している。

 

 

 

2.二つの情愛が存在している、即ち、善の情愛と真理の情愛である

 

 

天界の秘義1904

 

「アブラムの妻サライは取った。」これは真理の情愛を意味し、真理の情愛はその純粋な意義では『妻のサライ』であることは以下から明白である(このことは前の915、1468番に説明した)。相互に区別されている二つの情愛が存在している、即ち、善の情愛と真理の情愛である。人間が再生しつつある時は、真理の情愛が先に立っている、なぜなら人間は善のために真理に感動するからであるが、しかし再生した時は善の情愛が先に立ち、善から真理に感動するのである。善の情愛は意志に属しており、真理の情愛は理解に属している。この二つの情愛の間に最古代の人々は結婚のようなものを設定したのである。善をまたは善の愛を彼らは夫としての人間と呼び、真理をまたは真理の愛を妻としての人間と呼んだのである。善と真理とが結婚に比較されたことはその起原を天界の結婚の中に持っているのである。

 

 

 

3.情愛を離れて考えることは不可能

 

 

天界の秘義2480

 

人間は死後内的な記憶の中にいる以上、この内的な記憶は彼らの合理的なものに属しているのであるが、そのため、世では幾多の言語にひときわ秀でていた者たちもその言語の一音節すらも呼び出してくることは出来ないのであり、幾多の科学にひときわ精通していた者もその知識のいかようなものも呼び出すことが出来ないで、ときとしては他の者以上に愚かなものとなるのである。しかし何であれ彼らが言語または科学により吸引したものがことごとく、それが彼らの合理的なものを形作っているため、持ち出して利用するのである。彼らがそのようにして得た合理的なものは、彼らが考えまた語りもする源泉である。言語と科学により誤謬を吸引して、それを確認した者は、誤謬以外の何ものからも論じはしないが、しかし真理を吸引して、それを確認した者は真理から語るのである。生命を与えるものは情愛であり、誤謬に生命を与えるものは悪の情愛であり、真理に生命を与えるものは善の情愛である。たれでも情愛から考えるのであって、たれ一人情愛が無くては考えはしない。

 

 

 

霊界日記5945

 

信仰と言うも、真理と言うも、それは同じことであり、善と言うも、仁慈と言うもそれも同じことであり、更に、それは人間の思考と情愛との場合と同じである。情愛を離れて考えることは不可能である、なぜなら思考の本質そのものは情愛であるからである。人間は、実に、何であれ、その知っていることを考えることが出来るが、しかしそれは、栄誉、名声、名誉に対する情愛である自然的な情愛から発しているのである。しかしながら、この情愛は思考を霊的なものとはしないのであり、仁慈と呼ばれる霊的な情愛が存在しなくてはならない。更に、人間は、仁慈の中にいるに応じて、明るくされて、信仰のものである諸真理を認めるのである。

 

 

 

 

4.善に真理が連結することはことごとく情愛により遂行される

 

 

天界の秘義3024

 

善に真理が連結することはことごとく情愛により遂行されるのである、なぜならいかような真理も情愛によらなくては、人間の合理的なものの中へ入り、そこで連結されることは到底出来ないからである、なぜなら情愛の中には愛の善が存在していて、それのみが連結させるからであり(1895番)、そのことはまた反省するならたれにでも知られることが出来よう。

 

 

 

5.真理に対する情愛から真理が発している

 

 

天界の秘義3077

 

「見よ、レベカが出てきた」。これは教義的な事柄から発している真理に対する情愛を意味していることは以下のことから明白である、即ち、レベカの表象は合理的なものの神的善に連結することになっていた真理の神的なものであるが、しかしここでは、彼女が婚約しない間は、彼女は教義的な事柄から発している真理に対する情愛の表象を着ているのである、なぜならその情愛から真理が発しており、真理はそれが生命を持たない限り真理ではなく、その生命は愛に属している情愛であるからである。

 

 

 

6.情愛はその者が現在あるがままの人間全体である

 

 

天界の秘義3078[2]

 

 情愛は各々、それは単純なもの、一つのものとして見えるけれど、それでもいかような観念[考え]によっても把握されることが出来ない、ましてや記されることも出来ない程にも無数のものをその中に含んでいるのである、なぜなら各々の情愛の中にはその人間の幼少時代から、その者がその情愛の中にいるその時に至るまでも得られたところのその者の全生命が存在しており、否、更に他のものが存在しているのである、なぜなら情愛はその者が現在あるがままの人間全体であるからである。他生では、情愛が明示されることによりたれそれの中に自己愛のいかほどのものが在るか、また世の愛のいかほどのものがあるか、主義[原理]に対する愛のいかほどのものが在るかが、またいかような目的と用とのために在るかも時として目の当たりに示され、また善と真理とに対する愛のいかほどのものがあるか、その善と真理との性質はいかようなものであるか、またいかようにしてその善と真理とは処理されているか、即ち、それらはいかほど連結しているか、近接しているか、または分離しているかが示され、かくていかほどそれらは天界の秩序に一致し、または一致していないかが示されるのである。今し方述べたように、すべてこれらのものはその情愛を明示することにより目の当たりに示されるのであるが、それは情愛は人間全体であるためである。実情はこうしたものであることは人間には信じがたいように見えるが、それでもそれは真である。

 

 

 

天界の秘義7342

 

「彼はそのことさえも心に掛けなかった」。これは意志から抵抗し、そこから必然的に頑迷になることを意味していることは、何かを『心に掛けないこと』の意義から明白であり、それは注意しないことであり、悪い者にあっては神的な事柄に注意しないことは意志の抵抗から発しているため、それでそのこともその同じ言葉により意味されており、物事を『心に掛けないこと』は『固くなること』と同じことを意味しているため、それで(前の7272、7300、7338番のように)頑迷もまた意味されているのである。意志から抵抗することについては、意志は人間を支配しているものであることを知られたい。理解が(人間)を支配していると信じている者もいるが、理解は意志がその理解に傾かない限り支配はしないのである、なぜなら理解は、それ自身において観察されるなら、意志の形以外の何ものでもないため、理解は意志を支持するからである。意志のことが言われるときは、愛の情愛が意味されるのである、なぜなら人間の意志はそれ以外の何ものでもないからである。この情愛が人間を支配するものである、なぜなら愛の情愛が人間の生命であるからである。もし人間の情愛が自己と世を求める情愛であるなら、そのとき彼の全生命はそれ以外の何ものでもなく、また彼はそれに抵抗することも出来ないのである、なぜならそれは自分自身の生命に抵抗することとなるからである。真理の原理は何ごとも遂行はしないのである、もしこれらの愛の情愛が主権を持っているなら、それは真理を己が側に引き入れて、それを誤謬化してしまい、もしその真理が充分にそれを支持しないなら、それを斥けてしまうのである。ここから、主が霊的な愛を、即ち、隣人に対する愛の情愛を導入されない限り、真の信仰の原理も人間のもとには何ごとも全く遂行はしないのであり、その人間がこの情愛を受け入れるに応じて、信仰の諸真理も受け入れるのである。この愛の情愛が新しい意志を作るものである。この凡てから今や、もし意志が抵抗するなら、人間はいかような真理も決して心に掛けはしないことを認めることが出来よう、従って奈落の者らは悪を求める情愛、または欲念の中にいるため、信仰の諸真理を受けることは出来ないのであり、従って匡正されることは出来ないのであり、そこからまた悪い者は為し得る限り真理を誤謬化してしまうことが起こっている。

 

 

 

霊界日記6110(42)

 

情愛は、ちょうど音声が言葉の凡てであるように、思考のすべてであり、このことから人間はその情愛のあるがままのものであることを知ることができよう。その唯一の規定から、思考はその本質と生命とにおいてはいかようなものであるかが、貞潔な思考はまた不貞な思考は、また不貞な思考はいかようなものであるかが、またそれは何処から発しているかが知ることが出来よう。

 

 

 

 

7.情愛は動物によって表象される

 

 

天界の秘義3218

 

 その天使たちが情愛の中にいると同時にその情愛について話し合っていると、その時は霊たちの間の低いスフィアの中にこのような事柄はそれを表象している色々な種類の動物の中へ落ち込むのである。善い情愛について話されていると、ユダヤ教会の表象的な神礼拝に生贄に用いられたような美しいおとなしい有益な動物が示されるのである、例えば小羊、羊、小山羊、雌山羊、雄羊、子牛、若牛、雄牛が示され、またその時何であれその動物の上に現れるものはことごとく彼らの思いの何らかの映像を示しており、正しい善良な気質の霊たちはそれを認めることが出来るのである。このことはユダヤ教会の祭儀に用いられた動物により意味されたことを、また聖言に記されているその動物により意味されていることを、即ち、情愛を示しているのである(1823、2179、2180番)。しかし悪い情愛について交わされる天使たちの談話は、虎とか、熊とか、狼とか、蛇とか、二十日鼠とかそういった嫌忌すべき、凶暴な、無益な獣により表象されており、これらの情愛もまた聖言の同じ獣により意味されているのである。

 

 

 

8.情愛が無ければ記憶に止まらない、記憶が帰ってくる時、その情愛も再現される

 

 

天界の秘義3336[2]

 

 この先在性と卓越性との実情がいかようになっているかが更に明白となるために、更に若干言っておかなくてはならない。いかようなものも、それを人間の記憶の中へ導入してくれる何らかの情愛または愛が存在しない限り、それはそこへ到底入って、そこに止まることが出来ないことは容易に認めることが出来よう。もし情愛が存在しないなら、またはそれと同一のことではあるが、愛が存在しないなら、観察は起らないであろう。この情愛、または愛に、入ってくるものがそれ自身を連結させるのであり、連結すると止まるのであり、このことは、以下の事実から明白である、即ち、類似した情愛または愛が帰ってくると、その事柄それ自身も再起して、前に類似した情愛または愛により入ってきた他の事柄と共に示されるのであり、しかもそれが連続して示されてくるのである。そこから人間の考えが生まれ、その考えから言葉が生まれてくるのである。同様にまたその事柄それ自身が帰ってくる時、もしそのことが感覚の対象により、または思考の対象により、または他の者の談話により行われるなら、その情愛もまた―その情愛と共にその事柄は以前入ったのであるが、その情愛もまた―再現されるのである。これは経験が教えていることであり、たれでも反省するならそのことを確認することが出来よう。

 

 

 

天界の秘義4018

 

更に真理と善とを植え付けることはすべて、また連結はすべて情愛により行なわれるのである。学ばれはするが、その人間の心を動かしはしない諸真理と諸善とは実際記憶に入りはするが、しかしそこには一片の羽毛が軽く壁にくっついていて、極めて些細なひとそよぎの風にも吹き払われてしまうようにしか止まってはいないのである。

 

 

 

天界の秘義4018[2]

 

 記憶に入ってくる事柄の実情は以下のようになっている、即ち、情愛無しに入ってくるものはその記憶の陰の中へ落ち込んでくるが、しかし情愛と共に入ってくるものはその光の中へ入ってくるのであり、そこの光の中に在るものは類似した主題が呼び出される時には絶えず明らかにまた生き生きと見られもし、現われもするが、しかし周囲の蔭の中に隠れているものはそのように見られはしないし、また現れもしないのである。こうしたものが愛の情愛の結果である。このことから、真理を植付けることはすべて、またそれが善と連結することは情愛により行なわれ、情愛が大きいに応じて、連結も益々強くなることを認めることが出来よう。『熱烈な情愛[情愛の灼熱]』はここでは最も内なる情愛である。

 

 

 

天界の秘義4018[3]

 

 しかし真理は真理と善との情愛[真理と善とに対する情愛]によらなくては善の中に植え付けられて善と連結されることは出来ないのであり、その情愛は隣人に対する仁慈と主に対する愛から、それをその源泉として湧き出てくるのである。しかし悪と誤謬とは悪と誤謬との情愛により植え付けられ、また連結されるのであって、その情愛は自己と世を求める愛からそれを源泉として湧き出てくるのである。実情はこうしたものであり、またここに取り扱われている主題はその内意では自然的な人における善と真理との連結であるため、それでここにまた以下の記事に羊が水を飲みに来たとき発情したことが言われ、そのことによりこうした事柄が意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義4205[2]

 

この間の実情のいかようなものであるかを簡単に述べよう。人間のもとでは真理は、それがいかようなものであれ、またはいかような性質のものであれ、情愛により、即ち、愛のものである一種の歓びにより彼の記憶へ入ってくるのである。情愛が無くては(または愛のものである歓喜が無くては)何一つ人間に入ることは出来ない、なぜならそれらのものの中に彼の生命が在るからである。入った事柄は、類似した歓びが再起する度毎に、その事柄にそれ自らを組み合わせ、または連結させている他の多くの事柄と共に再現されるのであり、また同じくその同じ真理が自己自身によりあるいは他の者により再現されると、その真理が入った時、そこに在ったところの愛の情愛または歓喜も同様に再び喚起されるのである、なぜならそれらのものは連結し、密着しているからである。このことから真理の情愛のもとでは実情はいかようになっているかが明白である、なぜなら善の情愛と共に入った真理は類似した情愛が再起する時再現され、情愛もまた類似した真理が再起する時再現されるからである。このことからまた、その人間が善の中にいない限り、いかような真理も純粋な情愛と共に決して植付けられて内的に根を張ることは出来ないことが明らかである、なぜなら真理の純粋な情愛[真理に対する純粋な情愛]は主に対する愛と隣人に対する仁慈のものである善から発しているからである。善は主から流れ入っているが、しかし真理を除いてはいかようなところにも固定はしないのである、なぜなら真理は善に和合しているため、真理の中に善は歓迎されるからである。この凡てからまた善を受け入れることはその真理の性質に順応していることが明白である。相互的な仁慈[相互愛]の中にいる生きている異邦人たちのもとに存在している真理は主から流れ入ってくる善もまたその中に歓迎されることが出来るような性質を持ってはいるが、しかし彼らが世に生きている限りは、聖言から真理を得て、それにより霊的な仁慈の中に生きている基督教徒と同じようには歓迎されることは出来ないのである(2589−2604番)。

 

 

 

9.主は善の情愛を吹き込まれ『残りのもの』を掻き立てられる

 

 

天界の秘義3336[3]

 

 真理の教義的な事柄もまた同じように記憶へ入ってくるのであり、最初それを導入するものは、前に言ったように(3330番)、色々な愛の情愛である。仁慈の善に属している純粋は情愛は、その時認められはしないが、しかしそれでもそれはそこに現存しているのであり、そしてそれがそこに現存していることが出来る限り、それは主により真理の教義的な事柄に接合され、また接合されて止まるのである。それでその人間が再生することが出来る時が来ると、主は善の情愛を吹き込まれ、それを通して、主によりこの情愛に接合されていた事柄をも掻き立てられるのであり[喚起されるのであり]―この事柄は聖言に『残りのもの』と呼ばれている―次に、この情愛により(即ち、善の情愛により)、継続的な段階によって主は他の愛の情愛を遠ざけられ、従ってまたその情愛に関連しているものをも遠ざけられるのである。かくして善の情愛が、または生命の善が主権を持ち始めるのである。それは実際前には主権を持っていたのであるが、しかしそのことは人間に明らかになることは出来なかったのである。なぜなら人間は自己への、また世への愛の中にいる限り、純粋な愛に属している善は現れないからである。このことからエソウとヤコブについて歴史的に述べられている事柄によりその内意に意味されていることが今や認められよう。

 

 

 

天界の秘義5893[2]

 

この間の実情は以下のごとくである。善が働くためには自然的な心の中に真理が存在しなくてはならないのであり、真理は純粋な愛のものである情愛により導入されなくてはならないのである。何であれ人間の記憶の中に在るものはことごとく何らかの愛により導入されて、そこにその愛と連結して止まっているのである。信仰の諸真理もまた同じであり、もしこの諸真理が真理を愛する愛により導入されているなら、その諸真理はこの愛と連結して止まっているのである。それらが連結すると、その時は以下のようなことが起こるのである。もしその情愛が再現するなら、その情愛と連結している諸真理も同時に現れてくるのであり、もしその諸真理が再現するならば、その諸真理と連結しているその情愛そのものも同時に現れてくるのである。それで人間の再生の間には―再生は成人期に行われるのである、なぜならそれ以前では人間は信仰の諸真理については自分自身からは考えないからである―彼が彼自身に真理であると印象づけた諸真理の中に留めおかれることにより、またその諸真理が連結している情愛におけるその諸真理により、主から天使たちにより支配されており、そしてこの情愛は、即ち、真理を愛する情愛は善から発しているため、彼はそのようにして徐々に善へ導かれるのである。

 

 

 

10.情愛は人間を拘束する、真理の情愛と善の情愛は良心のきずな

 

 

天界の秘義3835

 

「ラバンはその娘レアの下婢として、彼の下婢ジルパを彼女に与えた」。これは仕える手段であるところの外なる情愛を、または外なるきずな[結びつけるもの、拘束するもの]を意味していることは『下婢[女中]』の意義から明白であり、それは外なる情愛である(1895、2567番を参照)。『ラバンは彼女に与えた』は、その情愛が根幹の共通した傍系の善から発していることを意味している、なぜならそれがそのような情愛の起原であるからである。それらは外なるきずな[結ぶもの、拘束するもの]と呼ばれているが、それは情愛はことごとくきずな[結ぶもの、拘束するもの]であるためである(1077、1080、1835、1944番)、なぜなら情愛以外には何ものも人間を拘束しないからである、人間各々の情愛は実際彼にはきずな[拘束するもの]としては見えないものの、それでも彼を支配し、彼かれをそれに縛りつけておくため、そのように呼ばれている。しかし乍ら内なる情愛は内なるきずな[拘束物]と呼ばれ、真理の情愛と善の情愛は良心のきずな[拘束物]と呼ばれている。これらのものに外なるきずながまたは外なる情愛が相応している、なぜなら内なるものはことごとくそれに相応した外なるものを持っているからである。再生しつつある人間は外なるものにより内なるものへ導き入れられるため、またこの導き入れられる状態がここに取り扱われているため、それでここにラバンの下婢が娘レアに下婢として与えられたと言われているが、そのことにより導き入れる手段として役立つような情愛が与えられたことが意味されるのである。これらの情愛は身体の情愛と呼ばれているもののような最も外なるものであったということは、レアは外なる真理の情愛を表象しているという事実から明白である。しかしこの主題についてもまた主の神的慈悲の下に更に多くのことを他の所で述べよう。

 

 

 

11.聖言の内意には情愛が貯えられている

 

 

天界の秘義3839

 

「彼はラバンに言った、あなたが私に為したこのことは何ですか」。これは憤りを意味していることは、これらの言葉における、また以下に続いて言われている言葉における情愛から明白である。歴史的な連続に従ってこれらの言葉の中に落ち込んでいるものは憤りの情愛であることは明白である。聖言の内意を構成しているものに二つのものがあり、即ち、情愛と実際の事柄があり、聖言の表現に隠れている情愛は人間には明らかではなく、その最も内なる奥所に貯えられていて、人間に明らかにされることも出来ない、なぜなら人間はその身体の生命の間では世的な形体的な情愛の中にいて、その情愛は聖言の内意における情愛とは何ものをも共有してはおらず、この後の霊的なまた天的な愛の情愛であり、それを人間は以下の理由からそれだけ認めることは出来ないのである、即ち、その情愛の中にいる者は僅かしかいないのであり、しかもこの僅かな者も大半単純な人たちであって、自分の情愛を反省することは出来ない一方では、他の者はことごとく純粋な情愛の何であるかを知りさえもしていないのである。これらの霊的な天的な情愛は隣人に対する仁慈と神に対する愛の中に含まれている。それらのものの中にいない者らはそれらのものは何か有意義なものであるとは信じはしないものの、それでもそれらのものは全天界を満たしており、しかもそれには表現を絶した多様なものがあるのである。このような情愛はその多様なものと共になって聖言の内意に貯えられているものであり、そこに単に連続した各々の記事の中に存在しているのみでなく、各々の表現の中にも存在しており、否、各々の音節の中にさえも存在していて、聖言が単純な善の中にいると同時に無垢の中にいる者たちにより読まれている時、天使たちの前に輝き出てくるのであり、しかもそれには、前に言ったように、無限の変化が在るのである。

 

 

 

12.主に対する愛のものである善の情愛[善に対する情愛]は人間には全く表現することの出来ないもの

 

 

天界の秘義3839[2]

 

 天使たちの前に聖言から輝き出てくる情愛には主として二種類のものがあり、即ち、真理の情愛[真理に対する情愛]と善の情愛[善に対する情愛]があり―霊的な天使たちの前には真理の情愛があり、天的な天使たちの前には善の情愛があるのである。主に対する愛のものである善の情愛[善に対する情愛]は人間には全く表現することの出来ないものであり、それで把握することの出来ないものであるが、しかし相互愛のものである真理の情愛[真理に対する情愛]はその極めて全般的なものの方面ではある程度把握されることが出来ようが、それでも純粋な相互愛の中にいる者たちによってのみ把握されるのであり、しかもそれは何らかの内なる認識から把握されるのではなくて、明確でないようなものから把握されるのである。

 

 

 

13.憤怒の情愛、熱意

 

 

天界の秘義3614[2]

 

『憤り』と『怒り』は聖言に再三言われているが、しかしそれらは内意では憤りと怒りを意味しないで、反感を意味しており、それは何であれ何かの情愛に反感を与えるものはことごとく憤りまたは怒りを生み出しており、それで内意ではそれらは単に反感に過ぎないという理由によっているが、しかし真理の反感は『憤り』と呼ばれ、善の反感は『怒り』と呼ばれており、それに対立した意義では『憤り』は誤謬またはその情愛の、即ち誤謬の原理の反感であり、『怒り』は悪またはその欲念の、即ち、自己への愛と世への愛の反感である。この意義では『憤り』は当然憤りであり、『怒り』は悪またはその欲念の、即ち、自己への愛と世への愛の反感である。この意義では『憤り』は当然憤りであるが、しかしそれらが善と真理について述べられると、『憤り』と『怒り』は熱意であり、この熱意はその外なる形では憤りと怒りのように見えるため、文字の意義ではまたそのように呼ばれているのである。

 

 

 

天界の秘義3839[3]

 

 例えば、ここに取り扱われている憤怒の情愛についてであるが―仁慈の情愛の中にいない結果、そのいかようなものであるかを知っていない者はことごとく、人間に何か悪が為される時、その人間が抱くような憤り以外のものを考えることは出来ないのであり、それは怒りの憤りである。しかし天使たちはそのような憤りは持ってはいないで、それとは全く異なった憤りをもっており、それは怒りのものではなくて、熱意のものであり、その中には悪は何一つ宿ってはおらず、天界が地獄から隔たっているように、憎悪または復讐から隔たっており、または悪に悪を報いる精神から隔たっているのである、なぜならそれは善から発しているからである。しかし前に言ったようにこの憤りの性質はいかような言葉によっても表現することは出来ないのである。

 

 

 

14.天使たちは聖言の中にある事柄の情愛[事柄に対する情愛]の中にいる

 

 

天界の秘義3839[4]

 

善と真理から発しており、また善と真理とのものであるところの他の情愛の場合も類似しており、そのことはまた天使たちはひとえに目的の中におり、目的の用の中にいるという事実からも明白である(1317、1645、3845番)。目的は愛または情愛以外の何ものでもない(1317、1568、1571、1909、3425、3796番)、なぜなら人間はその愛するものを目的とみなすからである。実情はこうしたものであるため、天使たちは聖言の中にある事柄の情愛[事柄に対する情愛]の中におり、しかもそれは天使たちがその中にいるところの情愛の種類に応じ、凡ゆる変化を伴っているのである。このことから聖言はいかに聖いものであるかが充分に明白である、なぜなら神的な愛[神の愛]の中には、即ち、神的なものから発している愛の中には聖いものがあり、それで聖言に含まれている事柄の中にも聖いものがあるからである。

 

 

15.目的は愛または情愛以外の何ものでもない

 

天界の秘義1568[]

 

何が外なる人を内なる人に相応させ、また一致させるか、また何がそれらを一致させないかを明らかにするには、支配している目的を、またはそれと同一のことではあるが、支配している愛を反省するのみで充分である、なぜなら愛は目的であるからである、なぜなら愛されるものはことごとく目的として認められるからである。かくてその生命は如何ような性質を持っているかが、またそれは死後如何ようなものになるかが明白となるであろう、なぜなら目的から、またはそれと同一のことではあるが、支配している愛から、生命は形作られていて、人間各々の生命はそれ以外の何ものでもないからである。永遠の生命に―即ち永遠の生命である霊的な天的な生命に― 一致していないものは、もしそれが身体の生命の中で除かれないならば、他生において除かれなくてはならないのであり、もし除かれることが出来ないならば、その人間は永遠に不幸なものにならない訳にはいかないのである。

 

 

 

天界の秘義3839[4]

 

善と真理から発しており、また善と真理とのものであるところの他の情愛の場合も類似しており、そのことはまた天使たちはひとえに目的の中におり、目的の用の中にいるという事実からも明白である(1317、1645、3845番)。目的は愛または情愛以外の何ものでもない(1317、1568、1571、1909、3425、3796番)、なぜなら人間はその愛するものを目的とみなすからである。実情はこうしたものであるため、天使たちは聖言の中にある事柄の情愛[事柄に対する情愛]の中におり、しかもそれは天使たちがその中にいるところの情愛の種類に応じ、凡ゆる変化を伴っているのである。このことから聖言はいかに聖いものであるかが充分に明白である、なぜなら神的な愛[神の愛]の中には、即ち、神的なものから発している愛の中には聖いものがあり、それで聖言に含まれている事柄の中にも聖いものがあるからである。

 

 

 

14.情愛とは愛の連続しているもの

 

 

天界の秘義3849[2]

 

情愛と言われているが、それにより愛の連続しているものが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義3938[8]

 

 再三情愛のことを語っているので情愛により意味されていることを述べよう。情愛は愛以外の何ものでもなく、愛の連続したものである。なぜなら愛から人間は悪と誤謬か、または善と真理か、その何れかに感動するからである。この愛は人間に属している凡ゆるものの中に全般的にもまた個別的にも現存しており、また存在しているため、それは愛としては認められないで、手元に在る事柄に応じて、またその人間の状態とその状態の変化に応じて多様なものとなっており、しかもそのことは絶えずその者が意志し、考え、行っている凡ゆる事柄の中に行われているのである。情愛と呼ばれるものは愛のこの連続したものであり、人間の生命を支配し、彼の歓喜の一切のものを作り、従って彼の生命そのものを作っているものはこの連続したものである、なぜなら人間の生命は彼の情愛の歓喜以外の何ものでもなく、かくて彼の愛の情愛以外の何ものでもないからである。愛は人間が意志することであり、派生的には彼が考えることであり、そのことによって彼が行動することである。

 

 

 

15.最も外なる情愛は身体のそれであり

 

 

天界の秘義3849[4]

 

最も外なる情愛は身体のそれであり、食欲、快楽であり、その次の内的な情愛は自然的なそれであって、自然的な情愛と呼ばれているが、しかし内なる情愛は合理的な心のそれであり、霊的な情愛と呼ばれている。この最後のものへ―心の霊的な情愛へ―教義的な真理が外的な情愛と最も外なる情愛により、または自然的な情愛と身体的な情愛とにより導入されるのである。ここからこれらの情愛は仕える手段であって、それらがラバンによりラケルとレアとに与えられた下婢[女中]により意味されているのである。彼らが『ラバン』の下婢と呼ばれていることは、それらがその起原をラバンにより表象されている善から―その善については前に述べておいたが、その善から―得ているということである。なぜなら初め学ばれる真理はそれらの情愛以外のいかような情愛によっても最初は導き入れることは出来ず、純粋な情愛は時の経過につれて現れてくるが、しかしその人間が善から行動するまでは現れないからである。

 

 

 

16.生命の状態は全般的に人間の年齢に応じて、特にその者の凡ゆる種類の情愛に応じて変化している

 

 

天界の秘義4005[3]

 

前に記したように(3993番)、悪が混入している善があり、誤謬が混入している真理があり、これらのものが混合し、融合しているものは巨億の数を越える程にも多種多様であって、また生命の凡ゆる状態に応じて変化しており、生命の状態は全般的に人間の年齢に応じて、特にその者の凡ゆる種類の情愛に応じて変化しているのである。

 

 

17.自発的なまたは自由なものは情愛または愛のものである

 

 

天界の秘義4031

 

何であれ情愛から発していないものはことごとく自発的なものでないものからまたは自由でないものから発しているのである、なぜなら自発的なまたは自由なものは情愛または愛のものであるから(2870番)。そのことはまた原語におけるその言葉の源泉から明白であり、それは欠陥を意味しているのである、なぜなら情愛の熱烈さが欠けていると、その時は自由は無くなってしまい、その時行なわれるものは自由でないと言われ、遂には強制的なものであると言われるからである。

 

 

 

18.聖いあこがれ

 

 

天界の秘義5365[3]

 

真理が考えられると、それに接合した善も同時に示され、善が喚起されると、それに接合した真理も同時に示され、その何れの場合にも情愛、欲求、歓喜、または聖いあこがれが伴っており、そのことからその連結の性質を知ることが出来るのである。

 

 

 

19.たれ一人真理によっては決して教えられはしないのであり、ただ真理に対する情愛によって教えられる

 

 

天界の秘義3066

 

ここから、『街の人々の娘たちが水を汲むために外に出て来ること』により、真理の情愛[真理に対する情愛]とその情愛を通して教えを受けることとが意味されていることが明白である。たれ一人真理によっては決して教えられはしないのであり、ただ真理に対する情愛によって教えられるのである。なぜなら真理は情愛を離れては実際耳には音声として来るには来るが、しかし記憶には入らないのであり、真理を記憶に入らせて、その中に止まらせておくものは情愛であるからである。なぜなら情愛の善は土のようなものであって、その中に真理が種子として播かれるからであるが、しかしその土のあるがままに(即ち、その情愛のあるがままに)、播かれたものから生み出されたものもなるのである。目的または用が土の、または情愛の性質を決定し、かくて播かれたものから生み出されるものの性質を決定するのであり、または、もしあなた方が以下のような表現を好まれるなら、愛そのものがそれを決定するのである、なぜなら凡ゆるものの中には愛が目的と用であるからである、なぜなら愛されるもの以外のものは一つとして目的と用としては顧みられはしないからである。

 

 

20.人間はその思考を見るが、その情愛を見ることが出来ない

 

神の摂理198

 

 人間はその生命の愛の或る情愛によらなくては思考を持たず、思考は情愛の形以外のものでないことは前に示した。しかし人間はその思考を見るが、その情愛を見ることが出来ないため(なぜなら彼はそれを感じるに過ぎないから)彼が自己の深慮が一切を行うと結論するのは、外なる外観を観察する彼の視覚によるものであって、彼の情愛によらないことが推論される、なぜなら情愛はそれ自身不可視的なものであって、単に感じられるに過ぎないから。情愛は考え推理する際の或る一種の歓喜と楽しさによってのみそれ自身を明らかにするに過ぎず、この歓喜と楽しさとは、自己への愛または世への愛から自分自身の深慮を信じる者の中に、思考と結合して、思考はその歓喜の中を流れ進んで行く有様は、船が河の流れの中を流れ進んでは行くが、船長はその流れには何ら注意を払わず、ただその張る帆にのみ気をつけているのに似ている。

 

 

 

21.神的なものは情愛のものである事柄の中にのみ流れ入る

 

 

天界の秘義5044[2]

 

 主が試練にある者たちを支配される手段はこの真理そのものではなくて、その真理の情愛[その真理に対する情愛]である、なぜなら神的なものは情愛のものである事柄の中にのみ流れ入るからである。人間の内部に植え付けられて、根を張っている真理は情愛によって植え付けられ、根を張った真理はそこに密着して、情愛により思い出され、そしてこの真理がそのようにして思い出されると、それは、それに連結しており、その人間の相互的な情愛であるところの情愛を提示するのである。これが試練にある人間の実情であるため、それでたれ一人成人期に達し、かくてその者が支配されることが出来る手段となる何らかの真理に浸透するまではいかような霊的な自然的な試練にも入れられないのであり、もしそうでないなら彼は試練の下に沈んで、その後の状態は最初の状態よりは更に悪くなるのである。これらの事柄から『牢屋の君[主]』により意味されているところの、試練の状態において支配している真理により意味されていることを認めることが出来よう。

 

 

 

 

22.情愛の破壊・・・剥奪

 

 

天界の秘義2694[3]

 

しかし説明のため例を考えられよ。凡ゆるものを自分自身の深慮に帰して、神的摂理[神の摂理]には僅かなものしか帰しはしない、または全く何一つ帰しはしない者らに、神的摂理[神の摂理]は普遍的なものであり、しかもそのことはそれが最も微細な事項の中にも存在しているためであり、髪の毛一筋さえも頭から落ちるならば、(即ち、いかほど小さな事柄であっても、もしそれが起るなら)それは必ず予見されており従ってそれに対して備えがなされているということが無数の理由により証明されるにしても、それでも自分自身の熟慮について抱かれている彼らの思考状態は、彼ら自身がその幾多の理由により納得するようになるその瞬間そのものの時を除いては、それによって変化はしないのである。否、その同じことが生きた経験により、彼らに立証されても、変化はしないのであり、彼らがその経験を見、またはその経験の中に置かれた丁度その瞬間には彼らはそれがそうであると告白するかもしれないが、しかし、数分後には、その前の状態に帰ってしまうのである。こうした事柄は思考に瞬間的には多少影響するかもしれないが、しかし情愛には影響しないのであり、情愛が破壊されない限り、思考はそれ自身の状態の中に止まるのである。なぜなら思考は情愛からその信念とその生命とを得ているからである。しかし心労と悲哀とが自分自身の無力という事実により彼らに刻み付けられて、しかもそれが絶望にさえも至ると、彼らの説得的なものは破壊され、彼らの状態は変化し、かくて彼らは自分は自分自身では何ごとも行うことが出来ない、力と深慮と理知と知恵はことごとく主から発しているという信念へ導き入れられることが出来るのである。信仰は、自己自身から発しており、善も自己自身から発していると信じている者たちの場合もこれに似ている。