目的

 

情愛支配愛

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである(マタイ7・1)

 

 

 

1.聖書

2.隠れた河の流れ

3.その者がその者自身に差し出しはするが、殆どたれにも明らかにはしないその幾多の目的を注意しさえすればよい

4.彼らが最も深く隠していた目的

5.自分の中に在る目的を知ることが賢人の務めである

6.このようにして彼は彼自身の中に地獄を作る

7.真理を理解する彼らの目的は誇ることであり

8.目的が行為の凡てを[行為の性質の凡てを]決定する

9.支配しているものは人間の中の目的である

10.意図または目的は人間の生命そのもの

11.宇宙には目的無しに造られたものは一つも無い

12.支配愛

13.目的は愛または情愛以外の何ものでもない

14.天使たちは人間の意志のみをかえりみている

15.目的は天的王国に、原因は霊的王国に、結果は自然界に在る

16.宇宙の凡ての働きは目的から原因を通して結果へ進んでいる。この三つは観念の中では分離しているように見えるけれど、それ自身では不可分離のもの

 

 

 

 

 

1.聖書

 

 

サムエル記上16・7

 

しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

 

 

 

詩篇7・10

 

あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし

あなたに従う者を固く立たせてください。

心とはらわたを調べる方

 神は正しくいます。

 

 

 

詩篇26・1−2

 

主よ、あなたの裁きを望みます。

わたしは完全な道を歩いてきました。

主に信頼して、よろめいたことはありません。

主よ、わたしを調べ、試み

はらわたと心を火をもって試してください。

 

 

 

エレミヤ11・20

 

万軍の主よ

人のはらわたと心を究め

正義をもって裁かれる主よ。

 

 

 

エレミヤ17・9−10

 

人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。

誰がそれを知りえようか。

心を探り、そのはらわたを究めるのは

主なるわたしである。

それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。

 

 

 

黙示録2・23

 

こうして、全教会は、わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。わたしは、あなたがたが行なったことに応じて、一人一人に報いよう。

 

 

 

 

2.隠れた河の流れ

 

 

新エルサレムの教義56

 

人間は何ものにもまさって愛しているものを目的としている。彼はそれを一切の物の中に追求している。それは彼の意志の中に隠れた河の流れのように存在しており、彼が何か他の事柄を行っている時でさえも、彼を引き寄せ、流し去って行く。なぜなら彼を生かしているものこそそれであるから。

 

 

 

真の基督教399(3)

 

人間が、何ものにも勝って愛するものは、彼の生活の主要な目的、目標であり、彼の思いから決して離れず、静かな川の流れのように彼の意志の中にひそみ、その直接の目的は如何なるものであれ、彼を押し流して行く。何故なら、それが彼の生命の原動力であるからである。人間の支配愛が他の者により発見されるならば、それは彼を導き、支配するために用いられるであろう。

 

 

 

天界の秘義1317

 

「そしてこれが彼らの為し始めるものである」。これは今や彼らが相違するようになり始めたことを意味していることは前後の関連から明白である。ここの『為し始める』ことは彼らの思考を、または意図を意味し、従って彼らの目的を意味しているが、それもまた次に記されている言葉から、即ち、『彼らが為そうと考えた凡てのものの中で何一つ彼らから遠ざけられはしないであろう』から明白である。内意では彼らの目的が意味されていることは、人間の目的以外には何ごとも主から顧みられはしないためである。人間の思考と行為とは何であれ―それは無数の方法で変化してはいるが、―もしその目的が善いものとされていさえすれば、それは凡て善であるが、それに反しその目的が悪であるなら、それはすべて悪である。人間が考えまた為す凡てのものを支配しているものは目的である。人間のもとにいる天使たちは主の天使であるため、人間の目的以外のものは何一つ支配してはいない、なぜなら彼らはその目的を支配している時は、またその人間の思考と行動をもまた、その思考と行動とは凡て目的から発しているため、支配するからである。人間における目的はその者の生命そのものであり、彼が考えたりまた行ったりするものはすべてその目的から生命を得ているのである、なぜなら前に言ったように、それらはその目的に属しているからであり、それで目的の如何が、その人間の生命の性質となっているからである。目的は愛以外の何ものでもない、なぜなら人間はその愛するもの以外のものは何ものをも目的とすることは出来ないからである。考えることと行うことが異なっている者でもその愛しているものを目的としている、即ち、たばかりそのものの中にも、または欺くことの中にも目的があり、それは自己への愛であり、または世への愛であり、そこから派生してくるその者の生命の歓喜である。こうした考察からたれでも人間の愛のいかんがその者の生命の性質となっていると結論ずけることができよう。それでこれらが『為し始めること』により意味されている事柄である。

 

 

 

天界の秘義1318

 

 人間における目的は、その人間の状態が変化しない限り、決して抑えられることは出来ない、即ち変えられることは出来ない、なぜなら目的は、すでに言ったように、人間の生命そのものであるからである。状態が変わる時、目的もまた変わり、目的とともに思考も変わるのである。

 

 

 

天界の秘義1568[]

 

何が外なる人を内なる人に相応させ、また一致させるか、また何がそれらを一致させないかを明らかにするには、支配している目的を、またはそれと同一のことではあるが、支配している愛を反省するのみで充分である、なぜなら愛は目的であるからである、なぜなら愛されるものはことごとく目的として認められるからである。かくてその生命は如何ような性質を持っているかが、またそれは死後如何ようなものになるかが明白となるであろう、なぜなら目的から、またはそれと同一のことではあるが、支配している愛から、生命は形作られていて、人間各々の生命はそれ以外の何ものでもないからである。永遠の生命に―すなわち永遠の生命である霊的な天的な生命に― 一致していないものは、もしそれが身体の生命の中で除かれないならば、他生において除かれなくてはならないのであり、もし除かれることが出来ないならば、その人間は永遠に不幸なものにならないわけにはいかないのである。

 

 

 

天界の秘義1909

 

「彼はハガルのもとへ入った」。これは内なる人が記憶知の情愛に属した生命と連結したことを意味していることは、『ハガル』の意義が(前の1節に説明された)『女中のエジプト人』の意義から明白である。外的な人に属している多くの情愛があって、すべてはその用に献げられているが、しかし知識(cognitiones et scientiae)の情愛は、それが私たちが真に合理的なものになることをその目標としている時は、すべての情愛より遥かに卓越しているのである、なぜならそのことによりそれは善と真理とをその目的としているからである。内なる人の生命そのものは自然的な人のあらゆる情愛に流れ入ってくるが、しかしそこでその目的に応じて変化するのである、それが世をその目的としている情愛に流れ入ると、この目的はその内なる人の生命により生かされて[活発にされて]、世的な生命が生まれてくるのであり、それが自己を目的としている情愛に流れ入ると、この目的はその生命により生かされて、形体的な生命がそこに生まれてくるのであって、他のあらゆる場合にも同じことがおこるのである。欲念と幻想とが生きるのはこのことから起っているが、しかしそれは善と真理との情愛に反した生命である。

 

 

 

[]流れ入ってくる生命は目的以外のいかようなものにも適用されはしない[用いられはしない]、なぜなら人間各々にあってはその者の目的が愛であり、そして生きているものは愛のみであるからである。他のすべてのものはそこから発した派生物にすぎないで、そのすべてのものはその生命をその目的から得ているのである。たれでも、自分の目的が何であるかを検討しさえするならば、自分はいかような種類の生命を持っているかを認めることができよう、自分の目的のすべては何であるかを探し出すのではなく―なぜならかれは意図と同数の、また思考の判断と結論とほとんど同数の無数の目的を持っているが、それらは単に中間的な[媒介的な]目的であって、第一次的な目的から多様に派生し、またそれを目指しているものにすぎないからである。―かれが他のすべての目的にまさって愛しており、それに比較すると他のすべてのものは無いものに等しい目的を探し出されよ。もしかれが自分自身と世とをかれの目的としているならば、その者の生命は奈落的なものであることを知られよ、しかしかれがその者の隣人の善を、共同の善を、主の王国を、とくに主御自身をその者の目的としているならば、彼の生命は天界的なものであることを知られよ。

 

 

 

天界の秘義3425[2]

 

目的のみが内なる人と外なる人とを対立させるか、または相応させるか、するものであり、ここに語られた富、快楽、歓喜が目的となる時それらは対立するのである、なぜならそうした場合内なる人に属している霊的なものと天的なものとは、侮蔑され、嘲弄され、否、斥けられるからである。しかしこのようなものが目的とされないで、更に高い目的に対する手段となる時は、すなわち死後の生活に、かくて天界の王国と主御自身に属している事柄に対する手段となる時は、相応するのである。こうした場合身体と世とに属している物はその人には比較上殆ど何ものでもないもののように思われ、彼はそれらのことについて考える時は、それらを単に目的に対する手段としてのみ評価するのである。

 

 

 

天界の秘義3562

 

「彼はかれにさわった[触れた]」。これは認識の凡てを意味していることは『さわる[触れる]こと』の意義から明白であり、それは最も内なる完全な認識であり(前の3528、3559番を参照)、ここでは認識の凡てである、なぜなら凡ゆる物を認識することは最も内なるものである認識から発しており、すなわち、最も内なる認識の中にいる者たちは下に存在している凡ての物を認識するからである、なぜなら最も内なるものはその下に在る物の凡てにおける凡てであるからには、下に在る物はそこから派生し、そこから構成されているもの以外の何ものでもないからである、なぜなら何であれ下に在る物はことごとく内的な物から発しない限り、または、それと同一のことではあるが、結果が有効原因から発するように、それにまさった物から発しない限り、それは存在するようにはならないからである。そしてこのことが目的が他生で人間を幸福にまたは不幸にする理由を示している、なぜなら目的が原因の中に存在しない限り、いな、それがその凡てのものでない限り、原因は存在しないほどにも、目的は凡ゆる原因の最も内なるものであるからであり、同じく目的は凡ゆる結果の最も内なるものである、なぜなら結果はこのような原因から発するからである。それがそうであるため、何であれ人間にぞくしているものはことごとく人間の中に在る目的からその存在を得ており、そこから他生ではかれの状態はかれの目的のあるがままのものとなっている(1317、1568、1571、1645、1909、2425番を参照)。このことからさわる[ふれる]ことは最も内なる認識を意味しているため、それでそれは凡ゆる認識を意味していることを認めることができよう。

 

 

 

 

 

 

 

3.その者がその者自身に差し出しはするが、殆どたれにも明らかにはしないその幾多の目的を注意しさえすればよい

 

 

天界の秘義3570[2]

 

 合理的なものは内なる人の中に在り、そこにいかようなものが処理されているかは自然的なものには知られてはいない、なぜならそれは自然的なものの観察のスフィア[領域]を越えているからである、こうした理由から単に自然的な生活を送っているに過ぎない人間はその内なる人の中に、即ち、その合理的なものの中に起っている事を何ら知ることは出来ない、なぜなら主はすべてこのようなものをことごとくその人間が知らないままに処理されるからである。ここから人間は自分がいかようにして再生しつつあるかを何一つ知らないし、また自分が再生しつつあることも殆ど知らないのである。しかしもしその者がそれを知りたいと願うならその者がその者自身に差し出しはするが、殆どたれにも明らかにはしないその幾多の目的を注意しさえすればよい。もしその幾多の目的が善の方へ向いているなら、即ち、もしその者が自分自身のことよりも隣人と主のことを更に心に掛けているなら、その時はその者は再生の状態の中にいるのであるが、しかしその幾多の目的が悪の方へ向っているなら、即ち、その者が隣人と主よりも自分のことを心にかけているなら、その場合は彼は何ら再生の状態の中にいないことを知らなくてはならない。

 

 

 

天界の秘義3570[3]

 

 人間はその者の生命の目的を通して他生の中におり、善の目的を通して天界の中に天使と共にいるが、しかし悪の目的を通して地獄の中に悪魔と共にいるのである。人間における目的はその者の愛以外の何ものでもない、なぜなら人間はその愛するものを目的とするからであり、その目的が彼の愛であるからには、目的は人間の最も内なる生命である(1317、1568、1571、1645、1909、3425、3562、3565番)。人間における善の目的は彼の合理的なものの中に在り、それは善の方面の合理的なもの、または合理的なものの善と呼ばれているものである。善の目的を通し、またはその中に在る善を通して、主は自然的なものの中に在る凡ゆる物を処理されるのである、なぜなら目的は霊魂のようなものであり、自然的なものはこの霊魂の身体のようなものであり、霊魂のあるがままに、霊魂を包み込んでいる身体もあり、かくして善の方面の合理的なもののあるがままに、その合理的なものが身に着けている自然的なものもあるのである。

 

 

 

 

4.彼らが最も深く隠していた目的

 

 

天界の秘義4104

 

目的は人間における最も内なるものであり、

 

 

 

天界の秘義7542

 

「あなたの心の中へ」。

これは、最も内なるもの[最内部]へ、を意味していることは、『心』の意義から明白であり、それは、意志に属し、かくて愛に属しているものであり、従って生命そのものに属しているものである、なぜなら愛は、意志に属して、生命そのものを作っているからであり、そこから『心』により最も内なるもの[最内部]が意味されている。善良な者における最も内なるもの[最内部]は主に対する愛と隣人に対する愛であるが、しかし悪い者における最も内なるものは自己への愛と世への愛であり、ここに意味されているものはこの(後の)最も内なるものである。この最も内なるものを取り巻いていて、いわばその円周のようなものを作っているものは幾多の悪であり、即ちその悪を支持する幾多の誤謬と共になった悪であり、そしてこれらの誤謬はそれらが悪を支持している順序[秩序]をとって排列されているのである。他生ではこれらのものはその排列されている秩序に従って解き広げられ、先ずその最も外なる円周を占めているものが明らかにされ、後には内的なものを占めているものが明らかににされ、遂には最も内なるものが明らかにされるのである。かくて人間は他生では多くの状態を通り抜け、徐々に、順次[継続的に]悪い者は、今し方述べたことに従って、幾多の災いに突進し、遂に地獄へ投げ込まれるのである。彼らが遂に到達する最も内なるものは彼らにおける地獄そのものである、なぜならそれは彼らの愛に属していた悪そのものであり、かくて彼らが凡ゆる物を行った目的であり、また世では彼らが最も深く隠していた目的であるからである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P371

 

行為を弁護し、その意味を変えるのは目的です。

 

 

 

天界の秘義3619

 

しかし知的な部分から発している認識はその部分に属しているものではなく、流入してくる意志の部分に属している、なぜなら知的な部分は形をとった意志の部分以外のものではないからである。そうしたものが意志の部分に連結しているときの知的な部分である、しかしそれがそのように連結していない中は、知的な部分はそれ自身により存在し、意志の部分もそれ自身により存在しているように見えるが、しかしこれは外なるものがそれ自身を内なるものから分離しているということ以外の何ものでもない、なぜなら知的な部分が何ごとかを内部で意志し[欲し]、考えるとき、その生命を形作り、そこにその考えを支配しているところの意志の部分から発している目的があるからである。知的な部分が目的から生命を得ている理由は、人間のもとに在る目的がかれの生命であるということであり(1909、3570番)、ここから表象的な意義において真理から発している何人かの認識とはいかようなものであるか、またその最高の意義において神的真理から発している主の認識のいかようなものであるかが或る程度明白になるであろう。

 

 

 

 

5.自分の中に在る目的を知ることが賢人の務めである

 

 

天界の秘義3796[2]

 

 真理の情愛[真理に対する情愛]と善の情愛[善に対する情愛]における実情は以下のようである、即ち、人間により認められる真理の情愛と善の情愛はすべて主から発しているため、神的な起原から発しているが、しかしそれらが下降するにあたって、途中で色々な異なった流れに分かれ、そこにそれ自らのために新しい起原を形作るのである、なぜならそれらはその人間の中の純粋なものではなくて似而非なる情愛の中へ、悪と誤謬の情愛に流れ入るままに、そのように変化するからである。これらの情愛は外なる形ではしばしばそれ自身を純粋な情愛のように示しているが、しかし内なる形ではこうした似而非なる性格をもっているのである。それらが知られる源泉となる唯一の特質はその目的である、もしそれらがその目的な方面で自己または世のためのものであるなら、そのときはこれらの情愛は純粋なものではないが、しかしその目的の方面で隣人の善、社会の善、国家の善のためのものであり、特に教会の善と主の王国の善のためのものであるなら、その時はそれらは純粋なものである、なぜならそうした場合それらは、主はそれらの善の中におあられるため、主のためのものであるからである。

 

 

 

天界の秘義3796[3]

 

 それで自分の中に在る目的を知ることが賢人の務めである。ときには自分の目的が自分のためのものではないのにそれでも自分のためのものであるかのように見えるのである、なぜなら凡ゆる事柄の中に自分自身を反省することが人間の性質であり、しかもそれは習慣と習癖から発しているからである。しかしもしたれでも自分の中に在る目的を知ろうと欲するなら、その者が自己が称賛され、自己に光栄を与えられてそこから自分自身の中に認める歓喜に、また自己を離れた用から認める歓喜に注意しさえすればよいのである、もし彼がこの後の歓喜を認めるなら、彼は純粋な情愛の中にいるのである。彼はまた自分がその中に置かれている種々の状態に注意しなくてはならない、なぜなら状態そのものが非常にその認識を変えるからである。人間は自分自身の中にこれらの事柄を探ることが出来るが、しかし他の者の中にはそうしたことは出来ないのである。なぜなら人間各々の情愛の目的は主のみに知られているからである。これが主が以下のように言われた理由である―

 

 審いてはならない、あなた方が審かれないためである、罪に定めてはならない、あなた方が罪に定められないためである(ルカ6・37)。

 

 なぜなら多くの者は真理と善との方面では類似した情愛の中にいるように見えるが、それでも人間各々は起原については、即ち、目的については、異なった情愛の中に在り得るからである。

 

 

 

天界の秘義3796[4]

 

 目的が情愛の性質を、即ち、それが純粋なものであるか、似而非なるものであるか、または誤ったものであるかを決定することは、人間の目的が彼の生命そのものであるためである、なぜなら人間は自分の生命に、またはそれと同一のものではあるが、自分の愛に属しているものをその目的とするからである。隣人の善が、全般的な善が、教会と主の王国の善が目的である時、その人間はその霊魂の方面では主の王国の中におり、かくて主の中にいるのである、なぜなら主の王国は人類の善を求める目的と用の王国以外の何ものでもないからである(3645番)。人間のもとにいる天使たち自身が専らその人間の目的の中にいるのである。人間が主の王国がその中に存在している目的のような目的の中に存在しているに応じて、益々天使たちはその者を歓び、その者に自分自身を兄弟に連結させるように連結させるが、しかし人間が自己の目的の中に存在しているに応じ、益々天使たちは退いてしまい、地獄から悪霊らが近づいてくるのである、なぜならそれ以外のいかような目的も地獄を支配してはいないからである、この凡てから私たちは情愛がいかような起原から発しているかを探り、またそれを知ることがいかに重要なことであるかを認めることが出来るのであり、そしてそのことは専ら目的のみから知られることが出来るのである。

 

 

 

天界の秘義3839[4]

 

善と真理から発しており、また善と真理とのものであるところの他の情愛の場合も類似しており、そのことはまた天使たちはひとえに目的の中におり、目的の用の中にいるという事実からも明白である(1317、1645、3845番)。目的は愛または情愛以外の何ものでもない(1317、1568、1571、1909、3425、3796番)、なぜなら人間はその愛するものを目的とみなすからである。実情はこうしたものであるため、天使たちは聖言の中にある事柄の情愛[事柄に対する情愛]の中におり、しかもそれは天使たちがその中にいるところの情愛の種類に応じ、凡ゆる変化を伴っているのである。このことから聖言はいかに聖いものであるかが充分に明白である、なぜなら神的な愛[神の愛]の中には、即ち、神的なものから発している愛の中には聖いものがあり、それで聖言に含まれている事柄の中にも聖いものがあるからである。

 

 

 

天界の秘義4307

 

人間のもとに霊が現存することはその人間の愛に従って決定されているのである。善良な霊と天使とは霊的な天界的な愛の中にいる者たちのもとにおり、悪霊はひとえに身体的な世的な愛の中にのみいる者らのもとにおり、しかもそのことはたれでも自分のもとにいるその霊の性質を単に自分の愛の性質を観察することのみで、またはそれと同じことではあるが、自分の目的の性質を観察するのみで知ることが出来るほどにもなっているのである、なぜならたれでも自分が愛しているものを目的として持っているからである。

 

 

 

 

6.このようにして彼は彼自身の中に地獄を作る

 

 

天界の秘義4104[5]

 

 成人期の者で何らかの判断を持ち、その事柄に何らかの考察を与えようとする者はたれでも自分が二つの王国の中に、すなわち、霊的な王国と自然的な王国との中にいることを知ることができ、また霊的な王国は内的なものであって、自然的な王国は外的なものであり、従って自分は一方のものを他方のものの前に置くことができ、すなわち、一方のものを他方のものにまさって目的として認め、かくて自分がその目的として認め、または優先させるものが自分を支配することを知ることができるのである。それでもかれが霊的な王国をその目的として認め、それを(すなわち、そお王国にぞくしているものを)優先させるなら、そのときはかれは主に対する愛と隣人に対する愛とを第一次的なもの、主要なものとして承認し、従ってこの愛と仁慈とを確認して、信仰のものであると言われているものをすべて第一次的なもの、主要なものとして承認するのである、なぜならこれらのものはその王国にぞくしているからであり、その場合かれの自然的なものにおける凡ゆる物は、仕え服従するために、それに順応して排列され、秩序づけられるからである。しかし人間が自然的な王国を(即ち、それに含まれているものを)彼の目的として、それを最初におくと、その時は彼は主に対する愛と隣人に対する仁慈のものである凡てのものを、信仰のものである凡てのものを消滅させてしまい、それらを全く些かもとるに足らないものとしてしまうが、しかもそれは世と自己を求める愛とそれに属している凡てのものを一切のものとするほどにもなるのである。こうしたことが行なわれると、彼の自然的なものにおける凡てのものはこれらの目的に順応して秩序をもって排列され、かくて天界のものには全く反して排列され、このようにして彼は彼自身の中に地獄を作るのである。

 

 

 

 

7.真理を理解する彼らの目的は誇ることであり

 

 

天界の秘義4802[3]

 

私は身体の生命にいた頃このようなものであった二人の人物と語ったが、彼らは自分たちが信仰の諸真理を確信しているのに、地獄にいることを怪しんだのである。しかし彼らは以下のように話されたのである、すなわち彼らのもとでは彼らが真理を理解する手段となった彼らの光は世の冬の光のような光であって、その光の中では、凡ての物は麻痺していて、楽しい、喜ばしい物は一つとして生まれはしないのであり、真理を理解する彼らの目的は誇ることであり、従って自己であったため、かれらの目的のスフィアが内的な諸天界に向って、そこの目的のみを認識する天使たちの方へ上昇すると、それは堪えられることが出来ないで、斥けられてしまうのであり、そうした理由から彼らは地獄にいるのである。

 

 

 

 

8.目的が行為の凡てを[行為の性質の凡てを]決定する

 

 

天界の秘義4839

 

即ち、悪の意図または目的から発生しない、または流れ出ないものは、例え時として悪のように見えはするものの、その目的が悪ではない限り、悪ではないのである、なぜなら目的が行為の凡てを[行為の性質の凡てを]決定するからである。なぜなら人間はその愛し、そこから考えるものをその目的としているため、人間の生命はその目的の中にあり、人間の霊魂の生命はそれ以外のものではないからである。

 

 

 

 

9.支配しているものは人間の中の目的である

 

 

天界の秘義5159[4]

 

 この例は再生していない者と再生している者の特質をそれぞれ示しており、また外形では彼らは似ているように見えるが、しかし内なる形では全く似ていないことを示しているのである。以上言ったことからこれらの部類の人物の中に状態の変化と転倒とを生み出す理由はいかようなものであるか、またそれはいかような性質のものであるかもまた明白である。また更に再生した者の中には内的な物は外的な物を支配しているに反し、再生していない者の中には外的な物が内的な物を支配していることを認めることが出来よう。支配しているものは人間の中の目的である、なぜなら目的は人間の中に在る凡ての物をその目的そのものに服従させ、従属させるからである。彼の生命そのものは彼の目的以外のいかような源泉からも発してはいないのである、なぜなら彼の目的は常に彼の愛であるからである。

 

 

 

天界の秘義5949

 

「なぜならエジプトの全地の善いもの、これがあなたたちのためにあるからです」。これは彼らが自然的な心における主要なものを得ることを意味していることは、『エジプトの地』の意義から明白であり、それは自然的な心であり(5276、5278、5280、5288、5301番)、『この全地の善いもの』により主要なものが意味されているのである。これらの言葉によりまた、もし本質的なものがかえりみられて、手段的なものがかえりみられないなら、本質的なものは手段的なものを豊かに得ることが意味されているのである。例えば、もし真理がかえりみられるなら、それは『エジプトの地の善いもの』である記憶知を豊かに得るのである。同様にもし善がかえりみられるなら、善は真理を豊かに得るのである。記憶知も、また真理もかえりみられねばならないが、しかし人間は善を目的として認めなくてはならない。もし善を目的として善に目が注がれるなら、そのときはその人間はその善から生まれてくる物を充分に観察するのであり、またはその善から由来してくる物を認識するが、そうした認識は善が目的とならない限り、すなわち、善が一切の各々の物を遍く支配していない限り、決して在り得ないのである。

 

 

 

天界の秘義5949[3]

 

 目的としてかき抱くことの何であるかを僅かな者しか知っていないため、このこともまた話さなくてはならない。目的としてかき抱くことは他の凡ての物にもまさって愛することである。なぜなら人間はその愛するものを目的とするからである。人間が目的としてかき抱くものは明らかに認められる、なぜならそれは彼を遍く支配しており、彼がそれを少しも考えていないように彼自身に見える時でさえも絶えず現存しているからである。なぜならそれは内部に在って、彼の内的な生命を作り、かくて秘かに一切の、各々の物を支配しているからである。例えば、心からその両親を尊敬している者のもとでは、この尊敬は彼がその両親の前で行う凡ての物の中にも、また両親が不在の間に考える凡ての物の中にも現存しており、またその態度や言葉からも認められるのである。心から神を恐れ、尊んでいる者の場合も同様であり、この恐れと崇拝とは彼が考え、話し、行う凡ての物の中に現存しているのである。なぜなら例えば、彼がその恐れ、尊崇から遥か離れているようにも見える仕事に携っているときのように、その恐れ、尊崇が現存しているようには見えない時ですら、それは彼の中に存在しているからである。なぜならそれは遍く、一切のものを支配しており、かくて凡ゆる細々とした事柄をも支配しているからである。人間を支配しているものは他生では明らかに認められるのである、なぜなら彼から放出される彼の全生命のスフィアはそこから発出しているからである。

 

 

 

天界の秘義5949[4]

 

 この凡てから神を絶えず眼前に仰がなくてはならないということは如何ように理解されなくてはならないかが明白である。即ち、それは神を絶えず考えなくてはならないということではなくて、神に対する恐れ、または愛が遍く支配しなくてはならぬということであり、そうした場合神は凡ゆる細々とした事柄の中においても眼前に仰がれているのである。こうした場合、その人間は神に反抗し、神の心を痛めることを考えはしないし、語りはしないし、行いはしないのであり、もしそうしたことを行なうなら、遍く支配して、内に隠れているものが、現れてきて、彼を戒めるのである。

 

 

 

 

10.意図または目的は人間の生命そのもの

 

 

天界の秘義6571

 

善と真理とから離反した人間は善を意図することが出来ないため、悪以外には何ものも意図しない。そして彼の意図するものは彼を支配し、それで彼の凡ゆる思考の中に存在し、また彼の最小の細々したことの一切のものの中にすら存在しているのである、なぜなら意図または目的は人間の生命そのものであり、目的は人間の愛であり、愛は人間の生命であるからである。さらに、人間はその人間の目的と正確に同一のものであり、またそれが天界の光の中のその人間の像[形、イメージ]であり、そして―このことはあなた方を驚かせるかもしれないが―人間の全般的な形が彼の意志の最小のものの形ともなっているのである。かくてその人間全体はその目的と同一のものとなっている。

 

 

 

天界の秘義6571[2]

 

 このことから悪い目的である人間は善い目的である者たちの間には決していることは出来ず、かくて地獄にいる者は天界には決していることは出来ないことが明白である、なぜならその目的は互に争って、善い目的は神的なものから発しているため、支配するからである。ここからまた何人でも慈悲のみから天界に入れられることが出来ると信じる者は正しく考えていないことが明白である、なぜなら悪い目的である者が天界へ入るなら、その生命は死の苦悶をなめている者のように苦しみ、凄まじい呵責にさらされ、さらに彼は天界の光の中では悪魔として現れもするからである。ここから真理と善から離反した者らは悪以外には何ごとも考えることは出来ないことは明白であり、この悪は彼らの思考と意志との最小のものの中にさえも存在していることは、こうした霊たちから遥か遠くにまでも放出されているスフィアからも非常に明らかである、なぜなら彼らの性質はそのことにより認められるからである。このスフィアはその生命の細々した一切のものからも放出されている霊的な蒸発気のようなものである。

 

 

 

霊界日記801

 

 目的が人間を処理し、人間の生命はその目的の中に在り[その目的から成り]、その目的の大半は人間の愛であり、その目的が共に合して、いわば人間の霊魂となり、そのようなものにその霊魂はなるのである。なぜなら人間の霊魂はただ目的を顧慮するのみであって、その目的の総合体であるからである。かくて人間はその身体の生命の間に自らのためにその霊魂を形作るのであり、その霊魂とは彼の気質と本能である。

 

 

 

 

11.宇宙には目的なしに造られたものは、一つもありません

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P266

 

実に宇宙には目的なしに造られたものは、一つもありません。神は、ご自分の完全な力を、無用なことのために費やされるはずはありません。

 

 

 

 

12.支配愛

 

 

天界の秘義7648

 

『満たされること』は支配することを意味していることは人間の心から発した誤謬に満ち、彼が誤謬によりそそのかし、悪を行うことに歓喜を覚える程にもなると、その時は『誤謬が彼を支配している』と言われ、その情愛そのものが『支配している』と言われるためである。人間の全心に、即ち、その思考にも意志にも満ちるものは『遍く支配する』と言われ、かくて人間が凡ゆる物にも優って愛し、究極の目的として認めるものが彼を支配するのであり、それは彼の意志と思考との個々のものそのものの中にも存在するのである。遍く支配しているものはいかような性質を持っているかは、それが成功する時のその歓喜から、またそれが成功しない時のその苦痛から知ることが出来よう。人間を遍く支配しているものはその人間の霊の外なる形を作るのであり、その顔は全くそれに順応しているのである。もし悪と誤謬とが支配しているものであるなら、その霊の形は悪魔的なものであるが、もし善と真理とが支配するものであるなら、その形は天使的なものである。なぜなら霊は、それ自身において認められるなら、形をとった情愛[情愛の形]であり、その支配している情愛はその形そのものであり爾余のその諸情愛はその支配している情愛[の用]にそれ自身を充当[適用]させているからである。

 

 

 

 

13.目的は愛または情愛以外の何ものでもない

 

 

天界の秘義1568[]

 

何が外なる人を内なる人に相応させ、また一致させるか、また何がそれらを一致させないかを明らかにするには、支配している目的を、またはそれと同一のことではあるが、支配している愛を反省するのみで充分である、なぜなら愛は目的であるからである、なぜなら愛されるものはことごとく目的として認められるからである。かくてその生命は如何ような性質を持っているかが、またそれは死後如何ようなものになるかが明白となるであろう、なぜなら目的から、またはそれと同一のことではあるが、支配している愛から、生命は形作られていて、人間各々の生命はそれ以外の何ものでもないからである。永遠の生命に―即ち永遠の生命である霊的な天的な生命に― 一致していないものは、もしそれが身体の生命の中で除かれないならば、他生において除かれなくてはならないのであり、もし除かれることが出来ないならば、その人間は永遠に不幸なものにならない訳にはいかないのである。

 

 

 

 

14.天使たちは人間の意志のみをかえりみている

 

 

天界と地獄61

 

 天使たちは人間をこのように考えているため、彼らは、人間がその身体で為す事柄を全くかえりみないで、身体がその事柄を為す源泉である意志のみをかえりみている。これを[意志を]彼らは人間自身と呼び、また理解を、それが意志と一つのものとなって活動するかぎり、人間自身と呼んでいる。

 

 

 

 

15.目的は天的王国に、原因は霊的王国に、結果は自然界に在る

 

 

聖書[6]

 

これらの例から、聖言の霊的なものと天的なものとが、その霊的なものと天的なものとを宿しているその自然的意義からいかようにして展開され、引き出されるかを認めることが出来よう。驚嘆すべきことには、天使たちはその意義を人間が考えていることを知ることもなしに引き出しはするものの、その天使たちとその人間たちとの思いは、目的、原因、結果のように、相応によって一つのものとなっているのである。さらに目的は事実天的王国に、原因は霊的王国に、結果は自然界に在るのである。相応によるこの連結は創造からこうしたものとなっている。それでこれが人間が聖言によって天使たちと共になる源泉となっている。

 

 

 

 

16.宇宙の凡ての働きは目的から原因を通して結果へ進んでいる。この三つは観念の中では分離しているように見えるけれど、それ自身では不可分離のもの

 

結婚愛400

 

「生み出す愛のスフィアは秩序をもって目的から原因を経て結果へ進んで周期を形作り、それを通して創造は先見され、供えられた状態を維持されている」。宇宙の凡ての働きは目的から原因を通して結果へ進んでいる。この三つは観念の中では分離しているように見えるけれど、それ自身では不可分離のものであり、しかもそこの目的は意図された結果とともに見られない限り無意味である。またその何れも原因が支え、先見し、連結させない限り、いかような物にもならない。こうした進展が凡ゆる人間に、丁度意志、理解、行動のように、全般的にも、また個別的にも印刻されている。そこでは目的は凡て意志に、原因は凡て知恵に属しており、結果は凡て行為に属しており、同じく目的は凡て愛に属し、有効原因は凡て知恵に属し、そこから発している結果は用に属している。その理由は意志は愛を受容する器であり、理解は知恵を受容する器であり、行動は用を受容する器であるということである。それで人間の働きは、全般的にもまた個別的にも、意志によって理解を通し行動へ進んでいるからには、同じくまたそれは愛から知恵を通して用へ進んでいる。しかしここに知恵により判断と思考に属した凡ゆるものが意味されている。この三つは結果の中で一つのものになっていることは明らかである。それらはまたその結果以前では観念の中で一つのものとなっており、そのことは決定のみが間に介在しているに過ぎないという事実により認められている、なぜなら心の中で目的は意志から発して、それ自身のため理解の中で原因を生み、そこにそれ自身に向かって意図を提示するが、意図は決定以前の行動のようなものであるから。それで意図は賢人によりまた主により行為として受け入れられている。いかなる合理的な人間が、この三つは何か最初の原因から流れ出ていることを、その最初の原因は、宇宙の創造者で保持者であられる主から絶えず愛、知恵、用が流れ出て、しかもその三つは一つのものとして流れ出ているということであることを聞くとき、それを認め、または承認することが出来ないか。それらは他のいかような源泉から発するかを、もし可能なら、言って見られよ。