支配愛

 

スフィア目的

 

 

1.人間はその欲しないことを語り、または行っている時でさえも、その人間を支配している意志の何ものかが、その言葉または行為から隔たったところに存在している

2.人間はその意志または支配愛のあるがままに永遠に生きる

 

 

 

 

1.人間はその欲しないことを語り、または行っている時でさえも、その人間を支配している意志の何ものかが、その言葉または行為から隔たったところに存在している

 

 

天界の秘義585

 

 「人の悪が地に多くなったこと」により善の意志が全く無くなりはじめたことが意味されていることは、前に述べたことから、即ち、最早いかような意志もなく、単に欲念のみが在ったに過ぎなかったことから明らかであり、また『地の人』の意義からも明らかである。文字の意義では『地』は人間が居る所である。内意ではそれは愛が存在する所であり、そして愛は意志または欲念に属しているため、地は人間の意志そのものを意味していると考えられる。なぜなら人間は意志する[欲する]ことから人間であり、知りまた理解することからは人間ではないからである、それは後のものは人間の意志から流れ出ていてその意志から流れ出ていないものは凡て彼は知ることも理解することも欲しないのであり、いな、人間はその欲しないことを語り、または行っている時でさえも、その人間を支配している意志の何ものかが、その言葉または行為から隔たったところに存在しているためである。

 

 

 

 

2.人間はその意志または支配愛のあるがままに永遠に生きる

 

 

天界と地獄478

 

[第二に]人間はその意志または支配愛のあるがままに永遠に生きる。[第三に]天界的な霊的な愛を持つ人間は天界へ入るが、天界的な霊的な愛を持たないで、形体的な世的な愛しか持たない者は地獄へ入る。

 

 

 

天界と地獄480

 

「人間はその意志または支配愛のあるがままに永遠に生きる」

(中略)

各々の者はその者自身の愛である以上は、何人のもとにもその支配愛の生命は永遠に決して変化しないと天使たちから言われた。それで霊の中のその愛を変えることは彼からその生命を奪うことであり、または彼を絶滅させることである。

 

 

 

 

 

 

 

 

天界の秘義1316

 

 こうした状態が人間を支配すると、それに似たものが彼の考える個々の思考のすべての中に存在し、その思考の最小の事項の中にさえも存在するのである、なぜならたれであれその人間を支配するものは何であれ、そのようなものになるからである。

 

 

 

天界の秘義1316[2]

 

このことは身体の生命の中では他生における程には明白に現れない、なぜならそこではたれであれその人間を支配しているものはことごとく何かのスフィア[霊気]によってそれ自身を明らかに示しており、このスフィアはその者の周囲の凡ての者によって認められ、それがそうした性格を持っているのは、それがその人間の中にある個々の凡てのものから発散しているためである。凡ゆる事柄の中で自分自身を顧慮する者のスフィアはそのスフィアそのものに有利なものをことごとくそれ自身に専有し、また、そこに言われているように、それをことごとく吸収してしまうためこうした人物は社会から追放されなくてはならないのである。

 

 

 

天界の秘義1812

 

たれでも愛から戦うが、その愛からその者の信仰がいかようなものであるかが知られている。隣人に対する、主の王国に対する愛以外の愛から戦う者は信仰から戦うのではなく、即ち、『エホバを信じている』のではなく、その者の愛しているものを信じているのである、なぜなら彼がそのために戦う愛そのものが彼の信仰であるからである。例えば、天界で最大のものになろうとする愛から戦う者はエホバを信じているのではなく、むしろ自分自身を信じているのである、なぜなら最大のものになろうと欲することは他の者を支配しようと欲することであり、かくて彼は命令のために戦うのであり、このことは他のすべての場合にもあてはまるからである。かくてたれでもその戦う源泉となっている愛そのものからその者の信仰はいかようなものであるかを知ることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義1812〔2〕

 

しかし主はそのすべての試練の争闘において自己を求める愛から、または御自身のためには決して戦われないで、宇宙のすべての者のために戦われたのである、従って天界における最大のものになるために戦われたのではないのである、なぜならこれは神的愛に反しているからである、また主は最小のものになるためにさえもほとんど戦われはしないで、ただ他のすべての者が何か有意義なものになって救われるためにのみ戦われたのである。主もまたマルコ伝にそのように言われているのである―

 

  ゼベダイの二人の息子が言った、私らの一人があなたの右手に、他の一人があなたの左手に、あなたの栄光の中に坐るようにしてください、と。イエスは言われた、たれでもあなたらの中で偉大なものになりたい者はあなたらに仕える者とならなくてはならない、またたれでもあなたらの中で最初の者になりたいものはすべての者の僕とならなくてはならない。人の子が来たのもまた仕えられるためではなくて、仕えるためであり、また多くの者の贖いとして、その魂[生命]を与えるためである(マルコ10・37、43−45)。

 

 

 

天界の秘義5130

 

信仰の実情は以下のごとくである、信仰を受け入れて、信仰を持っている者は、他の事を考えたり、または話している時でさえも、また公けの、私の、または家庭の義務を果たしている時も、例え自分はその時主のことを心にかけていることを知ってはいないものの、絶えず主のことを心にかけているのである、なぜなら信仰を持つ者たちが主を追憶することは遍く彼らに行き渡っており、遍く行き渡っているものは思いがそこへ向けられている間を除いては認められはしないからである。

 

 

 

天界の秘義5130[2]

 

 このことは人間の種々のものにより説明することが出来よう。何かを愛している者は、それが何であっても、その愛に属しているものを何であれ絶えず考えており、しかもそのことは彼が他の事柄を考えており、語っており、または行っているにしても為されているのである。他生ではこのことは各自の周囲の霊的なスフィアから非常に明白である、なぜならただそのスフィアから、そこにいる凡ての者は、いかような信仰に、またいかような愛にいるかが知られ、しかもそのことは例え彼らが全く異なったことを考え、語っているにしても行われているのである(1048、1053、1316、1504−1520、2489、4464番を参照)、なぜならたれかの中に遍く行き渡っているものは[たれかを遍く支配しているものは]その行き渡っているものの[その支配しているものの]スフィアを生み出して、その者の生命を他の者の前に示すからである。このことから、私たちは主、救い、死後の生命について絶えず考えていなくてはならないと言われる時意味されていることを認めることが出来よう。仁慈から信仰の中にいる者たちは凡てそのことを行っており、それゆえ彼らは隣人を悪く考えないで、その思い、言葉、行為の凡ゆるものの中に公正と公平とを持っている、なぜなら主は仁慈とそこから派生している信仰とに属しているものの中に公正と公平とを持っている、なぜなら主は仁慈とそこから派生している信仰とに属しているものの中に彼らの心を維持され、凡ゆるものをそれに順応して処理されているため、遍く行き渡っているものは[遍く支配しているものは]個々のものに流れ入り、それを導き、支配するからである。仁慈から発した信仰のスフィアは天界を支配しているスフィアである、なぜなら主は愛と共に流れ入られ、愛を通して仁慈と共に流れ入られ、従って信仰のものである真理と共に流れ入られ、ここから天界の中にいる者たちは主の中にいると言われているからである。

 

 

 

天界の秘義5130[3]

 

仁慈が信仰に流れ入って、それに生命を与えない限り、信仰は全般的に支配することは出来ないのである、なぜなら人間の愛するものが支配するが、人間が単に知って、記憶に止めているに過ぎないものは支配しないからである。

 

 

 

天界の秘義5949[3]

 

 目的としてかき抱くことの何であるかを僅かな者しか知っていないため、このこともまた話さなくてはならない。目的としてかき抱くことは他の凡ての物にも優って愛することである。なぜなら人間はその愛するものを目的とするからである。人間が目的としてかき抱くものは明らかに認められる、なぜならそれは彼を遍く支配しており、彼がそれを少しも考えていないように彼自身に見える時でさえも絶えず現存しているからである。なぜならそれは内部に在って、彼の内的な生命を作り、かくて秘かに一切の、各々の物を支配しているからである。例えば、心からその両親を尊敬している者のもとでは、この尊敬は彼がその両親の前で行う凡ての物の中にも、また両親が不在の間に考える凡ての物の中にも現存しており、またその態度や言葉からも認められるのである。心から神を恐れ、尊んでいる者の場合も同様であり、この恐れと崇拝とは彼が考え、話し、行う凡ての物の中に現存しているのである。なぜなら例えば、彼がその恐れ、尊崇から遥か離れているようにも見える仕事い携っている時のように、その恐れ、尊崇が現存しているようには見えない時ですら、それは彼の中に存在しているからである。なぜならそれは遍く、一切のものを支配しており、かくて凡ゆる細々とした事柄をも支配しているからである。人間を支配しているものは他生では明らかに認められるのである、なぜなら彼から放出される彼の全生命のスフィアはそこから発出しているからである。

 

 

 

天界の秘義6159

 

人間は再生しつつあるに応じて、善は彼に属している一切のものの中にそれ自身を導入するのである。なぜなら善の情愛[善に対する情愛]が彼を普遍的に支配するものとなり、普遍的に支配しているものはまた個別的にも、すなわち、一切のものを支配しているからである。このことは各人を支配している情愛から認めることが出来よう。この情愛は、それはいかようなものであろうと、彼の意志の個々のもの各々の中に、また彼の思考の個々のもの各々の中に現存しており、それは思考の中に現存しているようには必ずしも見えはしないものの、それでもその中に存在しているのである。それが現存しているように見えはしない理由は、これらの瞬間ではそれが対象により導入される諸情愛を着せられているということであるが、しかしこれらの諸情愛が脱ぎ捨てられると、その支配愛は明白に見えてくるのである。

 

 

 

天界の秘義6159[2]

 

 このことは霊たちと天使たちとの場合に最も良く認めることが出来るのである。悪い霊は、または悪に支配されている霊は、真のことを話し、善いことを行っている時でさえも、一切のものにおいて悪である。なぜならこの凡てにおいて彼らは、他を欺いて、善良な者であると信じられようとの、かくて善の仮面の下にたぶらかそうとの意図のみしか抱いていないからである。こうした場合、それは彼らの言葉の語調そのものから明らかに聞かれ、また彼らのスフィアからも認められるのである。善に支配されているところの、即ち、善に遍く支配されている天界の天使たちは、一切のものにおいて善である。または、換言すると、彼らのもとでは主から発している善が一切のものの中に輝き出ているのである、なぜなら例え彼らがその外なる形の中では何か悪を行うにしても、そこから善が生れるようにということが彼らの目的または意図となっているからである。この凡てから、善が遍く支配している所では、それは一切のものを支配していることが明白である。悪も同じである。なぜなら遍く支配しているものは一切のものが同一の性質のものとなった時に始めて存在するようになり、普遍的なものはこの一切のものの性質と量とに順応しているからである。なぜなら普遍的なものと呼ばれているものは、それが凡てのものの中に個別的に存在しているという事実から普遍的なものとなっているからである。

 

 

 

天界の秘義6571

 

善と真理とから離反した人間は善を意図することが出来ないため、悪以外には何ものも意図しない。そして彼の意図するものは彼を支配し、それで彼の凡ゆる思考の中に存在し、また彼の最小の細々したことの一切のものの中にすら存在しているのである、なぜなら意図または目的は人間の生命そのものであり、目的は人間の愛であり、愛は人間の生命であるからである。さらに、人間はその人間の目的と正確に同一のものであり、またそれが天界の光の中のその人間の像[形、イメージ]であり、そして―このことはあなた方を驚かせるかもしれないが―人間の全般的な形が彼の意志の最小のものの形ともなっているのである。かくてその人間全体はその目的と同一のものとなっている。

 

 

 

天界と地獄480

 

「人間は死後その意志または支配愛のあるがままに永遠に生きる」

 

 

 

天界の秘義6690

 

しかし自然的なものにおける真の記憶知の配置は人各々のもとでは異なっている、なぜなら支配している愛がその記憶知に形を生み出しており、(即ち)、この愛が真中に在って、その周囲に凡ゆるものを秩序づけているからである。それは〔その支配している愛は〕それに最も一致している物をそれ自身の次に置き、他の凡ゆる物をその一致性に従って秩序正しく配置するのである。そこから(幾多の)記憶知はその形を得るのである。もし天界的な愛が支配するなら、その時は凡ゆるものはそこに主により天界の形に配置されて、その形は天界の形に似たものとなり、かくて愛の善の形そのものとなるのである。この形に諸真理は配置され、その諸真理が、そのように配置されると、善と一つのものとなり、その時は一方のものが主により呼び出されると、他方のものも呼び出され、即ち、信仰の幾多のものが呼び出されると、仁慈の幾多のものも呼び出され、逆に仁慈の幾多のものが呼び出されると、信仰の幾多のものも呼び出されるのである。これが『神は助産婦のために家を作られた』により意味されている配置である。

 

 

天界の秘義7648

 

「そしてあなたの家は(それに満ち)、またあなたの僕の家も、凡てのエジプト人の家も(それに満ちるであろう)」。

これは誤謬が自然的なものにおける一切のものを、その内的なものからその最も外なるものに至るまでも支配するであろう、を意味していることは以下から明白である、即ち、『満たされること』の意義は支配することであり(そのことについてはやがて述べよう)、『パロの家とその僕のすべての家とエジプト人のすべての家』の意義は自然的なものにおける一切のものであり(7353、7355番を参照)、ここでは(前の7645番に明らかにされた事柄に従って)その内的なものからその最も外なるものにまでも至るもの、である。『満たされること』は支配することを意味していることは人間の心から発した誤謬に満ち、彼が誤謬によりそそのかし、悪を行うことに歓喜を覚えるほどにもなると、その時は『誤謬が彼を支配している』と言われ、その情愛そのものが『支配している』と言われるためである。人間の全心に、即ち、その思考にも意志にも満ちるものは『遍く支配する』と言われ、かくて人間が凡ゆる物にもまさって愛し、究極の目的として認めるものが彼を支配するのであり、それは彼の意志と思考との個々のものそのものの中にも存在するのである。遍く支配しているものはいかような性質を持っているかは、それが成功する時のその歓喜から、またそれが成功しない時のその苦痛から知ることが出来よう。人間を遍く支配しているものはその人間の霊の外なる形を作るのであり、その顔は全くそれに順応しているのである。もし悪と誤謬とが支配しているものであるなら、その霊の形は悪魔的なものであるが、もし善と真理とが支配するものであるなら、その形は天使的なものである。なぜなら霊は、それ自身において認められるなら、形をとった情愛[情愛の形]であり、その支配している情愛はその形そのものであり爾余のその諸情愛はその支配している情愛[の用]にそれ自身を充当[適用]させているからである。

 

 

 

天界の秘義8067

 

「あなたの目の間にあって記念のもの(とならなくてはならない)」。これはそれが絶えず理解の中に存在しなくてはならないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『記念のもの』の意義もまた絶えず憶い思い出させるものであり(『記念のもの』と言われているのは、聖言ではこれは理解について述べられるに反し、『しるし』は意志について述べられるためである)、『目』の意義は理解であり(2701、3820、4403−4421、4523−4534番を参照)、従って『目の間の記念のもの』によりそれが絶えず理解の中に、即ち、思考の中に存在しなくてはならないことが意味されている。それが絶えず理解の中にあり、また絶えず意志の中になくてはならないことをいかに理解しなくてはならないかを簡単に述べなくてはならない。信仰と仁慈とにより印刻されたものは、または人間が十分に信じもし愛してもいるものは絶えず彼の思考と意志の中に存在しているのである、なぜなら彼は他の事柄について考え、またその事柄のために忙しく、そうしたものが心の中に現存しているとは考えていない時でさえも、そのものを考えもし、意志も〔欲しも〕しているからである、なぜならそのものはその心の性質を構成しているものの間に在るからである。それがそうであることは、霊または天使を囲んでいる霊的なスフィアから明白である、なぜなら彼が近づいてくると、そのスフィアから彼はいかような信仰を、いかような仁慈を持っているかが知られ、また彼が心に抱いている多くの事柄も知られ、しかもそれがその時彼はそれらのものについて考えていないにも拘らず知られるからである。そうしたものが各々の者の心を構成しており、それらのものが常にそれらのもの自身をそこに留めているのである。こうしたものは人間のもとにある非常に多くの事柄を例にとって説明することが出来よう、例えば色々な反省とは、情愛とか、幼児時代から印刻されている行動とか、そういったものにより説明することが出来よう、そうしたものは、そのことについては明らかに何ら考えてはいないにしても、絶えずその場にあって、導いているのである。隣人に対する愛、神に対する愛、善と真理とを求める愛、信仰にあっても、それは同じであり、そうしたものの中にいる者たちは絶えずそうしたものを欲し、考えているのである、なぜならこうしたものは彼らの中に存在しており、それが内に在る時は、それは『遍く支配している』と言われるからである(6159、6571、7648番)。

 

 

 

仁慈の教義

 

天界の秘義8853

 

 人間は各々何物にもまさって愛しているその者自身の何かを持っている。これは彼を支配しているものと呼ばれ、またはもしあなたが(以下の表現を)願われるなら、彼を遍く治めているものと呼ばれている。これは絶えず彼の思考の中に、また意志の中に現存しており、彼の生命そのものを作っている。

 

 

 

天界の秘義8854

 

 例えば、金であれ、財産であれ、富を何物にもまさって愛している者は、いかようにしてそれを得ようかと絶えずその心の中で思い巡らしており、それを得ると、心の底から喜び、それを失うと、心の底から悲しみ、その心はその中にあるのである。自分自身を何物にもまさって愛している者は、凡ゆる事柄の中で自分自身のことを心にかけており、自分自身のことを考え、自分自身について話し、自分自身のために行動するのである、なぜならその生命は自己の生命であるからである。

 

 

 

天界の秘義8855

 

 人間は何物にもまさって愛しているものを目的としている。彼は一切の事柄の中にそれを顧慮しており、それは彼の意志の中に隠れた川の流れのように存在しており、彼が何か他のことを行っている時でさえも、彼を引き寄せ、流し去って行くのである。なぜならそれは彼を生かしているものであるからである。一人の人間が他の人間の中に探り出し、また見もして、それに従ってその者を導くか、またはその者と共に行動するかするものはそれである。

 

 

 

天界の秘義8856

 

 人間が再生しつつある時、仁慈は信仰により植え付けられ、遂にそれが(彼を)支配するものとなりさえもし、仁慈がこうしたものになると、彼は新しい生命を得るのである。なぜならそれは絶えず彼の思考の中に現存し、また絶えず彼の意志の中に現存しており、彼が他の事柄について思いに耽っている時でさえも、業務に携わっている時にも、それらの個々の物の一切の中にも現存しているのである。

 

 

 

天界と地獄236

 

このことから、天使たちは他の者の性質を、それがいかようなものであるかを、単にその言葉から知るのである、即ち、その者の情愛のいかようなものであるかは、その語調から知り、その者の心のいかようなものであるかは、発音された音、または語から知るのである。賢明な天使たちは、その者を支配している情愛のいかようなものであるかを、ただ一連の言葉からでも知っている、なぜなら彼らは主としてそれに注意を払っているから。各人は種々の情愛を持っていることは知られている、即ち喜んでいる時とか、悲しんでいる時とか、寛大と慈悲を抱いている時とか、誠実と真実である時とか、愛と仁慈にいる時とか、熱意または怒りを持つ時とか、偽り、欺く時とか、名誉を求める時とか、そういった時の情愛は、それぞれ異なってはいるものの、しかしその者を支配している情愛または愛はそうした情愛凡ての中に存在しており、それで賢明な天使たちは、そのことを認めているため、その言葉から人間の状態の凡てを知るのである。それがそうであることは、私は多くの経験から知ることが出来たのである。私は天使たちが他の者の生命をただその者の言葉を聞くのみで明らかにするのを聞いた。彼らはまた言った、私たちは他の者の思考の僅かな観念からでも、その者の生命の凡ゆる物を知るのである、なぜならその観念から私たちは、その者を支配し、凡ゆる物を秩序正しく含んでいる愛を知るからであり、人間の生命の書とはそれ以外のものではない、と。

 

 

 

 

天界と地獄58

 

 最後に、自分自身の中に天界を持つ者は、それを自分の最大の物、または全般的な物の中に持っているのみではなく、また自分の最小の、または個別的な物の中にも持っており、最小のものは最大のものを形をもって繰り返していることを述べなくてはならない。このことは、各々の者はその者自身の愛であり、その者を支配している愛に従っているという事実から来ている。[すなわち]支配しているものは個々のもの[個別的な物]の中へ流れ入って、その個々のものを配置し、凡ゆる所に自分自身に似た形のものを生みつけているのである(*11)。諸天界では主に対する愛が支配しているものであるが、それは主はそこでは凡ゆるものにまさって愛されるからである。かくて主はそこでは凡ゆるものにおける凡ゆるものであられ、一切のものに流れ入られて一切のものを配置され、一切のものに御自身に似た形を生みつけられ、天界を主が存在されるところに存在させておられる。ここから天使は最小の形の天界であり、社会はさらに大きくなった形の天界であり、凡ての社会は共に合して最大の形の天界となっている。主の神的なものは天界作り、凡てのものにおける凡てのものであることは前に見ることができよう(7−12)。

 

 

*11。各人を支配している愛、または各人の支配愛は、その者の生命の諸々のものの一切の中に在り、かくてかれの思考と意志の諸々の物の一切のものの中に在る、6159、7648、8067、8853。人間はその生命を支配している性質に従っている、987、1040、1568、3570、6571、6935、6938、8853−58、10076、10109、10110、10284。愛と信仰とは、それが人間を支配しているときはその人間には知られないけれど、その人間の生命の個々の凡ゆる物の中に存在している、8856、8864、8865。

 

 

 

真の基督教399(1)

 

人間の真の生命は彼の愛であり、彼の愛の如何がその生命の如何であり、事実全人間如何である。しかし人間を作るものは、その人を統べ治め或いは支配する愛である。この愛は自らに他の多くの物を従属させ、それらはその愛の派生物である。これらは種々の形をとって現われるが、しかしその凡ては支配的な愛の中に包含され、それと共に一つの王国を形作っている。この支配的な愛は謂わばそれらの物の王であり頭であり、それらを指揮し、かつそれらを凡ゆるものの第一次的なものであり、究極的なものであるところの自らの目的に至る手段として用うる。

 

 

 

真の基督教399(2)

 

 この支配的な愛の対象は人間が他の凡てに勝って愛するものである。何故なら、これは絶えず彼の思考の中にあり、彼の生命そのものを構成するからである。例えば、金であれい、所有物であれ、富を何ものにも勝って愛する者は、如何にして、それを獲得しようかと絶えず計画し、これを得ると非常に喜び、これを失うと深く悲しむ。が、それは彼の心はそれらのものの中にあるからである。何ものにも勝って自己を愛する者は、凡ゆる事柄に於いて自己を考慮する。彼は自己を考え、自己を語り、自己のために行動する。何故なら、彼の生命は自己の生命であるからである。

 

 

 

真の基督教399(3)

 

人間が、何ものにも勝って愛するものは、彼の生活の主要な目的、目標であり、彼の思いから決して離れず、静かな川の流れのように彼の意志の中にひそみ、その直接の目的は如何なるものであれ、彼を押し流して行く。何故なら、それが彼の生命の原動力であるからである。人間の支配愛が他の者により発見されるならば、それは彼を導き、支配するために用いられるであろう。

 

 

 

真の基督教399(4)

 

人間の全性格はその支配愛のそれである。それは彼を他のものから区別し、若し彼が善であるならば、彼の天界を創造り、悪であるならば、彼の地獄を創造る。約言すれば、それは彼の意志であり、彼の自己であり、彼の性質である。何故なら、それは彼の生命の存在そのものであるから。それは人間それ自身である故、死後、変更し得られない。

 

 

 

真の基督教399(5)

 

 凡ゆる快楽、満足、幸福はこの支配的な愛からその起原と性質とを取得する。何故なら人間はその愛する物を喜ばしく感じ、ただ単に考えるのみであって、愛さないものは喜ばしいかもしれないが、その生命の歓喜とはならないからである。人間の愛の歓喜が彼の善を構成し、その反感を唆(そそ)るものは、凡て彼には悪である。

 

 

 

真の基督教399(6)

 

 愛には二種類のものが在り、そこから凡ゆる種類の善と真理が水源から発するように流れ出る。同様に、凡ゆる種類の悪と虚偽が流れ出てくる二種類の愛がある。前者は主への愛と隣人への愛であり、後者は自己への愛と世への愛であり、後者が支配する時は、全く前者に対立する。

 

 

 

真の基督教399(7)

 

 主への愛と隣人への愛は天界を支配し、それ故、人間の内なる天界と教会とを構成する。自己への愛と世への愛は地獄を支配し、それ故、人間の中に地獄を形作り、人間の中なる教会を破壊する。

 

 

真の基督教399(8)

 

 二つの天的な愛はそれらの住む内的霊的人間を発展させ、これを形作るが、しかし二つの地獄的な愛は、それらが支配する時は、内的な霊的な人間を閉じ、破壊し、その支配の性質と範囲とに応じて人間を自然的に且つ感覚的にする。