人は目に映ることを見るが、主は心によって見る

サムエル記上16・7

 

 

 

意志目的生贄

裁くな裁くのは主

神のみぞ知る

実によって木を知る(マタイ7・15)

覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので

知られずに済むものはない(ルカ12・2)

天使の視力

 

 

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

4.人間は神について考え、信じているその性質について調べられる

 

 

 

 

1.聖書

 

 

サムエル記上16・7

しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

 

 

 

詩篇7・10−11

心とはらわたを調べる方
神は正しくいます。
心のまっすぐな人を救う方
神はわたしの盾。

 

 

詩篇26・1−2

 

主よ、あなたの裁きを望みます。

わたしは完全な道を歩いてきました。

主に信頼して、よろめいたことはありません。

主よ、わたしを調べ、試み

はらわたと心を火をもって試してください。

 

 

 

詩篇44・21ー22

 

このような我らが、我らの神の御名を忘れ去り

異教の神に向かって

手を広げるようなことがあれば

神はなお、それを探り出されます。

心に隠していることを神は必ず知られます。

 

 

 

エレミヤ11・20

 

万軍の主よ

人のはらわたと心を究め

正義をもって裁かれる主よ。

 

 

 

エレミヤ17・9−10

 

人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。

誰がそれを知りえようか。

心を探り、そのはらわたを究めるのは

主なるわたしである。

それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。

 

 

 

エレミヤ20・12

 

万軍の主よ

正義をもって人のはらわたと心を究め

見抜かれる方よ。

わたしに見させてください

あなたが彼らに復讐されるのを。

わたしの訴えをあなたに打ち明け

お任せします。

 

 

 

ヘブライ4・12−13

 

というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。

 

 

 

黙示録2・23

 

こうして、全教会は、わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。わたしは、あなたがたが行なったことに応じて、一人一人に報いよう。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義2364

 

「あなた方はあなた方の目に良いように彼らに為すことが出来ましょう」。 これは彼らがそれが善から発していることを認めるに応じて楽しむことを意味していることは、記事の連続からのみでなくその言葉の意義からも、即ち、この言葉が『娘』により意味されている情愛について述べられている時のその言葉の意義からさえも認められることが出来るのである。ロトが慎重に身を処したことは、彼が『彼らの方へ出て行って戸の辺りまでも来た』ことにより意味されている(2356番)。 この慎重さは今し方引用した言葉から明白であり、また他にこの節の中に含まれている事柄からも明白である、即ち、それは彼らは善と真理との情愛の祝福を、それが善から発しているに応じて、楽しむに違いないということであって、そのことは彼らが『彼らの目に良いように為すこと』により意味されているのである。それが善から発しているに応じて楽しむことは、ここでは彼らがそれが善であると知るに応じて、を意味しており、たれ一人それよりも更に進むことは求められていないのである、なぜならすべての者はその信仰の善を通して生活〔生命〕の善へ主により向けられており、かくて異教徒は基督教徒とは異なった方法で、単純な者は学問のある者とは異なった方法で、小さな子供たちは大人とは異なった方法で善の方へたわめられる〔向けられる〕からである。その生命に悪を浸透させた者は悪を慎んで善を意図することにより、またそのことをその把握したことに応じて行うことによりたわめられるのである。顧慮されるものは彼らの意図または目的であり、彼らの行為はそれ自身では善くないけれども、それでもそれはその目的から多少の善を、またそこから派生してくる多少の生命を得ており、それが彼らの祝福となるのである。

 

 

 

天界の秘義3489

 

 教会はこのような性格を持っていることは教会の中にいる者たちには明らかではない、即ち、彼らは善と真理とに属している凡ゆるものを軽蔑し、嫌忌し、またそのようなものに、特に主御自身に敵意を抱いているということは明らかではない、なぜなら彼らは礼拝所に再三出入りし、説教を聞き、そこにいる時は一種の神聖感に浸り、聖餐に列し、時にはそのような事柄については似つかわしい態度で互に語り合い―これは善人も悪人も同じように行うところである―また彼らは彼ら自身の間では市民としての仁慈または友情をもって生活しているからである。従って人間の目には侮蔑は見えはしないし、まして嫌忌は見られはしないのである。しかし乍らこれらの物は人が他を迷わせる手段としている外なる形であって、教会の人間の内なる形は全然それに似てはいないで、全くその外なる形に相反しているのである。内なる形がここに記されているものであり、また前に記されているようなものであり、彼らの真の性質は天界ではそのあるがままに、現れているのである、なぜなら天使たちは内なるもの以外のものには、即ち、目的または意図と願いとそこから生まれてくる思考以外のものには何ら注意しないからである。

 

 

 

天界の秘義9293

 

人間の行為はその人間の意志と共に観察される時は、それはそうした運動ではなくて、眼前に示された意思の形である。なぜなら行為は意志に属した事柄を立証するもの以外の何ものでもなく、またその霊魂または生命を意志から得ているからである。それで運動について言われることと同じことが行為についても言われることが出来るのである。即ち、ちょうど運動には努力がないなら生きたものは何一つ無いように、行為にも意志が無いなら生きたものは何一つ無いのである。それがそうであることもまた人間に知られているのである。なぜなら理知的な者は人間の行為に注意しないで、その行為が発生してくる源泉であり、手段であり、目的でもあるその意志にのみ注意するからである。否、賢明な者はその行為を殆ど見はしないで、その行為の中にある意志の性質と量のみを見るのである。捧げ物の場合も同じであって、主が眺められるものはその捧げ物の中にある意志である。従ってエホバ―即ち、主―に捧げられた捧げ物により意志に、または心に属した事柄が意味されているのである。人間の意志は聖言ではその『心(心情)』と呼ばれているものである。

 

 

 

黙示録講解98

 

賢い者であって、人間をその行為のみから顧慮して、その意志からは顧慮しない者があろうか。もしその意志が善良であるなら、彼はその行為を愛しはするが、しかしその意志が悪いなら、その行為を愛しはしないのである。彼はまたその行為を見はするが、しかしそれをその意志の意図に従って解釈するのである。ましてや霊的なものである者はその行為には留意しないで、その意志を詮索するのである。そのことはすでに述べた以下の理由のためである。即ち、行為はそれ自身では無意味であり、行為が示している凡てのものは意志から発しているのである。なぜなら行為は意志の活動であるからである。

 

 

 

天界と地獄61

 

 天使たちは人間をこのように考えているため、彼らは、人間がその身体で為す事柄を全くかえりみないで、身体がその事柄を為す源泉である意志のみをかえりみている。これを[意志を]彼らは人間自身と呼び、また理解を、それが意志と一つのものとなって活動する限り、人間自身と呼んでいる。

 

 

 

天界と地獄361

 

天界における富んだ者の運命は豊かさにおいて他の凡ての者にもまさる底のものであって、その中には宮殿に住んでいる者もあり、その宮殿の中では凡ゆる物は金銀で輝いている。彼らは生活の用のために凡ゆる物を豊富に持ってはいるものの、己が心をそうした物におかないで、用においている。用を彼らは明らかに、また光の中に見るように見ているが、金銀は用に比較すれば曖昧に、蔭の中で見るようにしか見ていない。その理由は、彼らは世では用を愛し、金銀はただ手段、器具としてしか愛さなかったということである。用そのものは天界ではこのように輝いており、用の善は金として、用の真理は銀として輝いている(*4)。それ故世における彼らの用のいかんに、天界における彼らの豊かさは応じ、また彼らの歓喜と幸福とが応じている。善い用は自分自身と自分のもの[自分の家族]に生活の必要なものを供えることであり、また自分の国と隣人のために豊かな富を願うことであって、富んだ者はその国と隣人とを多くの方法で貧しい人間よりも更に益することが出来るのである。また彼はこのようにして有害な怠惰な生活から心を遠ざけることも出来るのである―怠惰な生活では人間は自分の中に植え付けられている悪から悪を考えるのである。こうした用はその中に神的なものを持っている限り、即ち、人間が神的なもの〔神〕と天界とを仰ぎ、その用の中に己が善を見出し、富の中には単に手段として役立つ善のみしか認めない限り、善である。

 

*4 善は凡て用から、また用に応じてその歓喜を得ている、3049、4984、7038、またその性質も得ており、従って用のいかんに、善が応じている、3049。生命の幸福と歓喜とは凡て用から発している、997。全般的に言って、生命は用の生命である、1964。天使の生命は愛と仁慈との善に在り、かくて用を遂行することに在る、454。主は、従って天使たちは、人間が仰いでいる目的にのみ注意を払っており、その目的とは用である、1317、1645、5844。主の王国は用の王国である、454,696、1103、3645、4054、7038。主に仕えることは用を遂行することである、7038。凡ての者はその遂行する用の性質に応じた性質を持っている、4054、6815、その説明、7038。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P43

 

二心を持つな。神は、からかえるものではなく、まただませるものでもない。人間に対して、神に対してするようにせよ。なぜなら人間に対してする不正、侮辱は、神に対して行ったのと同じことである。人間に見られたいように神に見られるのを望め。(中略)

私はおまえたちにも二心がないことを望む。偽りを抱えて私、あるいは兄弟、隣人へとなぜ行くのか。なぜ、偽りをたわむれのようにするか。何? おまえたちはそれほど自尊心が強いのに、『私はうそつきと言われたくない』とどうして誇りをもっていえないのか。何よりも神に対してありのままの自分でありなさい。皆に見せびらかす長い、さまざまの祈りをもって神をだませると思うのか。おお、あわれな子らよ! 神は人の心を見る。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P199

 

すべての人間の父である私の父は、信仰と法と義において送った時間の長さではなく、『死ぬまでそれを守って生きたいという意志』をごらんになります。

 

 

 

 

4.人間は神について考え、信じているその性質について調べられる

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP58

 

 新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである、なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである、なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれるとき、細々したことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことにかかっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。