意志

 

 

人は目に映ることを見るが、主は心によって見る(サムエル記上16・7)

 

 

 

 

1.行為は意志の形

2.行為は意志の活動

3.意志は人間の霊的な部分そのもの

4.理解は知識に応じて高められることが出来るが、意志は教会と宗教との真理に一致した生活によってのみ高められる

5.天使たちは人間の意志のみをかえりみている

6.理解は意志の形、意志は愛の情愛

 

 

 

 

1.行為は意志の形

 

 

天界の秘義9293

 

人間の行為はその人間の意志とともに観察されるときは、それはそうした運動ではなくて、眼前に示された意思の形である。なぜなら行為は意志に属した事柄を立証するもの以外の何ものでもなく、またその霊魂または生命を意志から得ているからである。それで運動について言われることと同じことが行為についても言われることが出来るのである。すなわち、ちょうど運動には努力がないなら生きたものは何一つないように、行為にも意志がないなら生きたものは何一つないのである。それがそうであることもまた人間に知られているのである。なぜなら理知的な者は人間の行為に注意しないで、その行為が発生してくる源泉であり、手段であり、目的でもあるその意志にのみ注意するからである。否、賢明な者はその行為を殆ど見はしないで、その行為の中にある意志の性質と量のみを見るのである。捧げ物の場合も同じであって、主が眺められるものはその捧げ物の中にある意志である。従ってエホバ―すなわち、主―に捧げられた捧げ物により意志に、または心に属した事柄が意味されているのである。人間の意志は聖言ではその『心(心情)』と呼ばれているものである。

 

 

 

 

2.行為は意志の活動

 

 

黙示録講解98

 

賢い者であって、人間をその行為のみから顧慮して、その意志からは顧慮しない者があろうか。もしその意志が善良であるなら、彼はその行為を愛しはするが、しかしその意志が悪いなら、その行為を愛しはしないのである。彼はまたその行為を見はするが、しかしそれをその意志の意図に従って解釈するのである。ましてや霊的なものである者はその行為には留意しないで、その意志を詮索するのである。そのことはすでに述べた以下の理由のためである。すなわち、行為はそれ自身では無意味であり、行為が示している凡てのものは意志から発しているのである。なぜなら行為は意志の活動であるからである。

 

 

 

 

3.意志は人間の霊的な部分そのもの

 

 

天界と地獄529

 

従って、先ず、霊的生活は自然的な生活から、または世の生活から分離していないで、霊魂が身体と連結しているように、それと連結しており、もしそれが分離するなら、それはすでに言ったように、土台の全くない家に住むようなものになることが明白になるであろう。なぜなら道徳的な社会的な生活は霊的生活の活動であるから。それは善いことを意志することは霊的生活のものであり、善いことを行うことは道徳的な社会的な生活のものであって、もし後のものが欠けるなら、そのときは霊的生活は単に思考[考え]と言葉とに在って、意志はその働く基礎を持たないため、消滅してしまうからであるが、しかも意志は人間の霊的な部分そのものである。

 

 

天界に入る生活を送ることは、一般に信じられているほど困難ではない

 

 

 

 

4.理解は知識に応じて高められることが出来るが、意志は教会と宗教との真理に一致した生活によってのみ高められる

 

 

真の基督教507

 

各人の理解はその人の持つ知識に応じて高められることが出来ますが、然し意志は教会と宗教との真理に一致した生活によってのみ高められることが出来ます。これが無神論者がその自己愛によって名声の栄誉と理知の誇りを掻き立てられ、他の多くの者よりも鋭い合理性を持っている理由ですが、然しこれは彼らが理解によって導かれて、意志によって導かれない時のみであります。何故なら意志の愛が内なる人を所有しますが、理解の思考は外なる人を所有するからです。

 

 

 

 

5.天使たちは人間の意志のみをかえりみている

 

 

天界と地獄61

 

 天使たちは人間をこのように考えているため、彼らは、人間がその身体で為す事柄を全くかえりみないで、身体がその事柄を為す源泉である意志のみをかえりみている。これを[意志を]彼らは人間自身と呼び、また理解を、それが意志と一つのものとなって活動するかぎり、人間自身と呼んでいる。

 

 

 

 

6.理解は意志の形、意志は愛の情愛

 

 

天界の秘義7342

 

意志から抵抗することについては、意志は人間を支配しているものであることを知られたい。理解が(人間)を支配していると信じている者もいるが、理解は意志がその理解に傾かない限り支配はしないのである、なぜなら理解は、それ自身において観察されるなら、意志の形以外の何ものでもないため、理解は意志を支持するからである。意志のことが言われるときは、愛の情愛が意味されるのである、なぜなら人間の意志はそれ以外の何ものでもないからである。この情愛が人間を支配するものである、なぜなら愛の情愛が人間の生命であるからである。もし人間の情愛が自己と世を求める情愛であるなら、そのとき彼の全生命はそれ以外の何ものでもなく、また彼はそれに抵抗することも出来ないのである、なぜならそれは自分自身の生命に抵抗することとなるからである。真理の原理は何ごとも遂行はしないのである、もしこれらの愛の情愛が主権を持っているなら、それは真理を己が側に引き入れて、それを誤謬化してしまい、もしその真理が充分にそれを支持しないなら、それを斥けてしまうのである。ここから、主が霊的な愛を、即ち、隣人に対する愛の情愛を導入されない限り、真の信仰の原理も人間のもとには何ごとも全く遂行はしないのであり、その人間がこの情愛を受け入れるに応じて、信仰の諸真理も受け入れるのである。この愛の情愛が新しい意志を作るものである。この凡てから今や、もし意志が抵抗するなら、人間はいかような真理も決して心に掛けはしないことを認めることが出来よう、従って奈落の者らは悪を求める情愛、または欲念の中にいるため、信仰の諸真理を受けることは出来ないのであり、従って匡正されることは出来ないのであり、そこからまた悪い者は為し得る限り真理を誤謬化してしまうことが起こっている。