神のみぞ知る
人は目に映ることを見るが、主は心によって見る(サムエル記上16・7)/
サムエル記上16・7
しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
天界の秘義2284[3]
残りのものの性質と量とに従って―即ち、人間のもとにある善と真理との性質と量に従って―人間は他生で祝福と幸福とを楽しむのである、なぜなら既に言ったように、これらの残りのものは人間の内的な人の中に貯えられていて、その人間が形体的な世的なものを背後に棄て去った時に開かれるからである。主のみが人間の中にある残りのものの性質と範囲を知られているが、人間自身は到底それを知ることは出来ない、なぜなら現在では人間は内には悪以外には何ものも無いのに、善いものを佯り装うことが出来るといった性質を持っており、また人間は悪いようには見えても、それでも内には善を持っていることも有り得るからである。そうした理由からたれ一人他の者の霊的生命の性質については審くことを決して許されてはいないのである、なぜなら主のみが、前に言ったように、そのことを知られているからである、しかし人間各々は他の者をその道徳的な公民的な生命の性質については審いてもよろしいのである、なぜならこれは社会に関係しているからである。
天界の秘義2284[4]
信仰の何らかの真理について何らかの意見を持った者らが、他の者を、あなたらは自分たちが信じているように信じない限り、救われることは出来ないと言って審判くことは極めて普通なことであるが、しかしこれは主が禁じたもうた審判である(マタイ7・1、2)。それでも他方で私は多くの経験から、いかような宗教の者でも、もしその者が仁慈の生活により善の残りのものを、また外観的な真理の残りのものを受け入れてさえいるならば救われることを学んでいるのである。このことが、もし十人が見出されるならば、彼らはその住人のために滅ばされはしないと言われていることにより意味されていることであり、そのことにより、若し残りのものがあるなら、彼らは救われるであろうということが意味されているのである。
神の摂理338(ロ)
この世では人間はその心の中で抱いている歓喜を顔、言葉、態度に外面的に佯り装うことを幼年時代から教えられている。それゆえ自然界の人間の状態からその死後の状態については如何ような結論も下すことは出来ない。なぜなら凡ての人間の死後の状態は霊的なものであって、そのため彼は自然界の生活により自分自身のために得たところのその愛の歓喜以外の何処にもいることは出来ないからである。
2.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P389
ヨハネ:「あなたに言われたとおり、今日、町を歩いていたとき、ある人が、エルサレムへ行く巡礼団の人々からあなたの名で悪魔を追い出しているのを見ました。その人は弟子でもなく、顔見知りでもありませんでした。それに、あなたの名を聞くと、悪魔は本当に逃げようとするのでした。気になったので、私たちがやめさせましたが、その人は『善いことをするのはいつも気持ちがよい』と言って、私たちの命令にも耳を貸さず、悪魔払いを続けてこう言ったのです。『私は今していることを続けます』
さっき、あなたは悪魔と戦った人々は皆、天国に入ると言われたので、わざわざこんなことをお聞かせしたのです」
主:「はい、けっこう、分かりました。その人も含まれます。おまえたちは、多分に間違えています。主の道は無数にあり、真っすぐな道を通る人々だけが天に入るとは言われていません。至るところ、まちまちな時代、人によっていろいろと違うふうに、初めは間違った道からでも私について来る多くの人がいます。だから、おまえたちは隣人を裁くべきではない。神だけが見ています。ただ、おまえたちは絶対に善い道を踏みはずすことがないように。その道は、おまえたちが選んだというよりも、神に知らされた道です。そして、私の名前を信じ、その名で活躍する人を見たなら、その人を他人とか敵とか涜聖者とかと言ってはならない。こういうふうな人は、自発的にか、時として、おまえたちの中のある人々よりも私の名前を信じているがゆえに、私の部下であり友人です。私の名前で不思議を行う人が私の敵であるわけがない。まことに言うが、私の名前を信じていれば、己の霊魂を救うに十分です。なぜなら、私の名前は救いだからです。そのために言います。もし、その人にまた会うことがあったら、二度と責めたりしてはいけない。むしろ、そういう人々を“兄弟”と呼びなさい。私の柵の中にまだ入っていないにしても、兄弟なのだから。私に背かない人は、私と一緒にいるのであり、おまえたちに背かない人は、おまえたちと一緒にいるのです」
「では、主よ、私たちは罪を犯したのですか」と、勘違いしているヨハネが尋ねる。
「いいえ、おまえたちはそのことに無知であったために行っただけであって、悪意からではないので罪はありません。しかし、今後もそうするなら罪となります。今はもう知ったのだから。さあ、家に帰りましょう。おまえたちに平和」