善と真理との連結

 

再生した人間再生しつつある者再生していない人間

連結救い

 

 

 

 

 

1.真理であると承認する真理に従って生きることを愛することにより示す

2.その人間が聖言を聖いものとして尊重する時、聖言の内なるものは流れ入って、善と連結する

3.荒野

4.その人間が真理のために、特に善のために、かくて生命のために真理に感動しない限り、連結することが出来ない

5.二つのものであって、真理と善以上に互に愛し合っているものはない

6.主との連結

7.それらが連結しようと願う理由

8.現れた形をとらない存在はなく、存在を持たない現れた形はないように、真理のない善はなく、また善のない真理もない

 

 

 

 

天界の秘義3793

 

即ちヤコブにより表象されている自然的なものは善と真理から成っており、この自然的なものの中にも、全般的にもまた個別的にも人間の凡ゆるものの中に、また自然全体の凡ゆるものの中に善と真理との結婚が存在しなければならないように、それが存在しなくてはならないのである。この結婚無しには何ものも生み出さないのであり、即ち、生産と結果とはことごとくそこから発しているのである。しかしながら善と真理とのこの結婚は、人間のみが神的秩序の中へ生まれてきていないため、人間が生まれた時には、人間の自然的なものの中には存在していないのである、彼は実際無垢と仁慈との善を持ってはいるが―それは彼の最初期の幼少期に主から流れ入っているのであるが―しかしこの善が対になって結合されることが出来る真理は存在していないのである。彼は年が進むにつれ、幼少の項主から彼の中へ注がれていたこの善は内部の方へ引き入れられてそこに主により留めておかれるが、それは彼が後になって身に着ける生命の幾多の状態を和らげるためである。このことが人間はその幼少期と最初の子供時代との善が無いならいかような野獣よりも悪くなり、また凶暴にもなる理由である。幼少期のこの善が引き込められつつある時、悪がその代わりに現れ、人間の自然的なものの中へ入り、この悪に誤謬がそれ自身を結合して対になり、かくてその人間の中に悪と誤謬との連結が、いわば悪と誤謬との結婚のようなものが生まれるのである。それ故人間が救われるためには、彼は再生しなくてはならないのであり、悪が遠ざけられて、主から善が注がれなくてはならないのであり、善と真理とが対になって結合することを、いわば、善と真理とが結婚することを遂行するために、人間が受け入れる善に応じて、真理が彼の中へ注ぎ込まれるのである。

 

 

 

真理の中に善は歓迎される

 

天界の秘義4205[2]

 

この間の実情のいかようなものであるかを簡単に述べよう。人間のもとでは真理は、それがいかようなものであれ、またはいかような性質のものであれ、情愛により、即ち、愛のものである一種の歓びにより彼の記憶へ入ってくるのである。情愛が無くては(または愛のものである歓喜が無くては)何一つ人間に入ることは出来ない、なぜならそれらのものの中に彼の生命が在るからである。入った事柄は、類似した歓びが再起する度毎に、その事柄にそれ自らを組み合わせ、または連結させている他の多くの事柄と共に再現されるのであり、また同じくその同じ真理が自己自身によりあるいは他の者により再現されると、その真理が入った時、そこに在ったところの愛の情愛または歓喜も同様に再び喚起されるのである、なぜならそれらのものは連結し、密着しているからである。このことから真理の情愛のもとでは実情はいかようになっているかが明白である、なぜなら善の情愛と共に入った真理は類似した情愛が再起する時再現され、情愛もまた類似した真理が再起する時再現されるからである。このことからまた、その人間が善の中にいない限り、いかような真理も純粋な情愛と共に決して植付けられて内的に根を張ることは出来ないことが明らかである、なぜなら真理の純粋な情愛[真理に対する純粋な情愛]は主に対する愛と隣人に対する仁慈のものである善から発しているからである。善は主から流れ入っているが、しかし真理を除いてはいかようなところにも固定はしないのである、なぜなら真理は善に和合しているため、真理の中に善は歓迎されるからである。この凡てからまた善を受け入れることはその真理の性質に順応していることが明白である。相互的な仁慈[相互愛]の中にいる生きている異邦人たちのもとに存在している真理は主から流れ入ってくる善もまたその中に歓迎されることが出来るような性質を持ってはいるが、しかし彼らが世に生きている限りは、聖言から真理を得て、それにより霊的な仁慈の中に生きている基督教徒と同じようには歓迎されることは出来ないのである(2589−2604番)。

 

 

 

1.真理であると承認する真理に従って生きることを愛することにより示す

 

 

天界の秘義6717

 

「レビの娘を娶った」(出エジプト記2・1)。これは善と連結したことを意味していることは以下から明白である、即ち、『娘を娶ること』、即ち、妻に娶ることの意義は連結であり、レビの表象は善である(6716番を参照)。その起原が善から発している真理が善と連結する事はいかように理解しなくてはならないかを述べよう。再生しつつある人間の中に主により徐々に導入される真理は善にその起原を得ているのである。最初の期間では、善は内なる人の中に在るため、それはそれ自身を示しはしないが、真理は外なる人の中に在るため、それはそれ自身を示すのであり、そして内なるものが外なるものに働きかけるが、外なるものは内なるものに働きかけはしないため(6322番)、真理に働きかけて、それを自分自身のものとするものは善である、なぜなら善以外には何ものも真理を承認して、それを受け入れはしないからである。このことは再生しつつある人間の中に現存している真理の情愛〔真理に対する情愛〕から明らかである。その情愛そのものは善から発しているのである、なぜなら愛のものである情愛はそれ以外のいかような源泉からも発することは出来ないからである。しかしこの最初の期間内に、即ち、再生以前に受け入れられる真理は善の純粋な真理ではなくて、教義の真理である。なぜならこの時にはその人間はそれが真理であるか、否かを考えはしないで、それが教会の教義のものであるため、それを承認しており、彼がそれが真理であるか否かを考えないで、教会の教義のものであるため、それを承認しており、彼がそれが真理であるか、否かを考えないで、教会の教義からそれを承認している限り、それは彼のものではなく、それでそれは彼のものとはされないからである。これは再生しつつある人間の最初の状態である。

 

 

 

天界の秘義6717〔2〕

 

 しかし彼が再生すると、その時は善はそれ自身を示すのであり、特に彼が彼自身で真理であると承認する真理に従って生きることを愛することにより示すのである。その時は彼はその承認する真理を欲し、それに従って行動するため、それは彼のものとされるのである、なぜならそれは以前のように単に理解の中にのみ存在しないで、意志の中にもまた存在し、そして意志の中に在るものはその者のものとされるからである。そして理解はその時意志と一つのものとなるため―なぜなら理解は承認して、意志は遂行するから―その二つのものの連結が、即ち、善と真理との連結が生まれるのである。この連結が行われると、その時は子供たちが、丁度結婚から生まれるように絶えず生まれてくるが、その子供たちとは祝福と歓喜とを伴った諸真理と諸善である。この二つの状態が善から発した真理の起原により、また真理と善との連結により意味されているものである。

 

 

 

 

2.その人間が聖言を聖いものとして尊重する時、聖言の内なるものは流れ入って、善と連結する

 

 

天界の秘義6789

 

「彼はどこにいますか。なぜあなたたちはその男の人を置いて来たのですか」。これはその真理が無くてはそれらはどうして教会の善と連結されることが出来ようかを意味していることは以下から明白である、即ち、ここの『彼らが置いて来たその男の人』である『エジプト人』の意義は真の記憶知であり(6784番を参照)、『なぜあなたらはその男の人を置いて来ましたか』の意義は、その真理が無いならそれらは善とどうして連結することが出来ようか、である、なぜならここの『その男の人を置いて来ること』は連結されることが出来ないことを意味しているからである。

 

 

 

天界の秘義6789〔2〕

 

 この間の実情のいかようなものであるかを述べよう。ここにモーセにより表象されている真の記憶知は外なる教会の記憶知であり、この真理は神的なものから発した律法に属している真理から起っており、その真理もまた『モーセ』であり(6771、6780番)、そしてその神的なものから発した律法に属している真理は内なる教会の真理である。外なる真理が内なる真理から発していない限り、それは善と連結されることは出来ないのである。聖言を例にとられよ。聖言を読み、その文字の意義に止まっている者のもとに聖言の内なるものが流れ入らない限り、聖言から発した真理は善と連結しないのであり、その人間が聖言を聖いものとして尊重する時、聖言の内なるものは流れ入って、善と連結するのであり、そして人間は善の中にいる時、聖言を尊重するのである。

 

 

 

天界の秘義6789〔3〕

 

 他の例として聖餐を考えられたい。その中の『パン』は全人類に対する主の愛を意味し、また人間の相互作用を意味しており、『ぶどう酒』は仁慈を意味していることは殆どたれも知ってはいないのである。にも拘らず、パンとぶどう酒とを聖く受ける者たちのもとでは、それらのものを通して天界と主とに連結することが行われるのであり、愛と仁慈との諸善が天使たちを通して流れ入ってくるのである、なぜなら天使たちはその時パンとぶどう酒のことを考えはしないで、愛と仁慈のことを考えるからである(3464、3735、5915番)。ここからその人間が善の中にいる時は、その人間に知られぬままに、外なる真理が内なる真理と連結することが明白である。

 

 

 

 

3.荒野

 

 

天界の秘義7055

 

しかし善から真理を認識している者たちを除いては何人のもとにもそれらは連結していないのである、なぜならそのもとに直接的な神的な流入が間接的なものと連結している者たちは自らが主により導かれるに耐えはするが、しかしそのもとにこれらの流入が連結していない者らは自分自身を導き、しかもそのことを愛しているからである。この凡てから今や『荒野』によりここに意味されていることを、即ち、それは連結していないところを意味していることを認めることが出来よう。

 

 

 

 

4.その人間が真理のために、特に善のために、かくて生命のために真理に感動しない限り、連結することが出来ない

 

 

天界の秘義7056

 

神的なものから直接に発出している真理が間接的に発出している真理と連結することは善によらなくては有り得ないのである、なぜなら善がその土壌そのものであるからである。真理は種子であって、それはその土壌としての善以外の何処にも成長はしないのである。更に善は真理の霊魂そのものであり、そこから真理は発生して、真理となり、またそこから生きるのである。

 

 

 

天界の秘義7056〔2〕

 

 神的なものから直接発出している真理は真理と呼ばれてはいるが、しかしそれは神的な善〔神の善〕から発出しているため、それ自身においては善であるが、しかしそれは、それに真理の神的なものが凡て結合している善である。それは天界では光として現れているため真理と呼ばれているが、しかしそれは、地上の凡ゆる物を生気づける温かさが結合している春の光のような光である。この凡てからまた以下のことを認めることが出来よう、即ち、神的なものから直接に発出している真理は、間接に発出している真理とはただ善の中にのみ連結することが出来るのであり、従ってその人間が真理のために、特に善のために、かくて生命のために真理に感動しない限り、連結することが出来ないのである、なぜならその時にのみ人間は善の中にいるからである。

 

 

 

天界の秘義7056〔3〕

 

 以下の考察から問題の連結の実情のいかようなものであるかを更に知ることが出来よう。神的なものから直接に発出している真理は人間の理解の中へ入っており、それで意志と理解とが一つのものとなって活動しない限り、即ち、意志が善を欲して、理解がそれを真理により確認しない限り、連結は行われることは出来ないのである。それで連結が生れると、その時主はそこに現存されているものとして現れ給い、またその現存も認められるが、しかし連結が無いと、その時は主は謂わばそこに不在であられるが、しかもその不在も、その現存のいかようなものであるかが多少の認識から知られない限り、認められはしないのである。

 

 

 

 

5.二つのものであって、真理と善以上に互に愛し合っているものはない

 

 

天界と地獄375

 

二つのものであって、真理と善以上に互に愛し合っているものはないことを知らなくてはならない。それゆえその愛から真の結婚愛が下降している。誤ったものと悪いものもまた互に愛し合っているが、しかしこの愛は後には地獄に変化する。

 

 

 

 

6.主との連結

 

 

天界と地獄364*6

 

真の祝福は主から愛と信仰とを受けることであり、そのことにより主と連結することである、なぜならそこから永遠の幸福が生まれるからである、1420、1422、2846、3017、3406、3504、3514、3530、3565、3584、4216、4981、8939、10495。

 

 

 

天界と地獄376

 

諸真理に連結している善は凡て主から発しているため、何人も主と主の神的なものを承認しない限り、真の結婚愛にいることは出来ないことが推論される、なぜならそのことを承認しないならば、主は人間の中の諸真理へ流れ入って、それと連結されることは出来ないからである。

 

 

 

神の摂理21

 

[9]「主の神的摂理は悪と誤謬を均衡、関係、浄化に役立たせ、他の者における善と真理の結合に役立たせる」。主に神的摂理は人間の真理と善、善と真理の結合へ向って絶えず働くことはすでに述べられたことにより明白であるに違いない。なぜなら、この結合は教会を形成し、また天界を形成するからである。それはこの結合は主の中に在り、また主から発する凡てのものに在るためである。この理由から天界と教会は結婚と呼ばれ、それ故神の国は聖言には結婚に譬えられている。イスラエル教会では安息日は最も聖い宗教的な法令であった。なぜならそれはその結合を意味したからである。また同じ理由から聖言には、その各部に、善と真理との結婚が存在している。これについては「新エルサレムの聖書の教義」(80−90)を参照されよ。善と真理の結婚は主と教会との結婚から起り、そしてこれは主の中に愛と知恵の結婚から起っている。なぜなら善は愛から、真理は知恵から発しているから。かく考察することにより、神の摂理の不断の目的は人間の中に善を真理に、真理を善に結合させることにあることが理解出来よう。なぜなら人間はこのようにして主と結合するからである。

 

 

 

 

7.それらが連結しようと願う理由

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P55

 

 業の善は情愛から―その情愛のために業が行われるが、その情愛から―真理が満ちるに従って人間の中に増大するのである、なぜなら悪を罪としてそこから離れ去る人間は、真理が用を教え、またその用の善の性質を教えるため、真理を知ろうと願うからである。このことが善が真理を愛し、真理が善を愛し、それらが連結しようと願う理由である。それで、こうした人間が真理に対する情愛から真理を学ぶに応じて、益々、彼は幾多の用を区別し、それを判断と公正とをもって行う方法を知るため、更に賢明に、更に完全に、更に賢明に善を行うのであり、また真理はことごとく用を遂行するに際しそこに現存して、真理に対する情愛が生み出す霊的なスフィア〔霊気〕を形作るため、更に完全に善を行うのである。(黙示録講解975番)。

 

 

 

 

8.現れた形をとらない存在はなく、存在を持たない現れた形はないように、真理のない善はなく、また善のない真理もない

 

 

神の摂理11

 

善は真理なしに存在し、真理は善なしに存在することが出来るように思われるが、そうではない、なぜなら愛は―そこから生まれるものは善と呼ばれる―物の存在であり、知恵は―そこから生まれるものは真理と呼ばれる―「神の愛と知恵」を取扱った著作に示されているように(14−16)その存在から発して現れた物の形であるから。それ故現れた形をとらない存在はなく、存在を持たない現れた形はないように、真理のない善はなく、また善のない真理もない